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生きる希望をくれた夏

作者: 荒木テル

 1

 

 一度の人生、悔いのないように生きろ。


 これが死んだ親父の口癖だった。

 あれから二年。気づいたら高二の夏休みを迎えていた。本当にあっという間だった。

 朝起きたら宿題を終わらせ、十時頃になると公園にサッカーの練習をしに行く。練習といってもリフティングだけなので遊びだ。チームワークが重視されるサッカーだが、俺にボールを預けてくれる仲間はもういない。親父の死をきっかけに退部したからだ。

 ようやく、ボールに触れるようになってまだ半年。皮肉にも、その感覚はすぐに戻った。学校帰りにサッカー部の練習を覗きに行くと、監督やチームメイトから未だに誘われるが、苦笑いでスルーしている。もう奴らとプレイはできない。ピッチ上では走れない。パスをする度に、シュートを打つ度に、親父の顔を思い出してしまうから。

 なのに、こうしてリフティングをしている。ボールに触れていないと落ち着かない。矛盾しているのは分かってるけど、自分でも不思議に思う。

 公園の芝生の中心で三十分間汗を流した。最近の日差しは悪質すぎる。人間に明かな敵意をもっている気がしてならない。

 近くに設置してある水飲み場に頭を突っ込み、蛇口を捻る。水が首に触れた瞬間、思わず顔を歪めてしまうが、同時に訪れた、体中を風が吹き抜けていくような爽快感でそんな苦痛はどこかへ消え去ってしまった。

 ブランコや滑り台、動物のイラスト描かれたシソー、簡易的なロプウェー。遊具で思い思いに遊ぶ子供たちを眺めながら遊具の奥にあるベンチに腰かけた。

「あら、剛君。おはよう」

 持参したペットボトルのジュースを飲みながら、声のした方を振り返る。

「森さん、おはようございます」

「お兄ちゃん、おはよう!」

「おはよう。今日も元気だな」

 続いて、にこやかに挨拶してくれたのは森さんの孫の辰巳君。この時期になると当然、子供連れの親御さんたちに会うことも多い。

「練習頑張ってね、お兄ちゃん!」

「おう!」

 手を上げて応える。

 それから帰り支度をして入口脇に置いてある自転車の方へ向かった。

「お?」

 何気なく花壇を眺めていると、その中に見え隠れする小さな虫かごが目に入った。

「ダメだろ、こんなとこに置いちゃ」

 どこの非常識だ、と思いなら拾い上げると、プラスチック製のかごの外側正面にシールが貼られ『蝉川葵せみかわ あおい』と書かれていた。聞いたことのない名前だ。その中でセミの幼虫が動いてるのが見えた。

 虫かごを落す奴なんてあまりいないだろうけど、取りに来ないで死んでしまっては可哀そうだ。

 公園に遊びに来ている人たちに聞いても誰の持ち物でもないし、そんな名前は初耳だという。

 結局、見過ごすことはできず一時間悩んだ挙句に自分で持ち帰ることにした。

「ただいま」

「お帰り、お兄ちゃん。すごい汗だね。アイス食べる?」

「おう、サンキュー」

 家に帰ると妹が縁側から顔を覗かせ、袋入りの棒アイスの端を撮んで軽く揺らしながら見せびらかしてきた。こんなに暑い日に喰わないわけがない。

 時刻はちょうど十一時。妹は夏休みの宿題の休憩時間だそうだ。

 縁側で二人並んでアイスを喰う。

 目の前にはいくつも盆栽が置かれた辺り一面の庭が広がっているが、盆栽に詳しい人たちがよく語る『日本のわびさび』が分からない俺たちはただ無感動にそれを眺めながら、アイスを齧る。これは亡くなったじいちゃんの趣味で、今も週に一、二度近所の盆栽仲間が家に来て丁寧に手入れをやってくれるので、じいちゃんも喜んでいると思う。

 家は無駄に広くて古い。まさに、『ザ・日本家屋』という感じの木造二階の一戸建て。昭和の名作映画に登場しそうな雰囲気がある。俺の部屋は二階でトイレから一番遠い場所にあるので小学生の時は夜に起きるのが怖かった。

「お兄ちゃんさ、またサッカーやんないの?」

 半分くらい食べ終えたタイミングで、不意に浩美と目が合った。

 ぼーっと黄昏ていた俺は少々面喰って喰いかけのアイスの棒を加えたまま停止したが、少し視線を逸らしてすぐに再起動する。

「やらない」

「でも、ボール蹴るのは好きなんでしょ?」

「体が訛るからね?」

「帰宅部なのに?」

「うるさい」

 言った直後、口の中で鈍い音がした。棒のささくれた部分が歯茎に刺さって地味に痛む。

「サッカーしてる時のお兄ちゃん。結構カッコイイなと思ってたけどなぁ」

「何を急に?」

「ホントだって。うちのクラスで話題になること多いよ」

「励ましてくれんのは嬉しいけど、もうピッチに戻ることはないから」

「いつまでも引きずってちゃダメだよ」

「未練たらしい男みたく言うな。そんなんじゃねぇし」

「でも実際そうじゃん。そういうのって案外恋愛にも直結するかもよ?」

「自重しろ」

「あ痛っ!」

 したり顔で覗き込んできたので、丁寧なアドバイスのお返しに妹の方に向き直ってから、一瞬の間を置いてデコピンをプレゼントしてやった。

「バカタレ。生意気だっつーの」

 額を押さえて涙目なる妹の顔に吹き出しそうになりながら立ち上がる。デコピンされる寸前のさっきの表情もなかなかの傑作だった。

「さっさと宿題終わらせろよ。昼から親父の墓参りに行くから」

「言われなくてもやるし」

 不機嫌な妹の声を背に、二メートルほど離れた場所にあるキッチンのゴミ箱に向かって食べ終えたアイスの棒を投げ入れる。

「おっしゃ!」

 見事な放物線を描きながら、棒はゴミ箱へと吸い込まれていった。

 今日は、いいことが起こる気がする。

 

