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幸せは冬の夜に歩いてくる  作者: 遊月奈喩多
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依存性ミュンヒハウゼン

胸に秘めた願い、想い。

それはきっと、誰にでもあるもの。

とある聖夜。募る想いを約束に託した少女の、出会いの話。

 いわゆる聖人が生まれたという俗説が実しやかに喧伝される日の前夜。冬至の祭り事に関連する日であるという説もあるその日を迎えるその夜は、しかし寺枝綾てらえだあやにとっては単なる幸せな夜だった。

 見上げた夜空では、蒼い月が雲のヴェール越しに柔らかな、それでいてどこか冷ややかな光で地上を照らしていた。その光は、見る者によってはそれだけで無常の幸福を感じ、月への想いを募らせることになるやも知れないくらいに美しかったが、少なくとも綾はそういった類の人間ではなかった。

 綾が自宅の玄関先に立っているのは、ついさっき帰って行った人の影を青白く静かな夜道に見ているからだった。この夜道には別段魅力を感じているわけではない。彼女にとってこの道は、単に高校に通うときや買い物に行くときに通るだけの、単なる見慣れた道だったのだから。

 だから綾の意識は、帰って行った「彼」の方に向かっていた。

「またね、れんくん……」

 仄かに紅潮した頬を隠すようにマフラーで顔を覆いながら、綾は先程までの時間を、そして彼と出会ってから今までの自分たちの日々を思い返していた……。


 松嶋蓮まつしまれん

 綾の4つ年上の幼馴染で、幼い頃はいわゆる「近所の優しいお兄ちゃん」だった人。そして今では……、その先の関係に進みたい人。

 そう思ったのはきっと、彼が綾に「温もり」を教えてくれたからだ……と綾は思っている。

 綾は、家族の温もりというものを感じられずに育ってきた。

 物心着いた時には既に両親の関係は冷え切っており、2人が顔を合わせているときに浴びせ合われる罵声は子供心に聞いているのが辛いものだったし、そこで互いに投げつけ合われる単語が相手を酷く侮辱するものであることは、父や母の反応からわかった。

 物が飛び、言葉が飛び、寺枝家では実に多くのものが飛び交っていた。

 それぞれがまるで火のように、家のあちこちを燃やしていく。どこに逃げても、両親の喧嘩の痕跡からは逃れられなかった。

 そして、両親の不仲は当然のごとく綾自身にも飛び火して、幼い心身には無数の傷が刻みつけられた。

 父のように、短絡的に暴力を振るうだけならまだよかった。それでも痛みはあったが、ただ痛いだけである。その時間さえ耐えきれば後は放っておいてくれる。

 しかし、母はそうではなかった。

 母による虐待は陰惨を極めるものであり、必ず外からは見えない部分に傷を付けられた。綾が痛みに慣れてしまった部分に気付かれると、その次からはその他の部位に痛みを加えられた。母は、綾の泣き叫ぶ顔を見るまでは決して手を緩めなかった。

『お前がいると、離婚もできやしない』

『どっかにいなくなってくれない?』

 そんな言葉を、声音まで思い出せるほどに聞かされながら。

 寺枝家の状況は、後になって知ったことだが、綾が当時思っていたよりも周囲に知れ渡っていた。それでも、両親の剣幕に躊躇して――そう語ってはいたが恐らく厄介事に首を突っ込みたくないと思っただけであろう――、誰ひとりとして効果のある助けを向けてくれる者はいなかった。

 全くなかったわけではないが、ただ1人を除いてほぼ全員が、中途半端な同情から却って綾の心を傷付けることを言うか、挙句の果てに両親を問い詰めたりする者までいた。そんなことをされたら、家族だけになった時にどうなるかわからなかったのだろうか……と綾は今でも思う。

 そんな中で、当時小学2年生だった蓮は違った。

 綾の求めてなどいない中途半端な「助けの手」を差し伸べることなどなく、自分に対して、いつでも優しくしてくれた。嫌なことなんて忘れてしまうくらい、楽しい気持ちにさせてくれた。ほんの数十分公園で一緒に遊んだりするだけの交わりだったが、それでも綾にとってはかけがえのない――その記憶さえあれば両親からの理不尽な暴力にも耐えられるといったくらいに大切な時間だった。

 独りきりで泣いていることの多かった綾を気にかけて、時間のあるときにはいつも一緒にいてくれていた蓮。他人のことを信じられなくなったあとでも、「いつも優しいお兄ちゃん」である蓮の前では綾も明るいままでいることができた。

