表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幸せは冬の夜に歩いてくる  作者: 遊月奈喩多
2/5

自己逃避ラビュリントス

なりたい自分。

目を逸らしてしまいたい自分。

それはきっと、誰もが持っているもの。


ある冬の夜、「自分」から逃げ続けてきた青年の、報いの話。

 見上げた円い夜空では、何者の視線を構うことなく黄金の満月が輝いている。時折、空を流れる黒い雲に覆い隠されることで月光の妖しさがより一層引き立てられているが、それを見上げている余裕は彼――松嶋まつしま れんにも、そして恐らく彼の近くで往来している人々にもなかった。

 豪奢なネオンと喧騒に満ちた、都内有数の大きさを誇る目抜き通り。

 冬の夜になっても、そこは仕事帰りと思しき人影や、蓮と同じ目的で訪れている人々の声や気配、そして時折道路を通り抜けるアドトラックから流れる睦月いつかの高速ソング――とファンの間で親しまれている新曲――で賑わっていた。

 蓮の目的は目抜き通り自体を歩くことではなく、そこで立ち並ぶ店舗である。

 もう秒読みとなったクリスマスに向けて、あれでもないこれでもないとプレゼントを物色しているコート姿が、個を失った暗色の濁流となって店内から溢れそうなほどに密集している。子どもたちの人気を集める玩具やゲームソフトの登場、外国を拠点とする大手服飾ブランドの相次ぐ日本上陸、更には長年注目の的となっていた日本人ベテラン作家を期待する下馬評を見事に裏切ってノーベル文学賞を受賞した新人作家の第2作の発売などが重なった年でもあったので、デパート街の込み様も頷けるというものだった。

 その中で、蓮も濁流の一滴のように大手ブランドの新作バッグと冬物のコートを探し回っていた。円形の天窓を見上げる吹き抜けの近くで、彼は視線を忙しなくさまよわせる。

 正直、蓮には近所の店で買ったものとその店で買ったものの差がよくわからないところだが、今年の秋終わり頃にこのブランドの支店ができてからというもの、彼女がそのバッグをずっと欲しがっているようなのだ。クリスマスくらい、奮発してプレゼントしたっていいだろう――蓮はそう思っていた。

 バイトの掛け持ちで何とか生活している学生の身には手痛い出費になることは分かっていたが、目当ての商品を見つけ出して、同じ商品を目的にさまよっている人の中を掻き分けてやっとのことで手に入れたときには、大事な人の笑顔を想像して顔を綻ばせた。

『ありがとう、蓮くん!』

 恐らくそう微笑んでくれるだろう彼女の姿を想像して、蓮は少し幸せな気分になるのを感じた。

 包装された2つのプレゼントを持って店を出た大通りは相変わらず人間で満ちていて、その静かな声が集まって1つの騒音を形成している。きらびやかに見えるもののどこか品のないネオンライトが、遥か上空の月光を拒むかのように地上を照らしていた。

 各々の幸福な情景を思い浮かべながら行き来する人の波の中で、蓮もまた幸せな気持ちに満たされて家路につくのであった。

 冬の夜空では月が、薄い雲のヴェール越しに輝いていた。


 そして訪れたクリスマス・イヴ。

 厚い雲の向こうで、下弦の月が輝いている。青白い月に見下ろされて、同じ色に染まる家並み。その中にある比較的小さな家で、蓮は聖夜を祝っていた。

「準備できたよ、あや

 クリスマスパーティーの準備を済ませ、蓮は幼馴染の寺枝てらえだ あやに声をかける。

 その声に、居間の方からパタパタとスリッパの足音が聞こえてきて、蓮の後ろから綾が近づいてきた。

「わー、すっごいね! 蓮くんって、やっぱりお料理上手だよね……! ありがとう!!」

「綾だって色々手伝ってくれたし、食材だって全部綾が揃えてくれたんじゃないか。それに、俺の部屋だとこんなにちゃんとしたものは作れなかっただろうから」

 蓮としてはむしろそこまでのお膳立てをしてくれていた綾にこそ感謝したいようだった。

 そしてその思いは、料理を食べるリビングルームに料理を運んだときに少しの感動とともに強まった。

 目に優しい明るさに調整された照明の下、クリスマスツリーやリースなど、その他クリスマスに因んだ装飾が至るところに付けられたその部屋は、蓮の住むアパートの部屋よりも一回りほど広く感じた。そして蓮は、それが物理的なものだけではなく、心因的な要素も関わっているように思えた。

