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狐十夜  作者: 秋ぎつね
3/10

第三夜 よもつひらさか

 何もない。

 暗い。

 右も左も、上も下もわからない漆黒の暗闇。

 そこに私はいた。

 なんでこんな所にいるのか見当も付かないが、とにかくこのままではいけない。

 歩いてみる。

 僅かに下りになっているのか、歩きやすい方向というのがあることがわかる。

 とりあえず歩きやすい方向へと向かった。

 僅かずつだが、行く手が明るくなってきた気がする。

 それはほんの少しずつ、薄紙を剥がすように闇のベールが払われていく感じ。

 やがて薄明かりの中、前方に川が見えた。

 川の向こうは更に明るく、人がいるのも見える。

 川を渡っている人もいる。水は膝までもないくらい浅いようだ。

 私は足を速めようとした……

 

 その、私の手を掴んだ者がいた。

 振り向くと、赤茶色の着物を着た少女である。

「そちらへ行ってはいけません」

 そう少女は言うと、私の手を引っ張って今来た方角へと歩いていこうとする。

 私はその手を振りほどき、

「何をするんだ? 余計なことはしないでくれ。第一、君は誰だ?」

 と尋ねた。

 そんな私の言葉に少女は、

「私は……昔あなたにお世話になった者です」

 と答えた。

 しかし、目の前の少女はどう見ても十五、六。昔と言ったって十年より前ということはないだろう。

 そして私にはそんな憶えはなかった。

「人違いだよ」

 そう言って、川へと向かおうとする私を、少女は遮って、

「いけません! ……どうか、私を信じてください。どうか私と一緒にいらしてください」

 と懇願する。

 押し問答をした挙げ句、私は根負けしてしばらく少女の言うとおりにすることにした。

 再び闇の中へ。

 闇は重くのしかかり、歩きにくい。しかし少女は私の手を引いてずんずん歩いていった。

 

「疲れた」

 私は少女に言った。

「少し休もう」

 闇の中はまるで水飴の中のようで、一歩歩くだけでも疲れるのだ。

「いけません、今立ち止まっては。もう少し、もう少し歩いて下さい」

 私の中に嗜虐心が湧いた。

「それじゃあ君が負ぶってくれるか?」

 少女は驚いた顔をしていたが、

「はい」

 と素直に頷いたので、私も引っ込みが付かなくなり、負ぶって行ってもらうことになったのだった。

 私は身長175cm、体重68キロ。少女は身長150cm内外。その彼女が私を負ぶって歩く。

 たちまち彼女の額から汗がにじむ。息は上がり、苦しそうだ。下りてくれ、と一言言ってくれれば、私はいつでも下りる気でいた。

 だが彼女は何も言わず、汗を滴らせながら黙々と歩き続けていく。

 その彼女の膝が砕けた。

「あっ」

 私を背負ったまま地面に倒れ込む少女。膝をすりむいたようだ。背中越しに見える彼女の着物の膝が赤い血で滲んでいる。

 それでも彼女は何も言わず、再び立ち上がって歩き出そうとした。

 私はいたたまれなくなって、

「も、もういい。もう楽になった。ここからは自分で歩ける。……君、怪我をしたんじゃないのか」

 と慌てて尋ねた。

 だが少女は、

「大丈夫です。...あともう少しですから、頑張って下さい」

 そう言って少しふらつきながらも、私の手を引いて三たび歩き出した。

 

 そうやって少し行くと前方が明るくなってきた。それにつれて歩きにくさもさらに増してくる。

 まるで急坂を登っているかのように身体が重い。少女が私の手を引いてくれていなかったら、私は転げ落ちていたかも知れない。

 そしてついに。

 目の前に、岩の壁があった。

「ここを登れって言うのか」

「はい」

 こともなげに言う少女。

「ここを登り切れば、あなたの世界です」

 私の世界? ……私の……世界……

 それは何だったろう。確かにさっきまでは覚えていたような気がするのだが……

「ああ、もう時間がないのですね。さあ、早く!」

 そう言って少女は崖を登り始めた。崖とはいえ、手がかり、足がかりはある。それを掴み、踏みしめ、一歩一歩登っていく。

 私も仕方なしに後に続いた。

 

