第二話 羽もげ殿、今夜も大活躍
私はその夜、カウンターの端で、羽もげ殿を見た。
ぎょろっとした目が、もう少しで回りそうだった。
羽もげ殿は、氷の浮いたグラスをゆっくり回しながら、世の中のことを語っていた。
「わしはね、本質しか見ないんですよ」
そう言って、羽もげ殿は薄く笑った。
上着のポケットには札束が差してあり、その角だけが、わざとらしく外気に触れていた。見せるために出しているのか、隠すために出しているのか、私にはよく分からなかった。
バーは静かだった。
照明は低く、ボトルの肩だけが鈍く光っていた。
羽もげ殿はグラスを回しながら、政治のこと、人間の浅ましさ、世の中の劣化について、いかにも見抜いた者らしい口調で語っていた。
「最近の連中はね、みんな表面しか見ない。いやになるよ。わしは違う。本質しか見ない」
そのあたりからだったと思う。
店の奥の暗がりで、拍手のような音がし始めた。
ぱたぱた。
ぱた、ぱた、ぱた。
最初は、誰かが指先でテーブルを叩いているのかと思った
だが違った。
細身で、どこか港区の女みたいに妙に身軽なトンボたちが、いつのまにか羽もげ殿のまわりを飛んでいたのである。
羽もげ殿は、にんまりした。
「ほらね。わかる者には、わかるんですよ」
トンボたちは拍手のように羽を鳴らした。
羽もげ殿は、それを賞賛だと思ったらしい。
グラスを回す指にも、急に余裕が出た。
そのたび、ポケットの札束が一枚、また一枚と減っていったが、羽もげ殿は少しも気にしなかった。むしろ、誇らしげでさえあった。
「これはね、評価なんですよ。人間、ほんものには、ちゃんと払うものなんです」
ぎょろっとした目は、もう完全に回り始めていた。
トンボの複眼のように、きらきら、ぐるぐるしていた。
羽もげ殿は自分でも少し飛べるような気がしてきたのか、背筋を伸ばし、顎を上げ、声をいっそう低くした。
「わしはね、本質しか見ないんですよ」
二度目にそう言ったとき、羽もげ殿の肩のあたりが、ふっと軽くなったように見えた。
次の瞬間、私はたしかに見た。
羽もげ殿の背に、透明な羽が生えたのである。
いや、そう見えただけかもしれない。
高級バーでは、ときどきそういうことがある。
人が、自分の思い込みに似たものへ、静かに変わっていくことがある。
羽もげ殿は立ち上がった。
羽音のような声で世の中を裁きながら、店の床をすべるように進んだ。
「あいつはクズだ。クズだ、クズだ、クズだ」
トンボたちは、ますます羽を鳴らした。
羽もげ殿は、ついに自分が巨大なトンボになったのだと思ったらしい。
顔には、成功者だけが浮かべる、あの満ち足りた笑みがあった。
だが、私の目には違って見えた。
大きな羽を得たはずのその背中からは、いつのまにか羽がむしり取られ、黒く小さなものが床を這っていた。
それは、どう見ても、羽のもげたゴキブリだった。
羽もげ殿は、そのまま店の隅のゴミ箱へ向かっていった。
誰に命じられたわけでもなく、吸い寄せられるように、みずから蓋のない丸いゴミ箱によじ登り、中へ入った。
それから静かに目を閉じた。
半笑いだった。
そして、たしかにこう言った。
「これが本質なんだよね」
店の客は、だれも気づいていなかった。
あるいは、気づかないふりをしていたのかもしれない。
バーテンダーだけが、その小さな黒いものをしばらく黙って見ていた。
やがて彼は、磨き終えたコースターを一枚取り、そっと、上からかぶせた。
それで羽音は止んだ。
だが帰りぎわ、私はたしかに聞いた。
コースターの下から、満足そうな声がしたのである。
「今夜も、大活躍だったな」
読んでいただき、ありがとうございました。
人の心のよどみや見栄、こだわりのようなものを、妖怪の姿で書いていく短い話です。
今回の「羽もげ殿」は、立派なことを言いながら、どこかで自分に酔ってしまう人の姿から生まれました。
また読んでいただけたら、うれしいです。
このお話をもとにした短い動画もあります。
ご興味があれば、ご覧ください。
https://www.youtube.com/shorts/eibn6iqATzE