 そして、蓮への気持ちが強まった決定的な出来事がある。

 小学校に上がる前の冬の夕方、綾はとうとう耐え切れなくなって家出した。

 外では相変わらず仲の良い家族を演じていた寺枝家だが、内情は蓮と出会った2年前よりも酷いものになっていた。父親の暴力は強まっていき、母の虐待も食事を取り上げる、熱湯をかけるなどといった程度では済まなくなり、綾は当時の年齢では考えられないほど醜いものをいくつも見せつけられた。彼女の母は、そういう面を持つ女性だったのである。

 その諸々に耐え切れなくなった綾は、どこか遠くに行きたくて――自宅から少しでも離れたくて――家出をしたのであった。

 結局のところ綾は自宅からそう遠い所には離れておらず、彼女の家出がわかってから2時間ほどで蓮が見つけた。しかし、綾は蓮の言葉でさえも拒んで、尚も走り続けようとした。自宅にはもう、戻りたくなかったのである。だが、幼い彼女の意思に反して体力の方は底を尽きており、走ろうとする足取りはふらついて、蓮はすぐに綾に追いついた。

 そのときに言ってくれた言葉を、綾は今でも忘れていない。

『ぼくが綾ちゃんを幸せにするから、いなくなったりしないで』と、必死な顔をして、言ってくれた。

 そしてその言葉の通り、蓮はそれから今日まで――――少なくとも綾の目から見れば――――綾の幸せを最優先にしてくれていた。どんなことであっても、今にして思えばあまりに自分勝手だったと綾自身が恥ずかしくなってしまうようなことでも、蓮は嫌な顔1つせずにしてくれた。そのことに対して綾は蓮に心の底から感謝しているし、きっとその優しさのおかげで、両親との地獄のような日々も乗り越えられた。

 そんな感情は、いつしか別の色を帯び始め、綾は思うようになったのだ。

 できることなら、彼と新しい関係になりたい。

 ずっと「蓮お兄ちゃん」と呼んでいたのを最近になって「蓮くん」と改めたのも、そんな気持ちからだった。いつか読んだマンガのように、一緒にいるうちに自然とその先の関係に進めるかも知れない……そんな期待の表れだった。

 しかし、そう意識し出した頃になって、あるいはそう意識したことによって、綾は蓮との「新しい関係」に進むには開きが目立つ距離の存在に気付いてしまった。恐らくは蓮自身も気付いていなかっただろう。蓮だけに依存し、蓮だけと深い関係を築いてきた綾だからこそ、周囲との関わりの中で生きてもいた蓮より敏感に、その距離を感じ取ることができた。

 それは、綾でなければ変化とも思わないような、些細な変化。

 メールの返信が、たまにそっけない文になっているような気がする。

 自分といるときに携帯が鳴って、今までは切ってくれていたのに出るようになったこと。

 前よりも、友達を作るように促すようになったこと。

 客観的に見れば、それは綾の被害妄想のようなものだったかも知れない。それでも、蓮のことをきっと誰よりも知っている――そう思っている綾の中に芽生えた違和感は、どうしても拭えはしなかった。

 しかし、蓮は出会った頃から変わらず優しい。

 だから綾もそれに甘えて自分たちに巻き付く不吉な予感から目を背けてきた。綾しか感じ取っていないようなその距離を直視しようとさえしなければ、自分たちの世界はとても幸せなのだから。だったらそれでいい。そうして、目を背けてきた。

 だけど、それではいつまで経っても前に進めない。

 いつからか心の中に響き始めたそんな焦燥感に似た声。その気持ちに促されるように、そしてずっと目を背けてきた不安との決着を付けたくて今日――――12月24日に会うことにしたのだった。


 クリスマス・イヴ。

 目にやさしい明るさに調整された室内照明の下で、綾は大切な人と聖夜を祝った。といっても、何か特別なことをするといったことはなく、ただいつものように談笑したりする延長として少し豪華な食事をしたり、甘めの味付けのノンアルコールワインを飲んでみたりするだけのささやかなパーティーだった。

