二話 また『喧嘩』しました!
「離せ! 離せこの野郎!」
夏の暑い夜。
裕樹は股間の噛みついた生物を必死に離そうとしていた。
しかし、歯が深く食い込み、一向に離れる気配がしない。
「痛い痛い! アーッ!」
激痛に俺は叫んだ。
このままでは裕樹の『裕樹』が食いちぎられ、無残な姿に成り果てしまう。
(そんなのは御免だ!)
裕樹は激痛に耐えながら、じたばたとのたうち回り、両手でそいつを引っ張った。
―――――!
その時、そいつの目が光り、声が聞こえた気がした。
かと思うと、唐突にそいつはボコボコと、沸騰した水のように蠢き始め、そして――裕樹の体に溶け込んでいった。
「あっ、あっ、あっ」
裕樹は脳に伝わる異様な感覚に理解が追い付かなかった。
(なんだこれ。何かが、何かが体に入り込んでくる。)
やがて、それは全身へと浸透し、俺の体は熱を帯び始める。
(暑い。暑い。まるで全身を焼かれているみたいだ。)
有紀の体から力が抜け、その場に倒れこむと、だらんと四肢を投げ出した。
仰向けのまま動かなくなる裕樹。
その体からは光が放ち始め、同時に蒸気が立ち上る。
不思議な事に痛みが消えていたが、今の有紀には既に、そんなことも考えられなくなっていた。
裕樹の体が変貌していく。
その事をどこか遠い場所の出来事のかのように、裕樹は感じていたのであった。
…………
「あつー……」
全身を包む熱気に、額からは汗が浮かび、俺の口からはそんな言葉が自然と漏れ出した。
煌々と輝く太陽の下、俺はクラスメイト達と共に体育教師の口の動きを眺めていた。
体育教師の筋肉隆々体が何かを言うたびに揺れる。たださえくそ暑いというのに、そんな暑苦しいものを見せつけるのは止めて欲しかった。
ピッ! という笛の音が鳴ったと思うと、体育教師が二人組を作れと生徒に向かって指示をした。
クラスメイトの面々は騒めきながら、各々仲の良い者とペアを組んでいく。やはり、組むのは同性同士ばかりで、異性で組んでいるのはカップルくらいだ。
俺もいつものように誠司と組むため、手を上げながら近寄っていった。
周りのクラスメイト達が一斉にこちらを見て来た気がするが、気の所為であろう。
「おーい、誠司ー。組もうぜー」
「は?」
俺は至って友好的に声を掛けたのだが、対する誠司の反応は冷たい。
「なんだよー、嫌なのかよー」
「ああ、嫌だね。どうしてお前と組まなきゃならないんだ」
「なんだよその言い方……。私と、お前の仲だろうが」
「そんな仲になった覚えはない」
「えええ……」
転校してきて一週間がたったというのに、誠司の態度は未だに冷たいままであった。
以前の俺と誠司を思い出す。
まだ男であった頃は、何処に行く時も、何かする時もいつも一緒で、周りからは二人で一セットのように扱われたものだ。勿論、どんな時も誠司は嫌な顔せずに付き合ってくれたし、俺もそんな誠司が好きだった。
誠司のいいところも沢山知っているし、本当は優しい奴だって事も分かっているんだ。
だから、たとえ女になってしまった今の俺でも、誠司と仲良くなりたかった。
出来ることなら、また親友になりたいと思った。
なのに――――。
「気安く名前を呼びなと何度も言っているだろう」
「まだ言ってんのかよ、それ。もう転校して一週間だぞ。もうそろそろ呼び捨てにしたっていいだろ? だって、私たち友達だろ?」
「そんなものになった覚えはない」
「え、マジ?」
「組むのなら他の奴にしろ」
そう言って誠司は立ち去ろうとする。
「ちょ、待てよ誠司~」
俺は誠司の背中に追いすがり、腕を掴んだ。
「は、離せ!」
「なんでだよ~。なんでそんなに冷たいんだよ~。私はこんなにも仲良くなろうとしてるのに」
「そんな事知るか。いいから離せ」
「いやだ! 組んでくれるまで離さねえから!」
「こ、こいつ……!」
誠司の強情さに負けじと、俺は両手でガッチリと誠司の腕をホールドすると、自分の胸の前で抱え込んだ。これなら、今の俺でも力負けしにくいし、誠司も逃げづらいだろう。
いい加減に、誠司にも俺の気持ちを分かって欲しい。
以前だって親友だったのだ。
きっと、簡単な事の筈だ。
俺はそう思って、腕に力を込めた。
「……やっぱり、あの二人付き合ってんのか?」
「まだ一週間なのに、橘さんたらやるぅ」
「見せつけやがって……!」
「飯田の腕が橘さんの胸に……おのれ!」