 春先まで彼女を――目の前で楽しげに笑っている綾を取り巻いていた環境を思い起こし、改めて綾の笑顔を見ることができてよかったと思った。

 おめでとう、綾。

 もう君を取り巻く不幸は終わったんだ。

 近所の公園で初めて出会った時の、孤独な泣き顔が脳裏をよぎる。家族から受けてきた理不尽な虐待に傷ついて、ボロボロになった姿のまま涙に暮れていた姿。

 蓮としては、自身が信じてなどいない神の御子の誕生日などよりも、彼女が今年の春先まで取り巻いていた状況から抜け出すことができたこの1年全体を祝いたいようだったが、それは綾には言うべきことではないというのもわかっていた。それは決して祝うようなきっかけではなかったのだから。

 綾の両親が外出先での事故で死亡したとき、告別式でも葬式でも涙1つ流さなかった綾は何を思っていたのだろう。

 参列者のほとんどが気丈だと言った姿に、蓮はむしろ抜け殻のような気配を感じていた。

 寺枝家について知っている一部の参列者が言っていたように、綾の両親の死は天罰ででもあったかのようにそのときの蓮は思った。しかしその罰が、それによって救われるはずだった綾の心まで脅かしてしまうのではないか……という危惧が、笑っている綾を目の前にしている今でも蘇る。

 吹き荒ぶ春風に綾までさらわれそうだったあの日のことが……。

「蓮くん?」

 不意に声をかけられて、蓮はハッと目を覚ましたように意識を薄暗い部屋に戻す。目の前では綾がテーブルに身を乗り出して不安そうにこちらを覗き込んでいる。

「どうかしたの?」

「え、な、何が」

 慌てて聞き返すと、綾はまた不安げに「何か、凄い難しい顔してたよ? あっ、もしかして誰かと約束とか、あった……?」と尋ねてきた。

 申し訳なさそうに表情を曇らせる綾。

 せっかく綾に楽しく過ごして欲しいと思っていたのに、俺がそれを壊してどうするんだ!

 蓮は慌てて「そうじゃないんだ!」と言って、思わず綾の両肩を掴む。

「違う、そうじゃない。俺はただ、今年が綾にとってどんな年だったかって、」

 それがこの場で言うべき言葉ではないことに思い至って蓮は口を噤んだが、その反応は却って綾に、自分が何を言わんとしているかを察させてしまったようだった。

「そうだね……」

 そう一言小さく呟いて、綾は目を伏せる。

 その姿に、蓮は強い後悔を覚える。迂闊なことを言ったせいでせっかくの楽しい時間に水を差してしまった、と。

「お父さんもお母さんもいなくなって、そのあと1人で暮らすようになって、大変なこともいっぱいあった。でもね、蓮くんがいてくれたから大丈夫だったよ」

 そう明るく笑いながら言ってくれる綾。妹のように思っていた幼馴染にそのようなことを言わせてしまった自分を責めることしかできない蓮だったが、そこまでしてくれた彼女の優しさに応えなくてはいけない……と気を取り直す。

 そして、気を取り直すように始まったプレゼント交換で、蓮は数日前にデパートで買った海外ブランドのバッグを手渡す。

「ありがとう蓮くん、このバッグほしかったんだ~!」

 その反応に、思わず安堵の息をつく蓮。

「よかった。もし違ったらどうしようかって、ヒヤヒヤしてたよ。あんまりああいう店慣れてなくて……」

 数日前にデパートに行った時の自分の右往左往ぶりを思い出した蓮は、なんとなく恥ずかしい気持ちになってその場にいなかった綾に思わず弁解めいたことを言ってしまう。その様子がおかしかったのか、綾が小さく「蓮くん、かわいい」と呟いた。

