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 美江が最初に注文したのはコーヒーであった。

 まずは気分を落ち着かせようと思って頼んだのだが、非常に味が良い。マスターが用意してくれた淹れたてのホットは、どうブレンドしているのか、香りもまた格別であった。

「……夢幻のより美味しいかも。料理はどうかしら」

 メニューを開き、予め目をつけていたパスタをしげしげと眺める。しばらく悩んだ末に、最も無難そうなナポリタンを注文することにした。

「すみません。この、『懐かしのナポリタン』を一つお願いします」

「かしこまりました」

 マスターはぎこちない笑顔で答えると、客席からも見えるキッチンで調理を始めた。

 左手に包丁を持ち、素早い手つきで食材を刻んでいく。接客技術はいまひとつだが、料理の方は安心してよさそうだ。

「料理は普段から、マスターがなさるんですか?」

「ええ。……といっても、料理も妻から教えてもらったんですけど。こう言ってはアレですが、妻の方が上手です」

「は、はあ」

 嘘でもいいから、客の前で自分の料理がまずいみたいに言うのはご遠慮いただきたい。例えそれが、謙遜であったとしても。

 美江が複雑そうにしている間に、マスターは黙々と調理を進めていく。

 しばらくして運ばれてきたのは、丁寧に盛りつけられたナポリタンであった。

 素朴な彩りでこそあったが、その飾り気のなさがかえって印象的で、その名の通りどこか懐かしい雰囲気が漂っている。そう、外食というよりは、家庭で母が作ってくれていたような。

「……美味しい」

 早速食べてみると、高級店で出されるものとは違う、暖かな味が口いっぱいに広がる。これで奥さんの方が達者であると言い張るならば、彼女は絶対に料理本を出すべきだ。

 フォークを動かしながらちらりとカウンターの方を見てみると、マスターはしきりに店の奥を気にする素振りをしている。どうやら、奥さんとお子様が気になって仕方がないらしい。

「あの。すっごく気にしてるみたいですけど、店を閉めて奥さんについているわけにはいかなかったんですか? 他の店員さんに任せるとか」

「うちは、アルバイトを雇っていないもので。そろそろ募集しなければと、一応チラシを貼ってはみたんですけど。それに、店を閉めたら収入がなくなってしまいますから。まだ軌道に乗っていないので、そう何度も休むわけにも」

「ああ、それもそうですね」

 経営などに関わったことがないのでよくわからないが、何かと大変らしい。

「そっか。そんな事情が」

「それに、私も早く慣れないと。足を引っ張り続けるわけにもいかないし。喫茶店を開くことが、妻の夢だったから」

「え……?」

 マスターは口角を緩めながらも、どこか陰りのある表情を作ってうつむく。

 そしてふう、と息を吐いてから、呟きのような小さい声で続けた。

「これには少々、わけがありましてね。何というか、私は普通とはちょっと異なる身の上といいますか。それでも、妻は私を受け入れてくれた。だから、今度は私が彼女を受け入れる番……彼女の夢を、手伝う番だと思っているんです。ですが、昔の生き方が悪かったのか、愛想を振る舞うこともできないし、うまく笑顔も作れない。ひどい時は、睨みつけているのかとお客様から誤解を受けたり。でも、それでも、私は彼女の力になりたい。そのためには定休日以外は休まず、少しでも収入を得ないと。店を潰してしまっては、元も子もありませんから」

 この人、本当に心から奥さんのことを。だから、苦手な接客も頑張っているのか……。

 フォークを運ぶ手を止めたまま聞き入っていた美江は、つい深く同情してしまった。

 どういうわけなのかはさっぱりだが、きっと色々あったのだろう。何せ、わけあり夫婦のようだし。うん、陰ながら応援させていただこう。

「諸事情でここに引っ越してきてから日も浅く、勝手もわからないことばかりですが、こうしてまあ、何とか細々とやっています。ああ、申し訳ありませんでした。お客さんに話すべきことではありませんでしたね」

「あ、いえいえ全然。早くバイトの人が見つかって、楽になるといいですね」

「そうですね。そうすれば少しは、妻と子供についてやれる時間も増えるでしょうし。でも、焦った末にろくでもない人材を雇うということだけはどうしても避けなければ。人材選びの重要性は、嫌というほど骨身にしみて」

