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第二話  羽もげ殿、今夜も大活躍

掲載日:2026/04/19

私はその夜、カウンターの端で、羽もげ殿を見た。

ぎょろっとした目が、もう少しで回りそうだった。

羽もげ殿は、氷の浮いたグラスをゆっくり回しながら、世の中のことを語っていた。

「わしはね、本質しか見ないんですよ」

そう言って、羽もげ殿は薄く笑った。

上着のポケットには札束が差してあり、その角だけが、わざとらしく外気に触れていた。見せるために出しているのか、隠すために出しているのか、私にはよく分からなかった。


バーは静かだった。

照明は低く、ボトルの肩だけが鈍く光っていた。

羽もげ殿はグラスを回しながら、政治のこと、人間の浅ましさ、世の中の劣化について、いかにも見抜いた者らしい口調で語っていた。

「最近の連中はね、みんな表面しか見ない。いやになるよ。わしは違う。本質しか見ない」


そのあたりからだったと思う。

店の奥の暗がりで、拍手のような音がし始めた。

ぱたぱた。

ぱた、ぱた、ぱた。

最初は、誰かが指先でテーブルを叩いているのかと思った

だが違った。

細身で、どこか港区の女みたいに妙に身軽なトンボたちが、いつのまにか羽もげ殿のまわりを飛んでいたのである。


羽もげ殿は、にんまりした。

「ほらね。わかる者には、わかるんですよ」

トンボたちは拍手のように羽を鳴らした。

羽もげ殿は、それを賞賛だと思ったらしい。

グラスを回す指にも、急に余裕が出た。

そのたび、ポケットの札束が一枚、また一枚と減っていったが、羽もげ殿は少しも気にしなかった。むしろ、誇らしげでさえあった。

「これはね、評価なんですよ。人間、ほんものには、ちゃんと払うものなんです」

ぎょろっとした目は、もう完全に回り始めていた。

トンボの複眼のように、きらきら、ぐるぐるしていた。

羽もげ殿は自分でも少し飛べるような気がしてきたのか、背筋を伸ばし、顎を上げ、声をいっそう低くした。

「わしはね、本質しか見ないんですよ」


二度目にそう言ったとき、羽もげ殿の肩のあたりが、ふっと軽くなったように見えた。

次の瞬間、私はたしかに見た。

羽もげ殿の背に、透明な羽が生えたのである。

いや、そう見えただけかもしれない。

高級バーでは、ときどきそういうことがある。

人が、自分の思い込みに似たものへ、静かに変わっていくことがある。

羽もげ殿は立ち上がった。

羽音のような声で世の中を裁きながら、店の床をすべるように進んだ。

「あいつはクズだ。クズだ、クズだ、クズだ」

トンボたちは、ますます羽を鳴らした。

羽もげ殿は、ついに自分が巨大なトンボになったのだと思ったらしい。

顔には、成功者だけが浮かべる、あの満ち足りた笑みがあった。


だが、私の目には違って見えた。

大きな羽を得たはずのその背中からは、いつのまにか羽がむしり取られ、黒く小さなものが床を這っていた。

それは、どう見ても、羽のもげたゴキブリだった。

羽もげ殿は、そのまま店の隅のゴミ箱へ向かっていった。

誰に命じられたわけでもなく、吸い寄せられるように、みずから蓋のない丸いゴミ箱によじ登り、中へ入った。

それから静かに目を閉じた。

半笑いだった。

そして、たしかにこう言った。

「これが本質なんだよね」


店の客は、だれも気づいていなかった。

あるいは、気づかないふりをしていたのかもしれない。

バーテンダーだけが、その小さな黒いものをしばらく黙って見ていた。

やがて彼は、磨き終えたコースターを一枚取り、そっと、上からかぶせた。

それで羽音は止んだ。

だが帰りぎわ、私はたしかに聞いた。

コースターの下から、満足そうな声がしたのである。

「今夜も、大活躍だったな」

読んでいただき、ありがとうございました。


人の心のよどみや見栄、こだわりのようなものを、妖怪の姿で書いていく短い話です。

今回の「羽もげ殿」は、立派なことを言いながら、どこかで自分に酔ってしまう人の姿から生まれました。

また読んでいただけたら、うれしいです。


このお話をもとにした短い動画もあります。

ご興味があれば、ご覧ください。

https://www.youtube.com/shorts/eibn6iqATzE

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