02、買い物
「遅い」
衝撃の再会の翌朝。
眠い目をこすりながらリビングにやってきた珠緒の前に、倖が立ち塞がった。忘れていたわけではないが、この家に自分以外の誰かがいるなんて久しぶりで、珠緒は思わず後退る。
そんな珠緒をじろりと睨むように見下ろしたかと思えば、ずいと手を差し出した。
「買い物に行きたいんだけど」
「へ?」
差し出された手と、言われた言葉の関連性が分からない。買い物に行きたくて、手を差し出す理由とは。
明らかに理解していない珠緒に仏頂面のまま、倖は何も言わずに更に手を近付ける。眼前に迫った手に珠緒は動揺し、反射で手を出した。
「……何でそうなる」
向けられた手の平に、思わず丸めた自分の手を乗せる。言ってしまえば“お手”をした珠緒に、倖は深い溜め息を吐く。おずおず手を引っ込める珠緒から視線を逸らし、言いにくそうにもごもごと用件を話した。
「金、貸してほしい。多少は持ってるけど、諸々買おうとしたら足りないだろうから」
内容的に言いにくかったのだろう。珠緒は察せなかったことを申し訳なく思いながらも、探偵ではあるまいし分かるわけがないとも思うわけで。
「お父さん達からは……?」
「カードは貰った」
「ああ……」
大金を渡すのは気が引けたのだろうが、高校生にカード払いはハードルが高い。と思いきや、倖が見せたカードは銀行の口座用でクレジットカードですらなかった。そうなるとお金を下ろしに行く所から始めないといけない。
「……」
お金を貸すのはいいのだが、基本引き篭もり生活の珠緒はあまり現金を持っていない。買い物もネットで済ますことが多く、財布の中にはスーパーや専門店のポイントカードすら入っていないくらいだ。
昨日、倖は猫部屋と化している客間で寝るのは拒絶し、リビングの隣にある和室で夜を明かした。持ってきていた旅行用のキャリーケースとリュックに、住めるだけの装備が入っているはずもない。
「何を買うの……?」
「第一に布団。後は日用品と食品」
急がないものなら通販で、と思ったがすぐに必要なものばかり。
一応、客用の布団は一式あったので昨晩はそれを使ったが、本当に一年住むつもりなら自分用が欲しいだろう。日用品もタオルなどの日常的な細々を買おうと思えば、それなりにお金が嵩む。高校生の財布では賄いきれないのは想像に難くないが、残念ながら珠緒の財布も耐えきれそうにない。
「ないの?」
「ご、ごめんなさい。あんまり買い物行かないから……」
待ちくたびれた倖の督促に、珠緒は情けなく眉を下げて謝るしかなかった。しかし、そんな珠緒に倖は怒るでもなく怪訝そうに眉根を潜めた。
「買い物行かないって、普段どう生活してるんだ?」
「ネットで」
「メシは? この家の冷蔵庫カラっぽだったけど、まさか食べてないわけじゃないだろ」
「仕事してると食べ忘れることが多くて……」
「アンタな……」
都会の代名詞である都市に住むが故、例え何時だろうと食べられる所はあるし、マンションを出てすぐにとても世話になっているコンビニがある。
堕落した生活だという自覚はあるが、今のところ困ったことはない。悪気無く己の不摂生を暴露する珠緒に、倖の顔が今度こそ強張る。
ヒッと逃げ腰になる細い腕を掴み、珠緒の私室へ投げ込む。
「十分待ってやる。身支度しろ」
「え?」
言うなり扉を閉められ、珠緒はぽかんと立ち尽くす。身支度をしろの言葉の意味をワンテンポ遅れて理解した珠緒は、おろおろと部屋の中を挙動不審にうろついた。
* * *
「お、お待たせしました……」
「遅い」
本日二度目の遅いをもらった珠緒だったが、倖は珠緒を見た瞬間固まった。
「ふざけてんのか?」
「え? ふざけてませんけど……」
「ふざけずにその服着れんの、ある意味すげえわ」
倖の反応に珠緒は自分の格好を見下ろした。
ビックバンでも起きたのかと思うほど青と赤が殴り合いをしているパーカーに、ジーパン。ただでさえ存在感のあるパーカーの隙間に見える胸元からは、大きな目玉がこちらを見ていた。どう見たって事故物件だ。
頭を抱える倖だが、一向にダメポイントに気づいていない珠緒を見て、ピシリと人差し指を向けた。
「やり直し」
リテイクを突き付けられ、珠緒は肩を落として私室へ戻る。
数分後、戻ってきた珠緒を見るなり倖はまたも顔を顰めた。
「緑のスカートに赤いTシャツ、青のカーディガンって。お前は信号機か!」
柄が大人しくなったのは良いものの、組み合わせが可笑しい。大声を出した倖に小柄な体がびくりと更に縮む。ぐしゃっと頭を掻いた倖は、珠緒の横を素通りして廊下へ向かい、珠緒の私室を開けた。
「どこに何が入ってんの」
遠慮なく珠緒の私室に入った倖は、ぐるりと部屋の中を見回した。
部屋の中は妙齢の女の部屋というよりは、子供部屋に近い雰囲気。カーテンやシーツの柄がやけに子どもっぽく、枕周りに置かれたぬいぐるみが余計に幼さを感じさせる。
「どこって……?」
「服に決まってるだろ。そんな格好のヤツと一緒に歩けるか。俺が選ぶ」
困り顔で倖を見上げる珠緒に、さっさと服の場所を教えろと急かす。ならば一人で行ったらいいのでは、なんて言えるわけがなく。珠緒は倖から逃げるように右へ左へ視線を彷徨わせる。