「かわいい、ってのはちょっと複雑な気分だな……」

 幼ければまだわかるが、この年齢としだし。思わず目を虚空に泳がせてしまう。綾はそんな蓮を面白がるように「冗談だよ~」と言葉を取り消してきた。

「ありがとね、蓮くん!」

 ――その言葉と笑顔だけで、蓮はこれまでの苦労が報われたように感じた。


 苦労。

 蓮はこれまで、綾との関係の中で――少なくとも傍から見て――同年代の平均的な若者より多くの苦労を強いられてきた。傍から見た場合、2人の関係は、綾の蓮に対する過度な依存と束縛、そして蓮の忍耐によって成立していると思わずにいられないものだった。

 家庭環境のせいもあってだろう、塞ぎがちで友達もうまく作れなかった綾にとって「仲がいい」と言えるのは4つ年が離れた蓮だけであり、今年高校に入ってからも毎日の報告から友達のつくり方まで、かなりの頻度で蓮は綾のメールを受けている。

 そして綾の両親が生きている間は、時も場所も選ぶことなく蓮と一緒にいたいと行って聞かなくなることが多かった。蓮が中学の修学旅行に行ったときなどは、勝手に学校を抜け出して後を追おうとする始末だった。


『あの子、ちょっとやばいんじゃないか?』

『あんまり甘やかすと付け上がるぞ』


 中学・高校時代、友人たちからそう言われることもあったが、蓮本人が彼女の言動について何かを思ったことは――彼自身が覚えている限りは――恐らくなかった。それは、彼が幼い頃綾を知った時に感じた、「この子を守れるのは自分しかいない」という思いに起因していた。

 小さな正義感と、依存。

 多少綾が蓮に依存しているのだとしても、それを受け入れこそすれ拒むという選択肢は、彼には持ちようもないものだった。周囲の声など気にならなかったし、綾との関係を苦痛に思うことなどない。綾が要求して、蓮がそれに答える。それで自然。そのような関係だった。

 その綾が、今では目の前で「普通の」女の子のように過ごせている。

 綾からもらった腕時計よりもそちらに嬉しさを感じる蓮に、綾は少し緊張した口調で問いかけてきた。


「蓮くんってさ、今まで好きな人とかどうしてた?」

「――――――っ!?」

 蓮は、頭を殴られたような衝撃を感じた。


 好きな人。その単語を、綾から聞くことになるとは。

 蓮が感じたのは一抹の寂しさといった感情ではなく、彼自身にとっても認めがたい暗い感情だった。

 中学・高校時代、蓮にも「気になる女子」は当然のごとくいて、そういった相手と付き合うことだってあった。しかし、そうして恋人ができたとしても、蓮にはあくまで綾がいた。当時の綾は、まだ蓮に依存しきっていた。綾からのメールがあればすぐにそれを見て、綾からの電話には必ず出て、綾が呼べば何を投げ出してでも彼女のもとへ向かった。その結果としての別れも、「仕方がない」と割り切ることで受け入れてきた。

 綾以外のものを優先することなど、当時の蓮にはできるはずもなかったのである。

 その綾から、「好きな人」という単語を聞く。

 蓮は、「そっか、好きな人か……」と柔らかい――――年の離れた妹と接する兄のような――――微笑と共に呟いて、視線を宙に向ける。

 内心で、突如芽生えた感情に戸惑いながら。


――俺からはこんなに自由を奪っておいて、綾はそういうことを平気で言うんだな。


 認めてはいけない感情。しかしそれは、スポーツクラブの大会当日に休まなくてはいけなくなった日にも、修学旅行で周囲からの好奇の目に曝されたときも、以前から楽しみにしてたコンサートを当日になってキャンセルしなくてはならなくなったときも、綾との関係が理由で親しかった人と疎遠になってしまったときも、蓮の中に芽生えていた感情だったのかも知れなかった。

