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第4話『運命の邂逅(一方的な視姦)』


 テレビ局の廊下は煌びやかな光と、どす黒い欲望が交錯する迷宮だ。

 特に今日のような大型歌番組の収録日は、その空気の密度が違う。


 私たち『ピュア・パレット』の三人、そしてマネージャーの田所は、廊下の壁際にへばりつくようにして立っていた。

 楽屋はない。正確には大部屋の片隅にスペースを与えられてはいるが、そこは有名アイドルグループの取り巻きやスタッフで溢れかえっており、私たちのような弱小地下アイドルが息を吸える場所ではなかった。


「⋯⋯マジだりぃ。なんでウチらがバーターなわけ?」

「座るとこないし、足痛いんだけどー」


 リカとミナが小声で愚痴をこぼす。

 バーター。それは大物タレントを出演させる条件として、同じ事務所や系列の無名タレントをセットで出演させる業界の慣習。


 今日の私たちはまさにそれだ。事務所がどこかのコネを使ってねじ込んだ「数合わせの雛壇要員」。歌う機会などない。ただ後ろでニコニコと手を叩くだけの背景モブだ。


「しっ、静かに! 誰が通るかわかんねえんだから!」


 田所が小声で叱咤するが、その額には冷や汗が浮かんでいる。彼は小心者だから自分より強い人間が跋扈するこの場所で、借りてきた猫のように縮こまっている。


 私は壁の冷たさを背中に感じながら、じっと呼吸を整えていた。

 

(そろそろだ⋯⋯。タイムテーブルと動線から計算すれば、この後10分以内に『あの人』がここを通るはず⋯⋯!)


 私の心臓は早鐘を打っていた。

 このテレビ局の構造、今日の出演者リスト、そして『エンパイア・プロモーション』のトップである彼女の行動パターン。すべてを前世の知識と今世の執念で解析済みだ。


 その時だった。


 カツ、カツ、カツ、カツ――。


 廊下の向こうから鋭く、それでいて音楽的なリズムを刻むヒールの音が響いてきた。

 それは単なる歩行音ではない。

 空間を支配し、周囲の雑音を沈黙させる、女王の行進曲。


 空気が、一瞬で凍りついた。

 ざわめいていたスタッフたちがモーゼが海を割るように左右に退き、深々と頭を下げる。

 その視線の先から黒い太陽が現れた。


 西園寺レイコ。


 数人の屈強なSPを引き連れ、彼女は廊下の中央を歩いてくる。

 仕立ての良い漆黒のパンツスーツ。無駄な装飾を削ぎ落としたそれは彼女の完璧なプロポーションと、氷のような美貌を際立たせていた。


 長く艶やかな黒髪が歩くたびに生き物のように揺れる。

 その瞳は前だけを見据え、周囲に群がる有象無象など視界に入れる価値もないと言わんばかりだ。


「ひっ⋯⋯!」


 田所が短く悲鳴を上げ、さらに壁に体を押し付けた。リカとミナもその圧倒的なオーラ(覇気)に当てられ、スマホを隠して俯いている。

 生物としての格が違う。誰もが本能的に理解し、ひれ伏す。それが「西園寺レイコ」という存在だ。


(あぁ⋯⋯本物だ。液晶画面越しじゃない、高解像度のレイコ様だ⋯⋯!)


 視神経が焼き切れそうだった。私は震える膝に力を込め壁から背中を離した。

 田所が「おい、何して⋯⋯!」と小声で制止しようとするが止まらない。


 廊下へと一歩踏み出す。正面から彼女を迎えるために。


 距離――5メートル。

 レイコ様の視線は、まだ私を捉えていない。私は両手を前で重ね背筋を伸ばし顎を引く。

 鏡の前で何百回、何千回と練習した角度。

 

 『守ってあげたくなる可憐さ』と『目上の者への最大の敬意』を黄金比でブレンドした、至高のお辞儀。


 2メートルまで近づいたとき私は鈴が鳴るような、しかし決して耳障りではないトーンで声を張り上げた。


「お疲れ様です、西園寺社長!」


 そして流れるような動作で頭を下げる。角度、タイミング、声の震え具合すべてが計算通り。

 さあ、どう出る? 無視か? それとも――?