 セミを捕ってきたことを浩美に言ったのは、墓参りから帰って来てからのことだ。少し意外そうな顔をしたが、虫嫌いではない彼女はしばらく興味深げに虫かごを眺めていた。

「セミって久々に見たなぁ」

「何故か公園の花壇に置いてあったんだよ」

「これってさ、まだ幼虫だよね? 何で土から出てきちゃったのかな?」

「そんなの知らねぇよ。虫かごに入ってたってことは、誰かが育ててたんだろ」

 喪服代わりのスーツをハンガーに掛けながらテキトーに応える。

「これ、家で飼うの?」

「バカ。飼わないよ。幼虫が珍しいから見せてやっただけだ」

「しばらく、うちで面倒見ようよ」

「ダメだって。見るなら羽化するまでだ」

「とりえず、虫かごから出しとくね」

「明日には、木に戻してやれよ」

「分かった」

 そう言って浩美は振り返りもせず、二階に上がっていった。

 何故、虫かごに入っていたのか気になるところだが、今はとりあえず宿題に取りかかることにした。

 

 台所から包丁の軽快な音が聞こえてきた。さっきまで宿題をしていたはずだが、ノートに書きかけの文字があるところを見ると眠ってしまったらしい。時計は午後六時を回っていた。

 思いっきり背伸びした時、

 ドン!!

 落雷を思わせる轟音が家じゅうに響いた。

「なんだ急に?」

「お兄ちゃん来て! かごの中から赤ちゃんが…」

「は?」

 妹の悲鳴を聞いて急いで駆けつける。

「見て、ホラ!」

 促されて部屋の扉の隙間から部屋を覗くと、

「お?」

 何故か目に涙をいっぱいに溜めた赤ん坊と目が合った。

「おい、ひろ…」

「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~~~~~!!」

 助けを呼ぶ前に爆発してしまった。

「いきなり泣くなよ!? 誰が連れてきたんだよ、こんな赤ん坊」

「私知らないよ? ていうかトイレに行きたがってるのかも」

 きょとんと、こちらを振り返る妹。

「そうか。お前が連れてってやれ」

「私、赤ちゃんのお世話したことないよ」

「いいから!」

 あやすだけでも、とプチパニックのまま妹に押しつける。赤ん坊には悪いが、全裸のままでおもらしされては大変だ。

「よちよち、だいじょぶでちゅよ~。すぐにすっきりしましゅからね。おねえしゃんのおかおみてくだしゃ~い」

 浩美がそっと赤ん坊を胸の前で抱きかかえ、優しく摩る。

「なんとか、泣き止んだな」

 しばらく変顔を続けていた妹に労いの言葉をかけると、

「何言ってんの、これからだよ?」

 鋭い視線を向けられた。

「家にオムツってないよね?」

「オムツなんてあるわけ…」

「さっきも思ったけど、『トイレに連れてってやれ』って言われても赤ちゃんは一人でトイレできないからね」

 確かにそうだ。人間の赤ちゃんなら。

「オムツ買ってくるか?」

「もう間に合わないみたい。とりあえず、ガーゼをあるだけ持ってきて!」

「分かった!」

 やっと泣き止んだと思っていたが、赤ん坊は確かに何かを堪えているらしかった。

 浩美に言われるがまま、ばあちゃんの部屋へダッシュ。

 玄関わきの倉庫にも何枚か新品があった。

「持ってきたぞ」

「ありがとう。すぐに布オムツ作るから赤ちゃんを抱っこしてて」

「分かった」

 戸惑いならも、優しく受け取る。

 メッチャ険しい顔してるけど、耐えろ。お願いだから!

 お腹を刺激しないように、少しも揺さぶったりはしない。俺にできるのは彼女が安心できるように、できる限りの優しい笑顔で見守ることだけだ。

「よし! できまちたよ~」

 妹の声に安心したのか、生温い感触はすぐにやってきた。彼女は清々しい笑顔を浮かべている。

「ちょっ、タンマ~~~~!!」

 タイムリミットだった。


  とりあえず、赤ん坊の体を浩美に拭いてもらう。その間に俺は昼食の冷やし中華を作ることにした。

 錦糸卵が綺麗に焼けた時は嬉しい。タレの味を邪魔しないように砂糖は少々。フライパンに卵を薄く引き、全体にまんべんなく広げるのがコツ。

「できたぞ」

「うん、こっちもちょうど片付いたとこ」

 呼びかけると、白のベビー服を着たを抱いて浩美が下りてきた。服の代わりだろう。

「布オムツって作れるのか?」

「家庭科で習ったよ」

 赤ん坊を膝に座らせたままでを合わせる浩美。

「いただきます」

 俺もつられて挨拶する。

「ベビー服とかあったんだだな」

「私のおさがりだと思うけど、箪笥の一番下にあったよ」

 浩美には悪いことをした。

 セミの幼虫を見せただけのつもりが、人間の赤ん坊が現れるとは。一体何が起きたというのか?

 俺は、公園に放置されていた『蝉川葵』と書かれた虫かごを家に持ち帰った。それを妹に見せ、彼女の部屋の窓際に置いていたら突然、人間の赤ん坊がそこに現れた。

 セミが赤ん坊に変身したのか?

 セミを見つけて追いかけていた赤ん坊が屋根から落ちてきたのか?