「どうかされました?」

「い、いやいやっ。こっちの話です」

 思うところがあるのかもしれないが、これは詮索すべきことではないだろう。

 そう判断した美江は、気になりはしたが、深く掘り下げることなくナポリタンを完食した。

「すごく美味しかったです。ありがとうございました」

 美江が勘定を済ませながら言うと、マスターは小さくお辞儀をした。

「よければまた、来て下さい。御覧の通り、小さな店ですが」

「そんなに卑屈にならなくても大丈夫ですよ。この喫茶店、絶対流行りますって。もっと大々的に宣伝したら、間違いないですよ」

「宣伝……。極端に流行り過ぎても、困ったことになるんですけど。昔の私を知っている人が来たら面倒なことに」

「はい?」

「いや、その。ゴホンゴホン。では、今日はありがとうございました」

「は、はあ……」

 もしかして、ここのマスターはとんでもない過去を抱えているのか? 確かに目つきはきついが、そこまで悪い人とは思えないのだが。

 疑問に思いながらも、詳しくツッコむ勇気が湧かないので無言のまま一礼し、扉まで移動する。

 今KTHに戻れば、いい加減くだらない言い争いも終わっていることだろ……う?

「!」

 待て。待て待て。待て待て待て! どうしてこいつがここに!

 店を出ようと扉を半開きにした美江は、その隙間から見えたものに絶句し、大きく目を見開く。

「あ? 花咲か? 何でここにいるんだよ」

「あ、あ、あんたこそ!」

 扉の先に突っ立っていたのは、どういうわけか仁王立ちでかまえている永山だった。

 よく見るとその手には、経歴や趣味など色々書かれた履歴書を持っている。

「俺は新しいバイト始めようと思って、あれこれ考えてる時にチラシを見かけたもんだからここに。ほら、この間黒沢のせいで中抜けしたもんだからさ、一つ減っちまって。ここなら走ればすぐにKTHに着くし、都合もいいかなって。履歴書持参でいつでも来いみたいに書いてあったしな」

