第5話『雨降って地固まる(物理)』
野外フェス『サマー・ソニック・ステージ』の会場上空は、世界が終わる直前のようなドス黒い雲に覆われていた。
湿度九〇パーセント。肌にまとわりつくような不快な熱気。
遠くでゴロゴロと雷鳴が轟き、今にも空が裂けて涙を流しそうだ。
普通のアイドルならこの天候に不安を抱くだろう。「雨で中止になったらどうしよう」「客足が遠のくかも」と⋯⋯。
――勝った。この天気配置完全に私に風が吹いている⋯⋯!
舞台袖の暗がりで、私は天を仰ぎ見て、内なる歓喜の雄叫びを上げていた。
天気予報アプリの降水確率は一〇〇パーセント。しかも、私たちの出番である午後二時に、降水量一〇ミリ越えのゲリラ豪雨が直撃する予測が出ている。
神運営だ。ここ最近の私は「健気な薄幸美少女」の演技プランを順調に消化してきたが、どうしても「絵力」が足りなかった。
握手会の過労演技もレコーディングの聖女ムーブも、しょせんは内輪の出来事。
今日のステージは違う。三〇〇〇人の観客。そして生配信のカメラ。
ここで「悲劇」と、それを覆す「奇跡」を起こせば、私の知名度はバグったように跳ね上がる。
「あーあ、最悪。雨降るとかマジ勘弁してよ」
「湿気で前髪うねるんだけど。メイク崩れたらどうしてくれんの?」
隣ではリカとミナがいつものように愚痴を垂れ流している。
私は心配そうな顔を作り、二人に駆け寄った。
「だ、大丈夫だよ二人とも! もし雨が降っても、私たちが太陽みたいに輝けば、お客さんもきっと楽しんでくれるよ!」
「は? 何ポエム言ってんの。寒っ」
「あんたはいいよねー、すっぴん風メイクだから崩れても誤魔化せて」
冷淡な反応。平常運転だ。
私は「ごめんね⋯⋯」と眉を下げつつ、さりげなく機材スペースの方へと後ずさる。
そこには音響機材へと繋がる太いケーブルが這っていた。
このフェスは運営ギリギリの低予算イベントだ。機材は型落ちのボロ、ケーブルの被膜も劣化している。
私はしゃがみ込み「あれ? ここ、躓きそうだな⋯⋯直しておかなきゃ」と独り言を呟きながら――。
グニッ。
ヒールの踵でコネクタの接合部分をピンポイントで踏みつけ、絶妙な角度で「緩めた」。
断線はさせていない。ほんの僅か、防水パッキンの噛み合わせをズラし、水滴が一粒でも侵入すれば即座にショートする状態を作り出したのだ。
「よしっ、これでスタッフさんも安心だね!」
ニッコリと微笑む聖女。
その脳内では悪徳商人も裸足で逃げ出す計算式が走っていた。
この位置はステージの傾斜的に、雨水が川のように流れ込むポイントだ。降り始めから三分以内に、必ず音響は死ぬ。さあ、舞台は整った。あとは空が泣くのを待つだけだ!
◇
「続いての登場は『ピュア・パレット』の皆さんです!」
MCの紹介と共に、私たちはステージへと飛び出した。
客入りは五割程度。大多数の客は目当ての有名アイドルの出番待ちか、屋台で焼きそばを食っている。
パラパラとした拍手。気だるげな空気。
「みんなー! こんにちはー! ピュア・パレットでーす!」
私は全力の笑顔で手を振る。一曲目はすぐに始まりアップテンポな王道アイドルソング。
リカとミナは既にやる気がない様子でダンスのキレはなく、口パクもズレている。
私は一人、汗を飛び散らせて踊る。その健気さが逆に浮いているほどだ。
そして⋯⋯サビに差し掛かったその時だった。
ポツッ。
ポツポツッ。
アスファルトを叩く黒い染み。直後、バケツをひっくり返したような、いや滝の底に放り込まれたような凄まじい豪雨が会場を襲った。
「うわっ、降ってきた!」
「マジかよ、逃げろー!」
観客たちが悲鳴を上げて屋根のあるエリアへ避難しようとする。
ステージ上の私たちも一瞬でずぶ濡れだ。
リカが「キャッ!」と叫び、手で頭を覆う。ミナが不快そうに顔を歪める。
その瞬間。
バチチチッ!!
