14、別れ
いつもより遅い時間に鳴った目覚ましを、気だるげな動きで止める。
「……はぁ」
ゴールデンウィーク初日。
窓から差し込む光は眩しいくらいで、倖は溜め息を吐く。起きるのが嫌なのではなく、起きたことで思い出したものが原因だ。
しかし、そこは主夫。埃を見れば掃除したくなり、天気が良ければ洗濯物や布団を干したくなってしまうのは、もはや性分だった。
「おはよー、弟くん」
寝る時は襖でリビングと仕切っている和室から出ると、そこには杏がいた。
自分で持ち込んだのか、朝ご飯を優雅に食べて我が家のように寛いでいる。珠緒の姿はない。
「……なんで」
「やだなあ、今日行くって連絡したじゃない」
「今度から来る時間も連絡してください」
確かに来るとは聞いていたが、誰が朝八時に来るなんて思うだろうか。倖の抗議などどこ吹く風で茶を啜る杏に、倖は諦めて顔を洗いに行く。
布団も干したいところだが、この家の施錠は厳重だ。解除する術を持たない倖には、せめて窓際に寄せてガラス越しの日光に当てるくらいしか出来ない。
「あ、おはようコウくん」
リビングに現れた珠緒は部屋着。時間的にもう眠っていると思っていた倖は「おはよう」と返しながら、起きたばかりなのか今から寝るのかと珠緒の顔を凝視した。
「さてと、そろそろあの子達を連れて行こうかしらね」
玄関からペット用のキャリーケースを取ってきた杏に、珠緒はこくりと頷いた。あまり表情が表に出ない珠緒の読めない感情に目を凝らすように、倖は客間へ行く二人の後を付いていった。
すでに朝ご飯をもらった猫達は、キャットタワーや日の当たる座布団で丸まって眠っていた。キャリーを床に置いて開ける杏と、寝ている猫を抱き上げる珠緒。
別れを惜しむようにグレイに頬ずりしていた珠緒は、グレイを倖の眼前に突き出した。
「……なに?」
「コウくんもお別れするでしょう?」
別れを告げ終えたグレイを倖に渡し、近くのブチを拾いに行く。手渡された状態のままぷらーんと寝ぼけ眼でされるがままのグレイと目が合った倖は、苦笑して抱き直す。親しんだ毛の柔らかさを堪能し、キャリーへ入れる。
手の空いた倖へ、今度はブチを渡してクロを拾いに行く珠緒。謎の猫リレーに参加する羽目になった倖を、傍から見ていた杏がにやにやと意地の悪い笑みを浮かべていた。
最後にクロを珠緒から手渡され、倖も別れを告げる。倖が勝手に思い入れをしていたクロだけではなく、ブチやグレイもこれからどこへ行くのか分かっていない顔で鳴いていた。いつもと様子が違うことだけはわかるらしい。
キャリーへ入りたがらないクロを撫でて落ち着かせようとするも、元々抱かれるのを好まない猫だったのでするりと腕から逃げてしまった。
部屋の隅でじっとこちらを見てくるクロの前に、珠緒がしゃがむ。
「クロ。ブチ、グレイ。君達は今から新しいお家に行くんだよ。そこで、新しい名前を貰って、美味しいご飯と、あったかい寝床と、撫でたり遊んでくれる家族を得るの。きっと幸せになれる。嫌ならまた戻っておいで」
言い聞かせるように話しかける珠緒をじっと見つめるクロ。猫と意思疎通が図れたりするのだろうかと倖が見守る中、今度は無抵抗でキャリーへと入れられる。
「黒猫同士、伝わるものがあるの?」
杏も似た考えだったらしく、キャリーの扉を閉めて施錠しながら笑っていた。
「猫の考えはわからない。でも猫は人間の言葉が分かる……らしいから」
最後を曖昧にしたのは倖がいるからだろう。珠緒は倖が前世の話を聞いていることを知らない。杏から言ってないのね、と言いたげな視線を向けられるが、本人の居ない所で聞いたなんて言える内容ではなかった。
杏にはバレていそうだが、前世の話なんてしたら倖も前世を覚えていることが珠緒にバレかねない。なので、倖は蛇が出てきそうな藪を突くことを避けていた。