クラスメイト達がそんな会話をしていたが、俺の耳には届かない。
いつの間にか、皆が俺達二人に注目していた。
当たり前だ。未だにペアも組まずにいるのは俺達くらいのもので、他は既に柔軟体操を始めていたのだから。
だが、俺はそんな事に気が付かず、ムキになって誠司の腕を掴んでいた。
「この、この!」
「いーやーだー」
誠司が腕を振って振りほどこうとすると、抵抗する俺は腕の力を強める。
そんなイタチごっこを繰り返している俺の肩を誰かが強く掴んだ。
「た、橘さん! そこまでにしよっ!」
俺はその声に振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
手入れのされた黒髪を肩まで垂らし、困ったかのような表情を俺に向けている。その顔はまだ幼さが残り、あか抜けない印象を抱かせる。
「――真子か。なんだよ、邪魔すんなよ」
俺は腕の力を緩めずに言った。
「おぅ、なんか対応が軽い……。と、とにかく誠司くんの腕を離した方がいいと思うよ。その、周りの目とか……」
田中真子の言葉に俺は周りを見渡した。
見ると、女子たちの妬むような視線が多く向けられており、中でも、特に気が強そうな女子三人組が怒りの籠った視線を俺へと向けていた。
それに気が付いた俺はパッと手を放す。
突然手を離されたことで誠司はバランスを崩すが、何とか踏むとどまった。
立ち尽くす俺に真子は小さな声で耳打ちをした。
「ほら、あの三人って誠司くんのファンなの。練習中もよく見に来てるし。だから、その、橘さんがそう言う事してると気分が良くないかなーって」
そう言う事とは、一体どういうことを指すのかいまいち俺には分からなかったが、このまま続けていれば大変な事になると言う事だけは分かった。
「ごめん、誠司。やっぱお前とは組めないわ」
「はぁ? そんなのはこっちがお断りだ!」
俺の言葉に誠司が怒ったように声を荒げた。
「大体、お前は……」
「はーい、ストップストーップ。誠司くん、一旦落ち着いてね」
ヒートアップしそうになる誠司の前に真子が割り込み、手で制した。
そうして、俺に指を向けて言った。
「橘さんは私と。誠司は――そこにいる眼鏡の君! 君と誠司くんとで組んでね! はい、オーケー。解散!」
真子は俺と自分を交互に指さすと、次は誠司とあぶれて一人になっている眼鏡の男子生徒を指さした。
俺が抵抗することなく真子の手に引かれていくと、誠司もその眼鏡の男子生徒へと向かって行った。
俺は従うままに真子と柔軟を始めると、辺りは喧騒を取り戻し、いつもの空気が流れ始めた。
真子が柔軟体操をしながら、俺に耳打ちをする。
「ああいうの人前では控えた方がいいよ。誠司は隠れファンが多いし。橘さんもあんまり目を付けられたくないでしょ?」
真子の言う事はもっともに思えた。
だが、そのような理由で誠司との関わりを減らすのも何か違うように思えた。
俺は元々誠司の親友だ。なのに、何故そのような事を気にしなければいけないのだ。
なんというか、それは負けな気がする。
何故か、負けん気が湧き上がってきた俺は、学習することなく、誠司に絡み続けるのであった。
「おい、誠司ー。一緒に走ろうぜー」
「断る」
「なんでだよー」
この日の授業はマラソンであった。学校近くの道を走り、また学校へと戻ってくるというもの。
こんなクソ暑い日に走らせるなどとは。当然、クラスメイト全員から文句が上がったが、あの筋肉ダルマに一蹴された。
もし、誰か倒れでもしたら教育委員会に訴えてやる。
そう思いながらも、これは誠司に話しかけるチャンスだと俺は考え、走る誠司の隣にまで来た。
女となったとは言え、前は結構動けたのだ。足には自信があった。
「俺に絡むな。一人で走れ」
そう言って誠司は足を速め、一人で先を行こうとする。
それに俺もなんとか追いすがる。
「いいじゃんか。話しながらの方が気も楽だって」
「お前と話すことなど何もない。あるとすれば、裕樹の事だけだ」
「それは……」
前の俺の事を持ち出され、閉口してしまう。
言えるはずがない。
それは一番に隠さないといけない事なのだから。
「言えないだろう? なら、何も話すことなどないな」
そう言って、誠司は鼻で笑いながら足を速めた。
誠司との距離が開いていく。これでは何も変わらない。