が、撤回の言葉はもらえないようで、観念したように箪笥を指差した。
「真ん中の二つに分かれてるところ以外が服、です」
「開けるぞ」
一言断り、躊躇いなく引き出しを開ける。珠緒は引き籠もりではあるが、全く外出しないわけではない。コンビニにも行くし、仕事の関係で出かけることもある。
しかし、圧倒的に部屋着が多く、外に着ていくとなると途端に組み合わせに悩むだけなのだ。
「選ぶから、その間に頭どうにかしてきて」
自分の箪笥を漁っているかのように、無遠慮に漁り始めた倖。主導権を握られっぱなしの珠緒は複雑な心持ちでそれを眺め、言われた事をするべく洗面台に櫛を取りに行った。
鏡に映る自分の頭はボサボサだった。
* * *
「行くぞ」
無事、珠緒をマシなレベルに飾り立てて満足した倖は、珠緒に上着を渡して玄関へと向かう。
服は着れたら問題ないと考えている珠緒としては、そこまで組み合わせに拘る理由がわからない。故に、選ばれた服に言われるまま袖を通し、身支度を整えた。珠緒としては、教えた場所にないはずのタイツやコートを倖が持ってきたことについて聞きたかったが、怒るべきか恥ずかしがるべきなのか判断できず、思考を放棄した。
「忘れもんはないな」
「はい」
小さなショルダーバックに詰め込んだ荷物を確認し、家を出る。出掛けると決まってから、一時間以上が経過していた。
「まずはデカいもんからだな。この辺でホームセンターとかショッピングセンターは?」
マンションを出ながら聞かれ、珠緒はきょとりと倖を見返した。なぜ大きいものから買うのかがわからなかった。しかし、倖の物を買いに行くのだから、倖の言うことに従おうと指を右へ向けた。
「あっちにホームセンターがあるけど……」
「けど?」
「確か、駅の手前と向こうにショッピングセンターがあった、と思う」
「じゃあ、駅の方に行くか。駅周りは何かと使うだろうし」
言い方が曖昧なのは、単に行かないから。ホームセンターは珠緒が幼い頃からあるが、ショッピングセンターはここ数年の都市開発で出来たものだ。学生の頃に横を通りはしたが、常に人混みがすごいのと店員が気さくすぎて、珠緒にはハードルが高かった。
倖も聞いてはみたものの、珠緒に案内される気はないらしい。携帯でマップを呼び出し、さっさと歩き始める。慌てて珠緒が追う。
「そうだ、着く前に番号教えとく」
携帯で思い出したのか、倖は自分の携帯画面を珠緒に向けた。
斜め後ろを俯きがちに歩いていた珠緒だったが、それが何を指すのかは理解した。だから、名前と共に映し出された数字の羅列をじっと見つめ、こくりと頷く。
「覚えた」
「は?」
「え?」
覚えない方がよかったのかと目を丸くする珠緒と、怪訝な表情を浮かべる倖。互いにハテナマークを浮かべ、倖が手を出した。
「携帯」
「持ってませんが……」
「はあ? はぐれた時に困るだろ、ちゃんと持ってこいよ」
珠緒の返答に、怒ったように声を荒げる。すでにショッピングセンターは目の前で、家に取りに帰るには面倒だ。苛立つ倖に怯えたように、珠緒は少し距離を開けて首を横に振った。
「違うの、持ってないの」
「だから……! 待て、アンタもしかして」
「元々、持ってないの……」
家に忘れたのではなく、珠緒はそもそも携帯できる連絡手段を持っていなかった。
一人二台持ちも珍しくない現代で持っていないとは思わなかった倖は、上目遣いで見上げてくる珠緒に、それ以上責めることも出来ずに頭を抱えた。
「そうか、だから……。その可能性は考えてなかったな……」
「?」
ぶつぶつと何事かを呟く倖の声は小さく、表情は渋い。聞こえなくてそっと近寄ると、倖は真剣な表情を珠緒に向けた。仏頂面にも見える強面を向けられ、珠緒が固まる。
「ひとつ確認する」
「はいっ」
「俺と、一年一緒に住む気はあるのか。なければそう言え。無理やり押しかけてるのはこっちだ」
なぜ今になってそんなことを聞くのか。一緒に住むから、倖の必要なものを買いに出たのではなかったのか。
問いかけの意味がわからず戸惑う珠緒に、倖はもう一度重ねた。
「俺と、一緒に、住む気は、あるのか?」
「あ、あります……!」
「わかった」
圧に耐えかねた珠緒は、蛇に睨まれた蛙のようにこくこくと頭を縦に振った。圧がなくなり胸をなで下ろした後に、珠緒は気付く。ないと言えば、元の安らかな一人暮らしに戻れるチャンスだったのでは。
義理とは言え、父に頼まれた未成年である弟を放り出すなんて、珠緒からはできっこない。だが、今は倖から聞いてくれていた。せめて答えられずにいたのなら、倖は「出て行く」と言ったのではないか。
「おい」
すでに無くしてしまったチャンスを悔いるように黙り込む珠緒に、倖は本日三度目の手を差し出した。
「俺に手を掴まれて引きずられるのと、絶対に離さないと約束して俺の服の裾を掴むのと。どっちか選べ」
「え」
迫られた究極の選択。ぴしりと固まった珠緒を、倖は苛立たしげに見下ろす。どちらも無理だ、とは言えない空気に珠緒はおずおずと手を伸ばした。