ブツンッ。
PA席から嫌な火花が散り、スピーカーから流れていた音が完全に途絶えた。
私の仕込みが完璧に作動したのだ。
無音。いや、叩きつけるような雨音だけが耳をつんざくような轟音となって響き渡る。
マイクも死んでいる。私がトントンと叩いても反応はない。
「はぁ!? 音止まったんだけど!」
「最悪! ちょっとスタッフ、どうなってんの!?」
リカとミナがステージ上で棒立ちになり、 PA席に向かって怒鳴る。
しかし、その声も雨音にかき消されて客席には届かない。ただヒステリックな表情だけが伝わり、観客の興醒め(ドン引き)を加速させる。
逃げ惑う客に混乱するスタッフ、そして機能不全に陥ったステージ、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
(――キタキタキタァ!! 想定通り! いや、想定以上の『災害』だ!)
前髪から滴る雨水を舐めながら、私は恍惚とした笑みを噛み殺した。
この状況下、普通のアイドルなら「中止ですね、残念です」と裏に引っ込む場面だ。
田所も袖で大きくバツ印を出している。「戻れ! 中止だ!」と叫んでいるのが口の動きでわかる。
しかし、ここが分岐点だ。
ここで逃げるか、踏み止まるか。それによってエンディングは「ノーマルエンド(凡庸)」から「トゥルーエンド(伝説)」へと分岐する。
(アイドルの価値は、晴れの日の輝きじゃない。嵐の中でどれだけ『華』になれるかで決まるんだよ!)
私は一歩、前に出た。
屋根のあるステージ後方ではない。
雨が容赦なく打ち付ける、ステージの最前面、花道の先端へ。
「アイ!? 何してんの、戻りなよ!」
リカの静止を無視して私は歩く、白い衣装が雨に濡れ、肌に張り付く。
計算し尽くされた下着のラインが透け、華奢な肩のラインが露わになる。
寒さで肌が粟立ち、唇が微かに紫に色づく。
それがいい。今の私は誰よりも脆く、そして誰よりも「生々しい」。
私は花道の先端で立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
腹式呼吸。丹田に力を込める。
マイクなんていらない。私の喉は、この日のために鍛え上げてきた。
「みーんなーーっ!!」
裂帛の気合いを込めた生声が雨音の壁を突き破り、会場に響き渡った。
逃げようとしていた観客の足が止まる。
何事かと一斉に振り返る。
「雨さん、元気良すぎだよねーっ! でも、私たちは負けないよっ! だってみんなが、そこにいてくれるから!」
ニカッ、と笑う。
雨に打たれ、髪はぐしゃぐしゃ、メイクも落ちかけている。
それでもその笑顔は、曇天を切り裂くような強烈な光を放っていた。
「マイクが死んでも、私の喉は生きてます! ⋯⋯届くかな? 私の声!」
一瞬の静寂。
そしてパラパラと、しかし力強い拍手が起きる。
まだだ。まだ足りない。
ここで選曲だ。アップテンポな曲をアカペラで歌うのは滑稽だ。
選ぶべきは、この雨を「舞台装置」に変える、哀切なバラード。
私は瞳を閉じ、天を仰ぐ。
雨粒が睫毛を濡らし、頬を伝う。それはまるで神が流す涙のように美しく見えているはずだ。
歌い出したのは『レイニー・メロディ』。
別れと再生を歌った、切ない旋律。
『冷たい雨が⋯⋯私の心を濡らしても⋯⋯』
透き通るようなソプラノボイス。同時に雨脚が弱まるのを感じた。
マイクを通さない生歌は、加工のない純粋な波動となって、観客の鼓膜を直接震わせる。
雨音がリズムセクションとなり、雷鳴がドラマチックな打楽器となる。
リカとミナは呆然とその後ろ姿を見つめている。
観客は傘を差すのも忘れて、その光景に見入っていた。
寒くないわけがない。体温は急激に奪われて震えそうだが私の脳内麻薬はドバドバと分泌されていた。
(見える⋯⋯! 見えるぞ! 観客の頭上に浮かぶ好感度ゲージが、限界突破していくのが!)
雨に打たれる一人の少女。
トラブルに見舞われても決して笑顔を絶やさず、仲間の分まで歌い続ける聖女。
その姿は、オタクたちの琴線(保護欲)をこれでもかと刺激する。
『あなたに会えるなら⋯⋯泥の中でも構わない⋯⋯』
歌詞に合わせて、私は泥の跳ねたステージに膝をつく。
白い膝が汚れ、泥水がスカートを染める。
汚い? いいや。
(これだ! これこそが『清濁併せ呑む』美しさ! 清純派アイドルが泥にまみれる背徳感と、それでも汚れない魂の尊さ! このコントラストこそが芸術だ!)