 自覚してしまったら、もういくら否定しようとしても胸の奥で秒刻みで膨らんでしまう。

 しかしそんな内心とは裏腹に、蓮の表情と口調はあくまで優しげで、その姿は妹の悩みに対して真摯に答える兄のようだった。そして実際、蓮は芽生えた感情に押しつぶされそうになりながらも、何とか綾の問いに答えようと、束の間で終わってしまった関係の苦い記憶を辿っていた。

「最終的にさ、気持ちを伝えられるかどうかなんじゃないか? 本気だって相手に分かってもらえれば……綾なら、大丈夫だよ」

 軋むような胸の痛みを、何とか顔に出さずに済んだだろうか。

 隣で息を呑む綾の反応から察するに、それはきっとできていないのだろう……と蓮は思った。もうこんな話は終わりにしてほしい。これ以上、自分の中に黒い気持ちを募らせたくはない。


 だから。

「蓮くん、あの……! あのね、」

 その言葉の先は。

「あの……、わたし、は……。ずっと、ずっと……!」

「そんな風に言い出されたら、きっとみんな綾のこと気にせずにはいられなくなるかもな」

 何があっても聞いてはいけない。


 本能がそう囁きかけたような気がして、蓮は――恐らくは初めて――綾を拒絶した。


「いつまでも小さいままみたいに思ってたけど、綾だってもう高校生だもんな。そうやって言いたくなるくらい好きな人だって、できるよな」

 色々なものを犠牲にして築き上げてきた関係を、変質させてしまうかもしれない恐ろしい予感から逃げるように、変質させかねないものが自分の中に巣食っていることから目を背けるために、蓮は何としてでもこの話を終わらせなくてはならなかった。

「蓮くんも、そうだった?」

「ちょっとだけドキッとした」

「ちょっと蓮くんで練習してみたんだけど……。ふーん。蓮くんにそう言ってもらえると、何か自信になるような気がするよ!」

「そっか、だったらよかったよ」

 そんな会話をして、ようやくその話を終わらせることができた。

 その後、どうやら少し疲れてしまったのか、ぼーっとしていることが多くなった綾に早く休むように言って、寺枝家を出た。

 空には厚い雲がかかり、月明かりのほとんど見えない夜空は少し重苦しく見えた。



「じゃあ、またね。蓮くん」

「あぁ、また明後日」

「あ、そうだ蓮くん。このコートありがとね。あったかいよ」

「そっか、それならよかった。気をつけて帰ってね、莉緒りお

 1月も終わりに差し掛かった冬の夜。

 蓮はにこやかに微笑むと、自宅へ向かうために電車を降りた。終電の数本前の時間とあって、駅周辺の飲み屋街でも夜の賑わいと呼べるようなものが治まりつつある。煌々と明かりの点いた店内からは楽しげな笑い声が聞こえてきてはいるが、それでも黙したまま全てを飲み込むような深夜の静寂の前では、却ってその静けさを引き立たせるだけに聞こえて、物寂しい気分になった。

 最終バスはとうに行ってしまった後なので、駅前の明るさが嘘であったかのように暗くなった夜道を1人で歩く。

 街灯が所々に灯るだけの夜道を歩きながら、時々その温かさを確かめるように、首に巻いたマフラーに触れる。

 クリスマスの日に恋人の紗月さつき 莉緒りおからもらったマフラー。

 もちろんマフラーを巻いているのだから温感があるのは当たり前ではあるのだが、それをくれたのが莉緒であるということが、蓮にとってはそれ以上なく温かさを感じさせてくれるように思えた。

 彼女、莉緒と出会ったのは去年――綾が高校に入学した年の5月初めのことだった。

 大学で学ぶ講義の履修登録が完全に終わって間もない頃、たまたま教室変更を知らなかった蓮は、何の気なしに好みの音楽を聴きながら始業時間を待っていた。

 事前に配られていた講義資料を机に広げていた蓮は、ふと肩を叩かれて振り返った。ヘッドフォンを付けていた彼を気遣うような表情で「教室違うみたいですよ」と口を開いたのが、莉緒だったのだ。同じ講義を受けている中で目立つ容姿をした

