3
栗次郎と猫のごんは道に迷った。
さらにごんは、悩んでいた。
ごん自身が何の根拠もなく、鬼ヶ島という場所がある、と言ってしまったがために、二人は歩いている。
しかし実際は作り話なのだ。鬼ヶ島があるかどうかさえ、ごんにはわからなかった。桃太郎という話は、おじいの家に密かに住んでいた、ネズミから聞いたものだった。
「ごんやい、ここは一度通ったような気がするのじゃが」
「んにゃ。そんなはずはないにゃ」
ごんはあせっていた。今さら鬼ヶ島なんて知らないなどと言えば、栗次郎はどんなに怒るだろうか。
とにかく今は気を紛らわせるために、歩き続けるしかなかった。
そろそろ太陽が、ちょうどてっぺんまで昇るころ、栗次郎は疲れを訴えた。
「ごんやい、ちと休まんかのう……」
呼吸も少し乱れてきている。栗次郎にとって歩くことは、あまり慣れていなかった。家で何かを作って遊ぶことのほうが多かったからだ。
「そうだにゃあ。でも、近くに水のにおいがするにゃあ」
「本当かの」
もう少し我慢して歩くと、ごんの言ったように、川が流れていた。
「これは、ありがたい!」
栗次郎は最後の力を振り絞って、川の側まで走った。川に両手を入れると、水をすくって口に含む。
「んあー、冷たくて、うまいのう!」
ごんも水面に顔を近づけて、ちろちろと舌を使ってのどを潤す。
「はらも減ったのう。栗を食べるか」
栗次郎は栗のカラを割って食べた。ごんにも栗を分けてやると、少しずつかじって食べた。
「はて、どうしたもんかのう」
さらさらと流れる川を見ながら、栗次郎はつぶやいた。
ごんは、また悩んでいた。
実は知らないにゃ、と言ってしまうべきか、あてもなく再び山を歩きさまようか。
「にゃー、にゃー、にゃああ……」
ごんは頭から湯気が出そうなほど考えた。その結果、頭がぐらぐらしてきて、目の前がぐるぐると渦巻いて、しまいに地面に突っ伏した。
「ごんやい! どうしたんじゃ!? ごんやい!」
栗次郎がごんの身体を激しくゆするが、何の反応もしない。
「こりゃいかん」
急いでごんの顔に水をかけた。何度かくり返すと、ごんは苦しそうに咳き込んだ。毛玉を吐き出すように、けほけほと息をする。
「み、水は苦手だにゃ……。でも助かったにゃ」
ようやく熱が冷めたようで、ごんは落ち着いた。
頭がすっきりすると、何をするべきかも決まった。
「栗次郎やい。話があるにゃ」
栗次郎は不思議そうに首をかしげた。
「それは本当かの?」
「本当だにゃ」
ごんは事実を話した。
桃太郎は作り話で、実際には桃太郎という少年も、鬼ヶ島も存在しない。ネズミから聞いた、嘘であったのだ。
「そうだったんじゃな……」
「そう、だにゃあ」
二人はしばらく黙り込んだ。
ごんは栗次郎の顔色を窺おうと見上げる。
栗次郎は下を向いて、目を閉じている。ごんは栗次郎が何か言うまで、じっと座り込んでいた。
「そうか。それは仕方ないのう。帰るかの」
栗次郎は荷物を持って、来た道を戻り始めた。
ごんはその小さく丸まった背中を見ていた。とぼとぼと歩いていく栗次郎のあとを、ついて行くしかなかった。
ごんが栗次郎の足に追いついたとき、山道の横にある草むらから、音が聞こえてきた。
遠くの方から、ガサガサという音と誰かの足音が近づいてくる。
「何じゃ?」
栗次郎は立ち止まって、うごめく草むらを見つめる。
次の瞬間、草むらから飛び出したのは一頭のイノシシであった。イノシシは栗次郎とぶつかりそうになったが、うまく避けた。しかし、その先には大きな木が立っていて、それに正面から激突した。
「いだああああ――――――――っ!」
顔面から突進したイノシシは、ひっくり返って暴れる。
「いだいっ! いだいっ! いだい、いっだいいいいいいっ! おおお……」
