偉大なる帰還
少年は木こりのような仕事をしていた。ただただ毎日木を切り,切った木で木炭を作る。その木炭を街へと売りに行く。値札は忘れることなく首にかけるのだ。
少年は口がきけない,少年の愚かな父親が酒に酔った勢いで真っ赤に燃えている炭を少年の口の中に放り込んだのだ。少年の生活にとって不必要な父親だった。その愚かな父親のせいで少年の喉は焼け焦げ声を発することが出来なくなった。
少年は喉が燃えていく熱さにのたうち回りながら父親の頭を斧で切り裂いた,誰とも関わりを作らなかった内弁慶の父親の殺人に隠蔽はいらなかった。
少年はそれから口がきけないなりに生きていく工夫を懲らさなければならなくなった。その一つが木炭の値段を書いた首から提げる値札であった。急に喋らなくなった木炭売りを不審に思う人々は少なくなかったが冬場は繁盛するのだ。
だが少年は質素に毎日を過ごしていたためあまり金銭を必要としていなかった。余ったお金は万が一の時のために貯め込んだりしていたがそもそも金銭にあまり執着のない少年は家のどこに金を隠したのか覚えていなかった,たまに小金を見つけて驚くくらいである。
森の奥にある少年の住む小屋,その少し奥にはこんもりと土が盛り上がっている。そこには父親が埋められているのだが墓標すらない,あの男にはそれ相応の報いだろうと少年は思っていた。
その小屋から少年は時間をかけて歩いて街に出る,明け方に小屋を出ると街に着くのは昼食前の火が最も必要な時間帯になるため誰かは必ず買ってくれるのだ。
--あら,毎日毎日偉いわね。--
--本当に働く子ねぇ--
--ウチの娘の婿に来て欲しいくらいよ--
少年はそういう風にかけられる言葉にいちいち愛想笑いをしては会釈をしていたが少年には彼女らの心の中が手に取るように分かっていた。
身元の分からない炭売り,気味が悪い,話さないだなんてどういう事?きっと親に捨てられたのよ,みんな心の中でそう思っている。ホームレスに近い少年を忌避していた。
少年はそれを心外だとは思わなかったしどうとも思わなかった,どうせ炭を売る以外でこの人達は私に関わることはないのだからその時の冷たい視線を耐えてしまえばどうってことない。愛想笑いで済ませてしまえばいいのだ,他者との深い関係だなんて私が持てるわけ無いのだから。
少年が森の奥の小屋に戻ることが出来るのは早くて夕方になる頃だ,少年には帰り際に必ず立ち寄るところがある。街の外れにある酒屋,そこにいる一人で店を切り盛りしている若い女は美しく少年を迎えてくれた。
「いらっしゃい」
きれいな声だ,少年は初めて聞いた時からそう思っている。
父親に喉を焼かれて頭を叩き割り返り血だらけでふらついていた少年に恐れることなく声をかけてきたのが二人の馴れ初めだった。血まみれでごほごほと咳き込んでいる少年の肩に手を置いた彼女は少年を酒屋に誘った,酒屋にはいくらかの客がいたが彼女はその客達を全て追い返して少年をいくつかのテーブルを合わせて作った即席のベッドの上に寝かせた。
「大丈夫?何があったかは知らないけどしばらくならここにいてもいいから」
そういって彼女は少年の喉の奥を覗き込んで絶句した,それから酒屋にあった強いアルコールの酒を少年の喉の奥に流し込んだ。
「消毒するから。度数が高いから喉の奥で押しとどめた方がいいよ」
「・・・・・・」