俺は何とか、誠司の気を引こうと考えた。
「……教えてやる」
「なに?」
俺の言葉に、先を走る誠司が振り向いた。
「私に勝ったら教えてやる。裕樹の事でもなんでも」
言ってから、失敗だったと俺は分かった。
気を引きたいとはいえ、こんなことを言ってしまうとは。
以前はどうであれ、今の俺が誠司に勝てるとは到底思えない。
こんなことしか思い浮かばない自分の頭の貧弱さを嘆きながら、何とか勝つ方法を考えたが、誠司は待っていてくれなかった。
誠司は不敵な笑みを浮かべて、俺に向かって言った。
「……それは本当だな? 言ったからには責任を持って貰うぞ」
出来れば、今言ったことを無しにして欲しかったが、俺の口は言う事を聞いてくれなかった。
「たりめえだろ! 男と男の約束だ! 二言はねえ!」
「……お前は女だろ」
かくして、極熱の太陽の下、俺と誠司のデッドヒートレースが始まった。
…………
二人分の荒い息遣いが静かなグラウンドに響いていた。
俺は立っていることすらできず、その場に倒れこむ。全身からは、滝のように汗が流れ、呼吸も乱れている。
対する誠司も荒い息をしながらへたり込んでいた。
「はぁ、はぁ、私の、勝ち、だな」
俺は息も絶え絶えに言った。
「なに、言ってんだ。俺が、先に、着いた、だろ」
誠司も上手く話すことができず、会話になっているかも怪しかった。
「いや、私、だよ」
「違う、俺、だ」
お互いがお互いに自分が先にゴールしたと主張する。
どちらも、一歩も退かず、言い合いになりかけたが、グラウンドで生徒が戻ってくるのを待っていた筋肉ダルマが見ていたらしく、結果を教えてくれた。
筋肉ダルマが言うには、ほとんど同時だったらしい。
遠目だったから正確には分からないという筋肉ダルマに、凸ピンの一つでもくれてやりたかったが、疲労で体が動かない。
運が良かったな、と心の中で言い放ち、俺は近くで座り込んでいる誠司を見ると、誠司も不満げではあったが、ムキになるのも馬鹿らしいらしく、息を整えることに集中していた。
仰向けの状態で青い空を見上げる。
空の青色と雲の白色のコントラストが綺麗であった。
そうしていると、他の生徒も順々に戻ってきた。
その中には、ヘロヘロな真子の姿もあった。
真子は俺達を見つけると、ふらふらと近寄ってくる。
「ふ、二人とも~速いよぉ~」
真子も真子なりに俺達を何とかしようと、追いかけてきたのだろう。
だが、真子は運動を得意とはしていない。
ほぼ、全力疾走をしていた俺達に追い付けるはずもなかった。
俺は上半身を起こすと、その事を得意げに語った。
「当たり前だろ。なんだって、私と誠司だからな」
腕を組み、鼻から息を吐く。
それを呆れた様子で誠司が見ていた。
「お前と一緒にするな。というか、そもそもお前、走れたんだな」
誠司が素直に驚いたような声を出した。
それを聞いて、俺は益々得意になる。
「へへへ、どうよ。誠司にだって負けないからな」
女になったとは言え、身体能力が左程変わっていないようで安心した。
流石に筋力は落ちたが、走る速さや体力はほぼ同じだった。
「だから気安く呼ぶな、転校生」
「お前もその呼び方やめろよ」
「転校生なのは事実だろう。何も間違いはない」
「もう一週間経ってるつうの! いい加減、名前で呼べって!」
「なら、お前も名前で呼ぶのをやめろ」
「なんでだよ」
「なんとなく嫌だからだ」
「はあ?」
俺の思いとは裏腹に、誠司との言い合いは加熱していく。
俺は誠司と仲良くなりたいんだ。
なのに、どうしていつもこうなるんだ。
その様子に真子が止めに入った。
「まあまあ二人とも、落ち着いてよ。走って疲れてるんだから、これ以上体力を使うのは……ねっ」
両手を広げて二人の間に入り、何とか止めさせようとする。
だが、それでも俺達は止まることなく、喋り続けた。
売り言葉に買い言葉。
俺が何かを言うと、誠司も負けじと言い返してくる。
俺は自分でも上手く気持ちを制御できず、益々加熱していくのだった。
「お前、いい加減にその性格直せよ! だから友達が少ないんだぞ」
「何故、そんな事をお前に言われなきゃいけないんだ。というか、転校してきたばかりのお前に何が分かるんだ」
「分かるさ。お前が傲慢ちきの口下手野郎ってことはな!」
「なんだと……。お前……!」
「ちょ、ちょっとー! 二人ともやめてよー! 私の話聞いてるー!?」
