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一話 『魔法少女』始めました!

7.19 加筆修正を行いました。

 

 それは暑い夏の夜の出来事だった。

 

 その日は本当に気温が高く、まだ七月に入ったばかりだと言うのに、真夏のような暑さが俺の睡眠を妨害していた。

 窓を開けていても全く風が入ってこない。かと言ってエアコンを使うほど生活に余裕もなく、仕方なしに俺は無駄な抵抗を試みて、ベッドの上を何度も寝返りうっていたが、やがては、纏わりつく熱さも張り付くシャツの感覚にも耐えきれなくなり、諦めてベッドから起き上がった。

 眠気も疲労もあるのに、暑いというだけで眠れないのが腹が立った。

 お隣に北極か南極が引っ越してきてくれないだろうかと考えながら、少し風にあたろうと外に出た。


 しかし、外の熱さも対しては変わらなかった。

 狭い空間ではないため、部屋の中よりかはまだマシな方ではあるが、それでもジットリとした暑さは変わらなかった。

 俺はウンザリと溜息を吐くと、冷たいものでも飲もうと近くの自販機を目指して歩き始めた。


 公園の端に設置された自販機は、明るい光を放ちながら立っている。

 俺は財布を手に近づくと、光に群がる羽虫を手で払いながら、小銭を入れ、好みのジュースを買うと、直ぐにもそれを呷った。

 喉を通る冷たい感覚が火照った体に心地よい。

 そのまま一気に三分の一を飲み干すと、息を吐き、来た道を戻ろうとした。


 その時、俺の視界に何か動くものが映った。

 

 自販機のすぐ隣にある街頭。そのすぐ下、街頭の陰で何かが蠢いている。

 直接光に当たっていないため、分かるのはシルエットだけだったが、大きさからして犬や猫のように思えた。

 不思議と興味を惹かれた俺は、ジュースを飲みながら近づいて行った。


 だが、今に思うとこれが間違いだった。

 この出来事が俺の人生を大きく狂わせたのだ。



 「どうしたんだー? 迷子かー?」



 ジュースを片手に子供をあやすような声を出す。

 俺が近づくとその影も動きを見せた。こちらに気が付いたのだろう、頭らしきものが動く。夜闇でしっかりとは見えないが、毛に覆われた柔らかそうな尻尾が飛び出していた。

 俺は地面にジュースの缶を置くと、それに向かって両手を伸ばした。

 意外にもそれは逃げるような素振りを見せなかった。



 「よーし、よしよし……」



 俺はゆっくりと手を伸ばす。淡い期待感が胸を包み、暑さも気にならなかった。


 何かが光った。

 そう思った時には俺の手は止まり、喉の奥からは情けない声が飛び出しそうになる。視界に映ったそれは俺の予想を簡単に乗り越え、理性をかき乱してくる。


 それは瞳だった。

 丸々とし、てらてらと光を反射させている、大きな大きな、()()()()だった。



 「ひぅ……!」



 耐えきれず、俺の口から声が漏れる。

 思わず立ち上がり、後ずさる。地面に置いておいた缶が倒れ、中身がこぼれた。

 すると、そいつは恐ろしいほど大きな口を広げると、俺に向かって飛び上った。鋭い歯が並び、舌は血のように赤い。 

 そいつが一体何なのか。

 俺がそれを考えるよりも早く、そいつは俺の股間に被りついた。



 「ギャー!!!」



 激痛が脳天まで奔り抜ける。

 夏に夜に、俺の悲鳴が響き渡ったのだった。





………………



 制服の袖に腕を通す。

 とっくの昔に夏服へと変わっていたそれは、初めて着るかのような違和感を俺の胸に与えてくれるが、よく考えてみると、本当に初めて着るのだという事実に思い当たり、俺は空しくなる。

 前のボタンを留め、赤いネクタイを締めると、微かな胸の息苦しさを覚えて、俺は深く息を吐くのであった。


 着替えを終えてから、俺は時計を見ると目を見開いた。

 始業の時間まであと僅かだ。

 走ればまだ間に合うが、どうやら思っていた以上に着替えを手間取っていたらしい。

 俺は鞄を掴むと、朝食も取らずに部屋を飛び出した。


 扉を開けた瞬間、むわっとした熱気が俺を襲う。

 思わず顔をしかめるが、時間が惜しい。

 俺は熱気に耐えながらも、通い慣れた道を駆け出していった。



 …………



 飯田誠司(いいだ せいじ)のいる教室はざわめきに包まれていた。

 皆はどこか落ち着きがなく、浮足立っている。

 その理由を誠司も知っていた。

 

 だが、今の誠司はそんな気分にはもなれなかった。

 先日聞かされた事実が未だに胸を蝕み、誠司の気分を重く、暗くさせていた。


 そんな誠司に前の席に座る女子生徒が話しかけてきた。

 