 ファンタジーでもあるまいし、どちらでもないに決まっている。

「お兄ちゃん、手が止まってるよ? あと、からし入れすぎだと思うけど」

「!?」

 その忠告を聞き終える前に、俺の鼻は激痛に襲われた。徐々に顔の温度が上がっていくのが分かる。

「ぶほっ! ぶほっ! ぶほっ!」

 向かい合う浩美の顔を見た瞬間に思いきり噎せてしまった。自分で入れたので何とも言えないが、お笑い芸人がよくテレビでやっているロシアンルーレット並みの拷問である。

「ちょっ…大丈夫?」

 ではない。

 麦茶を二杯流し込んで、ようやく息ができるようになった。

 余分なからしは、タレに溶かしておくことにした。

「お前はどう思う?」

 無事に冷やし中華を食べ終え、片づけたところで本題に入る。

「何が?」

「いやだから、この赤ん坊がどうやってここに来たのか」

「あぁ、葵ちゃんのこと?」

「やっぱ、あれはコイツの名前なのか」

 かごに貼ってあった名前シールを思い出す。

「だと思うけど」

「じゃあ、セミが人間に変身したって思うか?」

「それか、元は人間で何かの理由で身を隠すためにセミのすがたになったのかも」

「逆のパターンか」

 浩美は生身の赤ん坊が空から降ってきた、とは考えていなかった。その時点で死んでしまうからだ。

 それよりか、部屋の窓際に置いていたセミが床に落下する直前に何かの拍子で変身したというほうが少しは納得できる。不自然ではあるが、俺はセミを連れてきたのだから。

「不思議だけど、これが現実だもん」

 妹は思っていたよりずっと大人だった。後ろの畳の部屋で寝ている葵を眺めながら、さらに続ける。

「どんな事情があるのかは分からないけど、ちゃんと面倒見てあげようよ」

「うん」

 寝顔が可愛かった。

 他に理由はない。

 蝉川葵。

 母親が出張中の我が家に一人の家族が増えた。


 葵が目を覚ましたのは浩美が夕食を作っている時だった。

 哺乳瓶を見た途端に泣きだしたので、すぐに口に突っ込んでやる。瓶を両手で持とうとする仕草に見惚れていると五分もしないうちに哺乳瓶は空になっていた。

 高校生ながら父親気分である。

 去年別れたばかりだが、やっぱり彼女はほしい、ミルクを飲み終えた葵を見ながら思った。

 あとはオムツを交換して任務完了だ。寝ている間に浩美に紙オムツの交換の仕方を習っておいてよかった。

「お兄ちゃん、できたよ!」

 美味しそうなデミグラスソースの香りと一緒に浩美の声が聞こえてきた。今日のメニューはハンバーグだ。

「おう!」

 葵を抱えたままテーブルに向かう。

 妹の料理の上手さはよく知っている。幼いころから母親の手伝いをしていたからか、遺伝なのか、中学生にしてその腕はプロにも引けを取らないと思う。

 よくテレビでグルメリポーターが「肉汁が溢れ出す」と表現するが、その感想はうそではない。機会があればクラスメイトにも喰わせたい。

「美味しいよ、このハンバーグ」

「ありがと」

 その笑顔は一瞬で、すぐに曇ったように思えた。

 箸を持つ手も止まっている。

「なんか元気ないな」

「うん…私、葵ちゃんに嫌われてるのかと思って」

 やっぱり、落ち込んでいた。浩美は感情が表情に出やすいタイプなのだ。伏し目がちになって、さらに続ける。

「オムツ換える時も、お昼寝させる時も全然言うこと聞いてくれなかった。私には笑顔見せてくれないし」

「なんだ。そんなことか」

 思ったことをそのまま言った。

「そんな言い方しないでよ! 私は真剣に…」

「考えすぎだって。相手は赤ん坊だぞ? どっから来たかは分からないけど、新しい環境に戸惑うのは当然だろ。現に俺たちだってそうだし」

「でも、お兄ちゃんには懐いてるじゃん!」

「あれのどこがだよ…初めて抱っこした時はおもらしされたし、さっきの『ミルクよこせ!』の顔は懐いてる奴のものじゃなかったよ」

 浩美は心配しているようだが、当の葵にそんな感じは受けなかった。

 今はハンバーグに興味津々だか。

「とにかく、一緒に風呂入って体洗ってやれば喜ぶと思うけどな」

「そうかな?」

「食べ終わったら先に入れよ。片づけはやっとくから」

 不安そうに見つめてくる妹にキッパリ言って、残りのハンバーグを口に運ぶ。

「もしかしてお兄ちゃん、葵ちゃんと入るのが恥ずかしいだけじゃないの?」

「バーカ」

 すぐに目を細めてきたので喰い気味に否定してやった。

 彼女の言った通り、葵はやはり俺の妹が苦手らしかった。風呂場からは彼女の泣き声が絶え間なく響き、寛ぐためにあるその場所は一時的に戦場と化していた。

 結局、葵は俺と寝ることに。

 不思議な一日は、目まぐるしく過ぎていった。


2


 最初は夢かと思った。

 だって、こんなことは日常ではあり得ないから。眠気なんて一瞬で吹き飛んだ。

「葵がデカくなってる~~~~~~~~~~~~!!」

 隣で寝ていたはずの赤ん坊が、いつの間にか少女になって布団で丸まっている。

 ありえない。

「お兄ちゃん、どうしたの!?」

 俺の声に驚いて階段を駆け下りてきたのは浩美だった。つい鶏の仕事を奪ってしまった。

「見ろよ、これ!」

 見た目は十歳くらい

「お兄ちゃん、また女の子連れてきたの? ロリコン?」