誰かに構われることのない人生を送ってきた少年はその後も行われた彼女の手厚い手当に涙した。少年は母親を知らない,少年が生まれてすぐに父親とは違う男の下で生活をしているという話を聞いたがそれも定かではない。いずれにしても誰もが幼い頃に注がれるべきだった両親からの愛情を少年は知らなかったのだ,彼女の優しさをその分心に染み込んでいった。
翌朝になると少年の体を支配していた火傷による熱は下がり,足下もしっかりしてきた。彼の喉からはもう言葉が発せられることはなかったが少年は何度も頭を下げることで彼女に感謝の意を示した。腰を折りすぎたせいか少し痛みを覚えたが火傷の痛みに比べれば大したことはない,そんな少年を彼女は笑いながら抱きしめた。
「いいのよ,そんなに感謝しなくても。私は私のやるべき事をやっただけなんだから」
優しいですね,少年が例え口を利けたとしてもそれくらいしか出てこなかっただろう。少年は自分に語彙力がないことを呪った。
少年はそれから出来るだけ毎日彼女の酒屋に通った,彼女は少年が何も言わなくとも酒を注文しなくてもただ座ってくれるだけでも大歓迎だと言ってくれた。少年が訪れる時間帯はほとんど客が来ることがないため退屈しないですむ,そう言って彼女は明るく笑った。よく笑う女性だった。
少年は彼女に恋に近い感情を抱いていた。彼女にそう言った感情は一切無いことは知っている,だが少年は両思いであれだとか浮ついた欲望は抱いていなかった。ただ一緒にいれれば幸福でいれる,それだけで少年の心は満足していた。
とある日,少年はいつもより帰りが遅くなった。冬場になるといくつ炭があっても足りないくらいに寒い日がある,今日はまさにその日で少年が帰路につけたのは夜遅くだった。
少年は酒屋に急いだ。この時刻だから彼女は寝ているかもしれない,それでも少年の足は酒屋に向かっていた。
酒屋の窓には明かりがともっていた。少年の顔がほころぶ,少年は躊躇することなく酒屋に急いだ。誰かがいてもただ彼女の顔が見たかった。
と,少年の足が突如止まる。酒屋がいつもとは違う様相を醸し出していた,少年の足は本能的に恐ろしさを感じて歩みを止めた。脳が全力で警報を鳴らしている,やめろ,この中にお前が望んでいる現実はないぞ,入ってしまえばもう元に戻れなくなるぞ,それでもいいのか。
少年は意を決して酒屋の中を窓から覗き込んだ。少しだけ窓の枠内に片眼が入る程度,顔を傾けて起用に視界を確保する。
少年の目の前で彼女はテーブルの上に全裸で寝転んでいた,彼女の裸は女性の裸を一度も見たことのない少年でさえ美しいと思えるほどに綺麗だった。彼女の綺麗な裸身の上には街で見たことのある男が覆い被さって彼女の体をまさぐっていた。
少年の全身は金縛りにあったかのように動かない,眼球でさえも例外ではなく彼女の裸身から目が離せなかった。
ふと,彼女と互いの視線がぶつかる。彼女は驚いたそれとなり少年もまた驚く,少年の金縛りはその直後に溶解し全速力で背後に向かって駆けだしていた。
「待って!」
彼女の声がこだまするが少年は振り替えれない,悲しさと悔しさとが混合したような奇妙な感情は涙と形を変えて少年の体外に溢れていく。少年は一度も転ぶことなく森の奥の小屋まで走りきった。
「・・・・・・!!!!」
