表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

人を殴った帰り

 去年の十二月二十七日は、姉の命日だ。

 今は十二月二十八日。つまり、姉が死んでから一年と一日が経過した。

 命日が数秒前に過ぎ去った今、僕は全身を震わせている。

 寒さから来る震えでは無い。

 この震えは、きっと武者震いなんだと思う。


「は……は……」

 僕が息を吐くたびに、白いモヤが僕の視線の先にある両腕をかすませる。

 かすんで見えるからか、僕の指は細く、白く見えた。

 あまりに白いから、まるで血が通っていないかのように見える。そして血が通っていないかのように、冷たい。

 つい今し方、大勢の人間を殴り飛ばしたばかりで、血がたぎっている筈なのに、どうしてこんなに、冷たいんだろう。


 十二月二十八日の、深夜一時。僕は歩いている。

 まっすぐ家へと帰ればいいのに、僕は何故か、ある場所を目指していた。

 その「何故」が解れば、足を止める事だって出来るのに。

 僕はその「何故」が解らないまま、もう二度と歩かないと決めた道を歩いている。

「はぁ……はぁ……」

 少し歩いただけで、息が切れるのが解った。

 体力の衰えもあるのだろうが、単純に僕自身が、行きたがっていないのだろう。

 このまま後ろを振り返り、自分の家へと向かって歩き出せば、きっとこの息切れは収まり、先ほどから震えて止まらない体も落ち着く。

 心が安心して、食欲だって回復するはず。

 細くなってしまったこの腕も。この足も。この心も。

 全てが元通りになる。

 それが解っているのに。

 僕の体を運ぶ足は、決して止まってくれない。

 僕の頭を支える首は、決して後ろを振り返らない。

 ただ前だけを見て、前だけを目指していた。


「あ……」

 目的地の前に、人影が見えた。

 その人影は、とても小さい。

 身長や体格だけを見ると、小学生とは言わないまでも、中学生なら十分に通用するほどだ。

 僕は人影の正体を、知っていた。

 とてもとても、深い仲にある人だった。

「彩子さん」

 声をかけられた彼女は、僕のほうへと振り返る。

 彼女の両腕には、小さな命が抱きかかえられていた。

 その命は、僕の血と彼女の血が混ざって出来た命。

「やっぱり来たね」

「なんで……」

 彼女はニコッと笑い、僕が目指していた目的地へと向き直る。

 そして笑顔を作ったまま、優しい口調で話し出した。

「けいちゃんが来るなら、このアパートか病院の、どっちかだろうって思ったんだ。病院なら嬉しかったんだけど、やっぱりこっちだったね」

 彼女の言葉を聴いた瞬間、心臓をぎゅっと握られたかのような痛みが走った。

 これは、迷わずこのアパートを選んだ事に対する、罪悪感なのだろう。

 いや、僕の脳裏には、病院という選択枠が生まれなかったのだから、迷うとか、選ぶとか以前の問題だ。

 最低だと、自分でも思う。

「そっかぁ。こっちに来ちゃったかぁ」

「あの……っ」

 病院。

 病院は、僕と彩子さんが結ばれた場所。

 そして今、彩子さんが抱いている命を、授かった場所。

「ごめん……」

「あはっ」

 彩子さんは笑い、小さく首を動かして僕を見つめた。

 彩子さんの瞳が表している感情は、悲しみでも苦しみでも無く、優しさだった事に対して、僕の心臓に、再び痛みが走る。

 痛い。

 優しい瞳は、痛い。

 優しい瞳を、向けないで欲しい。

 罵ってくれても、いいのに。罵倒してくれても、いいのに。

 そうしてくれた方が、凄く楽なのに。

「ここに来たって事は、感情を取り戻したって事だよね」

 彩子さんは、瞳に優しさを宿したまま、僕を見つめ続けた。

 彩子さんの口から発せられる声にも、その優しさが含まれている。

 彩子さんの優しさが、僕の心臓を次々と痛めつけている事に、気がついた。

「えいちゃんを殴るの?」

 僕の鼻の奥が、ツーンと痛くなるの感じる。

 この感じは、とてもとても、懐かしい。

 しばらく味わっていなかった。

「私ね、病院の前で待ってるかここで待ってるか、悩んだんだけど、ここで待つ事にしたんだ」

「……なんで、こっちに?」

「もちろん、えいちゃんを守るためだよ」

 彼女は優しさを瞳に宿したまま、僕に近づいてきた。

「たとえ、またボロボロになってでも」

 ボロボロと、熱い液体が僕の瞳から流れ落ちてくる。

「けいちゃんに殺される事になっても」

 そして彼女の優しい瞳からも、涙が溢れている。

「そう決めたから」

 彼女はそれでも笑顔だった。

「はは……ず……ずるいですよ……彩子さん……だってそんな」

「ん?」

「だって……息子を……健太を連れてくるなんて……ずるいですよ」

 僕の声は、久しぶりに弾んでいた。

 僕の口は、まだこういった風に使う事が出来るらしい。

「だって、感情を取り戻したんですよ? 健太を抱いてる彩子さんを張り倒して、松本さんを殴りに行なんて、出来る訳ないじゃないですか」

 多分僕は、今笑顔だ。

「あははっ。これは私の作戦」

 彼女も、より一層笑顔を作った。

 一児の母親だと言うのに、その表情は屈託無くて、まるで少女のように見える。


 運命とか、神様とか、そういった類のもの達。

 僕に、彼女を殴れと言うのか。

 僕に、彼女を傷つけろと言うのか。

 健太が居ようが居まいが、そんな事は関係ない。

 僕にそんな事が出来る筈が無いじゃないか。

 だって僕は、長谷川啓二なんだから。


「じゃあ、一緒にこの場所からサヨナラしよ」

「いいんですか? 彩子さん、まだ松本さんに」

 彼女は「もぉっ」と言い、笑いながら僕に健太を押し付けた。

 僕は慌てて健太の体を持ち上げる。

 健太の体は、とても軽い。

 軽いのに、なんだろう。

 この重量感は、一体何なんだろう。

「いいんだって。もう本当に、いいって言ってた」

 彼女は、僕の体にその身を寄せた。

 彼女と健太を同時に抱え込めるだけの器とそのチカラは、この細く枯れ果てた体にもどうやら残っているようだ。

「……重い」

 僕は目的地であったアパートを見上げた。

 見上げたと言っても、小さな小さな、二階建ての古アパートだ。

 思えばこんな場所、僕にとってはなんでも無い場所。

 なんにも無い場所。

 感情を取り戻した時、病院では無くて、なんでこんなアパートのほうを選んで歩いてしまったのだろうか。

 恥ずかしい。格好悪い。



「サヨナラ、姉貴」

「サヨナラ……」

 彩子さんは、僕の手を強く握り締めた。

「お姉さん」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