 「転校生どんな子だろうね。仲良くなれるといいなぁ」



 如何にも能天気と言う感じだ。

 誠司は少しだけ苛立ちを覚えた。



 「聞いた話だと女子で、しかも結構可愛いらしいぜ。楽しみだよな」



 どこからか、そんな会話が耳に入る。

 それを聞いた目の前の女子生徒がからかう様な笑みを浮かべ、誠司を見た。



 「だってさ誠司くん。これを機にもっと女子と話してみたら? もしかしたら付き合えちゃうかも」



 正直どうでも良かった。

 転校生の容姿が良かろうと誠司には関係がない。


 それよりも、どうして彼は唐突に消えてしまったのか。

 何故、親友である自分に何も言わなかったのか。

 何故、何故、何故……。

 

 誠司の心はさらに落ちていく。

 そのまま消えてしまうのではないかとさえ、思えるほどであったが、教室に入ってきた教師の声が誠司の意識を引き上げた。



 「はーい、みんな静かにしてねー。朝のホームルームを始めるわよ」



 先程の喧騒が嘘だったかのように静まり返る。

 だが、皆の顔は一名を除いて期待感に溢れていた。

 それを見て察しとった教師は、日誌を片手に笑った。



 「あら、みんなはもう知っているみたいね。まったく、どこから聞いたのやら。まあ、いいわ。今日は皆さんに紹介したい人がいます。どうぞ、入って」



 そう言って教師が開いたままであった教室の扉に向かって手招きをした。

 皆が息を呑むようにして、扉に意識を集中させる。

 その光景を誠司はどこか他人事のような、冷めた様子で見つめていた。


 だが、その人物が教室に入った瞬間、誠司は目を見開いた。


 それは誠司が最も良く知る人物によく似ていたからだ。

 その小さな顔が、肩まで伸びた髪が、ではない。

 その全身を包む雰囲気が、その表情が、誠司の記憶と重なっていく。


 その人物が教壇の横で立ち止まると、教師が口を開く。



 「じゃあ、自己紹介をお願いね。さっき言った通り、簡単に趣味とかも添えてね」


 「は、はい」


 

 その人物は緊張した面持ちで返事をした。

 

 どこから、小声で「可愛い」やら「結構タイプかも」という会話が聞こえてくる。皆が視線を向け、その人物に夢中になっている。

 いつの間にか、誠司もその一人になっていた。

 口を開き、話そうとするに全力で耳を傾ける。

 その声はやはり高く、知っているものとは似ても似つかなかったが、やはり、それでも誰かを思い出さずにはいられなかった。



 「た、(たちばな)有紀(ゆき)です。趣味は、スポーツ全般。えと、よろしく」



 有紀はそう言うと、軽く頭を下げるのであった。



……



 「橘さんて、前はどこに住んでたの?」

 「スポーツが趣味って、何をやるの!?」

 「誕生日は?」

 「彼氏はいるの?」

 「女の子に興味はない?」


 あれから俺は空いていた席に着き、そのままホームルームを終えると、早速クラスメイト達が集まって質問攻めにあっていた。

 転校生の定めであると諦めて、俺は一つ一つ答えていくが、その人波が引く気配がない。

 それは授業を受け、昼休みになっても同じだった。

 クラスメイト達が一緒に昼食をとろうと誘ってくる。



 「ご、ごめん。ちょっとトイレ!」



 俺はそう言って、人込みなんとか掻い潜り、教室から出ていく誠司の背中を追いかけた。



 「誠司!」



 廊下を走りながら叫んだ。

 周りの生徒たちが見てきたが、俺は気にしなかった。


 誠司は足を止めて、こちらを振り返ると、その表情は暗い。

 誠司は明るいと言い難い奴ではあったが、こんな表情をするのは、落ち込んでいる証拠だ。それが自分の責任であるのなら、直ぐにでも助けてあげたい。

 そこまで考えて、俺は自分の間違いに気が付く。

 つい、いつもの調子で呼んでいたが、今の俺と誠司は初対面なのだ。いきなり飛び捨てと言うのは可笑しいだろう。



 「いや、その()()()()……」



 急いで言い直した。この呼び方に凄く違和感を覚える。

 それでも誠司の不審そうな顔は変わらずだった。

 


 「……何か用ですか? 早く購買に行かないといけないんだけど」



 誠司は冷たく言い放つ。

 その細く睨むような眼は見るものを怯えさせた。

 思わず俺も怯んでしまうが、こんな事に負けてはいられない。

 


 「ちょ、ちょっと顔貸してよ」


 「なんで?」



 即答である。

 その態度に俺も少し腹が立ってきた。

 確かに誠司は顔もいいし、頭も良くてスポーツもできる。だから女子には人気があったが、その性格のせいで男子には敵が多い。

 いつも直せと言ってきたが、これでは治る可能性など一切感じなかった。



 「……いいから、こっち来て」


 「お、おい」



 俺は誠司の腕を掴んで歩き始めた。周りにいる生徒たちが見て来るが気にすることはない。

 こういう時の誠司には少々強引なのが丁度いいのだ。

 そうして、俺は誠司を連れてある場所を目指した。



……



 誠司は橘有紀を「変な女」と認定した。

 