「違う! 俺を変な性癖にするな」

 朝起きてきて開口一番にそんな事を言われると、さすがに傷つく。また、とか常習犯的な扱いをされたが、俺は断じてロリコンではない。

 その表情には見覚えがあった。

「コイツ、たぶん葵だ」

 疑いの目を向ける妹に冷静になって返す。

「そんなのおかしいよ。一日でこんなに成長するわけない」

「それは人間なら、だろ。葵が本当にセミだとしたら納得できるだろ?」

 俺の問いかけに、葵はハッとした。ようやく、理解したのだ。俺たちが置かれている現実を。

 だから、それ以上は言わなかった。

 そして―

「起っきろ~、葵ちゃ~ん!」

 今日も新しい朝が始まる。


 朝食を食べたあと、俺たち三人はバスに乗って隣町の大型ショッピングモールにやってきた。隣町といっても、片道二時間はかかるので気軽に来れる場所ではない。

 すでに疲れているのは俺だけではなかった。

「お兄ちゃん、ちゃんと葵ちゃん連れてきてよ」

 前を歩く浩美から喝が入る。彼女の押すショッピングカートの上段は、買い物開始十分程度で満杯になっていた。

 商品の数を見ると、軽く眩暈がした。

「そんなに慌てるなよ。葵も俺も、ここに来るだけでクタクタなんだよ。なぁ?」

 目を擦りながら歩く少女に同情を求めると、小さく頷いてくれた。彼女の声はまだ聴いたことがない。そもそも、セミである彼女は会話ができるのだろうか?

 目が合ってもきょとんとしているだけだ。

「ついて来いよ、葵」

 喉が渇いてきたので、葵を促して『買い物』という名の怪物に憑りつかれた妹とは反対側のエレベータに向かう。

 彼女がこんなにもエキサイトできるのはバスの中で眠っていたからである。

 つまり、バスの中での俺と葵の苦労を知らずに夢の中にいたのだ。向かい合って座るおばさん二人組のパワーを味あわせたかった。


*


「あら、あなたの子?」

「せやろ、せやろ! 兄ちゃんまだ若いのに、よう頑張ったんやな」

「違います。親戚の子です(嘘ですが)」

 窓際に座る関西弁のおばちゃんが身を乗り出してきたので、あえて冷静に答える。

「顔近いわよ、虎子さん」

 この人絶対、阪神ファンだと思う。

「せなんや」

「お名前は?」

「葵です」

「可愛いお名前」

「ホンマ可愛え名前やな」

 と、ここまではよかった。

「ちょっと、抱っこしてもええか?」

「まぁ、いいですけど」

「私も抱っこさせてもらってもいい?」

「ウチからな」

「私からよ」

「じゃ、この子に選んでもらおうや」

「そうね」

 二人が俺たちを睨んできた。

 何これ?

 他の乗客の方の迷惑になるのでおやめください。

 とは言えず、絶え間なく変顔をさせられる葵の姿を眺めることしかできなかった。

 ごめん、葵。

 その後も浩美が寝ている横で、俺は質問の嵐に遭った。


*


 炭酸飲料を買ってベンチに戻ってきたところで、ようやく気がついた。

「あれ?」

 葵がいない。

 確かに手を繋いで隣に座らせた。自販機でジュースを買っている間にどこかへ行ってしまったのだ。

「葵がいないんだ」

 すぐに浩美を見つけて、葵の捜索を開始した。彼女の足ではそう遠くへは行っていないはず。だた、セミであることを忘れてはならない。

 とにかく、フロアを駆け回った。彼女は背が低いため人混みに入ってしまうと厄介だ。

「葵!」

 二階を一周してベンチに戻ってきても、そこに彼女の姿はなかった。

「お兄ちゃん、大変!」

 まさか、と思って三階に昇るエスカレーターに乗ろうとした時、妹に呼び止められる。

「三階でセミが大量発生してるって大騒ぎだよ!」

 セミが大量発生?

 言われている意味が分からなかったが、とりあえず三階へ急いだ。

「ほら、あれ見て」

 促されて、おもちゃ売り場で立ち止まる。

「なんだよ…あれ?」

 そこにあったのは大量のセミに全身を覆われた葵の姿。

「お兄ちゃん!?」

 葵を迎えに来たのかもしれない。

「葵!」

 でも、そう考えるより先に体が動いていた。集まっていた野次馬を掻き分け、彼女に纏わりつくセミを払いのける。自分がしていることが正しいことかは分からないが、とにかく彼女の手をとった。

「逃げるぞ、葵!」

 守らなきゃいけないと思ったんだ。

「剛さん」

「ちょっと待ってよ…意味分かんないですけど!?」

「とにかく走れ! 葵はコイツらに追われてんだ」

 いつの間に支払いをおえたのだろうか、両手に計四つの紙袋を下げた妹が困惑と疲労とが混じりあった表情で俺についてくる。

 あんぐりと口を開きっぱなしの通路右側にある服屋の店員。

 突然のことで、こちら混乱している野次馬たちと警備たち。

 振り向くと、セミの大群の向こう側は完全に時間が止まっていたが、そんなものに構ってる暇はない。

 まるで、スズメバチにでも追われている気分でひたすら走る。理由は分からないが、今の俺にはこれしかでない。店を出ることが先決だ。

 おもちゃ屋を左に曲がると書店が見える。そこから真っ直ぐ行って駄菓子屋が見えたところで右に曲がるとエレベータがある。ショッピングモールだけあって直線距離が長い。さっき見たはずの駄菓子屋がなかなか見つからない。

