15、思惑
一体、どんな顔で会えば良いのだろう。
倖はリュックとキャリーケースを引っさげ、新幹線に乗っていた。一人で旅行だと周りの人には思われていたようだが、そんなことはどうでもよかった。窓の向こうに見える景色は移り変わりが早く、それだけ住んでいたから遠のき、目的地には近付いていることを示していた。
ポケットに入れた鍵に触れる。明彦から預かった、義姉の住む家の鍵だ。
倖がそちらへ行くという明彦からの連絡に、結局義姉からの返答はなかった。嫌なら嫌だと言えばいいのに。まあ、今言ったところでもう手遅れだ。移ろう景色を見ながら、倖は自嘲した。
三年前。
義姉を少しでも知ろうとした結果、己の地雷を見事に踏み抜かれた驚き、怒り。自分の大切な記憶を軽んじられた憎悪、悲しみ。そして、同じ時を同じ場所で過ごした同胞なのではないかという淡い期待。
様々な感情が入り混じり、洪水のような激情と化していて。なけなしの理性で抑え込んだ激情は、周りには緊張と捉えられたようだった。
義姉と会っても抑え込むつもりだった。が、顔を合わせた瞬間、義姉が何者かを理解した。
再び会えた喜び、過去を食い物にした怒り。
そして倖が誰だか分かっていない悲しみ。
抑えられるわけがなかった。
会うまでの数日で煮え滾った激情は溢れだし、出会い頭の挨拶で最悪の形で噴出した。その後も鎮火の目処は立たないまま別れた。
あれから三年。
煮え滾っていた激情は、後悔という冷水を浴びせ続けられたことで消えない煮凝りとなり、繰り返し倖を蝕んだ。
そんな時、母方の祖父が怪我をして介護が必要となった。
祖父を呼び寄せるか自分達が行くか。近々仕事を辞める予定でもあった聡子は、明彦の仕事と倖の進学ばかり心配していた。三人で話し合っていた中、間が悪く明彦の転勤が重なった。
考古学者である明彦が昔から世話になっている先生たっての希望で、海外で見つかった遺跡の調査へ行ってほしいとのことだった。タイミングがタイミングだったので断るという明彦を聡子は叱った。以前にも同じような好機に恵まれたものの、明彦は断ったらしい。それでもと言ってくれている相手に、報いるべきだ、と。
そうして明彦の海外行きは決まり、残されたのは倖の心配だった。聡子と共に祖父の元へ行くなら、高校三年生での転校を余儀なくされる。それだけでなく、祖父の家近くは過疎化が進み、高校すらバスで行くような場所にしかない。勿論、大学なんてもっと遠く数も少ない。
これといって将来を決めている訳ではない倖だが、選択肢の幅を狭めたくはないと聡子は悩んでいた。祖父を呼ぶにしても、倖達が住んでいるアパートは古くエレベーターがない。結局引っ越す必要があった。
決めあぐねて表情を曇らせていた聡子と明彦を他所に、倖はある考えを巡らせていた。
昔から、大学卒業までに家を出ようと考えていた。漠然とした目標だった独り立ちは、明彦との再婚を期に決意へと変わる。勿論、聡子や明彦が嫌で出るのではない。すでに一通りの家事は出来る自負はあったし、母に大学は絶対に行けと言われていたので勉強もそれなりにしていた。ならば、家を出るのが早まってもいいはずだ。
家を出ると言った倖に、聡子も明彦も反対した。いくら倖がしっかりしているとはいえ、大人の庇護下にある未成年には変わりない。一人暮らしするにしても高校を卒業してからだ、と。倖とて簡単に受け入れてもらえるとは思っていなかったので、こう続けた。
明彦の母校が気になっている、と。
都会のマンモス校である明彦の母校は様々な学科があり、サポートも充実している。明彦へ海外赴任を促したのも学生時代の恩師で、卒業後も気にかけてくれる良い教員なのが伺える。母校を良く言われた明彦にも、倖の進学を気にかけていた聡子にも、良い話に違いなかった。唯一の問題は、その大学が今の家からも祖父の家からも通える場所にないこと。