真子がほとんど泣いているような声を上げる。
俺だって、本当はこんな事を言いたいんじゃないんだ。
本当は、誠司が凄い優しい奴ってことも、誰かを傷つけようとするやつは決して許さない熱い男だってことも。みんな知っているんだ。
なのに、それを言いたいのに、上手く伝えることができない。
誠司に何かを悪く言われると、まるで誠司が俺との友情を否定してしまっているような気がして、それで、誠司にそんな事させたくなくて、俺もついムキになってしまって――。
俺はもう自分の心が分からなくなっていたのかもしれない。
自分が本当は何を言いたいのかも。
…………
「うええ……。また注目集めちゃってるし……、私はただ、二人に平穏な高校生活を送って欲しいだけなのに。どうして、どうしてこうなるのよ……」
言い合う二人を前にして、真子は自身の頭を抱えた。
真子の高校生活におけるモットーは、楽しくとも下手には目立たず、静かで平穏に過ごすことだ。
それが目の前の二人には全く通じない。
真子は泣きたくなった。
真子と誠司は、同じ部活と言う事で、一年の頃からの付き合いがあった。
誠司は女子からもモテて、一緒にいることで色々と目を付けられることもあったが、気のない事を必死にアピールし、何とかここまでやってきたのだ。
波風の立たぬ平穏な日々。
それは真子が一番に欲していたものだった。
だが、それが、この女子生徒一人の手によって崩壊しようとしているのだ。
このままでは、誠司のファンに目を付けられ、きっと真子にまで被害が及ぶ。
たとえ、無関係でも関係ない。
一緒にいることが罪となるのだ。
真子はもう、どうしていいのか分からなくなった。
出来ることと言えば、ただ天に向かって祈るのみ。
真子は二人の事も忘れ、天を仰いだ。
(お願い……裕樹くん早く帰って来てえ!)
その願いが叶えられる日が来るのかは、まだ誰も知らなかった。
…………
俺と誠司との言い合いは、未だに続いていた。
いい加減に言葉も浮かばなくなってきそうなものだが、意外にも続くものであった。
「女があれこれ口を出すんじゃない」
「女って……私は女じゃねえ! ――い、いや、まあ、今は女なんだけども」
「――? 意味の分からない事を言うな」
「そ、そもそも男とか女とか。そんなの関係ないだろ! 友達なら、性別は関係ない」
「そうかもしれないが――」
「だろ?」
「――純粋に、お前みたいなうるさい女は嫌いだ」
「んだと、こらぁ!」
「一々、寄ってくるな。鬱陶しい」
「なんだよ、偉そうにしやがって。お前だってまだピーマン食べられないくせに!」
「なっ……! 何故知っている。誰から聞いたんだ」
「ピーマンが食べれないお子ちゃまには教えませーん」
「――くっ、こいつ……」
舌を出して煽る俺に、誠司はプルプルと拳を震わせていた。
このままでは、いつか手が飛んできそうだ。
誠司に限ってはないであろうが、そんな予感をさせる雰囲気があった。
早くどこかのタイミングで止めないと。
俺はそう思っても、口ばかりが達者に動いて、上手くいかない。
真子もなんか黙っちゃったし……。
お願いだ、誰か止めてくれ――。
『おい、ご主人』
そう思ったところで、意外な方向から声が掛かる。
脳に直接響く様な声。
胸にいるアイツだ。
『アームの気配がする。結構近いぞ』
「何!?」
アーム――あの怪物の呼び名だ。
俺は誠司との言い合いを止め、立ち上がって周りを見渡した。
見た限りに、騒ぎにもなっておらず、アームがいるような様子は感じられなかった。
『あっちだ。あっちの雑木林の奥だ。』
そう言われて、俺はそちらの方向を見ると、何か痕跡があるわけではないが、微かに、その気配を感じ取った。
俺は誠司と真子に向き直ると、突然な俺の行動に、二人は目を丸くしていた。
「ちょっと、ごめん!」
俺はそうれだけ言うと、雑木林に向かって駆け出した。
その不審な動きに、真子も思わず声を張り上げた。
「ちょっとー! どうしたのー!」
理由を聞かれて、俺は走りながらも言い訳も考えると、振り返らずに叫んだ。
「トイレー!!」
俺がそう言うと真子は驚いた様子で叫んだ。
「ちょっ! 女の子が大声でそんな事言っちゃダメー!」
俺は真子の声を背で受けながらも、足を止めることはなかった。
…………
(なんなのあの子は!?)