じたばたした後、急にしんと静かになった。
「な、なんじゃあ!?」
「イ、イノシシだにゃ」
栗次郎とごんは、突然のことに目を丸くしていた。
ぴくりとも動かなくなったイノシシに近づく。
「死んだかの?」
目を閉じて横になっているイノシシ。しかし、栗次郎が触れようとした瞬間、目をかっと見開いて、すばやく起き上がり、四本の足で器用に後ずさりした。
「ややややっやめっやめて、やめてくれっ! 殺さないでくれ!」
イノシシはぶつかってしまったことで、顔から血が出ていた。前足にも傷を負っていて、先ほどのように走って逃げることはできそうにない。それを察した栗次郎は両手を挙げて、殺すつもりはないことを主張した。
「落ち着くのじゃ。わしは何もせん」
荷物を降ろし、完全に手ぶらになった。
ごんがイノシシの前に出る。
「安心するにゃ。にゃあたちは、お前を狩ったりしないにゃ」
イノシシは一瞬、ぎょっと身体を震わせたが、ごんと栗次郎が本当に何もしない、ということを悟ったのか、その場にゆっくりと倒れた。
「大変じゃ。ケガをしたのじゃろ。なんとかせんと」
「栗を出すにゃ」
栗次郎は荷物から栗を取り出して、イノシシに無理やり食べさせた。
イノシシは、ごふっごふっと何度か鳴いた後、すやすやと眠り始めた。するとイノシシの傷は、みるみるうちに塞がった。
「何が起きたんじゃ?」
「知らないのかにゃ? 栗次郎には不思議な力があるにゃ。動物と話せる。傷を癒せる。普通の人間にはない、特別な力だにゃ」
栗次郎はその力を知らないわけではなかった。
身体中に何かがめぐっているのは感じていた。それが不思議な力で、栗次郎にしかない、独特なものであることもわかっていた。
桃太郎に興味を持ったのも、どこか似たような感覚があったからである。
桃から生まれた桃太郎。栗に囲まれていた栗次郎。
自分は、おじいやおばあのような人間ではない。でも人間の姿をしている。
不思議なことだが、そんなことは無視して、自分は少し変わった人間なのだと思ってきた。
「そうじゃ……そうじゃったのう。わしにはおかしな力があるのじゃ」
「そ、そうだにゃ……」
放心したように空を見つめる栗次郎に、ごんは問いかける。
「どうかしたのかにゃ?」
栗次郎はおもむろにごんへと目を向ける。
「わしには不思議な力がある。そして桃太郎にもそれはあった。動物と話ができたのじゃから。じゃとしたら、不思議な力を持つわしがこの世におるのじゃから、同じく力を持っていた桃太郎もこの世におるのではないかの」
栗次郎と桃太郎は、動物と話すことができる。
だから、栗次郎がいるなら、桃太郎もいる。あり得ない事ではない。
作り話ではなく、本当の話――――ごんは小さな頭を使って、そんなことを考えた。
栗次郎は眠るイノシシを、さっきまで自分たちがいた川へと運んだ。
イノシシが目を覚ますまで、それほど時間はかからなかった。
「ん……こ、ここは?」
イノシシは身体を起こすと、意識をはっきりさせるように、頭をぶんぶんと横に振る。
「川じゃ。水を飲むといい」
イノシシの隣に腰掛けている栗次郎が言った。
イノシシは一度びくりとしたが、何も言わず水を飲み始めた。
「ああ、助かった……」
十分にのどが潤ったイノシシは、心の底から安心していた。
「猟師に追われていたのかにゃ?」
ほっと一息ついたイノシシに、ごんが訊いた。
「そう、なんだ……」
イノシシは思い出したように、力が抜けた。その場に座り込んで、肩を落とす。
「そうじゃったか」
栗次郎も同じように小さくなって、そっとイノシシの背中に手を置く。なでる。
イノシシは背中に感じる暖かさを、生まれて初めて知った。
「あんたは、人間じゃないんだな」