 突然呼び捨てにされたかと思うと、腕を掴んで無理矢理に連れていかれたのだ。これを変だとと言わずして、なんと言うのか。

 しかも、橘は封鎖されている屋上の扉前、人気の少ない場所に来ると、さらに変な事を口にした。

 


 「あ、あんたの友達の川崎ってやつから伝言があるんだけど」


 「……なに? お前は川崎を知っているのか?」


 「まあ、ちょっとね」



 川崎と言うのは誠司の昔からの友人の名前だった。

 川崎(かわさき)裕樹(ゆうき)。小学生から高校までずっと同じの学校に通っていて、誠司が心を許す数少ない相手でもあった。

 その名前を転校生である橘の口から聞くことになるとは。

 しかも、伝言があると言う事なのだから、さらに驚きだった。

 何故知っているのか? 二人は知り合いなのか?

 様々な疑問が誠司の胸に浮かび上がった。



 「アイツさ、急に引っ越したじゃんか? しかも誰にも言わずにさ」



 友人の突然の引っ越し。

 それが誠司を悩ましていることの正体であった。


 それを誠司が知ったのは一週間前の事。

 担任から聞いたのだ。家庭の事情としか伝えられていないらしく、正確な理由は分かっていない。

 誠司が直接、裕樹が暮らしている部屋にも訪れたが、その時には既にもぬけの殻で、彼がいたという痕跡がなかった。


 正直に言って異常だった。

 誠司と裕樹は長い付き合いなのだ。

 あの裕樹が誠司に何も言わずにいなくなってしまうとは到底考えられなかった。何かの事件に巻き込まれた、という考えもあながち間違っていない可能性もある。



 「だから謝っておいてくれって言われたんだ。アイツも誠司に申し訳ないって思ってるよ」



 そして、その理由をこの女は知っている。

 何故、転校生が。と、誠司も思ったが、今はどうでもよかった。

 裕樹の事を知りえるならばと、誠司は居ても立っても居られなくなった。



 「お前は……」


 「え?」


 「お前は何を知っているんだ……」



 誠司が有紀にゆっくりと詰め寄る。

 その表情には異様な迫力があった。



 「え、え、ちょ、ちょっと、なに!?」



 思わず有紀は後ずさった。

 しかし、ここは屋上前の狭い空間だ。直ぐに壁にぶつかる。

 それでもお構いなしに誠司は迫った。



 「ま、待って! 落ち着けって!」


 「裕樹に何があった? それをお前は知っているのか。どうなんだ!」



 有紀の顔すれすれに誠司が手を伸ばす。

 そうして、脅かすように壁を力強く叩くと、その音が有紀の鼓膜を震わせた。

 


 「言え! 早く!」

 


 再び、唸る。

 有紀は、誠司の迫力に完全に呑まれ、固まることしかできずにいたのだった。

  


…………



 どうしてこんなことに。

 俺は事情を説明して、それで納得してもらって、いつも通りの誠司に戻ってほしかっただけなのに。

 どうして、こんな近くまで迫られて、壁ドンまでされないといけないんだ!



 「何を黙っている。何とか言ったらどうなんだ」



 誠司の顔が近い。

 否応にも息が吹きかかってしまう。

 というか、こんなにも顔を近づける必要はないだろ!

 もうちょっと普通に話せよ!



 「――っ!」


 「ひうっ――!」



 誠司はあきらかにイラついた様子で、壁をもう一度叩いた。

 その時、俺の口から変な声が出てしまい、少し恥ずかしくなる。



 この時、有紀は知らなかった。

 誠司は一週間悩みに悩み続けている状態で、既に精神は疲弊し、心に余裕と言うものがなかったのだ。

 それだけ、裕樹という存在は大きかった。



 「いや、その、それは……」

 


 情けないことに声が震えてしまう。



 「それは?」


 「何というか、秘密……というか。言うなって言われてて」



 それは勿論今考えたことだ。

 誠司に本当のことを言うか? いや、言えるはずもない。

 自分が本当は、川崎裕樹であるだなんて。

 たとえ、言ったところで信じてなど貰えないだろう。

 

 だけど、俺の言葉に誠司は酷くショックを受けた様子だった。



 「は……?なんだよ、それ……。何で転校生のお前が知っていて、この俺が知らないんだよ……」

 


 その誠司の顔は本当に辛そうで。今にも泣き出してしまいそうだった。

 それを見ていると、俺の胸が締め付けられるような感覚に襲われる。

 親友にこんな顔をさせてしまった罪悪感か、それとも自身が変わってしまったという事実への悲しみか。



 「おかしいだろ……。アイツは、裕樹は、俺には何も言ってくれなかったのに」



 どちらにせよ、誠司にこんな顔をして欲しくなかった。

 だけど同時に、こんなにも俺を想ってくれているなんて、と胸の奥が熱くなった。



 「親友……なのに」



 だからか、気が付いたら俺は誠司を抱きしめていた。

 いつもみたいな熱い友情のハグ。

 自分の体の事も忘れ、強く、強く抱きしめた。

 


