人を殴った帰り
去年の十二月二十七日は、姉の命日だ。
今は十二月二十八日。つまり、姉が死んでから一年と一日が経過した。
命日が数秒前に過ぎ去った今、僕は全身を震わせている。
寒さから来る震えでは無い。
この震えは、きっと武者震いなんだと思う。
「は……は……」
僕が息を吐くたびに、白いモヤが僕の視線の先にある両腕をかすませる。
かすんで見えるからか、僕の指は細く、白く見えた。
あまりに白いから、まるで血が通っていないかのように見える。そして血が通っていないかのように、冷たい。
つい今し方、大勢の人間を殴り飛ばしたばかりで、血がたぎっている筈なのに、どうしてこんなに、冷たいんだろう。
十二月二十八日の、深夜一時。僕は歩いている。
まっすぐ家へと帰ればいいのに、僕は何故か、ある場所を目指していた。
その「何故」が解れば、足を止める事だって出来るのに。
僕はその「何故」が解らないまま、もう二度と歩かないと決めた道を歩いている。
「はぁ……はぁ……」
少し歩いただけで、息が切れるのが解った。
体力の衰えもあるのだろうが、単純に僕自身が、行きたがっていないのだろう。
このまま後ろを振り返り、自分の家へと向かって歩き出せば、きっとこの息切れは収まり、先ほどから震えて止まらない体も落ち着く。
心が安心して、食欲だって回復するはず。
細くなってしまったこの腕も。この足も。この心も。
全てが元通りになる。
それが解っているのに。
僕の体を運ぶ足は、決して止まってくれない。
僕の頭を支える首は、決して後ろを振り返らない。
ただ前だけを見て、前だけを目指していた。
「あ……」
目的地の前に、人影が見えた。
その人影は、とても小さい。
身長や体格だけを見ると、小学生とは言わないまでも、中学生なら十分に通用するほどだ。
僕は人影の正体を、知っていた。
とてもとても、深い仲にある人だった。
「彩子さん」
声をかけられた彼女は、僕のほうへと振り返る。
彼女の両腕には、小さな命が抱きかかえられていた。
その命は、僕の血と彼女の血が混ざって出来た命。
「やっぱり来たね」
「なんで……」
彼女はニコッと笑い、僕が目指していた目的地へと向き直る。
そして笑顔を作ったまま、優しい口調で話し出した。
「けいちゃんが来るなら、このアパートか病院の、どっちかだろうって思ったんだ。病院なら嬉しかったんだけど、やっぱりこっちだったね」
彼女の言葉を聴いた瞬間、心臓をぎゅっと握られたかのような痛みが走った。
これは、迷わずこのアパートを選んだ事に対する、罪悪感なのだろう。
いや、僕の脳裏には、病院という選択枠が生まれなかったのだから、迷うとか、選ぶとか以前の問題だ。
最低だと、自分でも思う。
「そっかぁ。こっちに来ちゃったかぁ」
「あの……っ」
病院。
病院は、僕と彩子さんが結ばれた場所。
そして今、彩子さんが抱いている命を、授かった場所。
「ごめん……」
「あはっ」
彩子さんは笑い、小さく首を動かして僕を見つめた。
彩子さんの瞳が表している感情は、悲しみでも苦しみでも無く、優しさだった事に対して、僕の心臓に、再び痛みが走る。
痛い。
優しい瞳は、痛い。
優しい瞳を、向けないで欲しい。
罵ってくれても、いいのに。罵倒してくれても、いいのに。
そうしてくれた方が、凄く楽なのに。
「ここに来たって事は、感情を取り戻したって事だよね」
彩子さんは、瞳に優しさを宿したまま、僕を見つめ続けた。
彩子さんの口から発せられる声にも、その優しさが含まれている。
彩子さんの優しさが、僕の心臓を次々と痛めつけている事に、気がついた。
「えいちゃんを殴るの?」
僕の鼻の奥が、ツーンと痛くなるの感じる。
この感じは、とてもとても、懐かしい。
しばらく味わっていなかった。
「私ね、病院の前で待ってるかここで待ってるか、悩んだんだけど、ここで待つ事にしたんだ」
「……なんで、こっちに?」
「もちろん、えいちゃんを守るためだよ」
彼女は優しさを瞳に宿したまま、僕に近づいてきた。
「たとえ、またボロボロになってでも」
ボロボロと、熱い液体が僕の瞳から流れ落ちてくる。
「けいちゃんに殺される事になっても」
そして彼女の優しい瞳からも、涙が溢れている。
「そう決めたから」
彼女はそれでも笑顔だった。
「はは……ず……ずるいですよ……彩子さん……だってそんな」
「ん?」
「だって……息子を……健太を連れてくるなんて……ずるいですよ」
僕の声は、久しぶりに弾んでいた。
僕の口は、まだこういった風に使う事が出来るらしい。
「だって、感情を取り戻したんですよ? 健太を抱いてる彩子さんを張り倒して、松本さんを殴りに行なんて、出来る訳ないじゃないですか」
多分僕は、今笑顔だ。
「あははっ。これは私の作戦」
彼女も、より一層笑顔を作った。
一児の母親だと言うのに、その表情は屈託無くて、まるで少女のように見える。
運命とか、神様とか、そういった類のもの達。
僕に、彼女を殴れと言うのか。
僕に、彼女を傷つけろと言うのか。
健太が居ようが居まいが、そんな事は関係ない。
僕にそんな事が出来る筈が無いじゃないか。
だって僕は、長谷川啓二なんだから。
「じゃあ、一緒にこの場所からサヨナラしよ」
「いいんですか? 彩子さん、まだ松本さんに」
彼女は「もぉっ」と言い、笑いながら僕に健太を押し付けた。
僕は慌てて健太の体を持ち上げる。
健太の体は、とても軽い。
軽いのに、なんだろう。
この重量感は、一体何なんだろう。
「いいんだって。もう本当に、いいって言ってた」
彼女は、僕の体にその身を寄せた。
彼女と健太を同時に抱え込めるだけの器とそのチカラは、この細く枯れ果てた体にもどうやら残っているようだ。
「……重い」
僕は目的地であったアパートを見上げた。
見上げたと言っても、小さな小さな、二階建ての古アパートだ。
思えばこんな場所、僕にとってはなんでも無い場所。
なんにも無い場所。
感情を取り戻した時、病院では無くて、なんでこんなアパートのほうを選んで歩いてしまったのだろうか。
恥ずかしい。格好悪い。
「サヨナラ、姉貴」
「サヨナラ……」
彩子さんは、僕の手を強く握り締めた。
「お姉さん」