声にならない叫びが小屋に響き渡る,少年は自分が自惚れていた事実に気づいた。どうして自分と彼女が同じ感情を抱いているだなんて思い込んだんだ,口の利けない年下の男を彼女は哀れんでいるだけに決まっているだろう。彼女は娼婦だ,誰にだって優しくするのが商売のようなものじゃないか。どうして心を奪われたりしたんだ。
愚かだ,自分を捨てた母親よりも息子の喉を焼いた父親なんかより愚かだ。
少年は違和感を覚えて自分の下半身に目を向ける,土だらけの足よりも上の下腹部の中心部が盛り上がっている。静めようとすればするほど彼女の一糸まとわぬ裸体が瞼の裏に映し出される,少年は生まれて初めて手淫を犯した。
迸る自らの分身を見ながら少年は己を呪った。こんな自分は死んだ方がいいのではないかという自責の念に堪えきれなくなった少年は頭を頭皮が剥がれるのではないかと思うほどに激しく掻き毟った。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!!!!!!!!!!!」
誰にも聞こえることのない叫び声は少年の耳にすら届かなかった。
少年は翌日は街に出ることが出来なかった,あまりにも憔悴していて木を切ることを忘れてしまったためである。少年はその翌日になってから街へ向かった,背中の炭がいつもより重く感じられた。
街はなぜだか騒がしく,慌ただしかった。喧噪に聞き耳を立てると魔女が捕まったとか何とか,町外れの酒屋で男をたぶらかしていたとか,街の広場で火あぶりにされるそうだとか,街の人々の声は他人事の不幸を楽しみにしていた。
少年は走り出した,実は先日の長距離全力疾走のため全身が今だ筋肉痛だったのだがそんなことを心の片端にすらかけることなく広場まで一直線に走った。人とぶつかったが謝るジェスチャーすらしない,そんなことをするほど心の余裕がなかったのだ。背中の炭を至るところにぶちまけながら少年は走り続けた。
広場には人がたくさんいて魔女が焼かれて殺される様を一目見ようと好奇心を踊らせていた。立ちこめる煙を目の当たりにした少年は人混みの最前列まで割り込む,長い棒に縛られていたのは彼女だった。足下からはぷすぷすと彼女を焼き殺そうとさんばかりに火が燃えさかっている,彼女は煙に咳き込みながら少年を見つけた。
彼女は,自分が今まさに焼き殺されようとしているその最中,少年に向かって笑いかけて謝罪したのだった。
「ごめんね,あんなところ見せちゃって。君にだけは見せたくなかったんだけど人が来ない酒屋だけじゃやっていけなかったの」
少年は後悔した,生きていくためにはお金が必要になるのは当然のことなのに自分はその一つ,彼女が選んだ行為の一つを拒絶したのだ。つまらない偏見などで娼婦としての彼女の存在を否定したのだ。
なぜあの時一度でも振り替えられなかった?お前が彼女に抱いていた思いというのはそれ程度か?意地の悪い少年の中の少年が少年に囁きかける,少年はいてもたってもいられなかった。
恨めしい,喉を焼いた父親が恨めしい。この場で彼女が魔女ではないと叫ぶことすら出来ない自分が憎たらしい,独力で何も出来ない自分を殺してしまいたい。
炎は赤い舌で彼女の体の舐め回そうとしている,あと僅かでその大きな赤い口が彼女を飲み込むだろう。少年は自らの無力を呪いながら天を睨み付けた。
誰でもいい!あくまでも神様でもいい!どこの誰でも構わないから何とかしろよ!後でいくらでも報いを受けてやるから,どんな辛い責め苦でもうけてやるから!
彼女を助けろよ!