…………



 「や、やめろ!」



 誠司は突然に抱きしめて来た有紀の腕を振り払った。

 体で感じた柔らかい感触が、それに戸惑っている自分に気が付いて誠司は嫌になった。



 「あっ……」



 振り払われた本人は寂しげな表情をして、それが誠司の心をかき乱す。



 「何なんだよお前!」



 誠司は叫ぶ。

 この裕樹の何かを知っている女が、突然に変な行動をするこの女が。本当に理解できなかったのだ。

 


 「何がしたいんだよ! 一体、裕樹の何なんだよ!」



 誠司はもう訳が分からなかった。

 まるで、親友が有紀に取られてしまったかのようで、親友がどこか遠くに行ってしまったかのようで。なのにも関わらず、有紀から親友と同じ何かを感じ取ってしまっている自分がいて。



 「私は……俺は……」



 そこまで言うと、有紀は唐突に口を閉ざした。

 何かに気が付いたかのような様子で、あらぬ方向に視線を向けていた。



 「お、おい」



 誠司が話しかけても返事はなく、一人で何かを呟いている。

 その異様な姿に誠司は言葉を失ってしまっていた。



 「――ごめん誠司! 続きはまた今度!」



 唐突に有紀が誠司の脇を素早く通り抜け、駆け出して行った。

 階段を一段、二段と飛ばして降りていき、有紀の姿はみるみる遠ざかってゆく。



 「おい!」



 誠司の声も既に届かないほどの距離ができていた。



 「――くそっ! 何なんだよアイツ! というか、また呼び捨てかよ」



 誠司は思わず、今は見えぬ有紀に向かって悪態吐いた。

 そして、次の瞬間には駆け出していた。


 誠司は考えたのだ。

 先程、有紀が何を言いかけたのかは分からないが、確実に何かを知っている。

 誠司が知らない、裕樹の真実を。


 

…………


 

 俺は人目も気にせずに全力で廊下を走っていた。

 何度も人にぶつかりそうにながらも見慣れた校内を進む。通りかかった教師が注意してくるが、「すいません!」とだけ言って、足はを止めることはしなかった。

 ただ、脚を動かすたびにスカートが風で揺れて、少々危ういことが気がかりではあったが、そうも言っていられない。

 

 感じたのだ。

 確かに、その気配を。


 急がなければ。

 俺ができること、それをするために。



…………



 有紀の脚は思っていた以上に速かった。

 運動部である誠司でも追い付くことができず、やっと脚を止めたかと思うと、そこは体育館の裏手であった。

 昼休みとはいえ、ここに人の気配はなく、体育館から床を擦る音が聞こえて来るだけであった。

 こんな場所に一体どのような用事があると言うのか。

 有紀の背中は止まったまま動かず、何をしたいのかは分からない。誠司は益々混乱するのであった。



 「おい、転校生! こんなところまで来て、何をしようって言うんだよ!」



 その背中に声を掛けると、有紀が驚いた様子で誠司を見た。



 「え!? ちょっと、ついてきちゃったのかよ誠司!」


 「気安く俺の名前を呼ぶな。まだ、俺の質問に答えてもらっていなかったからな」


 「ええ……」



 先程と同じように誠司が詰め寄ると、有紀は困惑した表情で頭を抱えていた。



 「ええっと、ねえ飯田くん。ちょーっと、一人にしてくれないかなー。ほら、私にも色々と事情があるわけで」

 

 「黙れ。俺はその事情を知りたいんだ。裕樹の事、何か知っているんだろう?」


 「ううう……」



 誠司は全くと言って引かなかった。

 視線を向けたまま逸らさず、自身の意志が固いことを伝えた。


 そうしていると、有紀は益々困った様子で唸るのだった。



…………



 何なんだよ。誠司ってこんなにもしつこい奴だったっけか。

 

 俺はどうしたらいいのかと頭を抱えていた。

 相変わらず、誠司は冷たい目で見降ろしてくるし、言葉は厳しいし。

 もしかして、さっきの行動がいけなかったのだろうか。

 やっぱり、今日会ったばかりの奴が、あんなことするのはいけないよなぁ。誠司の性格なら嫌がると分かっていたのに、どうして俺はあんなことを……。


 俺は後悔に呻いた。


 だけど、誠司には一刻も早くここから離れてもらわないといけない。

 誠司の為にも、そして俺自身の為にも。



 「えーっと……」



 俺はどうにか誠司に諦めて貰おうと色々言い訳を考えるが、どれも誠司を納得させるには程遠いものばかり。

 時間がないとは分かっているのだが、逆にそれが俺を焦らせ、思考もままならなっていく。誠司の頭と違い、テストの平均点数二十台の自分が恨めしくなった。

 本当の事を言えれば、どれだけ楽な事か……。



 「そうだ、お昼ご飯! 飯田くんはいつも購買でしょ? 早くいかないといいのが全部取られちゃうよ」



 俺は妙案とばかりに言ったが、直ぐに一蹴される。



 「そんなのどうだっていい。今は裕樹の事の方が重要だ。というか、何故俺の昼食がいつも購買だと知っているんだ」



 かぁ――――――――っ! 

