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第36話『首筋のバーコード(永遠の契約)』


 東京ドーム公演から数日が過ぎても世間の熱狂は冷めるどころか、一種の社会現象として過熱の一途をたどっていた。

 ニュース番組は連日『Ai現象』を特集し、その経済効果は数百億円に達すると試算している。

 街を歩けば私の曲が流れ、書店の雑誌コーナーは私の表紙で埋め尽くされ、誰もが『Ai』を称賛し、崇め、消費していた。

 

 そんな喧騒も今の私には遠い世界の話だった。エンパイア・プロモーションの社長室。

 私は今、この世の頂点に君臨する主人の前に立っていた。


「⋯⋯素晴らしいわ」


 西園寺レイコ様は、デスクの上で組んだ手の上に顎を乗せ、満足げに目を細めた。

 その前には決算報告書や今後のスケジュール表が山積みになっている。


「ドーム公演の成功でエンパイアの覇権は揺るぎないものになったわ。⋯⋯貴女は私の期待以上の働きをみせた」


 レイコ様が引き出しを開け、分厚いカタログを数冊、テーブルに放り投げた。

 高級外車、海外のリゾート別荘、ハイジュエリーのパンフレット。


「ご褒美よ。好きなものを選びなさい。長期休暇が欲しければどこへでも、形あるものが欲しければハリー・ウィンストンのダイヤでも、何でも買い与えてあげる」


 それは支配者から功労者への最大級の労いだった。普通なら、ここで涙を流して喜ぶか、あるいは長期休暇をもらって南の島へ休暇でも取るところ、しかし私は首を横に振った。


「いりません」

「⋯⋯いらない?」


 レイコ様の眉がピクリと動く。


「物なんていりません。休暇も必要ありません。レイコ様のそばにいられない時間なんて、私にとっては拷問と同じですから」


 私は一歩踏み出し、切実な瞳で彼女を見つめた。


「私が欲しいのは、そんな一時的な快楽じゃありません。⋯⋯もっと、確かな『縛り』が欲しいのです」


 レイコ様は訝しげに私を見た。


「縛り? 契約期間のこと? それなら既に終身契約を結んでいるはずよ」

「紙切れ一枚の契約書なんて、燃やせば灰になります。会社が倒産すれば無効になります。⋯⋯そんな不確かなものではなく」


 私は自分の首筋に手を当てた。後れ毛をかき上げ、白いうなじを露わにする。


「ここに、刻んでいただきたいんです」

「⋯⋯何をよ」

「タトゥーです」


 レイコ様の目が大きく見開かれた。無理もない。日本の芸能界において刺青はタブー中のタブー。CM契約にも響くし、テレビ出演にも制限がかかる最大のリスクだ。


「それも、ただの絵柄じゃありません。⋯⋯商品管理用の『バーコード』を」


 私は熱っぽく語り続けた。


「スーパーの商品に貼ってあるような、あのバーコードです。私がレイコ様の所有物であることを示す、固有の識別番号を⋯⋯一生消えないインクで、ここに刻み込んでほしいんです」


 静寂が落ちた。

 空調の音だけが響く部屋で、レイコ様は信じられないものを見るような目で私を凝視していた。


「⋯⋯頭がおかしいの?」


 彼女は低い声で問うた。


「アイドルが自分で身体に傷をつけるなんて、言語道断よ。それにタトゥーは一生消えないわ。⋯⋯もし将来、貴女がここを去りたくなっても、その烙印は一生ついて回ると分かっているの?」


「だからこそです!!」


 私は食い気味に叫んだ。


「一生消えないからいいんです! 将来なんていらない。私は死ぬまで、いいえ、死んで骨になっても貴女のモノでありたい!」


 私はデスクに身を乗り出し、懇願した。


「万が一、私が認知症になって自分の名前を忘れても、このバーコードを読み取れば貴女の元へ帰れるように。⋯⋯私が貴女の商品であったという証拠を、墓場まで持っていきたいんです!」


 狂気。執着。重すぎる愛。

 引かれるかもしれない。「気味が悪い」と突き放されるかもしれない。

 それでも構わなかった。私のこの煮えたぎるような帰属欲求は、もう首輪や契約書では満たしきれなくなっていたのだ。


 レイコ様は、しばらく無言で私を見つめていた。

 その瞳の奥で困惑と呆れとそして⋯⋯ドス黒い「征服欲」が揺らめくのを見た。


 やがて彼女はふっ、と短く笑った。


「⋯⋯本当に狂っているわね、貴女は」


 それは軽蔑ではなく、共犯者への賛辞だった。


「いいでしょう。⋯⋯そこまで言うなら私の『銘』を刻んであげる」


 彼女はデスクの上のメモ帳を引き寄せ、ペンを走らせ始めた。


「デザインは私が決める。⋯⋯最高に悪趣味で、美しいコードを作ってあげるわ」


 ゾクリ。背筋に電流が走る。

 推しがデザインしたタトゥーを推しの許可を得て一生身体に刻む。

 これ以上の「ファンサ」が、この宇宙に存在するだろうか?