 凝った料理を作れないと相談した綾に蓮が作ってくれた料理はあっという間になくなり、またしばらく2人で他愛ない、日常であったことなどの話が始まった。

 その話の最中、少し蓮の反応が鈍くなった。

 何かを真剣に考え込んでいるような、ここには直接関わりのないことを思い返してでもいるような……。その態度が不安になり、綾は声をかけた。

『蓮くん?』

 蓮がその声に気付いたのは、綾が声をかけ、すぐ近くまで寄ったときだった。ハッと気付いた蓮がこちらを振り向く蓮に『どうかしたの?』と綾は尋ねる。

『え、な、何が?』

 意識が考え事の方に飛んでいたのだろう、蓮が慌てて聞き返してきた。綾は、蓮の眉間に目を向ける。

 幼い頃から、蓮が何かを気にしている時には眉間に浅いしわができる。もちろん、その時にも浅くしわが刻まれていた。

『何か、凄い難しい顔してたよ? あっ、もしかして誰かと約束とか、あった……?』

 もしそうだとしたら、それ以上に自分を優先してくれたことに対して嬉しく思う気持ちだってあるにしても、蓮が気を揉むようなことになってしまうのは何だか悪いような気がした。それを知らずに楽しんでいた自分が恥ずかしくなり、綾は表情を曇らせる。

 すると蓮は『そうじゃないんだ!』とかぶりを振りながら綾の両肩を掴む。

『違う、そうじゃない。俺はただ、今年が綾にとってどんな年だったかって、』

 そこまで言ったところで、蓮が口を噤む。綾にも、蓮が口を噤んだ理由はわかった。今年は綾にとって、1つの大きな節目となる年だったのである。

 それは、喜ばしいこととは言いにくい――しかし、綾の苦境から言えばある意味で大きな転換点とも言える出来事に起因している。

 長らく綾の心身を蝕んでいた両親が、今年の春先、不慮の事故で命を落としたのである。

 春先、独り立ちを目的に寮のある高校を受験して、そこへの進学を決めて中学校を卒業した翌日。2人は外出先で死亡した。生前の両親は双方ともに親族との折り合いが悪く、葬儀に駆け付けるような親族がいなかったため、喪主は綾の役目となった。葬儀で涙を流すことなく役目を果たした綾の姿を、手紙くらいの付き合いのなかった、もしくは結婚前の両親とだけ付き合いのあった参列者の多くが気丈だと言った。

 その声とともに、寺枝家の状況を知っていた者たちからの『きっと天罰だ』とか『これで綾ちゃんも楽になるのかね』といった声も、綾の耳には届いていた。

 彼ら――綾が両親の死を喜んでいると思っている人たち――曰く、綾は両親の死についてもしかしたら何も感じてはいない可能性もあるらしかった。

 確かに、両親が死んだ直後は実感が湧かずにいたし、葬儀に際しては喪主を務めることもあって多少気を張っていたから、両親の死について何かを感じるということはないわけではないにせよ、その思いは薄いものだった。

 しかしその後、改めて両親がいなくなったことを実感するにつれて、綾の中に積もっていく感情があった。

 それは悲しみなどではなく、空虚感である。

 皮肉なことに、逃れたいと思っていた両親からの虐待は、綾にとって敵意として彼女の生きる糧となっていた。それを事故などという突発的なことで奪われてしまった形になった綾を襲った空虚感は、そのうち生きる気力すら奪っていただろう。

 しかし。

『そうだね……。お父さんもお母さんもいなくなって、そのあと1人で暮らすようになって、大変なこともいっぱいあった。でもね、蓮くんがいてくれたから大丈夫だったよ』

 今までも、そしてこれからも。

 あの頃も、1人になった後も。

 その言葉は自分を責めている様子の蓮に向けたものというよりは、自分に向けた言葉。毎日気にかけて訪ねてくれていた蓮への想いを、自分の中で高めていく言葉だった。

 そして、気を取り直すように、綾は話題を切り替えた。

『そうだ蓮くん、プレゼント持ってきてくれた?』

 そこからが、綾にとっては本題だった。

『え? あぁ、もちろんだよ』

 蓮は少しぎこちなく、しかしいつものように優しく微笑みながら、「ちょっと待ってて」と言って大きな紙袋の1つを綾に手渡した。

『メリークリスマス、綾』

 手に持ったときに感じた重さから、恐らくはハンドバッグであるらしいことはわかった。「え、何だろう?」という綾に「開けてみてよ」と促す蓮。包装を解くと、その中には、綾がテレビCMで見てからほしいと思っていたバッグが入っていた。