つまるところ莉緒との出会いは、教室を間違えて遅刻しそうになったところで声をかけられ、慌てて一緒に教室を移ったという、恋人との出会いと呼ぶには気恥ずかしいようなものだったが、それをきっかけに2人の距離は近付き、そのまま付き合い始めたのがその年の夏頃。偶然とはいえ皮肉めいているのは、綾が蓮とそう望んでいたような過程で2人が関係を変えていったことだった。

 しかし、その関係に至ることを蓮は躊躇していた。理由が綾であることは言うまでもない。莉緒と付き合い始めたら綾の傍にいられない。自分がいなければ誰が綾の面倒を見るというのか。

 そんな蓮の背中を押したのは、綾だった。

 といっても、綾本人が莉緒との交際について何か言ったわけではない。

 高校に入って友達にも恵まれ、日々を充実して過ごしているらしい綾の話を聞くうちに、以前のように付きっきりでいる必要はないのかも知れない。そう思うことができたのである。そうして、蓮は莉緒と付き合い始めたのである……その安堵が恣意的な解釈であることには目を逸らしたまま。

 そして数ヶ月経っても、2人の付き合いは続いている。

 客観的に見て、莉緒は周囲の羨望と感嘆を集める美貌を持っている上に評定は常にトップクラスという才媛であり、まさに才色兼備を体現したような女性だった。

 更に惚れた弱みとでも言うべきか、それとも綾との日々で培われた精神性なのか、蓮には彼女の多少わがままな性格も魅力の1つに思えていた。友人たちから「都合のいい男みたいになってんぞ~」とからかわれることもあったが、都合の問題でどうしても聞けないもの以外は、大抵彼女の願いを聞いている。

 それに、付き合い始めた頃に莉緒から聞かされた悩み――悪質なストーカーが莉緒に付きまとっているということも気になっていた。幼い頃の経緯から、悩みを抱えている人を放っておけない性格である蓮は、彼女をそういった恐怖から守ってやりたいという思いも強く持っていた。

 何よりも、蓮自身は目を背けていたところだが、莉緒と会っている間は、自分に依存しきっている幼馴染――――綾のことを忘れることができた。彼女に対して積もらせていた鬱屈した思いも、考えずにいられた。莉緒との関係は、綾の依存からほかの関係を築きにくかった蓮にとって、そんな過去をやり直しているような感覚だった。何度も夢想して諦めた、自分だけの為に使う自分の時間だった。その意味では、蓮は莉緒のことを愛しているというよりも、自分の暗い感情から目を背けていられる時間を大切にしていると言うこともできた。もっとも、それを本人に指摘して見せたところで、彼は否定したであろうが。


 夜道を歩いていた蓮は、ふと綾のことを思った。

 最近の綾の様子は少しおかしい。

 最近、というよりは、あのクリスマスを境に……と言った方がより正確かも知れない。どことなく上の空になっていることが多くなったというか、ぼーっとしているというか。といっても、初詣以来会っていないのだが。

 クリスマスの日に芽生えてしまった暗い気持ちのせいで綾との距離感がわからなくなっていた蓮は、綾に直接ではなく、綾の友人でハロウィンの時期に会ったことのある優奈ゆうなという少女に、最近変わったことはなかったかと尋ねたが、少なくとも学校では変わった様子はないという。