イノシシは、栗次郎の少し濡れた瞳を確認する。
人間ならイノシシを狩る。人間なら動物と泣いたりしない。人間なら自分と話せるはずがない。見た目は人間だけど、隣に座るこの少年は、人間ではないのだろう。イノシシはそう思った。
「わからないのじゃ……。ついさっき、わからなくなったのじゃ」
栗次郎は地面の小石を川に投げ入れる。ぽしゃんと音を立てたが、小石はさらさらと流れる水の底に消えていった。
栗次郎はイノシシに桃太郎の話をした。
「ああ、桃太郎のことなら知ってる」
イノシシの言葉に、栗次郎とごんは固まった。
数秒の沈黙。
「な、なんとっ! それは本当かの!? イノシシやい!」
「ほんとだ。あと、おらの名前は『つん』だ」
つんと名乗ったイノシシは、落ち着いて話す。
「この山を降りると海が見える。その海を渡っていけば、鬼ヶ島がある。そこに桃太郎がいる」
「本当かにゃ?」
ごんが確かめるように訊いた。
「んだ」
つんは深くうなずいた。栗次郎とごんは顔を見合す。
「嘘ではなかったようじゃな」
「そうだにゃ」
うんうんと二人、うなずきあって、つんに頭を下げる。
「つん。ありがとう。わしらは鬼ヶ島へ行って、桃太郎に会いたかったのじゃ」
「存在しないと思っていたにゃ。でも、鬼ヶ島があるなら、行くしかないにゃ」
栗次郎は荷物をまとめて背負う。
「んじゃ、猟師には気をつけるんじゃぞ」
栗次郎はごんを連れて、歩き出した。が、つんはそれを遮った。
「待った、待った!」
「なんだにゃあ」
栗次郎とごんに対面する、つん。
「こっちじゃない。海へは向こうの道だ」
「そうじゃった! わしらは道に迷っていたんじゃ」
栗次郎は思い出したように、手のひらを打った。
どちらに進むのかもわからない山道で、正しい道を行けるはずがない。目的地はあっても、方向を知らなければ進めないのだ。
つんは待ってました、と言わんばかりに、二人に提案した。
「おらが案内してやる!」
「おおっ! いいのかの?」
「もちろんだ! 助けてもらったお礼だ!」
つんは鼻息をふんっと鳴らし、張り切っている。
そこで栗次郎はあることを思いついた。
「そうじゃっ!」
と一人叫ぶと、荷物の中から、のこぎりを取り出した。
「何をするにゃ?」
ごんが訊こうとする前に、栗次郎は近くの手ごろな木を切り始めた。
ぎこぎこと音を鳴らしながら、どんどん木を切っていく。
ごんとつんは見ていることしかできない。
木を数本切り終わると、少し厚めの板にする。板同士をつなぎ合わせ、強度を見る。
もくもくと作業していく栗次郎。だんだん形になってきた。
そして、子どもが一人入れるほどの、蓋のない箱ができた。
「これをどうするんだにゃ?」
ごんはまだ理解できない。つんも同じく首をかしげる。
栗次郎は、ふふふと小さく笑いながら、今度は縄を取り出す。そしてつんの胴体へと巻きつける。後ろ足の付け根の部分にうまく引っかかった。
栗次郎は満足そうに箱の中に入る。縄の端っこを箱へと結んだ。
「さあ、ごん乗るのじゃ! そして走るのじゃ、つんやい!」
「なるほどにゃ!」
ごんとつんはようやく理解した。
つんの走りの速さを利用して、栗次郎とごんの乗る箱を引っ張ってもらおうというのだ。
そうと決まれば、つんは思い切り、走り出した。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あああ。し、し、しししりが、あ、あ、あ、あ」
でこぼこの山道で、箱ががたがた揺れる。栗次郎もごんも跳ねて跳ねて、箱から飛び出そうである。
しかし歩くより断然速い。ぐんぐん走るつん。風を切って進んでいく。
栗次郎はお尻の痛さを耐えながら、桃太郎と会うのを今か今かを、心待ちにしていた。