真子は有紀と言う女子生徒が理解できずにいた。
(誠司くんと言い争いしてたと思ったら、急に黙って立ち上がって。しかもトイレって……。ホント、なんなの!?)
真子には有紀が平穏からほど遠く、寧ろ平穏を破壊する存在に思えた。
(あんな子と関わってたら、私の高校生活は……)
だが、真子は悩んだ。
誠司と一緒にいる以上、有紀は嫌でも関わってくるであろうし、かと言って、露骨に距離をとるものならば、真子のイメージに傷がつく。
(どうしよう、どうしよう、どうしよー!)
真子が頭を抱えて悩んでいる中、誠司は有紀が消えた雑木林から視線を外さず、懐疑的な瞳で見つめ続けているのであった。
…………
一人になると、熱くなっていた頭が急激に冷えて来る。
俺はどうして、あんなことを言ってしまったんだろう。
どうして、あんな言い方しかできなかったんだろう。
どうして、もっと冷静に、もっと穏便に事を進められないんだろう。
どうして、どうして、どうして……。
様々な後悔が浮かんでいく。
もう過ぎてしまったことはどうにもならないと、頭では分かってはいるが、心では到底受け入れることができなかった。
そんな俺を見透かしたのか、そいつが言う。
『……おい、調子が悪いのか?』
こんな化け物にまで心配されるとは。
俺は情けなくなった。
「別に、そんなんじゃねえよ。運動の後で少し疲れているだけだ」
『ならいいんだ」
それ以上、そいつは何も言わなかった。
化け物のくせして気が利くとは、何だか負けた気がした。
俺は草木をなぎ倒しながら走っていた。
そうして、進んでいき、大きな広場のような場所に出た、その時だった――。
『避けろ!』
「うおっ!?」
俺の顔に向かって、紫色をした液体が飛んできた。
俺は咄嗟に体勢を低くすると、液体は後ろの木にぶつかり、木の幹を溶かした。
それを見た俺は、思わず息を呑んだ。
「これ……ヤバくない?」
『そんな事より、前を見ろ』
「――うげえ!」
そいつに言われて前を向くと、もっと恐ろしい光景が待っていた。
蛇だ――。
巨大な蛇が舌を見せながら、こちらを睨んでいる。
長い身体が地面を擦り、こちらを警戒するかのように忙しなく動いていた。
「なにこれ、蛇? 今まで、意識して見たことはないけど、こうも大きいと……怖ぁ」
蛇型アームは俺と同じ目線で睨んでいる。
全長は分からないが、俺の身長の三倍は軽くあるだろうか。
こんなのと戦わないといけないなんて……。
『しっかりしろ』
そいつが俺に言った。
「わ、分かってるよ!」
さっきから、色々と言われてばかりだ。
俺を気を取り直すように腕を構えると、全身に力を込めた。
そして、叫ぶ。
「メタモル――――うおぉ!」
だが、俺の言葉は飛んできた粘液により、中断させられていた。
体制を下げ、必死の思いで回避する。
『おいおい、しっかりしろよ。これじゃあ、こっちだって力を出せないぞ』
そいつが文句を垂れてくる。
「そんなの! こっちだって! 分かって! るよ!」
俺はそいつに言い返すが、その間にも蛇型アームは口から粘液を飛ばしてきた。
俺はそれを避けることに必死になり、変身をすることができない。
木が溶け、草が溶け、道が溶け、掠ったジャージが溶ける。
「ひえええ! 死ぬっ! 死ぬっ!」
溶けたジャージから脇腹と太ももを露出しながら、俺は逃げまわった。
『なんとか隙を作れ。それで変身するんだ』
そいつが言う。だが――。
「隙を作れって言ったって……」
蛇型アームを見る。
鋭い眼が、鋭い牙が。
そして何よりも、その体躯が。
「こええよぉぉ! それにキモイぃ!」
このまま離れていても粘液の餌食に、しかし、近づけばあの巨大な口に飲み込まれてしまいそうで、俺はどうすることもできなかった。
力を得たとはいえ、その力を使えない状況では、ただの少し運動ができる程度の女子高校生なのだ。
『そんなこと言っている場合かよ』
そいつの冷静なツッコミ。
「そんな事って……それが一番やばいところだろ! ――――あっ!」
喋りながら走っていた所為か、それとも疲労の所為か。
どちらかは分からないが、俺は足をもつれさせ、地面に向かい、顔面を強かに打ち付けた。
「――――たぁ~。最悪……」
顔を抑えて悶絶する俺。
幸い血が出てはいないようだが、すぐ傍にもっと最悪な事態が忍び寄っていることに俺は気が付かないでいた。
『おい!』
そいつが珍しく、焦った様子で叫んだ。
だが、時既に遅し。
転んだのをチャンスと見たのか、蛇型アームは粘液を使わずに、長い胴体を活かして飛びかかってきた。
「うわぁっ!」
眼前に迫る口。
血のように紅い口内が俺を待ち受けていた。
俺は咄嗟に目を瞑る。
それで助かるわけでもないが、ただ、これから起こる事象に目を向けれるほどの心の強さを持ち合わせていなかっただけだ。
俺は思った。
自分はこのまま死んでしまうのでは、と。
こんな、こんなので終わり……?