 確かに今まで通り毎晩送られてくるメールや1日のことを報告する電話は、今まで――クリスマス以前と変わりない。

 しかし、ずっと一緒にいたからだろう、蓮は綾の微妙な変化を感じ取っていた。

 認めがたい感情には背を向け、幼い頃に抱いた小さな使命感の延長として、認めがたい暗い気持ちを持ってしまっても尚残る兄心から、蓮は綾のことを案じていた。

 ……何かよくないことに巻き込まれていないといいが。

 だからだろう、後ろから「蓮くん」と声をかけられて振り向いた蓮は、その先ににこやかな顔を向けてくる綾がいたことに多少安堵した。

 しかし。

「久しぶりだね、蓮くん。初詣の時から1ヶ月近く会えてなかったから、ちょっと心配してたんだ。元気そうでよかった!」

 蓮はすぐに「それ」に気付き、青ざめた。

 そして慌てて綾に駆け寄る。

「よかった、じゃない! どうしたんだよ、それ!?」

 暗い夜道。街灯の光を背にして立っている綾の顔には痛ましいほど青黒く腫れ、着ているコートには赤黒い飛沫がべっとりと付いていた。

 そんな蓮に、綾は「えへへ」と微笑む。蓮が自分を見ていることが嬉しくてたまらない、とでも言うように。その様子に戸惑う蓮を見て、またにこやかに微笑み、コートに付着した赤黒い液体を指差す。

「大丈夫だよ、蓮くん。これ、わたしのじゃないから。あと、怪我したのは顔だけだったから。……う~ん、でもやっぱりこんな顔で会うのはちょっと恥ずかしかったかも。ごめんね、何か汚らしいよね?」

「そ、そうじゃないだろ、綾! どうしたんだよ、何があったんだよ!? 誰にやられた!? 何があった!? なぁ、綾!?」

 蓮は我を忘れたように、はにかんだ顔で笑う綾の肩を掴んで揺さぶる。

 どうして、こんなことに!?

 混乱した頭で必死に考えても答えは見つからない。ただ、叫ぶように尋ねることしかできない。と、青黒く腫れた綾の顔に愛おしげな微笑が浮かび、「ふふっ」と声が漏れた。

「やっぱりね。タカギさんの言った通り」

「え?」

「わたしが傷だらけになったら、やっぱり蓮くん、わたしのこと見てくれた。心配して、一生懸命わたしのこと見てくれた」

 夢見るような、幸せに満ちた声音で話しながら、綾は蓮の瞳をまっすぐに見つめてくる。

「な、何言ってん、」

「思い出してみたんだ、蓮くんはいつだって優しいけど、特に優しいのはどんな時だったかな、って。

 そういえば蓮くんってさ、わたしがお母さんにいじめられた後はすっごく優しくしてくれてたよね。それでわたし、いつもほんとに救われた気持ちになってた。そのこと思い出したら、タカギさんの言ってたアドバイスの意味がわかったんだ。また傷だらけになれば、きっと蓮くんはわたしに優しくしてくれるんじゃないかって、そう思ったの!

 ちょっと怖かったけど、頑張って良かった! だって、蓮くん昔みたいにわたしのこと心配してくれてるし……♪」

 綾の言葉の意味がわからない。アドバイス? タカギさん? 傷だらけになれば、と幸せそうに言う綾の姿に、蓮は何も言えないままに半開きになった口から発する言葉を探す。

「ねぇ、蓮くん。わたし、幸せになりたい」

 綾の声は、それまでの陶酔したものではなく、少し冷めたものだった。相変わらず笑顔のままだったが、蓮には綾が静かに怒っていることがわかってしまった。

「蓮くん覚えてる? 子どもの頃『幸せにする』って言ったくれたこと」

 その問いに、蓮は即答できなかった。すると、綾は悲しげに溜息を吐き、「やっぱり覚えてないんだね」と呟いた。

「でもいいんだ。わたしはちゃんと覚えてるし、それが支えになってるんだから」

 大切なものを抱くように胸の前で両手を握りしめて、綾は言葉を続ける。

「昔公園で作った砂のお城を竜宮城みたいって言ってくれたこともあるんだよ? 綺麗にお城が作れないって泣きそうだったわたしを慰めてくれたの。でもね、きっとあそこが竜宮城だったんだよ。