 ここに来る前に走り回った疲れが容赦なく俺の足を重くする。

「大丈夫か? 葵」

「…」

 返事はないが、疲れているわけではなさそうだ。

「きゃ~~~!!」

「ちょっ…何か今、頭に止まってるんだけど!?」

「お母さん、これセミだよ」

「何この大群?」

「何で店ん中に入ってきてんだよ」

「ちょっと、キモイんですけど…」

 驚く買い物客に反応する余裕すら俺にはなかった。

「浩美、襲われんなよ」

「私、もう限界」

「!」

 浩美の掠れた声に振り向くと、セミの群れの距離は三メートルほどに縮まっていた。

 俺も限界を感じたその時。確かにその声は届いた。

「見えました! あれです、剛さん」

 その時、どこからか俺を呼ぶ声が―

「きゃっ!」

「浩美!」

 驚いて振り向くと、少し後ろで妹が倒れていた。急いで助けようにも時間がない。

「お兄ちゃんは先に行って」

 浩美は完全に敵意のあるセミたちに取り囲まれてしまっていた。

「剛さん、失礼します」

「えっ?」

 次にその声がした時には、俺の体は宙に浮いていた。セミの姿になった彼女が俺を抱ええたまま、浩美のいる方へ突っ込んでいく。

 一瞬の出来事だった。

 妹を奪還し、エレベータ脇にある小窓から逃げ出すことに成功。窓が全開に近かったので助かった。顔面を窓際で擦ったことは気にしない。

 普段は小窓の隙間なんて通れるはずがない。だが、葵に掴まれた時に体が小さくなったのだ。通り過ぎると同時に窓を閉めようとするが、手が滑ってしまった。

 ここで食い止めるのは無理か―諦めかけた時に飛んできたのは妹の足。

「おりゃ」

 踵でガラスを弾く音がした。

「やるなお前」

「私だって、サッカーできるもん」

 得意げに微笑む浩美。

 俺たちはなんとか敵襲を振り切り、バス停の前に着地。

 家まで葵に飛んでもらおうとも思ったが、さすがにきつそうだったのでバスに乗って帰ることにした。

 あとから聞いた話だが、俺と葵はバスの中で爆睡していたらしい。行きに一緒になったおばさんたちにも会わず、家までゆっくり休むことができた。


 布団に入ってからしばらく考えていた。

 何故、葵は仲間であるはずのセミたちに襲われたのか?

 あの時も思ったように、彼女を迎えに来ただけかもしれない。でも、本当にそうだとすれすれば何かがおかしい。襲う必要も、逃げる必要もないからだ。

 確かに相手は葵の全身に群がり、動きを封じていた。

 まるで、悪人に罰を与えるように。どう見ても仲間を迎えに来たという雰囲気ではなく、攻撃していた。

 俺が咄嗟にその中に飛び込んで彼女の手を引いて逃げている時、その表情はずっと暗かった。

 葵は何をしに来たのだろうか?

 ルール違反からの逃走?

 純粋に人間の世界に憧れてやってきたのか?

 あるいは、誰かを救うために、助けを求めにきたか?

 だとしたら、それは誰なのか?

 いくら頭を巡らせても、俺に分かるはずがなかった。

「あのさ、葵。お前は何で…」

 忘れていた。今夜から葵は二階で寝ることになったのだ。浩美と一緒の方がガールズトークも楽しめるだろう。仲良くもなれるはずだ。

 明日、葵と話をしよう。何を言われても動揺しない。不安にさせちゃいけないんだ。

 自分に言い聞かせて寝つこうとしたが、案の定ダメだった。


3


 今日の天気予報は外れた。

「お~い、雨降ってきたぞ」

「今日は降らないって言ってたよね?」

 庭の洗濯物を慌てて取り込んでいると、足音を立てながら浩美が下りてきた。夏休みの宿題のプリントを握ったまま、ポカンと空を仰いでいる。

「急に雨雲が出てきたからな」

 通り雨だろう、そんなことをふと思った。

「ありがとう」

 取り込んだ洗濯物を浩美に手渡す。あとは、彼女の仕事だ。

「葵は何してんの?」

「一緒に文字書く練習してるよ」

 今日起きた時には彼女の体は高校生くらいに成長していた。「おはようございます」と言われた時、初めてその声を聞いた気がした。

 昨日も聞いたとは思うが、逃げ回っていて彼女の声とは認識できなかったのだ。

 だから、その一言が無性に嬉しかった。成長を感じることができて。

「読み書きもできるんだな」

「うん」

 感心しながら、二階に上がる妹を見送った直後に事件は起こった。

「お兄ちゃん、葵ちゃんがいなくなってる!」

「えっ?」

 慌てて引き返してきた浩美の表情は引きつっていた。

「何か言ってなったか?」

「特に変わった様子はなかったよ。昨日はいっぱい喋れて楽しかったよ」

 一体、彼女の身に何があったのだろうか?

「少しは仲良くなれたと思ったのに」

 肩を落とす妹に何も言ってやることができなかった。何の心当たりもなく「大丈夫」というのは無責任だと思ったから。

「ごめんな、浩美」

 とりあえず、謝った。今の俺にはこれしかできない。

 雨の中、葵は消えてしまった。

 その雨脚は浩美と彼女の思い出を洗い流していくかのように、だんだんと激しくなっていく。


*


 昔からそうだった。

 俺と違って、溌剌とした性格で世話焼きだった浩美は友達と外で遊ぶことが多かった。小学生だった俺が虫嫌いであることを分かっていながら、その時は五歳だった妹から無理やり連れだされていた。その力は女児にして男並みに強く、逆らうことができなかった。幼いこともあって力加減ができないことは理解できるが、それにしても強引だったと思う。

 そんなわけで、夏なると毎年親父も一緒に家の目の前にある山までセミ捕りに行った。浩美は本当に楽しそうに捕ったセミを見せつけてきたが、俺は固まってばかり。六本の脚がウニャウニャと動く様が何とも不気味でしょうがなかったのだ。

「お父さん、あれ」

 その日の帰り道、浩美が突然足元を指差した。そこには羽をばたつかせたセミが何かを訴えるように倒れていた。

「大丈夫か?」

 浩美の声を聞いて、親父はゆっくりとそのセミを拾い上げ、木の幹にそっと置いた。

 ミ~ン、ミ~ン、ミ~ン!