 

 めんどくさい! 

 凄いめんどくさいよ、こいつ!

 細かいところまで気にしすぎだ。絶対将来禿げるぞ。


 俺は誠司の顔を見上げ、恨みを込めて一度だけ睨んでやるが、すぐに迫力負けし、小さく謝りながら目を逸らすのであった。



…………



 この女は何かを隠している。

 誠司の考えは確信に変わっていた。

 

 ここに来てからの反応。忙しない動き。

 間違いがなかった。


 誠司は逃がすまいと有紀の前に立ち、すぐ手の届く距離で問い詰める。

 こうしていると二人の身長差が際立ち、傍から見ると誠司が虐めているようにも見えた。

 

 視線も有紀から逸らさず、見つめ続けていたが、不意に有紀の背後に生えている小さな林が揺れた。


 不思議に思い誠司が視線を向けると、()()を見た。見てしまった。



 「どけっ!」

 


 誠司は叫び、有紀を突き飛ばすと、()()は誠司の目の前に降り立つのであった。



…………



 「ひゃっ!」



 俺は勢いよく地面に倒れこみ、石の固い感触に襲われる。

 俺が誠司に突き飛ばされたと気が付くのは、体が痛みを訴え始めてからだった。



 「痛たたた……。急に何すんだよ誠司――――誠司っ!?」



 体を起こした瞬間、目に飛び込んできた光景に俺は思わず声を上げた。


 

 誠司の脚が地面から離れていた。何かに吊られるかのように足が揺れ、苦し気に動いている。


 その前にあるのは、大人一人程の巨大な何か。

 それは、ぬいぐるみのような形をしていた。

 だが、それは形だけで、部分部分がぬいぐるみとは大きくかけ離れていた。

 ギョロリとした大きな目玉。頭の半分を占めるほどの巨大な口。そこに生える牙。垂れる唾液。赤い舌。

 どれをとっても愛らしいぬいぐるみとは言えない。

 間違いなくそれは、怪物のそれであった。

 

 そして、その怪物は今にも誠司の頭に被りつこうとしているのだ。


 

 「や・め・ろーっ!」



 俺は駆け出し、怪物に向かって飛び蹴りをかましてやる。

 すると、足に伝わる嫌な感触と共に、それは吹き飛んでいった。

 幸いにもその手から誠司が解放され、その場に倒れこんだ。



 「誠司! 大丈夫!?」



 俺は誠司に駆け寄り、抱き起した。

 意識はないようであったが、怪我は無く、呼吸もしていた。


 俺は気絶した誠司を壁際まで引きずり、頭をそっと地面に置いた。


 そうして、怪物に向き直ると、それは聞くに堪えない呻き声を上げながらこちらを見て腕を振り上げていた。



 「――っ! 危ない!」



 このままでは俺だけでなく、誠司までもが危険だ!


 俺は怪物の体に精一杯の力を込めて体当たりをした。

 

 おかげで、怪物は体勢を崩し、攻撃の手が止まる。

 だが、倒れるまでには至らず、もう一度その腕を大きく振りかぶった。



 「うおっ!」



 咄嗟に体を反らし、怪物の爪をすれすれに避ける。

 続いて飛んできた横なぎにも体勢を低くして対応する。


 もし当たればただ事では済まない。

 その緊張感の中、俺は必死に体を動かす。



 「――――っ!」



 怪物の一瞬の隙をついて、俺は力任せに蹴りを突き出した。

 柔らかい感触が足裏に伝わる。



 「なっ!?」



 だが、怪物は怯まなかった。

 俺は反応が遅れ、怪物の爪が体を捉える。



 「――つぅっ!」



 爪が服を引き裂き、ネクタイが飛ぶ。

 胸が露わになるが、血が出ていない。どうやら怪我はないようだった。

 

 俺はゆっくりと歩み寄る怪物を前にして、もう何度目か分からないため息を吐いた。


 慣れない体。

 疑いをかけてくる親友。

 その親友を騙さなければいけない自分。

 襲い掛かってくる怪物。

 そして、これからすることを考えると本当にウンザリしてしまうのだ。



 「まったく、ッホント! ホントに困るぜ! こんなの!」



 俺はきつく拳を握りしめながら、叫んだ。



 「親友を騙して、こんなのを相手して!」



 拳を眼前へと持ち上げる。



 「こんな……体で!」



 様々な思いが拳を震わせる。



 「でも、やるしかないないんだろ! 俺が!」

 


 そうして、その拳を自身の胸へと勢いよく振り下ろした。



 「――行くぞ!」


 

 


 それが合図だった。

 その言葉に答えるように有紀が叩いた胸が蠢き、何かが飛び出そうとしていた。

 有紀本人に焦るような様子は無く、平然とした顔でそれが現れるのを待っていた。


 