 ずっと時間が進まなくて、楽しいことがいつまでも続く。浦島太郎のお話を読んでからずっと憧れてた世界。もうずっといたのに、あの頃の蓮くんは、わたしだけに優しくしてくれてたのに、全然気付けなくて、気付いたときにはもう、わたしたちは地上に戻ってた……」

 寂しげに笑いながら、綾は空を見上げる。

 何か言わなくてはと言葉を探す蓮の唇に冷え切った指を当てて、「大丈夫だよ、無理しないで」と明るい声音で微笑む綾の顔は昔から見てきたものと変わらないはずなのに、青黒く腫れた頬が蓮を戦慄させる。

「これ、気になるの? ……気にしてくれるんだ、嬉しいなぁ。

 叩いてくれる人を探すの大変だったけど、頑張ったんだ。だってそうすれば、また昔みたいになれるって信じてたから」

 コートを脱ぎ、セーターの袖をまくりながら「見える?」と尋ねる綾。袖の下から現れたものを見て、蓮は氷で撫でられたような感覚に襲われた。

 健康的な、しかしどちらかといえば色白な綾の細い腕には所々に痛ましい痣ができていて、よく見ると小さな針の跡もいくつかあった。言葉を失う蓮。そして、綾自身もおぞましいものを見るように震え上がる。

「……っ、しばらく叩かれてなかったから、せっかく慣れてたのに忘れちゃってた。痛くて怖くて気持ち悪くて、何回も泣きそうになったんだけど、ずっと我慢したんだよ? だって、そうすれば幸せになれるって思ってたから! それにね、」

「もう、やめてくれ…………!!」

 弱々しくなっていく綾の声に耐え切れなくなり、蓮は声を上げた。

「もうやめてくれよ、綾! ごめん、悪かった。そんなに思いつめてたなんて知らなくて、綾をずっと1人にしてしまってた……! ごめん、ごめん綾! だから、もう、」

「ねぇ、何で蓮くんが謝るの?」

 静かな夜道に響いた声には、感情と呼べるものがなかった。

 我知らず地面に崩れていた蓮が頭を上げると、綾は冷たく、しかし泣き出しそうな無表情で見下ろしていた。そして、小さな声で呟く。

「謝らないでよ、蓮くん。何で謝るの? 蓮くんは悪くないのに。わたしが望んだことなのに。幸せになるためにしたことだって言ったのに。蓮くんがわたしに触ってくれた。心配してくれた。まっすぐにわたしのことを見てくれた! わたしが望んでたことばっかり! なのに何で謝るの!? ねぇ!」

 込み上がる感情のままに声を荒げる綾。

 そんな姿を、蓮は知らなかった。そして怯える蓮を、綾は逃がさない。

「あのね、蓮くん。確かに痛かったよ? 怖かったよ? でも辛くなんてなかった。……あ、でもね、初めては蓮くんとがよかったから、それだけ辛かったし悲しかったけど……。だけど、ほら見て? この首のとこ。この傷を付けてくれたのはその人だったんだよ? 傷だけでいいって言ったのに……。ここのときも、ここのときも、あと指が届かないけど背中のときも……、男の人ってみんなそうなのかな。

 あ、違うよ? ふふっ、蓮くんは優しいもん! そんな人たちとは違うよね♪ あとね、痛くないように注射してくれた人もいてね? そしたらほら、このお腹のバツ印! あつ~い鉄の棒で焼かれたのに、全然痛くなかったんだよ!? ……お腹寒いからもうしまっちゃうね?」

