第四夜 おきつねさま
「裏のお稲荷様にはお使いの御狐様がいらっしゃるのよ」
おばあちゃんの家の裏のお稲荷さん。昔は村の鎮守様だったらしいが、今では村人も減り、寂れてしまった。
それでも奉納された鳥居が十数本立っており、そこをくぐると異空間に来たような、不思議な気持ちになる。
夏休み、お母さんの実家に遊びに来ていた小学校1年生だったボクは、簡単におばあちゃんの話を信じたのだった。
「うーん、おきつねさまってどこにいるんだろ」
お社のまわりを一巡りしてみたが何も見つからない。
縁の下を覗いてみたがアリの巣が見つかっただけ。
出かけてるのかも知れない、待っていれば帰ってくるかも、そう思ってボクはお社の階段に腰掛けた。
小さいながら鎮守の森に囲まれ、陽の光もあまり届かない境内は、ひっそりと静まりかえっていた。
涼しい風に吹かれて少し眠くなってきた時、声をかけられた。
「こんなところで何してるの?」
はっと目を上げると、そこには黄色いTシャツに紺色のスカートを穿いた女の子が立っていた。
綺麗な黒髪を肩の所で切り揃えたボブカット。いわゆるおかっぱ頭。
目は吊り目がちだがきついというほどではない。歳はボクより2つか3つ上だろうか。
「あまり見ない子ね。ここで何してたの?」
再度尋ねられたので正直に話した。
「おきつねさまに会いたくて」
女の子はそれを聞くといたずらっぽい笑みを浮かべて、
「あたしがそうよ」
と答えた。
ボクはびっくりして女の子をまじまじと見つめた。どう見ても普通の女の子だ。
そう言うと、
「当たり前じゃない。あたしはきつねだから人間に化けてるの。あんたなんかに見破れるわけないわ」
「ほんとうにおきつねさま!?」
「疑り深いのねえ」
女の子は腰に手を当てて首を傾げる。ボクはそんな女の子にお願いしてみた。
「おきつねさまだったらしっぽ見せてよ」
女の子は首を振って、
「それは駄目。今は人間の服を着てるからしっぽを出す穴がないもの」
「じゃあ耳を出して見せて」
「耳としっぽは一緒に出たり引っ込んだりするものだから今は駄目」
「……」
がっかりしたボクに女の子は、
「それじゃあ一つだけいいもの見せてあげる」
そう言って、地面に生えていた草を引き抜いた。赤っぽい太い茎の草で、白い根が付いている。
「ごんぼ、ごんぼ、酒のんで赤くなれ」
そう言いながら根っこをしごく。すると白かった根っこが赤くなってきた。
「ほら、お酒のんで酔っぱらったみたいでしょ?」
確かに、お酒を飲んだ時のお父さんに似ている……手品みたいだ。いや、おきつねさまの術なんだろうか。
ボクは女の子がおきつねさまだというのを信じた。
「それじゃあ、こんな遊びは知ってるかしら?」
女の子はボクに、あたりの草花を使った遊びを教えてくれた。
笹舟。ねこじゃらし。メヒジワのかんざし。草笛。
気が付くと空にはきれいな夕焼け。もう夕方になっていた。
「もう帰った方がいいわ」
「またあした会ってくれる?」
「いいわよ。でもあたしに会ったことは誰にも言っちゃ駄目よ」
そう言ってくれたので名残惜しかったがボクは女の子、いやおきつねさまにさよならした。
翌日。
お稲荷様へ行くと、おきつねさまは浴衣姿で待っていた。
「こんにちは」
ボクが挨拶すると、
「はい、こんにちは。あなた、名前は? 聞くの忘れてたわ。あたしは美春」
「ボ、ボクは哲夫」
「哲夫くん、ね。今日は何して遊びましょうか……」
そう言うとおきつねさまはボクの手を引いて歩き出した。
どこへ行くのだろう、と思いながら手を引かれるままに付いていったが、とある角を曲がった時にボクは声を上げてしまった。
「うわあ……」
そこは一面に白い花が咲いていた。まさにきつねに化かされた感じ。村の中にこんなお花畑があるなんて知らなかった。
