18、確認
「ねえ、珠緒ちゃん。あなたは倖をどう思ってる?」
「どう……」
聡子の問いかけに、珠緒は考える。
珠緒が倖に抱いている感情は、三年前より、そして一緒に暮らし始めた頃より、大分軟化している。それでもまだ怖いと思う時はあるし、言いたくても言えない言葉も沢山ある。
漠然とした問い対する答えは何通りも思い浮かぶけれど、聡子が欲しい答えなのかはわからなかった。
「本当はね、私は倖を連れて行くつもりだったの」
「え?」
聡子が零した言葉を珠緒は脳内で反芻した。
実は、珠緒はずっと聡子は明彦と海外に行っているものだと思っていた。明彦も倖も聡子のことを言わなかったので、海外に行きたくないから国内に残る手段として珠緒の元へ来たのだとばかり思っていたのだ。
今回連絡があって初めて聡子は介護の為に祖父の家に行っていると知らされ、状況を噛み砕く前に聡子が来る日になってしまった。だが、聡子が国内にいるなら、一度しか会ったことがない珠緒の元に来るより、聡子と共にいたほうが良かったに決まっている。
「あの子が自分から言ったのよ。あなたの元へ行くって」
「どうして……」
初耳だった。この家に来た時、倖は珠緒に「ここへ来るのは不本意だった」と言っていたはず。だからこそ、倖は両親の都合で仕方なくここへ来て、同居のよしみで嫌々世話を焼いてくれているのだと思っていた。それが根底から覆る。
「明彦さんも驚いてたわ。この家の鍵を出発する日まで渡し渋るくらいには、悩んでいたみたい。もちろん、珠緒ちゃんの意見を優先して決めるつもりだったのよ?」
「ご、ごめんなさい……」
明彦からの連絡は、倖が来る日まで留守電のまま放置されていた。その事情は倖から伝わっているのだろう。聡子からは多少の呆れが滲んでいた。
「それに関してはお互い様だわ。連絡がないのに転校手続きを進めてしまったし、バタバタしていて確認を怠った。本当にごめんなさい」
「いえ、こちらこそすみません……」
「倖はね、私達にこう言ったのよ。進学先に明彦さんの大学を検討してるって。一人暮らしするには早いと反対する私達に、あなたの名前を出したの。それを聞くまで、家族になったはずのあなたのことを忘れていたことに気付いた。勿論、存在を忘れていたわけじゃないわ。ずっと私か明彦さんが連れて行くしか方法はないって思っていた私達に、倖はもう一人家族がいるだろって思い出させてくれたの」
ずっと明彦と聡子の二人で倖の行く末を考えていた。が、倖に言われて初めて珠緒に託すという選択肢が生まれたのだと言う。予想外の話の連続に、珠緒はぽかんと聞いていた。
倖の態度は分かりにくい。命令したり、冷たい言い方が多く感じる。だが、突き放したりはしないし、美味しいご飯を作ってくれる。珠緒はずっと自分は嫌われていると思っていたが、本当にそうなのだろうかとぼんやり考えていた。
「だから今回改めて聞きたかったの。珠緒ちゃんが倖をどう思っているか」
漸く元の問いに戻ってきた。聡子の話を聞きながら考え続けていた珠緒は、恐る恐る口を開いた。
「コウくんは……優しいです。言い方はあれですけど、ちゃんと話も聞いてくれるし、ご飯も美味しくて……」
ぽつぽつと言葉を選びながら話す珠緒の小さな声に。聡子は黙って耳を傾ける。
「……本当は、コウくんが来た時、一緒に暮らすなんて無理だと思いました。でも、私はそのままでいいって……今まで通り過ごしていたらいいって、言ってくれて……」
きっと深く考えて言った言葉ではない。義姉として、年上としてしっかりしなくてはと思っていた珠緒は肩透かしを食らった気分だった。だが、思えば初対面から姉だと思う気はないと言っていた。
「毎日、冷蔵庫にご飯が置いてあって。色んな所に一緒に暮らしてる跡があって。おはようって、言い合って……」
お互いの生活サイクル上すれ違いが多く、共に暮らしていると実感する事は少ない。でも、家の色んな所に同居者の気配を感じて、ああ一人じゃないんだなぁなんて思うことは多い。
話しながら倖について考え、不意に気付いた。
「私、コウくんのこと嫌いじゃない……」
怒られたり、強く言われたりするとまだまだ怯えてしまう。けれど、珠緒は倖が嫌いではない。少なくとも共に暮らすのが苦でないくらいには、好ましく思っている。
自分でも気付いていなかった感情を口に出した珠緒は驚いていた。
「……そう」
自分で言ったことに戸惑っている珠緒に、聡子は目元を緩めた。