 カツ、カツ⋯⋯ヒールの音が私の目の前で一瞬だけ、テンポを緩めた。


 頭を下げた私の視界には彼女の足元だけが映る。

 クリスチャン・ルブタンの鋭利なピンヒール。その赤い靴底が、血のように鮮やかに目に焼き付く。


 ふわり、と香りが漂った。

 甘く、しかしどこか金属的な冷たさを孕んだ、チュベローズの香り。

 脳髄が痺れるような、高貴な毒の匂い。


 彼女が止まった。

 私の頭上から絶対零度の視線が降り注ぐのを感じる。

 皮膚が粟立つ、見られている。値踏みされている。

 

 数秒にも永遠にも感じる静寂の後、彼女の紅い唇から微かな吐息と共に言葉が零れ落ちた。


「⋯⋯チッ」


 舌打ち。そして。


「貧相な雛鳥ね」


 氷の刃のような声だった。感情など欠片もない。ただの事実確認。

 路端に落ちている石ころを見て「邪魔だ」と思うのと同レベルの、無関心な侮蔑。


 カツ、カツ、カツ、カツ⋯⋯。


 彼女はそれ以上何も言わず、再び歩き出した。

 風圧が私の髪を揺らしSPたちが私の横を通り過ぎていく。

 遠ざかるヒールの音、残されたのは凍りついた空気と放心状態の私たちだけ。


「⋯⋯あ、あぶねぇ⋯⋯睨まれたかと思った⋯⋯」

「なにあれ、こわ⋯⋯」

「マジ魔王じゃん⋯⋯」


 田所たちが安堵のため息をつく中。

 私は頭を下げたまま、動けずにいた。


 肩が小刻みに震えている。

 誰が見ても、あまりの恐ろしさに足がすくんでしまった哀れな少女の姿だ。

 田所が「おい天宮、大丈夫か? ビビらせやがって⋯⋯」と声をかけてくる。


 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は潤み、頬は紅潮し、口元はだらしなく緩みそうになるのを必死で噛み殺していた。


(あ⋯⋯あぁ⋯⋯っ!!)


 内なる絶叫。脳内で興奮のダムが決壊する。


(目に止まった! 今、レイコ様が私を見た! 認識した! そして『貧相』と言ってくださったああああああああッ!!)


 私は自分の体を抱きしめたい衝動を、必死の理性で抑え込んだ。

 貧相――それはつまり、彼女が私を「商品」として一瞬でも査定ジャッジしたという証拠だ。

 彼女の審美眼フィルターを通過し、その上で「価値なし」と判断された。


 最高だ。無視されるよりも遥かに興奮する。


(「貧相な雛鳥」。⋯⋯くぅぅっ、たまらない響きだ! そうですよね、レイコ様。今の私なんて、ただの清純ぶっただけの、中身のない量産型アイドル。貴女にとっては食指も動かない粗大ゴミでしょう!)


 膝が笑う。

 恐怖ではない。歓喜の武者震いだ。

 あの冷徹な眼差し。ゴミを見るような目。

 私の存在価値をゼロだと断定する、あの絶対的な傲慢さ。


(ゾクゾクする⋯⋯! もっと、もっと見下してほしい。その高いヒールで、私の存在など踏み潰して歩いてほしい!)


 まだ、まだ足りない。

 今のままでは、私はただの「視界に入ったゴミ」だ。

 レイコ様の記憶には1ミリも残らないだろう。


 ――汚さなければ。もっと、徹底的に。


 私は、遠ざかるレイコの背中を見つめながら、歪んだ決意を固める。


(清純派? 天使? そんな(ガワ)だけじゃ、レイコ様のオモチャにはなれない。もっと堕ちて、泥にまみれて、スキャンダルに汚れて⋯⋯「かつて天使と呼ばれた女」が無惨に地に這いつくばった時⋯⋯)


 その時こそ、貴女は私を拾ってくれるはずだ。

 壊れかけた玩具を修理し、自分の色に染め上げるために。

 あるいは、完全に壊して楽しむために。


(待っていてください、レイコ様。私が貴女好みの「最高の廃棄物」になるまで。⋯⋯あぁ、その残り香だけで、あと一年は戦える⋯⋯!)


 肺いっぱいに、廊下に残るチュベローズの香りを吸い込む。

 変態的な行為だが、傍から見れば「過呼吸を鎮めようと深呼吸している」ようにしか見えないはずだ。


「おい、天宮! 行くぞ! スタジオ入りだ!」


 田所に肩を叩かれる。

 私はビクッと体を震わせ、涙目で振り返った。


「は、はい⋯⋯! ごめんなさい、足が震えちゃって⋯⋯」


「ったく、情けねえな。まあ、相手があの西園寺じゃ仕方ねえか。ほら、手貸してやるから」


 田所が差し伸べてきた手を、私は申し訳なさそうに借りて歩き出す。

 その手は脂っぽくて不快だったが、今の私にはどうでもよかった。


 私の心は今この瞬間、永遠に西園寺レイコのものになったのだから。


 私は濡れた瞳を伏せ、心の中で舌なめずりをした。

 さあ、収録だ。

 今日はただの雛壇だが、カメラに映る一瞬でもあれば、そこでも「健気な天使」を演じきってみせる。

 すべては、いつか訪れる「転落」の日の落差を作るために。


 運命の邂逅(一方的な視姦)を終え、私のモチベーションはカンストしていた。

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