 そして、ついにそれが現れる。


 有紀の胸の心臓がある位置。そこに大きな瞳が現れたのだ。

 ギョロっとした大きな一つ目。

 それはしばらくの間、周りをキョロキョロと見渡していたかと思うと、怪物を視界に捉え、にやっとした嫌らしい目つきをして、どこからかくぐもった声を出した。



 『お、今日のも美味そうだ。おい、早くしてくれよ」



 高いようで低いような。

 聞こえているはずで、聞こえていないような。

 そんな不可思議で、不安にさせられる声をしていた。



 「分かってるよ。いいから黙って力貸せ!」



 有紀はその声の主に対して、不快感を押し隠さずに言った。 

 それを知ってか知らずか、そいつは楽しそうな笑い声を上げた。


 有紀は一度だけ 背後に倒れる誠司を見ると、覚悟を決めるかのように

 「よしっ」

 と拳を握った。


 気絶していてくれて幸運だったと有紀は思う。

 何故なら、これからの出来事を誠司に見られることがないのだから。


 

 

 深くを息を吸う。

 そうして、目を見開くと、有紀は声高々に叫んだ――――

 



 「『メタモルフォーゼ(変身)っ!!』」




 声と共に有紀の体から眩い光が放たれる。

 全身を覆い隠し、その眩しさに怪物も目を覆った。

 しかし、それも一瞬の出来事で、やがては光が治まっていき、その姿が見えて来る。



 それは異様な姿だった。



 先程まで来ていた制服は消失し、燃えるような赤色が目を刺す。

 一見、ファンシーな服を模してはいるが、胸が大きく開いており、見れば見るほどに違和感を覚えた。

 どこか生物的な部位があれば、人工物を思わせたような部位もある。まるで、複数人の子供たちが手仇り次第に書き込んでいった絵のような歪さだった。

 また、急激な変化の影響か、全身は熱を持ち、体のあちこちから蒸気が立ち上っていた。



 「ふぅ……」



 有紀は息を吐きながら、ほぐすかのように肩を回す。

 


 「やっぱ、慣れないなぁこれ」



 胸のそいつに向かって言った。

 そいつは話を聞いていない様子で、有紀を急かすだけであった。



 『ああ、腹が減った。早く、早く』


 「うるさいな。分かってるよ!」



 有紀はそう言うと、胸の前で拳を構え、それに向かって駆け出すのであった。




…………




 俺は勢いよく交互に拳を突き出すと、怪物は苦し気に呻いた。

 時折、鋭く伸びた爪が迫るが、恐れるほどでもない。俺は軽々と避けて見せる。

 そうして、その隙にまた拳を叩き込むと、怪物が呻く。

 この調子で攻撃していき、怪物が弱ってくれるのに期待した。

 だが――。



 「……なんか! あんまり! 効いてる感じ……しないな!」



 俺を拳を止めずに言った。


 拳に伝わるのは柔らかい感触。

 まるで本物のぬいぐるみを殴っているようだった。



 「じゃあ、あれを使うか。おい!」



 俺は怪物から距離をとると、胸の目玉に向かって言った。



 『あいよ』



 意外にも素直な返事を確認すると、俺は右手を胸の谷間に突っ込んだ。

 苦しい感覚が嫌ではあったが、これしか方法がない以上仕方がない。

 俺の手に伝わる感触は自分の胸の柔らかさ――ではない。

 生暖かく、湿った感覚。生き物の口の中のようなぬめっとした感触が手を包み込んでいるのだ。


 その表現はあっているようで、そうでいないようで。

 俺が実際に手を入れているのは、胸に寄生している野郎の口だ。口は俺の胸の中心にあり、それは長く縦に存在していた。

 そこに俺は手を入れ、何かを掴もうとしていた。


 やがて、指先に固い感触が触れる。

 俺はさらに手を深く入れると、それを掴み、勢いよく引っ張り上げた。



 「んんっ」



 その際の変な感覚に思わず声を漏らしまう。

 俺はそれを聞かなかったことにして、自分が引っ張り上げたものを見た。



 俺の手には魔法のステッキ――ではなく、中国刀のように刃先にかけて幅が広い一振りの刃物があった。



 「よしっ!」



 俺はお目当てのものを確認し、それを不格好に構えた。

 これなら柔らかい身体にも確実にダメージを与えられるはずだ。

 

 俺は勢いよく地面を蹴ると、それに向かって勢いよく振り下ろした。



 ――!