 直後、その問いに答えるように激しく鳴きだした。驚いた俺は思わず耳を塞いで固まる、

「早く帰ろう、父さん」

「アハハ! そうだな。昼飯作って母さんが待ってる」

 服の裾を掴んで小さくなっている俺を見て、豪快に笑う親父。

「もしかしてお兄ちゃん、セミ怖いの?」

 それを見て妹が小馬鹿にするように指を指す。

「…」

 悔しかったが、その時は何も言い返せずに俯くことしかできなかった。

「そう怖がるなって。よし、家まで競争だ」

 顔を覗き込んだ父親が唐突に告げてくる。銀歯を光らせ、俺の背中を叩いた。

「おいてくよ、お兄ちゃん」

「待てよ、二人ともぉ」

 隣に風を感じたのは、その直後のことだ。虫かごを持ったまま全力疾走する妹の姿があった。

 しかし、そんな妹でも次の日にセミを自然に返す時には悲しそうな顔をした。毎年繰り返すことでも、その時になれば当たり前に悲しいのだ。

「もう、セミ捕りは行かないよ」

 浩美がそう宣言したのは、翌年の夏だった。


*


 セミを逃がしてやった時のあの顔だったから、それを見てしまったから俺は言った。

「雨が止んだら、葵を捜しに行こう」

 なんとか、明るいトーンで投げかけた。

 葵には聞きたいことがたくさんある。

 それに、こんなにも急な別れは俺も納得できなかった。

「うん」

 浩美も諦めてはいなかったらしい。その声に未だ困惑の色が混じっているが、確かに返事は返ってきた。

 あとには、静かな足跡だけが聞こえる。


 夕方になってから葵を捜し始めた。俺は葵と出会った公園に、浩美は家の目の前の山に別れて行動することに。連絡はスマホがあるので問題ない。

「こんな子知りませんか?」

「知らないわ」

「だぁ~れ、この子」

「見かけないけど…」

「あなたの妹さん?」

「かっわい~い」

「お前の子供か?」

 公園にいる人たちやその周囲に葵の写真を見せて回っても、これくらいの反応しかなかった。

「ダメか…」

 公園を諦めて浩美と合流しようと直後、スマホの通知音に気づいた。その文は無駄に長かったが、要するに葵を発見した、という内容だった。

「浩美!」

 急いで行くと、山の入り口に二人の姿があった。

 妹は見つけられた安堵感からか、笑顔で手招き。

 その隣で葵は肩を落とし、明らかに落ち込んでいた。

「葵。怪我はないか」

「はい、怪我はしてません。それより、お二人ともご迷惑をおけして申し訳ありませんでした。」

 人間の姿をした葵が恭しく頭を垂れる。

「おっ、おいおい…頭上げてくれよ」

 急に頭を下げられて面喰った。すぐに頭を上げるよう促す。

「別に怒ってないから」

「はい」

 そう言って正面を向いた彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かぶ。

「おかえり、葵」

「葵ちゃん、元気出して。ほら、行こ! 三人で家まで競争ね」

「嫌だよ」

 俺は即答。

「分かりました」

 声は小さかったが、何故だか葵もやる気のようだ。

「まだ小学生かよ、お前」

 俺に拒否権はないらしい。呆れて笑えてきた。

「しょうがねぇな。勝った人はトンカツ二切れ増量な」

 宣言した途端、二人の目つきが変わった。明らかに俺を敵と見なしている。

 トンカツ争奪戦は静かに幕を開けたのだった―が、決着は一瞬で着いた。

「イェーイ、勝ちました! トンカツいただきます」

 さっきまで確かに左隣にいた葵が、二百メートル離れた俺たちの家の縁側で微笑んでいた。陸上部さながらの構えを見せていた彼女が、だ。

「は?」

 それにしても速すぎる。

 状況が飲み込めず、彼女を挟んで反対側にいた浩美と顔を見合わせる。

 落ち込んでいた彼女はどこへやら。葵のピースサインが無償に腹立たしかった。

「お前な…」

 そう、彼女は飛んだのだった。

 セミの姿で。一瞬で。

 だったら、敵うはずがない。

 反則だ、と言おうとしたが、

「食いすぎたら太るぞ」

 あえてデリカシーゼロの言葉をぶつけてやった。反応が見たかったのだ。

「いいんですよ。美味しいのがいけないんです」

 すると、家に辿りついた俺に訳の分からない持論を展開してきた。たぶん、照れ隠しに近いと思う。

「ちゃんと手洗い、うがいしてから席つけよ。遅れた奴の分は俺が食う」

「ちょ…ちょっと待ってくださいよ!」

 葵の話はスルーしてカツの準備を始めることにした。といっても下準備は完了しているので、あとは揚げるだけなのだ。

「絶対、私のものですよ!」

 彼女の声が油の音で掻き消される。

 ムキになるところは、まだまだ子供だと思う。

「いただま~す」

 三人揃っての挨拶。これが最近の我が家だ。

 葵はここいる。

「ん~、衣がサクサクでたまりません」

「そりゃ、よかった」

 彼女が肉を美味しそうに頬張る姿を見て、ようやく肩の力が抜けた。

 

 4

 

