黒船来航
ペリーが米国大統領の国書を携え、江戸幕府に開国を迫ったが、史実を覆す月之国からの使者が現れる。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。
老中首座の阿部正弘は、大名から庶民に至るまで海防に関する意見を求めていた最中に、将軍徳川家慶が死去し、世子の家定が13代将軍に就任する。
家慶の男子はほとんど早世し、生き残っていたのはこの家定だけであった。
しかし家定も脳性麻痺を患っており、乳母である歌橋にしか心を開かず、人前に出ることを極端に嫌う性格だった。
お付人や歌橋を含む乳母も総て、徳川家滅亡を画策する公家から送り込まれたくノ一であった。
家慶の側室で家定の生母である美津は三人の男児を出産したが、二人は死に、政之介(後の13代将軍家定)を懐妊した事がわかった直後に、お付に突き飛ばされた美津は転倒し、流産には至らなかったものの、政之介は胎内で脳にダメージを負った。犯人の女は逃亡した。
政之介を出産した美津は、全て乳母の歌橋に任せていた。美津は西ノ丸大奥にて「お部屋さま」と呼ばれるようになった。
天保8年(1837年)に11代将軍徳川家斉が将軍職を家慶に譲る。家慶は家斉と入れ替わりで本丸に入り、美津や他の側室、老女姉小路らが本丸大奥に入る。美津の子・政之介が将軍家継嗣と定められ、美津は次期将軍生母となり、次期将軍生母に相応しい身分「老女上座」を与えられる。
嘉永6年(1853年)6月22日に家慶が薨去すると、美津は落飾し、本寿院と号す。
勝海舟の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たす。
またひとり、黒田月舟という名を持つ他国人が役入りしていた。
幕末日本に資源と技術を伝来させる反則技戦記が始まりました。
一章では小さな海戦を繰り返すうちに海軍力を備えた日乃本が、二章では大戦に参加することとなります。