「黒沢さんのせいじゃなくて、あんたがバイトを詰め過ぎてるせいでしょ。でも、どうしてよりによって今なのよ。しかも、私が気に入ったお店……」

「ほーう。ここ気に入ったのか。てことは、相当美味いってことだな。うんうん、まかないにも期待できそうだ」

「あのねえ。人を食いしん坊みたいに言うのはやめてくれる? 私、お店選びは味だけじゃなくて、他の要素でもしっかり決めてるから」

「でも、飲食店ってのは所詮は味だろ。特に、お前の場合は」

「それ、どういう意味よ! 私の食い意地が、異常だとでも言いたいわけ⁉ 毎日試食巡りにふけってるあんたにだけは言われたくないわよ!」

「毎日行けるほど俺は暇じゃねえよ。それに、試食巡りのどこが悪い。チビ助のくせに、バカバカ食ってる奴がつべこべ言いやがって」

「自分が大食らいなのを棚に上げて、ふざけたこと抜かしてんじゃないわいわよ! 私はあんたが言うほど食べないし!」

「ほほーう。じゃあ、この前見たアレは何だったのかなあ。俺の記憶が確かなら、洋菓子店のバイキングで、ケーキを十個もたいらげてる奴がどっかにいたんだが」

「な、何でそれを……って、見てたの? つけ回してたわけ⁉」

「誰がてめえの尻なんて追っかけ回すかよ。偶然見かけたんだよ、偶然。バイトの帰りに、ちらっとな」

「でも、わざわざ私がケーキ食べてるところ見なくたって。あんたいつも、そうやって私のこと」

「ずいぶん自信家じゃねえか。花咲みたいな地味っ子が、俺に惚れられてるって妄想ができるなんてなあ。てめえこそ、俺を理想の王子様に見立てて」

「んなわけないでしょ!」

 最悪のタイミングで永山に遭遇したせいで、美江の口から心地良い余韻はすっかり消え失せてしまった。

 現在彼女が感じているのは、どうしようもないくらいのえぐみと苦み。よほどの解毒剤がない限り、しばらく中和されそうにない。

「どうかなされたのですか」

 痴話喧嘩に業を煮やしたマスターが、とうとうカウンターから出て扉の方に歩み寄る。心なしか、先程までと雰囲気が違う。

 彼が隙間から外をのぞき込むと、永山としっかり目が合った。

「ん? ひょっとして、ここのマスター?」

「さっきから何なのだ、貴様は。人の店の前でごちゃごちゃと抜かしおって。営業妨害だ」

「はあ? 抜かしおって? 変なしゃべり方だな。それに、退治したくなるような顔してるし」

「永山!」

 人に向かって、退治したいとは何事だ。確かにさっきとキャラが変わっているし、元から一風変わった空気をまとってはいたけれど。

 さらにわけのわからぬ方向に進み始めた雲行きに、オロオロと戸惑う美江。しかし、どうすることもできずに、ただ委縮するばかり。

「た、退治だと。……まさか貴様」

「何だよ。俺の顔に何かついてるのか?」

「……いや、気のせいか。この地域に、あいつらみたいな輩がいるとは思えん。ただ、何となく嫌な感じが」

「初対面の相手に向かって、嫌な感じとは失礼だな。せっかく面接受けに来たのに、こんなとこじゃ働けねえなあ」

「どこまで上から目線なのだ。それにこっちも、貴様のようなごろつきなどを雇う気はない」

「ごろつきだあ? おっさんこそ、さっきから口が悪いんじゃねえのか?」

「口を悪くさせているのはどこのどいつだ。それに貴様如きに、おっさん呼ばわりされる筋合などない」

「何かわかんねえけど、異様に腹立つな。やっぱ退治していいか?」

「やめなさいって!」

 喧嘩をひたすら売り続ける外道を、美江は体当たりで扉から遠ざける。

 懸命に永山を押しのけながら、ハブとマングースのように敵対し合う二人を交互に見た。

「あんた、頭おかしいでしょ! 一般人に向かって退治したいとか言うなんて。怒らせ過ぎて、口調変わっちゃってるし」

「は……?」

 少し前にも指摘されていたにも関わらず、ここでようやく気がついたのだろうか。マスターはパッと口を押え、挙動不審になりながら数歩退いた。

「くっ……またやってしまった。色々参考にして直したはずなのに、冷静さを失うとどうも。長年の習慣とはいえ、いまだに抜けきらないとは」

「今更気づいてんじゃねえよ。鈍いな、おっさんは」

「じゃかあしい! 貴様だって、二十年もすれば立派なおっさんだろうが!」

「また壊れてんぞ、言葉遣い。大体、今時貴様って」

「う……。と、とにかく、帰って下さい。あなたのような方を雇う気は、毛頭もありませんので。では」

 バン! という荒々しい音と同時に、扉が強い力で閉じられる。考えるまでもなく、逆鱗に触れてしまったことは明らかだ。

「ああっ! 色々すみませんでした! 後からしっかり、言っておきますから!」

 聞こえているかはわからないが、美江は失礼なごろつきに代わってマスターに謝罪の言葉を述べた。

 永山はというと、納得できない様子で再び嫌味の発射口を開く。

「何が後から言っておく、だ。そもそもてめえが、俺が店に入るのを邪魔しなけりゃ」

「邪魔なんてしてないわよ。あんたが私のことを、食い意地の張った奴みたいに言うから」

「事実を言って何が悪い。ならてめえが、ケーキを十個も平らげなきゃこんなことにはならなかったってことじゃねえか」

「プライベートにとやかく口を出さないでよ! 甘い物、好きなんだから仕方ないでしょ。ああもう、最悪。あんたがここに来たりさえしなかったら」

「人の行動範囲にケチつけてんじゃねえよ。どこまで俺を監視する気だ、てめえは」

「ストーカー呼ばわりしないでよ! こっちだってまだまだ、言い足りないことが」

「いい加減帰って下さい、お二人とも!」

「「……」」

 微かに開かれた隙間から、マスターに噛みつくような勢いで一喝された二人は決まりの悪そうにしながら顔を見合わせる。

 美江もポカンとしていたが、この不意打ちには無駄に肝が据わった永山も目を剥いていた。

「もう、勘弁して下さい。近所迷惑にもなりますから……」

 バン! という荒々しい音が、再び響き渡る。

 こうして、長らく続いた営業妨害は強引に幕を下ろされたのだった。

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