私は泥まみれの手を胸に当て、最後のフレーズを歌い上げた。
声を張り上げるのではない。
消え入りそうな、祈るようなウィスパーボイスで。
『⋯⋯信じてる。雨は、必ず上がるから』
歌い終わると同時に、私はガクッと力を抜いて、ステージにうずくまった。
計算通りの「力尽きた」演技。
数秒の静寂。
そして――。
「うおおおおおおおおっ!!」
「アイちゃん! アイちゃん!!」
「すげええええええ!! 神だ! 女神だ!」
地鳴りのような歓声と拍手が巻き起こった。
雨音すらかき消すほどの熱狂。
泣いているファンもいる。拝んでいる奴もいる。
私は泥に顔を伏せたまま、にちゃりと笑った。
(勝負あり。⋯⋯さあ、拡散しろ。この「奇跡の瞬間」を。世界中にばら撒け!)
◇
ライブ終了後。
私たちはボロボロの機材車に詰め込まれ、帰路についていた。
車内の空気は重い。いや、異質だ。
リカとミナは濡れた髪を拭きながら、気まずそうに沈黙している。
彼女たちも馬鹿ではない。今日のステージで決定的な「格差」が生まれたことを悟っているのだ。
田所に至っては、運転しながら「すげぇ⋯⋯あんなの見たことねぇ⋯⋯」とブツブツ呟いている。
私は後部座席の端で薄いタオルにくるまり、小刻みに震えていた。
演技ではない。ガチで寒い。
体温は三十五度台まで落ちている気がする。歯がガチガチと鳴る。
「アイ、大丈夫か? 暖房強くするか?」
田所が気遣う声をかけてくるが、私は「だ、だいじょうぶ⋯⋯です⋯⋯みんなが無事でよかった⋯⋯」と弱々しく返すのが精一杯だ。そんなことよりも⋯⋯。
タオルの下で握りしめたスマホの画面は、私の体温を一気に上昇させていた。
トゥイッターのトレンドランキング。
1位:#サマソニの奇跡
2位:#天宮アイ
3位:#放送事故神対応
4位:#天使降臨
タイムラインは、私の画像と動画でことごとく埋め尽くされていた。
雨の中で泥にまみれ、神々しく歌い上げる私の姿の下にはコメントがずらっと並ぶ。
『今年一番泣いた』『これが本物のアイドルだろ』『この子は誰だ?』『推すしかない』『映画のワンシーンかよ』『こんな可愛い子いたんだ』
称賛の嵐、私のアカウントのフォロワー数は秒単位でカウントが上がり数千人ずつ増えている。
(ふっ、ふふふふ⋯⋯! 見たか! これが『バフ』の力だ!)
風邪? 肺炎? 上等すぎる。
このSSR級のイラスト(スクショ)がネットの海に永遠に残るなら、寿命が三年縮んだって安すぎる代償だ。
私は震える指で拡散されている動画の一つを保存する。
再生数は既に百万回を超えている、この勢いなら明日の朝のワイドショーもハック出来るかもしれない。
そしてこのニュースは、間違いなく「業界の人間」もチェックする。
西園寺レイコ。
情報収集を怠らない彼女が、このトレンドを見逃すはずがない。
(見てください、レイコ様。貴女が「貧相な雛鳥」と吐き捨てた私が泥水を啜って、嵐の中で翼を広げる様を!)
画面の中の私は、濡れて透けたブラウスが肌に張り付き、泥で汚れた膝が痛々しく、それでも瞳だけは獲物を狙う獣のようにギラついていた。
これは、ただのバズりではない。
西園寺レイコへの、私からの「エントリーシート」だ。
『ねえ、こんなに汚れて、こんなに健気で、こんなに壊れやすそうな素材⋯⋯欲しくなりませんか?』
私は高熱でぼんやりする頭の中で、レイコ様がこの動画を見て冷酷な笑みを浮かべる姿を妄想した。
ゾクリ、と背筋に熱いものが走る。風邪の寒気が、快感へと変わっていく。
雨降って地固まる。
物理的に泥で固められた私の地盤は今、盤石のものとなった。
「⋯⋯くしゅんっ!」
可愛らしいくしゃみが出た。
田所が「おーい、アイが風邪引いちまったぞ! 急いで病院だ!」と騒ぐ。
私はタオルに顔を埋め、熱っぽい息を吐き出しながら、勝利の眠りへと落ちていった。
次のステージは病院のベッドの上(病弱アピール)か⋯⋯休んでいる暇なんてない。
私のアイドル人生(狂気)は、まだ始まったばかりなのだから。




