非一様な回転運動の結果と考察
突然で申し訳ないが、まず近くの椅子に座っていただきたい。椅子といっても、座った状態でくるくると回るタイプの椅子でなければならない。そう、パソコン室にあるアレである。ご着席いただけただろうか?
よろしい。そのまま目を閉じて、できれば明かりを消して、部屋を真っ暗にすると良いだろう。できるだけ静かな方が良い。そのままくるりと一回転。くらくらする感覚に酔いしれながら、もう一回転。頭が痛くなってきたら、思い切って、そのまま勢い良く回ってみよう。なんとも形容しがたい壮絶な感覚が味わえただろうか。いや失礼、気分が悪くなったかもしれない。疲れたら横になって休むと良い。
まるで自分が世界から切り離されたかのようで、僕は好きだ。時々くるくると回りながら、宇宙の果てについて思いを巡らせたり、好きなメロディを頭の中に流したり、片思いのあの子のことを考えたりするものだ。
ただ、回り終えた時には、決まって頭が痛くなるのが、なんとも言えない欠点である。自分だけの世界から、強制的に現実に引き戻される感覚。それが頭痛の正体に違いない。そう、ならば、そのまま永遠に回り続ければ良いだけの話。現実からどんどん離れていくように、くるくると……、下へ、回って、揺られながら……。
目が覚めると、
そこは異世界だった。
*
夢にしては鮮明すぎるが、現実にしては非現実すぎる景色がそこには広がっていた。豪華なシャンデリアが視界に入り、それが天井であると気づく。下を見れば赤い絨毯。僕はそこに豪快に寝そべっていた。
ここは城の中のようだ。それもかなり大きな城。廊下が見渡す限り続いている。ふと、自分が案外冷静でいることに気づく。
これはあれだ。最近流行りの異世界トリップで間違いない。そうすると、すぐに美少女に出会って、なし崩し的にあんなことやこんなことができるはず。なるほどテンプレ展開。気分は上々。
「あの……そろそろ私に気づいてもいいと思うんですけど」
心臓が跳ねた。女の子の声が聞こえ、振り返って姿を確認。ここまで約0.5秒。
そこには困った顔がとても可愛らしい、紛うことなき美少女がいた。テンプレ回収。
「えっと……お嬢ちゃん、名前は?」
我ながらジェントルな台詞じゃないか。
「えっと……あ、いえ、やっぱり知らなくて大丈夫だと思うんです」
「なんでやねん!」
いけない、つい関西弁が出てしまった。主人公、キャラ崩壊の危機!
「そもそも、自分が先に名乗るのがマナーだと思うんですけど」
笑いながら少女は言った。うーむ、確かにそうかもしれない。
「ごめん。僕はユウキっていう名前。君は?」
「私は、スイです。すぐにお別れですけど……ね」
そう言って、スイは少し寂しそうな顔を見せた。……すぐにお別れ?
「それは、どういう意味……?」
僕はスイに尋ねた。
「着いて来てほしいんです」
*
「あなたは……、いえ、ユウキさん? ユウキ……」
「はは、どう呼んでくれても構わないよ」
案内されたのは、おそらく書斎だ。少し広めの空間に、年季の入っていそうな本棚が並んでいる。
「うーん、では、ユウキさんで」
「はい、スイさん」
少しからかってみる。スイはほっぺたを膨らませて、なんとも可愛らしい表情になった。
「むー、私はスイでいいです……。ユウキさん、あなたはおそらく椅子の迷い人なんです」
僕は耳を疑った。
「椅子の迷い人?」
「はい。時間があまりないので、詳しくは説明できないんですけど。とにかく、この椅子に座ってくるくると回ってもらえば、それでおそらく帰れると思うんです」
椅子に座ってくるくると、か……。つまり、そういうことだ。それがおそらく、現実世界とこの異世界を繋ぐキーなんだろう。
「時間がないって……、それは、僕の元の世界に帰れなくなるということ?」
「そうです。ユウキさん、そこの椅子に座って欲しいんです」
そう言って、スイは木でできた小さな椅子を指差した。
「ちょっと待ってよ……、もうちょっとだけ、僕はここにいたい。駄目?」
「えっ……?」
スイは困惑した表情を浮かべた。
「初めてです……、そんなことを言ってくれた人は。でも、もう、時間がないんです。ユウキさんがこの世界に来てから、もう20分が経っています。あと、5分で行かないと。あの……」
あと5分か……。ああ、世界はあまりにも理不尽だ。そもそも、僕がここに来たのも、現実世界から離れたいという願望があったからではないのか。現実世界が嫌になって、どこか違う世界に憧れを抱いたからではないのか。
「ユウキさん……。さあ、座ってください」
「もう永遠に君とは会えなくなるのに、お別れの時間すらないなんて……寂しいよ」
「そうは言っても、私たち、ほんの20分前に出会ったばかりなんですよ……? きっと、すぐに忘れられると思うんです……」
そうは言いながらも、スイは寂しげだ。迷い人。スイはこれまでに何人と、こうして短い時間に別れを告げなければならなかったのだろう。
僕は、その小さな椅子にそっと腰掛けた。
「忘れないよ……。絶対に。忘れることなんてできない」
「そう言ってもらえると嬉しいんです……。さようなら……、ユウキさん」
「うん……。ありがとう、スイ」
僕は目を閉じて、視界を遮断した。スイはそっと椅子に手を掛け、くるりと一回転させる。いつもの感覚。これは、現実世界に引き戻される感覚だ。
しかし、椅子はそれ以上回らずに、ぴたりと止まってしまった。
おそるおそる目を開ける。すると、スイの吐息が顔にかかり、そのまま、
そっと、接吻した。
「……!」
僕は泣いてしまった。情けない。でも、スイも多分泣いていたと思う。
「会えて良かったです。嬉しかったです。ありがとう……ユウキ」
そして、そのまま世界が、フェードアウトした。
*
気がつくと、僕は現実世界で、椅子に座っていた。いつもの椅子。いつもの部屋。そして、いつもと違うのは、唇に残った熱だ。
僕は泣かなかった。きっと、自分の中で、何かを諦めてしまったんだろう。現実世界で生きる覚悟が、できたということだ。
でも、あの子、スイだけはきっと忘れられないだろう。まあ、それはそれでよし。ものすごく可愛かったし。
そして、あのキスの感覚だけは、イスまでも忘れずに、大事に仕舞っておこう。
……。
…………。
椅子だけに。