「これはそばの花よ。この花が散るとそばの実がなる、それを粉に挽いてそば粉を作るの」
おきつねさまは物知りだった。いろんなことをボクに教えてくれた。
翌日もおきつねさまと遊んだ。
その翌日、ボクは帰らなくちゃいけなかった。帰りの列車が出る少し前、お稲荷様へ来てみた。
おきつねさまにさよならを言いたかった。でもおきつねさまには会えなかった。
* * *
翌年の夏はお母さんの都合でおばあちゃんの家には遊びに行かなかった。
その翌年は友達がたくさん出来たのでやっぱり遊びには行かなかった。
そうこうするうち、おばあちゃんもいなくなって、田舎へ遊びに行くことはなくなってしまった。
ボクも大きくなって、狐が化けるとか人を騙すとか信じない歳になっていった。
* * *
「裏のお稲荷様にはお使いの御狐様がいらっしゃるのよ」
祖母の夢を見た。
俺は何と無しに田舎へ行ってみたくなった。
もう祖母も親戚もいない田舎の村は過疎が進んだ上、来年ダム工事によって水の底に沈むのだそうだ。
俺は忘れかけていた記憶を辿って、祖母の家を尋ね、誰もいない家の縁側に腰を下ろした。
「裏のお稲荷様にはお使いの御狐様がいらっしゃるのよ」
次にお稲荷様へ行ってみようと、裏手へと回った。
誰も歩かなくなった道は草に被われ、歩きにくい。
暗い境内に立ち並ぶ赤い鳥居。なんだか小さくなったような気がするが、俺が大きくなったからだろう。
久しぶりにくぐってみた。頭を少し下げないとぶつかってしまいそうだ。
くぐり抜けた時、お社に誰かいるのに気が付いた。
「誰?」
その人物が声を上げた。女の人。白い夏用のワンピースを着て、白い帽子を被っている。
「あ、おどかして済みません」
俺は軽く頭を下げた。その女の人は俺に言うでもなく、
「この村も水の底に沈むんですってね」
と呟いた。
「この村の人ですか?」
俺は聞いてみた。
「ううん、小さい頃遊びに来たことがあるだけ。その頃ここで遊んだことを思い出していたの」
「俺も、祖母の家に遊びに来て、ここで遊んだことがあるんですよ」
「おきつねさま……か」
女の人の呟き。
「おきつねさま……え!?」
俺は目を見張った。
「み……はる……さん?」
今度は女の人が驚いた。
「て……つおくん? ……哲夫君……なの?」
俺たちはただ驚くことしか出来なかった。
十数年を経ての再会。
それから俺たちはあのとき遊んだことを思い出しながら話をした。
「……まさか、また会えるとは思わなかったわ」
「俺もです」
「……騙したりしてごめんなさいね。あなたが真剣におきつねさまに会いたがっていたみたいだったから」
「いえ、いいんですよ。俺も楽しかったし」
「あれから、何度か夏休みにここへ来てみたのよ。でもあなたには会えなかったなあ」
「祖母もいなくなって、来なくなったから……」
会話が途切れた時、木々の梢を鳴らして風が通り過ぎて行った。
「……美春さんはどうして今日、ここへ?」
「……昔の夢を見たの。それで矢も盾もたまらなくなって来てみたの。そうしたらこの村がダムに沈むって言うじゃない……」
「……俺も、昔の夢を見て来てみたんです」
偶然の一致だろうか。いや、もしかしたら……
「もしかしたら、おきつねさまが引き合わせてくれたのかも知れないわね」
彼女も同じように思ったらしく、空を見上げてそう呟いた。
「自分を慕ってくれた最後の2人に、ほんの小さな御利益を分けてくれたのかも」
そう言った美春さんの横顔を見ながら俺は、おきつねさまに逢いたくてたまらなかった小さな頃を思い出していた。
風が冷たくなってきた。
「行きましょう」
彼女はそう言うと、立ち上がって俺に手を差し出した。その差し出された手を取った時、遠くで狐の声が聞こえた様な気がした。
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