 怪物が苦し気な声を上げる。

 切った俺の手には、幸いにも嫌な感触はなかった。

 切り口は綺麗なもので、そこからは赤い色をした綿が漏れ出していた。本当の腸ではないのでまだいいが、赤い色をしていると、何だか嫌な感じだった。

 

 体を切られたことに腹を立てたのか、怪物は腕を振り上げ、鋭利な爪を振り下ろしてきた。



 「っおおっと!」



 それを俺はなんとか刃で受け止めた。

 だが、怪物の攻撃がそれで終わるはずもなく、両手を使って絶え間なく腕を振っていた。

 俺は防戦一方になる。

 このまま受けていたとして、いつかは俺の体力も尽きてしまう事だろう。


 だから、俺は直ぐにも対抗手段を考えた。


 

 「次! あれ出せよ!」



 俺は爪を受けとめながら叫んだ。



 『はいはい』



 次の瞬間、俺の胸から細長い何かが飛び出した。

 それは先に鋭い刃が付いた細長い槍であった。

 危うくそれに当たりそうになり、俺は慌てて首を後ろに逸らす。鼻先すれすれを鋭利な刃が通り抜けた。


 俺は文句の一つでも言いたくなったが、それが勢いよく飛び出してくれたおかげで怪物の顔面に命中し、怪物は苦し気に顔を抑えながら後ずさった。

 

 一瞬の隙ができる。


 俺は手に持っていた刃を適当に放り投げ、槍を一気に引き抜くと、その勢いのままに怪物の足へと突き立てた。

 槍は足を貫通し、地面へと達する。

 怪物が悲鳴を上げた。

 そうして槍を引き抜こうともがいた。



 「おらっ!」



 だが、それを許すわけにはいかない。

 俺は放り投げた刃を拾い上げると、怪物向かって放り投げた。



 「――――!」



 刃は怪物の巨大な腕に突き刺さり、怪物は再び叫んだ。



 「これで決めるぞ!」


 『あいよー』

 


 俺は怪物から距離をとると、片足を持ち上げた。

 そうして足裏に意識を集中させると、足裏から棘のようなものが飛び出した。      

 その不思議な感覚に戸惑いながらも、思い切りに地面を踏みつける。

 もう片方の足も同じようにすると、俺の両足は地面に縫い付けられる。



 「おおおお……」



 全身から力が溢れるのをイメージする。

 そうして、それを胸に集めると、目玉から眩い光が放たれ始めた。

 

 やがてそれは球状に形成され、その大きさを増していく。

 

 俺はさらに力を込めると、バチバチと電撃が奔るのが分かった。



 「……必殺のぉ」



 俺は息を深く吸う。

 同時に俺の腰から、棒状の何かが飛び出したと思うと、それは地面に深く突き刺さった。

 

 これで準備は完了だった。


 あとは、俺の意志でそれを放つだけ――。


 俺は姿を変えた時と同じように、声を高々に叫んだ。


 


 「目からビィィィィィィィィム!!」




 胸の目玉に溜められたエネルギーが太い閃光となって放たれる。

 その言葉に意味はない。

 ただの気合いだ。



 閃光は怪物へ真っ直ぐと進んでいき、全身を包み込んだ。

 怪物は悲鳴を上げることもできずに呑まれ、その体を小さな粒子へと変えていった。



 「……ふぅ」



 照射を終え、閃光が消えると、後に残ったのは真っ直ぐと伸びる抉られた地面だけであった。



 『……それ叫ぶの止めない? せっかくならもっと格好良いのが良いんだけど』


 「うるさい」



 聞こえて来た文句を一蹴する。

 寄生している側のくせに一々煩い奴だ。



 「何だっていいだろ」


 『ご主人のセンスのなさは知っているけど、直ぐ近くで聞かされる身にもなってよ』

 

 「ああ、もう、しつこいなぁ。威力には関係ないんだから、これで! いいの!」



 俺はそう言いながら、抉れた地面に手を触れると、手の平に意識を集中させる。

 すると、眩い光と共に地面が元通りになる。粒子が宙を舞い、溶け込んでゆく。

 そんな光景も最早見慣れたもので、俺は落ち着いて作業を進めた。


 早く終わらせないと。誠司が目を覚ましたらどうなるか分からない。

 

 俺は額から汗を流しながら、ひたすらに腕を動かしていた。



…………




 「飯田くん。飯田くん」



 誠司は自身を呼ぶ声と、体を揺すられる感覚で目を覚ました。

 目を開けると目の前には有紀の顔。


 倒れていたことに気が付くと、ゆっくりと痛む体を起こした。



 「お、やっと起きたな」



 赤い顔をした有紀が笑った。

 有紀は運動でもしたのか、額に汗を浮かばせ、胸をはだけさせている。

 誠司は思わず谷間に視線を向けてしまい、咄嗟に顔を背けた。



 「どうしたんだよ」


 「な、なんでもない」



 不思議そうに言う有紀に、誠司は必死に誤魔化す。

 そうして、今自分がいる場所を見て、先程の事を思い出した。



 「……あ! あいつは!? あいつはどうしたんだ!?」



 誠司は急いで立ち上がり、辺りを見渡すが、あの気味の悪いモノの姿はない。いつも通りの風景が広がっているだけで、可笑しい点は見当たらなかった。



 「あ、あれ? 何処に行ったんだ……?」


 「どうしたんだよ、急に立ち上がって」


 「お前も見た筈だろ! さっきのアレ!」


 「アレってなんだよ」


 「それは……!」



 上手く説明ができなかった。

 巨大なぬいぐるみの様な姿をしていて、大きな爪を持っていて。

 この世のものとは思えない、正に『怪物』と言った感じの代物。



 「……夢でも見てたんじゃねぇの?」



 有紀が立ち上がりながら、呆れた様子で言う。



 「そんなワケ……! あれは確かに……!」

 