『ありがとう蓮くん、このバッグほしかったんだ~!』

『よかった。もし違ったらどうしようかって、ヒヤヒヤしてたよ』

 あんまりああいう店慣れてなくて……と小さく呟く蓮。確かに、海外の有名ブランドのバッグを買う蓮など想像がつきにくい。そんな蓮が、自分のために右往左往しながらバッグを買っている様子を想像したら何だかかわいらしく思えてきて、綾は思わず「ふふっ」と笑っていた。

『ん?』

『蓮くん、かわいい』

 つい口を突いて出たその言葉に、蓮は『えっ?』と驚いたような顔をしてから、『かわいい、ってのはちょっと複雑な気分だな……』と頬を掻きながらそっぽを向く。その姿がますます愛おしくて、綾は『冗談だよ~』と形の上だけ訂正した。

『ありがとね、蓮くん!』

 後に付け加えたかった言葉は胸に秘めたまま、綾は言った。

『わたしからも、これ。もしかしたら趣味じゃないかも知れないけど……』

 口ではそう言ったが、そうでないことは知っているつもりだ。蓮が何に興味を持っているかは調べてある。それをもとに選んだプレゼントだから、きっと喜んでくれるだろう。

 その予想は当たり、蓮は案の定、綾の渡した腕時計を見て少し――きっとあまり露骨に反応するものではないと思ったのだろう――嬉しそうな顔をして、『ありがとう』と言った。

 よかった、ちゃんとほしい物をあげられたんだ!

 その幸福感が、綾の背中を強く押した。

 だから、綾はきっかけを探るように、口を開いた。

『蓮くんってさ、今まで好きな人とかどうしてた?』

『――――――っ!?』

 蓮の反応は、綾の期待を少し上回っていた。

 その言葉を発したとき、蓮は明らかに驚いていた。動揺していた。

 それって、どういう意味?

 蓮との会話の中で、何度そう訊きたくなっただろう。その反応を見てから、蓮が帰って行くまで、綾は蓮の動揺した顔が頭から離れなかった。それくらいに、蓮の反応は綾にとって期待を募らせるものだった。

 しかし、当の蓮はすぐに気を取り直したように『そっか、好きな人か……』と柔らかく――まるで年の離れた妹の相談を受ける兄のように――微笑んだ。そして、何事かを考えるような沈黙の後、やはり柔らかい笑顔で、答えを返してきた。

『最終的にさ、気持ちを伝えられるかどうかなんじゃないか? 本気だって相手に分かってもらえれば……綾なら、大丈夫だよ』

 柔らかい笑みで蓮がくれたアドバイス。

 しかし、その笑みはどこか取り繕ったように張り詰めていて、痛そうだった。

 その顔を見て、綾は胸が締め付けられるように痛み、それと同時に心が弾けてしまいそうなほどのある「予感」に胸を高鳴らせていた。

 違うよ、蓮くん。

 そんな顔をしないで。

 その期待は、やがて今にも溢れそうな心の澱となって。

『蓮くん、あの……! あのね、』

 綾は、溢れる感情のままに言葉を続けた。


『あの……、わたし、は……。ずっと、ずっと……!』

『そんな風に言い出されたら、きっとみんな綾のこと気にせずにはいられなくなるかもな』

 優しく、柔らかく、しかし綾の言葉を遮るように、蓮は笑顔でそう言った。


『いつまでも小さいままみたいに思ってたけど、綾だってもう高校生だもんな。そうやって言いたくなるくらい好きな人だって、できるよな』

 優しげに続けられた言葉に綾は続ける言葉を失い、宙ぶらりんになった感情の行き場を作るように、笑顔の形を思い出して、できるだけ震えないように言葉を出す。

『蓮くんも、そうだった?』

 笑みの形に歪んだ顔で、綾は尋ねた。蓮の返事は、『ちょっとだけドキッとした』というものだった。

『ちょっと蓮くんで練習してみたんだけど……。ふーん。蓮くんにそう言ってもらえると、何か自信になるような気がするよ!』

『そっか、だったらよかったよ』

 そう、蓮はまた軽く笑った。

 その後、またとりとめのない会話が続き、蓮は帰って行った。


「伝わらなかったのかな……」

 静かな自室のドアを開け、ベッドの上で仰向けになる。

 1人で暮らすことになった綾が最初にしたことは、自室にある天窓を塞ぐことだった。この天窓から見上げる夜空は、母が綾に見せつけていた穢らわしい行為を思い起こさせるからだ。だからまず最初に、天窓にベニヤ板を取り付けることで、綾は1人での生活を始めたのだ。