 1つ1つ、「見せられるところだけ」と言って、綾は全身の傷跡を蓮に見せつける。

 愛情の証とでもいうように夜の空気に曝される傷跡はそのどれもが痛ましく、むしろクリスマス・イヴに綾を拒んだ蓮に対する怒りの形にさえ見えた。

 蓮の中で、後悔と同時に綾への恐怖が膨らんでゆく。自分の知る、妹のように思ってきた寺枝 綾は、こんなことをするような少女ではなかったはずだ。

 だから、「あっ、そうだ!」と昔と同じように顔を綻ばせた綾に、そうすべきでないとわかっていても、一瞬だけ蓮は安堵した。しかし。

「その腕時計、まだしてくれてたんだね! ううん、どこにいても、何してても、ずっと着けてくれてたんだよね! リオさん?といるときも。ありがとう、蓮くん♪」

「――――っ!?」

 綾の前で、莉緒の話をしたことは、なかった。

 腕時計を中心に、左手首から体中へ毛虫が這い回っていくような嫌悪感と恐怖が蓮を襲った。

「楽しそうなおしゃべりとか、キスしてる音とか、聞いたことないような声とか、全部聞こえてたよ? だから頑張れたの。もっと頑張らなくちゃ、って。もっと頑張って蓮くんに帰ってきてもらわなくちゃ、って!」

 喜々として話す声を聞いたとき、蓮の中からは目の前の少女に対する恐怖以外の感情が消えた。

 目の前にいるのは、一体誰だ?

 芽生えたその思いは、震えたまま動かすこともできずにいた彼の両足にすぐさま伝わった。

「う、うぁぁぁぁぁっ!!」

 蓮は、恐怖のままに、本能が命じるままに走る。兄代わりの自分と、妹のような綾との間に続くと信じて知らずに彼自身も依存していた、幼くも純粋な「世界」を脅かす存在から。後ろから聞こえてくる声に耳を貸すことなく、ただ走った。住宅街を抜け、川沿いの大通りから裏道に入るドライバーが頻繁に利用する少し広い車道にさしかかる。しかし車に構う余裕など、蓮にあるはずもない。


 そして、蓮が渡り終えた直後。


 キィィィィィィ!!!

「蓮く、」

 ドッ


 鈍く湿った、重量感のある音の後で一瞬訪れた静寂。

 走り去っていくトラックのエンジン音と、赤いテールランプ。遠く、淡く、現実味がない。

 慌てて駆け寄った先、足元に倒れている少女は、紛れもなく蓮の幼馴染であり、間違いなく彼にとって大切な人だった。恐怖からではなく、蓮の全身が震えだす。

 音すら消えてしまったような夜闇の中、蓮は綾を見下ろしながら思い返す。


 彼女が自分を呼んで笑うたび、嬉しかった。

 彼女の泣き顔を見るたび、何とかしたいと思った。

 綾が笑ってくれるならなもできると、そう信じていたのに。


 開いた箱から漏れるように蘇る在りし日の記憶が、蓮の心を軋ませる。記憶の中で輝いている明るい笑顔と足下で沈黙している冷たい顔。頬には青黒い痣ができて、頭からは赤々とした命が流れ出ている。

 胸の痛みはやがて熱となり、両目から溢れた。

「綾……?」

 広がり始める血だまりに足を踏み入れて、蓮は綾に近づく。

「起きてくれよ、綾」

 手が汚れるのにも、ズボンの膝が汚れるのにも構わず、蓮は綾の傍で屈み込み、肩を揺する。しかし、綾の瞳は固く閉じられたまま、何も応えない。

「綾、目を覚ましてくれよ。ほら、風邪……ひくから……っ、もう、ひと、りにっ、しない……から…………!! 頼むよ、綾………………っ!!」

 後悔の涙を流す蓮と、倒れたまま動かない綾の上に、脆く儚い、ちらちらとした粉雪が降り始めていた。



 深夜のプラットホーム。

 紗月 莉緒は足取りも軽やかに電車を降りて、粉雪の降り始めた夜空を見上げていた。

こんばんは、今日も元気に通常運営、遊月奈喩多です!

今回は蓮くんのお話「自己逃避ラビュリントス」でした。お楽しみいただけたでしょうか? 逃げ出したくなる自分って、やっぱりいると思うんですよね。もちろん私にはいますよ(認めがたいことですが)。

今回はちょっと長めでしたね。

このお話『幸せは冬の夜に歩いてくる』は、もうしばらく続きます。

次回は蓮くんの恋人、莉緒さんのお話……。


またお会いしましょう!

ではではっ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