 延々と続くかのように見えた岩壁も、終わりが見えてきた。それと共に、私の頭の中の霧も晴れてくるようだ。

「気をつけて下さい、あと少しです……!!」

 私を振り返った少女の顔が強張った。

 私も振り返ってみる。すると、崖の下には得体の知れない、異形の『何か』が集まってきており、我々を追って登ってくるではないか。

「早く、早く! ……捕まったら最期です」

 少女にせかされるまでもなく、本能的な恐怖を覚えた私は、慌てて崖を登る。

 しかし、異形の者たちの速度は速く、今にも追いつかれそうである。

 あとちょっとだというのに……

 踵に異形の者の手がかかりそうになった時。

「私が身代わりになります。この崖を登り切れば、もう何も心配はいりません。どうかお達者で」

 私が何か言うより早く、少女は崖下に身を投げた。

 今にも私の踵を掴もうとしていた異形の者たちは、彼女を捕まえようと手を伸ばし……

……少女諸共に崖下へ消えていった。

 私は必死に崖を登り切り、彼女の消えた先を覗き込む。

 しかしそこにはただ灰色の霧が流れるだけで、何も見えなかった……。

 

 もしかしたら少女が崖を登ってくるのではないか。そう思ってしばらくそこに佇んでいると、ふいに後ろが明るくなった。

 見ると、太陽なのだろうか、眩しく輝く光が射してくる。

 私は思わずそちらに足を進めた……。

 

*   *   *

 

「お父さん!」「パパ!」「あなた!」

 私を呼ぶ声。

「パパ!」

 息子の敬一と娘の麻美、妻の恭子。

 私は眼を開いた。

「ああ、あなた……!」

 恭子の潤んだ瞳。すがりつく敬一と麻美。

「助かったのね……!」

 

 私は事故に遭ったらしい。居眠り運転のトラックが歩道に突っ込み、そこにいた数名がはねられた。

 その一人が私だったという。

「でも助かってよかった」

 家の庭で車椅子を押しながら妻の恭子が言う。

 轢かれた人たちで助かったのは私だけらしい。その私も、丸三日意識がなかったという。

「お医者様も奇跡だって言ってたわ」

 私は空を見上げた。

 ふと少女の顔が浮かんだ。……あれは誰だったのだろう?……

「そう言えば」

 恭子の声。

「あなたが気が付いた朝ね、うちの前に犬が倒れていたんだって敬一が言ってたわ」

 私は獣医。そう聞いて放っておくことは出来ない。

「その犬はどうした?」

 恭子は笑って、

「そうおっしゃるだろうと思って、ケージに入れて面倒見てます。でも、犬じゃありませんでしたよ」

 

 車椅子のままでも、手が動けば診察は出来る。

 その動物は狐だった。

 診察をしていく、その手が止まった。

「これは...」

 古い傷跡。私が手当てしたものだ。そうだ、9年前、車に轢かれた子狐を治療してやったことがあったっけ……。

 その時、少女の顔が目に浮かんだ。

「まさかな……」

 そう言いながら狐を診る。衰弱していたが、なんとか助けてやれそうだ。

 

*   *   *

 

「ほら、おいで、ハル!」

 敬一がハルに声をかける。

 あの狐はハルと名付けられ、しばらく家で飼うことになった。身体が弱っていて、すぐには自然には帰せそうもなかったから。

 そして私の身体と同じようにハルも回復し、子供たちのいい遊び相手になっている。

「ハルが来てからモグラがいなくなったわ」

 と、恭子。庭の芝生にモグラが穴を開けるので困っていたのだ。

「ハル、おいで」

 私が呼ぶと、誰と遊んでいたとしてもハルはすぐにやってくる。

「ちぇ、ハルはやっぱおとーさんがいいんだな」

「そりゃそうよ。ハルだって誰が助けてくれたのかちゃーんとわかっているのよ」

「ハル」

 私が抱き上げると、目を閉じて身体を丸めるハル。

「ありがとうな」

 そんな私の独り言は誰にも聞かれることはなく、青い空に吸い込まれていった。

お読みいただきありがとうございます。

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