 かつて夜空が見えていた場所にあるベニヤ板を見つめながら、しかし綾はそんな遠い記憶ではなく、先程夜道を帰って行った蓮のことを思っていた。

 好きな人がいることを仄めかしたときの動揺した顔と、自分の言葉を遮るかのように発せられた蓮の言葉を反芻する。

 きっと、タイミングが悪かったんだ。

 ちょっとしたタイミングの問題で、たまたま蓮くんに言葉が届かなかったんだ。

 わたしの気持ちが、まだ足りないんだ……!

 綾はベニヤ板の向こうに広がる夜空を見上げながら思った。だから、次は。

「でも、次に会ったとき言えるかな~。それに、やっぱり恥ずかしいし……」

 頭を抱えて、ベッドの上で転がる。

 思案から漏れる唸り声は、しかし数秒ほどで止まった。自分以外誰もいない自宅のインターホンが、押されたのである。

 こんな時間に、いったい誰が?

 蓮くんかな――一瞬の恐怖を、そう口に出すことで打ち消す。

「はーい!」

 もし蓮くんだったら、もう1回言ってみよう。ちゃんと、あなたのことが好きだって。小さい頃からずっとずっと、蓮くんのことだけが好きだったって。最初は驚くかも知れない。でも、きっと彼は優しい顔で受け入れてくれる。

 期待と緊張で自然と呼吸が早まる。

 急ぎ足になっていく。

 冷たい廊下に足音を響かせて、綾は玄関に向かう。

「れ、……!」

 勢いよく開けたドアの向こうには、背の低い黒服の人物が立っていた。

「どうも、夜分遅くに失礼いたします。私、タカギと申します」

 つばの広い山高帽に黒い背広姿。目深にかぶった帽子のせいで顔ははっきりと見えないが、機械の合成音のような声は低く、恐らくは男だと思われるその人物は、慌てたような身振りで――しかし口ぶりは落ち着いた状態で――「あぁ、失礼いたしました。私、怪しい者ではございません」と言って、あからさまに怯えている綾に歩み寄る。

「私は、幸せを提供することを生業にしているのです」

 そして、穏やかな口調で続ける。

「寺枝 綾さん。あなた、幸せになりたいですか?」

 月明かりはもう届かなくなってしまった闇夜の中、玄関照明に照らされる人影を、綾は呆然とした表情で見つめていた…………。



 1月も半ばに差し掛かり、新しい学期が始まって数日。

「綾、こないだ出た睦月いつかの新しいCD聴いた? ……ねぇ、綾?」

「えっ?」

 不意に声をかけられて意識を戻すと、目の前には怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでいる友人の優奈ゆうながいた。優奈は、綾の意識が自分に向いたのを察したのだろう、「最近ぼーっとし過ぎ~」と苦笑したあと、綾に心配そうな顔を向ける。

「ねぇ、最近何か変だよ? どうかしたの?」

 いつも前向きで明るくて、元気の塊のような優奈のそんな顔を見るのは初めてで、綾は少し戸惑う。

「えっと、わたしそんなぼーっとしてた?」

 尋ねる綾に優奈は「うん……」とまた心配げに頷く。それから取り繕うようなニヤリ顔を浮かべて「あっ、もしかして愛しの『お兄ちゃん』とケンカでもしたの~?」と訊いた。優奈には、蓮とのことを話の流れ上知られているのだ。

 思いも寄らない言葉に、綾は慌てて弁解する。

「えっ、い、いや! そんなことないよ! 蓮くんは優しいから、喧嘩なんて……」

「ま、そうかもねー。一緒に会ったときも優しそうだったし。いい人っぽいよね~」

「でしょ!?」

 蓮を褒める言葉が嬉しくて思わず声を上げてから、周囲の視線が気になって顔を赤らめる。優奈はそんな綾に「それでこそウチの親友・寺枝 綾だね」と安心したように言う。それから、最後に念を押すように綾の顔を真正面から見つめる。

「ほんと、何かあったら言ってよ? ウチら、友達なんだからね」

 入学した日から1年近く一緒に付き合ってきた綾には、その言葉が心から自分を案じた言葉であることがわかる。その優しさに、綾は「ありがとう……」と返す。対する優奈は少し照れたように顔を背け、「え、えっと! 何かしんみりしちゃったね、ごめんごめん! でさ……」と話題を変えた。