晴れ渡っていた空が暗雲に覆われていく,広場の人々はざわつきながら空模様を見守っているだけだ。
直後,空をも覆いつくような巨大な桶をひっくり返したと思うほどの滝が空から降ってきた。当然のように炎をなりを潜め,人々は家の中に逃げ込む。何人か広場に残っていた処刑の執行人を少年は殴り倒して彼女を縛る縄を解く,少年はあっけに取られている彼女を抱きかかえると街の外まで一気に走りきった。
「君ってけっこう頼もしいんだね」
彼女がへとへとになった少年に一番最初に言った言葉だった。二人は少年の小屋にいる,追っ手がやってくるまではまだいくらか時間があった。
「でも君は殺されちゃう。さっきは奇跡が起きたから逃げ切れただけでもっとたくさんの人が来たら君でも捕まってしまうよ」
彼女は少年の手を握った,人の温かみを触れたのは二度目だった。
「私が出て行って君が逃げればきっと君は逃げ切れるよ,君は木こりなんでしょう?森さえあればどこでも生きていけるよ」
少年は頭をぶんぶんと何度も横に振り回した,無理だ。新しくどこか遠い場所で小屋を建てたとしてもそこには彼女がいない,暖かさを知った人間はもといた寒冷な場所には戻りたくなくなるのだ。少年は道楽で作った紙と炭を使って彼女に自分の意思を伝えた。
--逃げよう,どこまででも。辛い目に遭うかもしれないけど僕たちを受け入れてくれる場所まで,そんな所を見つけるまで一緒に生きていこう--
「・・・・・・ダメだよ,君は悪くない。悪いのは男の人に体を売ってお金を稼いでいた」
--あなただって悪くない--
「・・・・・・いいの?私なんか体を売る以外に生活を支えることができない」
--あなたが隣で生きていてくれるだけで僕は生きていける--
「・・・・・・君って頼りになるけど利口ではないんだね」
--悲しいの?泣かないで--
「・・・・・・悲しくなくても人は泣くのよ」
彼女は少年の唇の上に軽く自分の唇を重ねた。それを傷つけないようにそっと,当てるだけの軽いキスをした。
二人は旅をした,あらゆる所を歩き回り自分達を受け入れてくれる場所を探し続けた。
だがどこにもそんな場所はない,余所者というだけで迫害されたこともあったし何より少年が口を利けないという要因は最も大きな拒絶の理由だった。
それでも彼女は旅の最中はずっと少年の手を繋いでいた,少年もまた彼女の手を握り返す。二人は時として意味もなく笑い合った,共にいるだけで共に生きていけた。
いつしか時は経って少年は老人となり彼女もまた老婆となった。一歩でも歩く事に辛さを覚える毎日だったが,それでも二人は手を繋いで互いに歩くペースを合わせ合った。
老人が目を覚ますと老婆は何時までも起きなかった。老人は愛しい女性の死を泣き叫んで悲しんだがもちろん声はなかった,誰にも悲しみを伝わらなかった。老婆は老人がなけなしの力を総動員して掘った墓穴に埋められた。
探そう,彼女が生きていた証として生きる場所を。彼は一人になっても歩き続けた。
老人の寿命は確実に限界に近づいてきた,骨は軋み肌は潤いを無くし枯れ果てていた。最後の力を振り絞って遠くに見えた街の中に入る。しばらく歩いていると広場があったためそこにある祭壇に腰掛けた。
「どいとくれじいさん,そこは座っちゃいけない決まりになってるんだよ」
若い男性が花束を持っている,老人は即座に腰を上げてその場から退いた。よく見ると男性が持っていた花束と似たような花束がたくさん周りに置かれていた,目が衰えていたため気づかなかったのだ。
「お爺さんも観光かい?って,そんなわけないか。ここは恋人達の聖地だしね」
聖地,老人はその単語に興味を示した。男性は勝手にこの場所の由来を語り出した。
「ここはその昔に奇跡が起こった場所なんだよ,なんでも無実の罪で魔女扱いされて火あぶりにされそうになった女を突然の大雨と男が救ったんだ」
老人の僅かに残っていた記憶が起動する,彼女が死んでから数年になりもう思い出すことすら無くなっていた若い頃の記憶,燃えるような感情を露わにして愛しい女性を抱きかかえて走り続けたあの日,それらの全てが昨日のことのように蘇り始める。
若い男は目の前にある大理石の石碑を指さした。
「これがその男女を奉ってるんだ」
石碑にはこう書いていた。
--二人の愛とそれを救った奇跡と勇気に捧ぐ--
「・・・・・・」
老人は偉大なる帰還を果たした。
どうだったでしょうか?拙い文章でしたが最後まで呼んでくれたら幸いです。
感想,指摘などがありましたら気軽によろしくお願い致します。ありがとうございました。