女になってしまって、色んな事に耐えて来たのに。
こんなにも簡単に……?
終わりを向ける意識の中、思考は加速し、俺に思い返すだけの時間を与えてくれていた。
もっと、色んな事をやってみたかったのに。
もっと、色んなものを見てみたかったのに。
もっと! もっと! もっと――――!
様々な願望が俺の頭を駆け巡る。
遊んだり、食べたり、歌ったり。
どれもが俺の本心で、どれもが俺にとってかけがえないものだ。
でも、その中でも一番強く思ったことがあった。
シンプルで、何よりも、俺が大事だったもの。
――――もっと、親友との時間を過ごしていたかった!
それを俺は、根拠もなしに、永遠に続くものだと思っていた。
だけど、違った。
ある日、突然に奪われ、取り戻そうとしても『同じ』ようになんていう希望は、簡単に打ち砕かれて。
些細な事で怒って、悪口を言って、突き放して。
このまま、喧嘩したままで終わってしまうなんて。
せっかく、また出会う事が出来たのに。
なのに! なのに!
「うう…………って、あれ?」
しかし、いくら待とうとも、牙で貫かれる感覚も、粘液で溶かされる感覚もやってこなかった。
あれ? 死ぬ寸前は走馬燈が流れると言うけど、流石に長すぎじゃありませんか?
いや、もしかして、もう既に死んでるんじゃ……?
俺は、恐る恐る目を開けると、その光景に目を見張った。
開かれた口が眼前で止まっており、あと少しと言うところで蛇型アームがもがいていたのだ。
「な、なにが一体……」
俺の疑問にそいつが答える。
『あれのおかげだな』
「あれ……?」
そいつに言われて視線を向けると、蛇型アームの胴体を貫き、一本の蒼い刀が地面に突き刺さっていた。それにより、蛇型アームの動きが止まり、俺は捕食されずに済んだのだ。
「なんだあれ……日本刀?」
『分からない。突然上から降って来て、アームに突き刺さったんだ』
どうやら、そいつがやったわけではないらしい。
俺は訳が分からなかったが、助かったという事実には変わらない。
「まあ、いいか! これで変身できるってもんよ!」
『ああ』
その時、蛇型アームが口を閉じ、俺の鼻先すれすれの空間を削り取っていった。俺は「ひぅ!」という情けのない声を上げてしまうが、何とか気を取り直し、粘液を出される前にと急いで立ち上がった。
そうして、背後に回ると、改めて腕を構えて言った。
「よっしゃあ! 今度こそ行くぞっ!」
『あいよ』
全身に力を込める。
自分の肉体が強く、固くなっていくのをイメージする。
そして、俺達は声を高々に叫んだ。
「『メタモルフォーゼッ!!』」
俺の体から眩いばかりの光が放たれる。
光の中で、俺の体は燃えるように熱くなり、肉体が、細胞が、分子レベルで変化していくのが実感できる。
なんとも言えぬ全能感が体の内より湧き上がり、俺の心を高めてゆく。
これなら、どんな相手でも戦える!
これなら、どんなことだってやってみせる!
これなら――絶対に負けない!!