 その後、分かれ道に差し掛かり、優奈は右に、綾は左に進む。

「じゃーね、綾!」

「うん、ばいばい。優奈」

 親友を見送って、1人になった帰路で、綾はまた考える。


 年が明けて、そろそろ半月も経とうという時期。

 もちろん、クリスマスパーティー以降も蓮と会う機会はあった。大晦日こそ一緒にいられなかったものの、新年の初詣には一緒に行くことができたし、正月三が日は毎日のように蓮と会っていた。その中で色々な話ができた。しかし、その時の綾には、蓮に想いを伝えるよりも考えなくてはならないことがあった。

 蓮に想いを伝えようとした夜――まるで奇妙な夢のように現れたタカギとの会話が、綾の心を捕らえて離さなかったのである。

 深夜、他に出歩くような者もない寒い道を、綾とタカギは歩いた。

 そして綾は、初めて出会った奇怪な人物に自分の秘めてきたことを洗いざらい話していた。過去の辛い経験から、蓮への想い、そして2人の間に感じる微かな距離についても。

 それを静かに聞き終えたタカギは、綾に言ったのである。

『では、蓮さんが特に優しかったのがどんなときだったか、綾さんは覚えておいでですか? きっとそれがわかれば、貴女の幸せは目の前ですよ。もちろん、努力は必要になると思いますが……』


「蓮くんが優しかったとき……?」

 蓮は、初めて会った時からいつでも優しかった。綾が願ったことはなんでも叶えてくれたし、どんなときでも綾のことを気にかけてくれていた。そんな蓮だから、綾は半月ほど経った今でもタカギが出したヒントらしきものを理解することができずにいた。

 少し頭が疲れて、綾は顔を上げる。

 疲れた時には遠くを見るといい……というようなことを蓮が教えてくれたのを覚えていたからである。

 確かあれは、公園で1人で泣いていた時に、初めて声をかけてくれたのと一緒に言ってくれたんじゃなかったっけ……。

 そこで、綾の思考は止まってしまった。

 少し遠くまで見える土手の上。そこを歩いていたからだろう、綾はある姿を見てしまった。

 蓮が、同い年くらいの女性と仲よさげに並んで歩いている姿。

 きっと、蓮くんは優しい人だから、友達だって多いだろう。その中には女の人だっているはず。それくらいのことは綾にもわかっている。

 それでも、遠くに見える2人の距離は自分が感じている距離よりも狭いように見えて。

 綾は、2人が見えなくなるくらい遠ざかるまで、ただ遠くから見ていることしかできなかった。楽しげに笑い合って、寒さに後押しされるように体を寄せ合って歩いている姿を。

 2人が見えなくなったとき、綾の中である「答え」が見つかった。

「やっぱり、『努力』しなくちゃいけないんだ……」

 ……タカギさんが言っていたみたいに。

 冬の冷たい風が綾の体を通り抜けて、夕暮れの空へと溶けてゆく。

 見上げた先では、赤と黒の境界が曖昧になっていく。黙したまま何も語らず、全てを見下ろしている黄昏の空を、綾は決意の瞳で見つめていた。


 寒い冬の夜。

 日付も変わろうかという時間の暗い道を、綾はスキップ混じりで歩いていた。

「ふんふんふーん♪」

 自然にハミングが漏れるほど、綾は上機嫌だった。

 何故なら、「答え」を手に入れたから。蓮が自分に特に優しくしてくれたのがどんな時だったか、それを思い出したから。そうすればその為にすべき努力はわかりきっていた。

 そして今、綾は満を持して蓮のいる場所を目指して歩いている。

 ……待っててね、蓮くん!

 そうしたらわたし、きっとこの想いをあなたに伝えるから!

 溢れるほどの思いを抱えながら、高鳴る胸を愛おしむような笑顔で綾は歩いている。

こんばんは、遊月奈喩多です!

新しい連載作品、はじめました。

今回は、以前書いていた作品のリメイク版的なものを上げてみたつもりです(といっても、そのときは主人公が違っていたので、書いていてかなり別もの感ありましたけどね)!

さて、綾ちゃんが見つけた「答え」とはなんなのでしょうね……(サブタイトルでお冊子いただけたかもしれませんが)。


次回は、蓮くんのお話です!

ではではっ!

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