「やば。そろそろ行かないと、あの子達が帰る時間に間に合わない」
時刻を確認した杏は、キャリーを掴んで慌てて玄関へ向かう。あまり揺らさないよう気を使ったぎこちない動きで暇しようとしている杏を見送る。
「じゃあ、預かってくれてありがとう。この子達は、私が責任を持って新しい飼い主に渡すからね」
「うん」
器用にキャリーを持ったまま靴を履いた杏は、無表情に見つめる珠緒に笑みを向ける。ドアに手をかけた杏は、思い出したように振り返った。
「そうだ。弟くん、お母さんが来るんだって?」
「……ええまあ」
ここでその話をされるとは思わず、倖は僅かに顔を歪めて頷いた。珠緒は珠緒で視線を泳がせるものだから、杏が不思議そうに首を捻る。
「どうかした?」
「いや別に」
「ふうん。まあ、また何かあったら連絡して。珠緒も、弟くんも」
「うん」
今度こそ手を振って玄関を出ていった杏に、珠緒が小さく手を振り返す。
「……」
「……」
賑やかさが去った後の静けさの中、ぽつんと取り残される。どちらからともなく視線を合わせると、再び逸らす。
「……えと、私もう寝るね」
「ああ」
先に動いたのは珠緒だった。逃げるように私室へ向かう背中を見送り、倖は頭を掻いて壁に凭れた。
「……」
リビングへ移動した倖は、まだチカチカと光っている留守電のボタンを押した。
『もしもし、聡子です。珠緒ちゃん、倖が押しかけちゃってごめんなさいね。その後はどうかしら? 急だけど今度の連休にそちらへ顔を出せそうなので、良ければそちらの都合を教えて下さい。お仕事の邪魔になりそうなら、倖の様子だけ確認したら帰るので安心してね。連絡待ってます』
息子の倖からしたら、何を猫被ってるんだと言いたくなる控えめな言い方。だが、結局は「絶対に行くから、ちょっとだけでも時間作ってね!」という押し売りだ。
先に伝言を聞いた珠緒は驚いて、おろおろしながら倖の帰りを待っていたらしい。珠緒から聡子へ連絡するような度胸はないし、急ぎだからと倖に電話を掛けるのも遠慮してしまう。メッセージくらい送ればいいだろ、と思う倖だが、珠緒と倖の距離を考えたら仕方ないのかもしれない。姉弟とは言え、義理。さして仲が良いわけではない。
珠緒の言いたいことを察した倖は、すぐさま聡子へ連絡を入れた。
その結果、ゴールデンウィークの終盤に聡子が来ることになった。距離的に日帰りは出来ないので、倖が客間に引っ越して空いた和室に泊まることで話は付いた。
本当なら倖が珠緒の元へ行く時も付いて行って少しでも挨拶をしたいと言っていたものの、諸事情で叶わず倖だけを送り出した。週に何度か連絡を取り合ってはいたが、母親としてやはり自分の目で見て確かめたいのだろう。聡子としては学校にも挨拶に行きたかったようだが、来れるのは連休ということで残念そうにしていた。
隣にいる珠緒と話しながら決めたこととは言え、会うのは二回目でしかない聡子相手に珠緒は既に緊張気味。倖に聡子にと短期間で二度も押しかけて申し訳ないとは思うが、倖的に珠緒と聡子は相性がいいのではないかと思っている。
「とりあえず、朝飯食って片付けだな」
倖の家事スキルを知っている聡子相手とは言え、珠緒と暮らし始めて気が緩んだと思われる訳にはいかない。
珠緒には言っていないが、聡子は倖を一緒に連れて行くつもりだった。
倖が珠緒と暮らすと言って、明彦に連絡を入れてもらったのだ。忙しくて伝言を聞いていなかった珠緒からの返事はないまま断行してしまったのもあり、聡子のジャッジ次第では倖は聡子に連れ戻される可能性がある。
そんなことを珠緒に言うわけにもいかず、倖は戦前の腹ごしらえを始めた。