聡子はずっと珠緒が気がかりだった。
明彦は多くを語らなかったが、聞いているだけでも珠緒の生き辛さは感じていた。看護師として多くの人を見てきたからこそ、義理の娘となる珠緒の過去と未来を案じた。生計を立てられる職と、気にかけてくれる友人がいるから、明彦同様遠くから見守る形を取っていたが、珠緒さえ良ければ共に暮らしたいと再婚前から思っていたのだ。
だが、それは三年前。直接会った時にその考えは泡と消えた。
珠緒自身が他人に頼らないよう気を張っているのと、倖の予想以上の拒絶。水と油とも言うべき二人の反応は、聡子の密かな野望を打ち消すには十分だった。
そんな二人が予期せぬ形で同居することになった。当然、聡子も明彦も不安が無かったわけではない。せめて一緒に暮らせたなら良かったが、それも叶わない。だからこそ、聡子は一月が経った今になって確認しに来たのだ。
珠緒の気持ちを。
優しく見つめられて顔を赤らめる珠緒に、聡子は思わず立ち上がって抱きしめた。頭に頬を寄せて撫でられ、どうしたらいいのか分からず硬直する。
「珠緒ちゃん、かわいい!」
「あ、あう……」
初々しい反応に更に抱きつかれ、珠緒は途方に暮れた。
「何してんだ」
いつからいたのか、倖が入り口に立っていた。
若干引き気味で二人の様子を眺めたかと思えば、呆れた様子で聡子をひっぺがした。
「なによー。愛でてるだけじゃない」
「愛でるのは勝手だが、ほどほどにしてやれ」
「入れて欲しいならそう言えばいいのに」
「何でそうなる。馬鹿やってないで、さっさと入ってこいよ」
「はーい」
聡子に解放されて放心している珠緒に嘆息し、倖は濡れた髪をタオルで拭きながらテレビを付けた。荷物から着替えを取り出して風呂へ行く聡子。
突然構い倒され、突然放置された状況についていけず、珠緒はテレビを見ている倖をぼんやりと見ていた。
聡子の言うことが本当なら、倖は自らの意志で珠緒の元へ来たことになる。
聞いた今でも、どうして倖がそう言ったのかがわからない。嫌っている相手との同居を考えるほど、祖父の所へ行きたくなかったのだろうか。田舎だとは言っていたが、それほど祖父や祖父の住まう場所を嫌っているようには見えなかった。それとも明彦達に伝えた通り、進学を視野に入れての事なのか。
「なんか用?」
募る疑問に意識が行き過ぎて、いつの間にか倖を凝視してしまっていた。問われてびくりと肩を揺らした珠緒に、倖は感情のこもっていない視線を寄越して、台所に立った。
「……」
やはり嫌われている。珠緒が俯いた時、目の前にころんと何かが置かれた。
「母さんが悪かったな。どうせ質問攻めにでもあってたんだろ」
昼に食べた饅頭だと気付き、珠緒は顔を上げた。
洗い物を始めた倖の表情は見えない。父とも、母とも違う背中。またぼんやりと見つめていた珠緒が饅頭に手に取る頃には、洗い物はほとんど終わっていた。
聞きたかった。倖がどう思っているのか、倖の口から。
だが、無難な聞き方など珠緒にわかるはずもなく。諦めて饅頭を食んだ珠緒に、倖がコップを置く。
「何の話してたんだ?」
「なんの……」
饅頭をお茶で流し込み、珠緒は倖を見る。自分が話題に上っていたことは察しているようで、探ってくる視線に耐えられず珠緒は懸命に当たり障りない回答を目指した。
「コウくんのご飯はおいしい……?」
「他は」
「ほか、は……。コウくんを、どう思ってるのか……とか」
選びすぎて疑問系になった言葉は、あっさりと斬り捨てられた。そんなことを聞いたんじゃないと言いたげな倖に、本当のことなのにと珠緒は内心拗ねながら、聡子から最後に聞かれた質問を口にすると、倖が僅かにたじろいだ気がした。
「なんて答えたんだ?」
「え」
倖はもう普段と変わらないそっけない態度に戻っていて、そんな倖にまでどう思っているか聞かれるとは思っていなかった。
「……嫌いじゃない」
聡子と話して、初めて気付いた感情を本人に告げる。倖は目を細め「そうか」と言うだけだった。
自分のコップを持ってテレビ前に移動する倖の裾を、珠緒は思わず掴んだ。
「コウくん、は?」
結局、直接的な言い方しか出来ない珠緒の決死の問いに、倖は目を丸くした。いつもなら黒髪の隙間から上目遣いに伺う視線も、気まずいのか今は見えない。
珠緒のつむじをじっと見下ろし、ぽんと頭に手を置いた。
「俺も嫌いじゃないよ」
軽く叩く手つきは優しく、珠緒は掴んでいた手の力を抜いた。