それもわかった上での倖の提案の意図に、明彦はすぐ気付いた。本気かと問う視線に、倖はゆっくりと頷いた。
義姉さえ構わないのなら、高校卒業までの一年間だけ居候させてもらいたい。
それを聞いた聡子も驚いた表情を浮かべていた。お世辞にも義姉との仲は良好とは言えない。初手で威嚇した倖に怯え、帰るまでお互い近付きすらしなかった。黒髪から覗く、伺うような上目遣いを思い出す。
明彦は倖と珠緒が良いのならと、一先ず珠緒へ連絡を入れてくれた。
どちらにしろ倖の転校は決定的なので、市役所関係を回ったり荷造りをしたりと慌ただしくしている内に、変更の出来ない時期へと入っていた。その時になっても珠緒からの連絡は来ず、明彦は倖に家の鍵と銀行口座を託して旅立った。聡子もキャリーケースとリュックをお供に義姉の元へ行く倖を心配し、また様子を見に行くとギリギリまで手を握りしめていた。
数週間前まで共に過ごしていた家族が散り散りになり、倖は一人、一度だけ行った義姉の家へと向かった。
その胸の内には、どんな顔をして会ったらいいのだろうという不安よりも、ようやく煮凝った激情から解放されるのではという淡い希望でいっぱいだった。
鍵は明彦から預かっていたが、突然入るのもと思いマンションの玄関口でインターホンを鳴らした。留守なのか、虚しく響く呼び出しの音を止めて、仕方なく鍵を使う。明彦から連絡はいっているはずだからと、玄関先ではインターホンを鳴らさずに中に入った。
そこにいたのは驚きの表情で固まる義姉だった。
「え? え?」
動揺して言葉の出てこない義姉、珠緒。
オーバーサイズのTシャツにレギンスかズボンだかを履いて、頭はボサボサ。明らかに家でのんびりしてたとしか思えない油断しきった姿に、いないと思い込んでいた倖は二重で驚いた。
互いに奇妙な体勢のまま固まってしまい、動転した頭は適切な言葉を見失ったまま。珠緒の驚きようは来る日を伝えていなかったからとは思えなかった。
「あー……。驚かせて悪い。俺が誰かは分かるか?」
じりじりと身構えたまま後退る珠緒に、両手をあげて無抵抗を主張する。おずおずと頷くのにほっと胸を撫で下ろし、ちかちか光っている電話機に嫌な予感が走る。
「明彦さんから電話入ってたと思うんだが、心当たりは?」
ふるふると首を横に振る。やっぱりかと苦笑いを浮かべる倖を見上げる目は不安げで、それ以上近寄れば走り去ってしまいそうだ。倖は極力刺激しないように電話機を指差す。
一先ず見知らぬ侵入者ではないとわかったからか、ぎこちない動きで留守録のボタンを押した。電子音の後に聞こえた明彦の声は、数日前に別れたばかりなのに遠く感じた。
明彦の伝言を聞き終えた珠緒はこの世の終わりばりの表情を浮かべる頃には、不法侵入ではないことは確実に立証され、勝手に椅子に腰掛けていた。慣れない移動で流石に疲れた。
「そういうわけだから」
留守電が終わるタイミングでトドメを刺せば、恨みがましい視線がちらりと向けられた。歓迎されるなんて自惚れはなかったが、伝わっていない可能性は考えていなかった。とは言え、来てしまったし転校の手続きも済んでいる。ここで追い出されるわけにはいかない。
そうして多少強引に押し切って始まった同居生活も、あっという間に一月以上が経ち。
来るときより増えたものの、まだ荷物の少ない倖の客間への引っ越しは滞り無く終わった。まだダンボールに入った荷物はあるが、すぐに必要なものでもないので後で荷解きしようと、倖は片付けを切り上げて買い物に出掛けた。
ピロンとメッセージ到着を鳴らしたスマホを見れば、杏からで。
『弟くんへ。杏ちゃんオススメ、おもてなしや手土産に最適なお店リスト』
ずらりと並んだお店は、どれも行ける範囲内で値段も手頃。流石としか言いようのないフォローに、倖は素直にお礼の言葉を送った。