 包丁のリズミカルな音で目が覚めた。

 時計を見ると朝六時。浩美が起きているはずがない。

「おはよう」

 仰向けのままふすまを開ける。

「おはようございます。剛さん」

 その柔らかい呼びかけに思わずその手が止まってしまった。

 ぼやけた視界に映るのは、黄色く縁どられた白地にヒマワリ柄のエプロン。

「起きるの早いですね」

 黒髪のポニーテール。年齢は二十代前半くらい。百七十センチメートルほどの長身美女が俺の家のキッチンに立っていた。

「葵…なのか?」

 何故か緊張して声が掠れる。

「当たり前じゃないですか」

 夢かと思って目を開き直しても、頬を引っ張っても、やっぱり朝は朝だった。

「綺麗になったな」

「えっ?」

 彼女の手が止まる。

「そんなことより…起きたのなら早く着替えてください!」

 直後、俺は自分の失言に気づいたが、訂正はしなった。

 耳を真っ赤にした葵がその瞳で俺をロックオンしているからだ。取り消す必要がない。だって、本当のことだから。『早起きは三文の徳』とはよく言ったものだ。

「分かった。着替えてくる」

 テーブルに野菜サラダを並べ始めた彼女にそう告げて襖に手を掛ける。

「食べながら大事な話があります。浩美さんが起きてくる前に伝えておきたいので、聞いてもらってもいいですか」

 葵の囁くような声が聞こえてきたのは、後ろを振り向いた直後だった。その響きは、どこか悲しげに思えた。

「いいよ」

 それだけ答えて、今度こそ襖を閉める。

 やっぱり、夢なんじゃないかト思って自分の手を抓ってみた。

「…っ!」

 それでも痛かった。

*


 私が生まれてすぐに母親は死にかけたそうです。産後の疲れた体のまま私の為に美味しい樹液を探してくれている時、眩暈がして地面に落ちたしまったと言っていました。

 それを助けくれたのがあなたたちでした。最初は連れて行かれると思って怖かったけれど、木にそっと置いてくれた、と何度も何度も聞かされました。その時の母の笑顔が今でも忘れられません。

 母が亡くなってからもその話は私の頭から離れず、いつからか母の恩人であるあなたたに会いたいと思うようになりました。

 そこで仲間に相談しましたが、猛反対。死にに行くのと同じだ、それでも行くと言うのなら帰って来るな、と言って仲間外れにされる始末です。

 どうしても諦めきれない私は、人間のことよく知るカブトムシの長老に会いに行くことに。噂では、納得できる理由があれば何でも聞いてくれるそうです。

 丸一日かけて長老の居場所を見つけました。そこは見たこともない大木の幹の上。

「あなたがカブトムシの長老ですか?」

 尋ねると、静かに頷きました。

 母から聞いた話を長老に伝え、その恩人に恩返しする手伝いをしてほしいと頼みました。

 しばらく考えて長老は言います。

「人間の世界で生きていく覚悟はあるかね?」

「はい!」

 私は強く頷きました。

「ならば、いつでも人間に変身できる体にしてやろう」

 長老の唱える不思議な呪文で私はこの姿になれたのです。

 そして、気がつくとあの公園にいました。


*


 そこまで話し終えて葵は、砂糖をたっぷり入れたコーヒーを啜る。

「そうだったのか。現実離れしすぎてて全部は把握できないけど…つまり、葵は親父が助けたセミの子ってことか」

「そうです。『蝉川葵』の名を長老からいただき、あなた方に会いに来たのです」

 俺がコーヒーを飲み干したところで、葵はようやくトーストを食べ始めた。

「赤ん坊の姿で?」

 聞いた途端、彼女かの肩がピクリと動く。

「そっ…それは私も想定外でした。まさか初対面が赤ん坊の姿だなんて」

 彼女が手を当てた頬がみるみる紅潮していくのが分かった。

「気持ちは嬉しいけど、お前の母さんを助けた親父はもういないんだ。交通事故で死んだ」

 サラダを食べ終えたところで葵が箸を置いた。

「そうでしたか」

 葵は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに目を伏せて続ける。

「でしたらお父様に恩返しできない分、剛さんと浩美さんの希望をお聞かせください」

「希望?」

「はい」

「そんなのないよ。俺たちはお前と一緒に楽しく過ごせればいい」

「えっ?」

「お前って、まだ生まれて五日目だよな?」

「そうですね」

「俺、お前のこともっと知りたいんだ。だから、お前の希望を俺に教えてくれ。行きたいとこ、やりたいたいことは何だ?」

「でも、私は…」

「いいから言えって」

 彼女の言葉を遮って強く促した。

 言おうとしていることは、すぐに分かった。だから聞いたんだ彼女の望みを―

「お前の希望を叶えることが俺の今一番やりたいことだから」

「お父様のお墓参りに行きたいです。それと―」

 直後の言葉を聞いて俺は驚いた。

「それ今日の夜な」

「えっ?」

 葵の目が点になる。

「アハハハ!」

 もう堪えきれない。

「ちょっと、何笑ってるんですか?」

 とにかく、嬉しかった。

「そんなに怒るなって」

 葵が家に来てくれたことが。

 彼女が家族であることが。

「意味が分かりません」

「どうしたの、お兄ちゃん?」

 ちょうど、浩美が起きてきた。

 その後、葵に口を聞いてもらえなくなったのは結構ショックだった。

 

 5

 

 この町の全人口がそこに押し寄せていた、と言っても過言ではないだろう。

 夏祭りはこの町唯一のビッグイベントである。

「リンゴ飴ください」

「私も」

「はい、一本二百円ね」

「ありがとうございます」

「ありがとう、おばちゃん」

「次は射的がしたいです」

「分かった。勝負しよっ!」

 俺が人混みに揉まれている間に、妹たちはどんどん進んでいく。

「どこ行ったんだろ? 浩美たち」

 焼鳥屋に辿り着いた頃には、完全に見失っていた。

「浩美と二人なら大丈夫だろ」

 朝に話して以来、距離を置かれている気がする。俺を避けているんだろうか?

 朝のことを怒っているのか?

 やっぱり、俺の気のせいか?

 考えれば考えるほど、分からなくなってきた。

「葵はもう限界じゃ」

 突然聞こえてきた嗄れ声に振り向く。

「あなたは?」

 すぐに呼びかけたが、グレーに紺のストライプ柄の着物を着た老人は何も答えなかった。挨拶のつもりだろうか、俺の質問に答える気はない、とでも言いたげに右手だけ軽く上げて人混みへと消えていった。

 暗くてよく見えなかったが、その背中は楕円形に見えた。

 頭の上には細長い影が伸びている。

「誰だ、あれ?」

 何故、葵のことを知っている?

 それに―

「葵!」

 最後の焼き鳥を串から奥歯で強引に引き抜いてから走った。

 このままじゃダメだ。もう一度、葵と話したい。

 限界って何だ?