 夢なんかではない。

 誠司の有紀を突き飛ばした記憶も、首を掴まれた記憶も残っている。

 あんなものが、あんな現実味を帯びた感覚が夢であって堪るものか。


 誠司は心の中で叫ぶが、有紀には届かない。



 「…………ふぅ。お前は、これにぶつかったの」

 


 そう言って有紀が取り出したのは、土にまみれた野球ボールだった。



 「俺と話してたら、急にこれが飛んできて、飯田くんの頭にポーンっと。そしたら、飯田くんは気を失っちゃったってワケ」


 「は……?」



 誠司は有紀の言葉を信じられずにいた。

 ボールがぶつかった記憶なんてないし、それにここは体育館裏だ。こんなところにどうして野球ボールなんかが飛んでくるというのだ。



 「そんな適当な話! 何をお前は――!」



 明らかに不審な有紀を問い詰めようとした。

 だが、誠司が話している最中に、騒がしいチャイムの音が鳴り響いた。



 「やべっ!」



 有紀が焦ったかのような声を上げる。

 


 「もうお昼休み終わりじゃん! まだ昼飯食ってないのに!」



 そう言われて気が付いた。辺りは静かなもので、体育館からもはしゃぐ様な声も聞こえてこない。

 有紀は悲痛な声で叫ぶと、誠司に向かって指を突き出した。



 「誠司の所為だぞ! お前が早く起きないから!」


 「なっ……!? そもそもはお前が俺を呼び出して……。というか、気安く名前を呼ぶな!」



 有紀の態度に誠司も大声を上げる。

 この転校生はどうしてこうも気安いのか。

 誠司はそう思いながらも、誰かを思い出してしまって、尚更誠司の心をかき乱した。



 「ああ、もう! お腹減ってたのに!」


 「お前と言う奴は……!」



 喚く有紀に、誠司は段々と腹が立ってきた。

 一つ文句を言ってやろうとするが、それよりも早く有紀が誠司の手を握ると、一目散に駆け出した。

 突然の事に誠司は転びそうになった。



 「行くぞ誠司! せめて授業には間に合わせないと!」


 「おい! 引っ張るな!」



 相変わらず呼び捨てを続ける有紀に腹を立てながらも、誠司の心には様々な思いが渦巻いていた。

 

 一体裕樹の身に何があったのか。

 あの突然現れた『怪物』は何なのか。

 何故、それを有紀は隠すのか。

 そして、全てを知るであろう有紀という女子生徒は何者なのか。


 立ちはだかる謎。

 隠された真実。


 誠司は、これからの日常が大きく変化していくだろうと、頭のどこかで予感していた。



…………



 俺は誠司を連れて、廊下を疾走していた。

 思わず手を握ってしまったが、誠司は怒っているだろうか。

 振り返るのが怖い。

 

 廊下は静かなもので、さっきの事で騒ぎが起こった様子もなかった。

 どうやら、気が付いた人はいなかったらしい。

 俺は安心しながら、誠司の事を考えた。


 さっきは何とか誤魔化せたけど、あれを見てしまった以上、これから先不審な動きはできない。

 誠司は頭が切れるから、少しでも怪しい素振りを見せたら、すぐにも俺がやっていることを突き止めるだろう。

 それは一番に避けたい。



 誠司にはいつもの通り生活を続けて欲しいのだ。


 たとえ、突然に俺が消えてしまったとしても。

 たとえ、突然に俺が――――女になってしまったとしても。


 普通の、当たり前の日常を過ごしてほしい。

 何も知らず、何の危険もない。

 俺の所為で悲しんだり、苦しんだりするところなんて見たくない。

 

 その為にも俺はあの怪物を戦って、多くの人を守る。

 誰にもばれずに、たとえ俺一人であっても。


 それが誠司の親友として、俺が唯一してやれることだ。


 

 俺は誠司の手を強く握る。

 決して、誠司が握り返すことはないけど、この手はとっても大事なものだ。

 絶対に、絶対に守って見せる。

 

 

 

 有紀は固く決意する。

 この大事な親友をこの手で守ってみせる、と。

 その気持ちはまだ不確かで、未熟なものかもしれない。

 

 だが、その思いは純粋で、何よりも美しく思えたのだった。

 

  

…………



 その後、誠司と共に教室に戻った有紀は自身の失敗に気が付いた。

 

 全力疾走より、赤く蒸気する二人の頬。

 汗ばむ体。

 暑いと言ってそのままにしていた、はだけた胸元。

 繋がれた手。


 ここは高校で、年頃の人間ばかりだ。

 これを見て勘違いしない方が難しいだろう。


 クラスメイト全員から、あらぬ誤解を受けたのは言うまでもない――――。


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