そして、戦い方を遺伝子に刻まれた遠い記憶のように思い出す。
ずっと、こうして戦ってきたような、人間の奥深くに眠る戦いの本能を。
やがて、光は小さくなり、俺の視界が晴れる。
そうして、全身から蒸気が吹き出すと、全てのプロセスを終えたことを伝えてくれる。
俺は不格好に拳を構えた。
俺は武道なんて知らない。
何かの型や流派なんてもの知るはずがない。
喧嘩だって、一度ものしたことがない。
だけど、あんな相手を倒すのは、これで十分だ。
人間が作り出したものを、あんな奴に使うのは許せない。
だから、俺のこの、不格好な拳こそが、きっと一番に相応しいのだ。
俺は全力で地面を蹴った。
拳を振りかぶり、奴を見据える。
戻ったら、誠司に謝って、仲直りをしよう。
誠司は頑固なところがあるから、すぐには許してくれないだろうけど。
けれど、いつかは渋々と受け入れてくれる。
うん! そうに決まってる!
そうして、前みたいに笑い合うんだ。
俺が一番大切に思っていた。
あの、毎日みたいに――――。
…………
「遅いねー、橘さん」
真子は誰にいう訳でもなく、小さく呟いた。
「トイレに行く」
そう言って消えた女子生徒は、授業が間もなく終えると言う時間になっても帰って来なかった。
心配そうな表情をする真子。
対して、誠司の表情は普段と何も変わらず、落ち着いた様子で真子と同じ方向を見つめていた。
「な、なにかあったのかな? ちょっと、様子見に行った方がいいのかな?」
真子は誠司に向かって言った。
だが、誠司は、
「別にいいだろ。それだけ時間が掛かる事をしているんだろ」
「なっ!?」
誠司の言葉に真子は絶句した。
「ちょ、ちょっと、その言い方は……」
「別に変な事は言っていないだろ? 時間が掛かっているから、『自然と』そう思っただけだ」
(それでも無神経すぎるよぉ……)
真子は、またもや頭を抱えたくなった。
(ああ、裕樹くん。あなたの親友は変わってしまったわ……)
これも全てあの橘と言う女子生徒が来てから。
こんな短期間で一人の人間を変えてしまうとは、本当に訳が分からなかった。
(あーあ、いっそのこと、このまま帰って来なければいいのに……)
勿論、真子はそんな事を本気で思っているわけではない。
だが、平穏を心から望んでいるがゆえに、そんな思いも抱いてしまうのだ。
何故なら、唯一の原因は有紀にあるのだから。
「おーいっ!」
そんな事を考えていたからか、その声が聞こえた瞬間、真子は思わず飛び上がった。
そうして、後ろめたさを隠しながらも、おずおずと手で声に答えるのであった。
…………
「おーい、誠司ー! 真子ー!」
俺の声に、真子は手を上げて答えてくれた。
分かってはいたが、誠司は無反応。相変わらずであった。
「ったく、誠司はもう……」
俺は不満を漏らすようにするが、その口は笑っていた。
何故なら、俺は想像していたのだ。
もし、このまま行って、俺が謝ったりしたら誠司はどのような反応をするのかと。
驚くだろうか。
それとも、喜んだりするだろうか。
分からないけど、俺が素直になれば、きっと、誠司も――。
俺はにやけてしまうのを抑えられずに二人の下に急いだ。
『嬉しそうだな』
すると、唐突にそいつが言った。
眠っているものと思っていたから、俺は驚いた。
「当たり前だろ。俺の悩みが解決しそうなんだから」
『そういうものか?』
「そういうもの!」
『……そうか』
それっきりにそいつは黙った。
俺の気持ちに疑問を持つなんて珍しいこともあるものだ。
そいつは俺にとって許しがたい奴ではあるが、同時に相棒でもある。
いつか、名前をつけてやるのも、やぶさかではないだろう。
胸に目があるから……『ムネ―』とか?
うん! それ、いいかも!