 俺のこのモヤモヤも限界だよ。

 聞きたいことがありすぎる。

 まだ時間はあるはずだろ?

 俺はお前のことを何も知らなかった。

 親のつもりでも、全然分かってなかったんだ。

 だから、教えてくれ。

 俺が知ってるのはお前がここに来たかった理由だけだ。

 そして、お前は必ずそこにいる。

 今、会いに行くから。


 屋台の向かい側を走って約二十分。

 俺の家から見て西側にその河川敷はあった。花火を見るにはここが一番いい。

「葵!」

「剛さん、助けて!」

 息を切らしながら、なんとか呼びかけると悲鳴に似た声が返ってきた。

「…!?」

「カレシでも待ってんのぉ?」

「ちょっと俺らと遊ばない?」

「何でも買ってやるからさぁ」

 見ると、ムキムキとガリガリの男二人組に彼女が絡まれていた。その雰囲気から察するに荒手のナンパであることは明白だった。

 それを目撃したと同時に込み上げてきたのは怒り。

「お取込み中に悪いんですけど…コイツ、俺のツレなんですよね」

 気づいた時には、疲れていたはずの体が自然と動いていた。葵を庇う恰好で男たちとの間に入る。

「あれぇ、君がカレシ?」

「ヒーロー登場って感じか」

「お兄さんたちのこと怖がってるみたいなんで、今日のところは勘弁してやってくださいよ」

「ほう、じゃあ俺たちが優しくエスコートしてやるつったら?」

 白い歯を見せて嘲るマッチョ。

 一歩下がって傍観するガリガリ。

 拳を強く握りしめ、俺は二人を睨みつけた。

「なんか白けた」

 しばらくの沈黙の後、マッチョがウンザリしたように告げた。

「おい、帰るぞ」

「へーい」

 ガリガリが言われるままについていく。その時、ようやく自分の中で緊張の糸がプツリと切れた感覚があった。

「大丈夫か? 葵」

「ありがとうございます」

 振り返ると、伏し目がちで俺の着物の裾を引っ張る彼女の姿があった。見るからに顔が赤い。

「ご迷惑おかけしました」

「いいって。それより顔上げろよ。よくこんなとこ分かったな」

 辺りを見渡すと、ちらほら人影が見える。花火の打ち上げまであと十五分だ。

「はい、チラシに書いてありましたから」

「あっ…」

 そう答える彼女の笑顔に思わずドッキとした。

 葵も真っ赤になっている。その瞳から目が離せなかった。

「私、ずっと花火が見てみたかったんです」

「知ってるよ。だから連れてきた」

 きょとんとする葵。

 俺は平静を装って、その場に腰を下ろす。

「浩美は?」

「トイレに行く、と言って別れてきました」

 少し遅れて彼女が座るまで、その距離感に気づかなかった。

 近い。近すぎる。

 心臓の音まで聞かれてしまいそうだ。

「実はあの時、お見合い相手が仲間に頼んで私を連れ戻しにきたんです」

 葵の言葉に心臓が止まった気がした。

「お見合い相手?」

 驚きのあまり声を上擦らせてしまう。

「はい」

 それでも、彼女は淡々と続ける。その表情は晴れやかだった。

「買い物の最中に襲われた時ですよ。でも、あの後にちゃんとお断りしました。突然いなくなってすみませんでした」

「そういうことか」

「土から出てきたらすぐに相手を見つけろ、って両親から言われてて…カブトムシの長老を探している時にナンパされたんです」

「何で断ったんだ?」

「楽しかったからですよ、剛さんたちと毎日過ごせて人間でいることが」

「そっか。俺もそうだよ。葵と出会えてよかった」

「嬉しいです。そう言ってもらえて」

「お前が俺の生きる希望だったから」

「えっ?」

 彼女の瞳を見つめて続ける。

「親父は俺の中学最後のサッカーの試合を観に来てくれた帰りに交通事故で死んだんだ。それ以来、ずっと罪悪感が残ってた。一回くらい観に来てくれよ、なんてわがまま言わなかったらあんなことにはならなかった」

「剛さん…」

「何に対してもネガティブになっていた俺を変えてくれたのがお前だ、葵。しっかり守ってやらなきゃって思えたんだ」

 彼女の潤んだ瞳に吸い込まれそうになる。

「あと何日かで母さんも帰ってくるし、これからは四人で一緒にいよう。一週間じゃなく、これから先もずっと」

「無理ですよ…そんなの」

 悲しげな表情で目を逸らす葵。

 しかし、その声はいつなく冷たく響いた。

 まるで、俺を突き放すように

「私はセミなんですから。寿命は変わりませんよ」

「でも」

 認めたくなかった。

 だって、これが現実なんだから。

 水色に白の花柄の着物を着た艶やかな黒髪美人が隣にいる。

 今の俺にはそれで十分だった。

「ズルイですよ」

 これは夢じゃない。

「何がだよ」

「独りでいなくなろうと思ったのに」

「させるかよ」

「怒ったフリして会わないつもりだったのに」

「バカ。親に挨拶もなしかよ。嘘までついて」

 確かに彼女は声を震わせていた。

「ごめんなさい」

「許さん」

 でも、俺にはどうしようもなかった。

「泣くなよ」

 他に言葉が見つからない。

「あ~あ、そろそろ花火が―」

 なげやりになって振り返った直後、唇に柔らかな感触があった。

「んっ…」

 夜空には大輪の花。

 葵の言葉は聞き取れない。

 周囲から歓声が上がる頃には彼女の姿はなかった。

 甘い香り。

 唇に残る微かな感触。

 最後に見たのは花火の鮮やかな光に照らされた満面の笑みだった。


 ―ありがとうございました。


 その光が黄金に輝いた時、確かに葵の声がした。

 それは、流れ星のように静かに通り過ぎていく。

 俺は、その光景をいつまでも眺めていた。

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