(2)
うまいことKTHを抜け出した美江は、何を食べようかと考えながら飲食店の多い通りをうろついていた。
「どうしようかな。ラーメンはこの間食べたし、おそばも少し前に……やっぱ、パスタかな?」
この辺りによく足を運ぶためか、大体の店の味は知り尽くしてしまっている。決してまずくはないのだが、かといってリピーターになるほど魅力的な店もない。
「うーん。このままじゃまた、スーパーのお惣菜に。でも、今日は普通に外食したい気分……あれ?」
ブツブツ言いながら足を止めたのは、ある一軒の店の前だった。
「何、この看板。かわいい」
外観こそやや古臭くてパッとしないものであったが、目を引きつけたのは店の名を宣伝する看板であった。
木製の看板にある、洒落たレタリングが施された店名『喫茶・プレセぺ』の横にちょこんと描かれた小さなカニの絵。あまり上手とは言えないが、どこか微笑ましく、何だか心が和んでしまう。
「プロの人のタッチって感じじゃないし、マスターが描いたのかな。でもここ、いつ出来たのかしら?」
美江の知りうる限りでは、プレセペなどという喫茶店は全く聞いたことがなかった。どう考えてもここは、オープンしてからさほど時間が経っていない店だ。
「ここの軽食、パスタ多いんだ。同じ喫茶店でも、『夢幻』はケーキばっかりだからなあ……。値段もリーズナブル。ちょうど食べたかったし、入ってみようかな」
ついでに、このカニを描いた人物のご尊顔を拝もう。若干ながら、興味がそそられて仕方がない。
貼り出されていたメニューを眺めながら思い立った美江は、扉を開けて店に入っていった。
「すみませーん……」
中に客の姿はなく、クラシック調のBGMが静かに流れるばかり。営業しているのかさえ怪しく思えるほど、人の気配すら感じられない。
「インテリアとかいい感じなのに、何か恐いわね」
想像していたよりも広く、ところどころに木をあしらった落ち着いた内装は好印象。だが、こうも人気がないと、かえってゾッとする。これではカウンター席に着こうか、それともテーブル席に着こうかと悩む以前の問題だ。
「ど、どうしよう。帰っちゃおうかな」
「……もしかして、お客様ですか?」
「ひっ!」
突然聞こえてきた声に、美江はビクッと肩を震わせた。
内装に気を取られて気づかなかったが、いつの間にかカウンターの方から店のマスターと思しき男性が顔を出していた。
歳はおそらく、四十代から五十代だろうか。しかし、いまいち年齢を特定するのが難しい顔立ちをしていて、推測の域を出ない。おまけにどこかの誰かほどではないが、少しばかり目つきが鋭いので何だか近寄りがたい。
そのせいなのかは定かでないが、パリッとしたカフェユニフォームを身にまとっているというのに明るく見えず、正直そんなに似合っていない。このような方が表の看板の絵を描いたのであれば、少々意外だ。
「驚かせてしまいましたか? 申し訳ございません」
「ああいえ、大丈夫です。気にしないで下さい」
店主である夫がやたらとぶっきら棒な場合、役割分担として妻が接客係に回ることくらい、個人経営ならありえる話かもしれない。
それにしても、妙にギクシャクしているというか。本当に、慣れていない感じがする。接客業を営んでいるというのに、人前に出るのが苦手としか思えない。
「あの。一人でやってるんですか?」
「いや、その。妻と二人でやってるんですけど、今はちょっと、子供のことで」
「えっ?」
まだ、お子様が小さいのだろうか。どう見ても、成人した子供がいてもおかしくなさそうだが。
美江が首をひねっていると、どこからか「あなた、お客さん? 今行きます」という、上品な女性の声が聞こえてきた。どうやら、店舗と自宅が共同になっているようだ。
それに対し店のマスターは、「大丈夫だ。君はゆっくり休んでいてくれ」と、柔和な口調で返した。
「奥さん、もしかしてご病気なんですか?」
「いや、病気ではなくて、その。最近退院したばかりで。生まれたばかりなんですよ、子供が。妻も疲れてますし、まだ子供を母親から離すわけにもいかないので」
「ええーっ!」
ということは、この方はその歳でお子様を儲けられたということか⁉ てっきり同年代の奥さんがいるのだと思い込んでいたが、もしかしてめちゃめちゃ若かったりするのだろうか。ということは、結構な歳の差婚だったり……。いや、高齢出産の可能性も捨てきれないが。
美江が胸の内だけで興奮する中、マスターの顔は客の前で見せるものとは思えないほど苦々しいものに変わる。いささか眉間にしわを寄せながらも、引きつった笑顔で接客を試みた。
「そんなに驚かれても。それに、私はこう見えて……ゴホン。失礼しました。席におかけになっておくつろぎ下さい」
「あ、は、はい……」
流石に怒らせてしまっただろうか。でも、これだけ話し込んでおいて、今更店を出るというのもどうかと思うし……。
多少の気まずさを覚えながら、テーブル席にちょこんと腰掛けた。時折店の奥から微かに響いてくる、赤ん坊の産声に耳を傾けながら。