俺はそんな事を考えながら、最後の一歩を大きく踏み出した。
…………
俺が二人の下に着いた時には、ほぼ全員の生徒が走り終えており、後は残りの時間を雑談で過ごすと言う様子であった。
「お、お帰り橘さん。もう、遅いから心配しちゃったよ」
真子は何故か引きつった笑顔をして迎えてくれる。
俺はその表情を不思議に思ったが、真子の目の前を通り過ぎ、すぐ傍に立っていた誠司の下へ急いだ。
誠司はそっけない表情で、俺の事を見ようともしない。
その冷たい対応に、俺の中で対抗心と、悪戯心が同時に湧き上がってきた。
いいだろう。お前がそういう態度なら、俺もお前を予想を超えてやろう。
そして、その表情を崩し、俺を認めさせてみせるとも。
俺は一度、わざとらしく咳ばらいをすると、誠司の正面に立り、精一杯の笑顔を浮かべた。
だが、相変わらず、誠司は反応を見せない。
くくく……。
これから俺がやることも知らずに……。
貼り付けたような笑顔の裏で、俺はほくそ笑んだ。
そうして、自分が出せる全力の甘えた声で、誠司の腰に抱き着こうとした。
顔を赤くしてうろたえる親友を想像して。
「誠司く~ん。ごめんなさ~い。私~ホントは~……って、あれ?」
――だが、誠司は体を動かし、ひらりっと避けて見せた。
結果、行き場をなくした俺の腕は、空を切ることとなる。
間抜けなポーズで固まってしまい、俺は反射的に誠司へと文句を言い放った。
「ちょっ、何で避けんだよ! せっかく、人が譲歩して! 優しくなってやろうとしてたのに!」
俺の言葉に、誠司は冷めた目で見降ろしてくる。
俺は少し怯んでしまうが、負けてはいられない
俺は決めたのだ。
親友に戻るためにも、俺が素直になるって。
俺が多少無理をしてでも、あの頃を取り戻すと。
だが、次の瞬間。
誠司の口から放たれた言葉は、俺を想いを、大きく裏切るような言葉だった。
「汚い手で触るなよ――――野グソ女」
……は?
何を言っているんだ……?
始め、俺はその言葉を理解できず、誠司の言葉は宙ぶらりんになっていた。
だらしなく口を開けて固まり、 手の平も宙で止まっていた。
十秒以上は固まっていただろうか。
やっとのことで、言葉が脳に伝わると、誠司に対しての様々な感情が爆発した。頬の熱さも増していき、まるで変身した時のような感覚に襲われる。
「お、おお、お前! な、何言ってんの!?」
俺は自分でも驚くくらいに大きく叫んだ。
周りのクラスメイト達が何事かと、こちらを見て来るが、そんな事を気にしていられなかった。
「そんな事! 言うか!? 普通!? しかも! 女子に!」
自分のことを女子と言うのに、今までは抵抗を感じていたが、今はそんな事を微塵も感じなかった。
俺が言われたからとかは関係ない。
誠司は女子に向かって、言ってはならない事を言ったのだ。
「ああ、悪い。あの方向にトイレはないし、やけに時間かかったしで、そうかなーって、思ったから」
何でもないように誠司は言う。
「いや、思っても言うなよ!」
俺は誠司に掴みかかるが、また簡単に避けられてしまう。
「ちょっと、触るなよ。服が汚れるだろ?」
「だから、違うっつーのっ!」
それから、何度も飛びかかったが、その度に避けられてしまう。
そんな俺に、誠司は避けながら言った。
「生理現象だ。恥ずかしがることはないさ。誰にでもある」
「せ、誠司……」
誠司なりのフォローなのか、そう言った。
始めの発言のおかげで、フォローになっているのかは怪しかったが、それでも俺は誠司の良心に期待した。
「まあ、外で致そうだなんて、誰も思わないだろうがな」
だが、駄目であった。
可笑しそうに笑いながら言う誠司に、俺の頭の中で、何かが切れるような音がした。
「こいつ! こいつ! こいつぅ!」
俺は誠司に向かって飛びかかろうとするが、その前に背後から来た真子に抑えられる。
「落ち着いてよ橘さん! 気持ちは分かるけども!」
「離せよ真子! こいつが今なんて言ったか聞いてただろ!?」
「そうだけど、そんなに暴れちゃ……」
俺は信じたくなかったんだ。
あの優しくて、頼りになった誠司が。
相手が俺だったとは言え、女子に向かってそんな事を言うなんて。
「離せ! 誠司は俺の! 俺の!」
親友としての思いを裏切った――――。
などと言えるはずもなく、俺は本当の気持ちを押し隠して、誠司を睨むことしかできないのであった――――。
この時、俺の表情は、大層複雑であったそうな。
怒りと、悲しみと、悔しさと。
様々な感情が入り混じり合い、言葉に出せない思いが、涙となって目じりに浮かんでいた。
こうして、俺と誠司の噂は小さくなったが、代わりに今度は、俺が『野グソ女』であるという噂がしばらくの間、広がり続けるのであった――――。