「ありがとうございます⋯⋯! 一生、大切にします!」


 私は涙ぐみながら、何度も頭を下げた。


 ◇


 数日後の深夜。

 レイコ様が手配した場所は雑居ビルの薄暗い一室ではなく、会員制の高級クリニックの一角にある施術室だった。

 衛生管理が行き届いた真っ白な部屋、そこにはレイコ様が信頼を置くという口の堅い彫り師が待機していた。


「⋯⋯場所は、うなじで間違いないですね?」


 マスクをした彫り師が、淡々と確認する。


「ええ。髪を下ろせば見えない位置よ。⋯⋯私と、ヘアメイク担当、そして貴方しか知らない秘密の場所」


 レイコ様が私の隣に立ち、冷ややかに告げた。

 「秘密の場所」――その響きだけで、ほぼイキかけた。


 私は施術台にうつ伏せになり、髪をアップにしてうなじを露わにした。

 アルコールの冷たい感触のあとに剃刀が産毛を剃っていくジョリジョリという音。


「始めます。⋯⋯少し痛みますよ」


 ジジジジジ⋯⋯。


 電動ニードルの駆動音が響き、鋭い痛みが首筋に走った。

 熱い。針が皮膚を突き破り、真皮層にインクを流し込んでいく。


「んっ⋯⋯!」


 私はシーツを握りしめた。

 痛い。骨に響くような、チリチリとした痛み。でも不快ではない。


(入ってくる⋯⋯。レイコ様の意志(インク)が、私の身体の中に入ってくる⋯⋯!)


 一針、一針、突かれるたびに私の「個」としての尊厳が削り取られ「レイコ様の所有物」としての属性が上書きされていく感覚。

 血が滲む。その血とインクが混ざり合い、永遠の刻印となって定着していく。


 ――ギュッ。


 握りしめていた私の右手に温かい手が重なった。

 レイコ様の手だ。彼女は椅子に座り施術の一部始終を見守りながら私の手を強く握っていた。


「⋯⋯痛い?」


 耳元で心配そうな、でもどこか愉しげな声がする。

 私はシーツに顔を埋めたまま、恍惚とした声で答えた。


「いいえ⋯⋯最高、です⋯⋯」


「変態め」


 レイコ様が鼻で笑う。その指先が私の手の甲を優しく撫でる。

 痛みと愛撫。破壊と再生。


 ジジジジジ⋯⋯。

 音は続く。まるで二人の魂を縫い合わせるミシンの音のように。


 私は痛みに耐えながら走馬灯のようにこれまでの日々を思い出していた。

 雨の中で拾われた日。犬小屋で過ごした夜。ドームの歓声。そのすべてがこの「バーコード」という形に集約されていく。


 これはただのファッションではない。私が私であるための最初で最後の「存在証明(生きる証)」なのだ。


 ◇


「⋯⋯終わりました」


 彫り師の声で私は現実に戻った。

 時間は一時間ほどだっただろうか。体感では永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。


 ガーゼで血を拭き取られ消毒される。しみる痛みが完成の合図だ。


「見てみなさい」


 レイコ様が手鏡を持ってきてくれた。私は起き上がり、恐る恐る合わせ鏡で自分のうなじを確認した。


「あ⋯⋯」


 そこには鮮烈な「刻印」があった。まだ赤く腫れた皮膚の上に黒く、鋭利な線で描かれたバーコード。

 その線の太さ、間隔、すべてが機械的で無機質で、だからこそ美しい。


 そして、バーコードの下には数字の代わりに、極小のアルファベットが刻まれていた。


 REIKO'S PROPERTY(『レイコの所有物』)

 直球すぎる。隠喩もメタファーもない、完全なる所有宣言。


「⋯⋯ふっ、ふふふ⋯⋯」


 笑いがこみ上げてきた。涙も一緒に溢れてきた。


(完璧だ⋯⋯。これで私は正真正銘レイコ様の商品(モノ)になれたんだ⋯⋯!)


 もう、言葉はいらない。この文字列が私の名前であり、私の人生であり、私の全てだ。


 レイコ様は、私のうなじに顔を近づけ指先で彫りたての傷跡をなぞる。

 ヒリヒリとした痛みに、背筋が跳ねた。


「美しいわ」


 彼女は溜息交じりに呟いた。


「どんな宝石よりも、どんな名画よりも⋯⋯この傷跡は美しい」


 そして彼女は、そのバーコードの上に、そっと唇を落とした。


 チュッ。


 柔らかく、熱い感触。傷口に染みる痛みが脳髄を焼き尽くすような快感へと昇華する。


「⋯⋯これで貴女は、永遠に私のものよ」


 レイコ様の瞳が、至近距離で私を射抜く。

 そこには冷酷な女帝の顔と愛する作品を慈しむ芸術家の顔が同居していた。


「誰にも渡さない。壊れるまで使い潰して、灰になるまで離さない。⋯⋯覚悟はいいわね?」


 私は震える声で答えた。かつてないほどの幸福感に包まれながら。


「はい⋯⋯ご主人様」


 私は彼女の手に頬ずりをした。


「一生、使い潰してください。⋯⋯返品は、不可ですからね?」


 レイコ様は満足げに微笑み、私の髪を下ろしてバーコードを隠した。

 

「フン、壊れたって返品なんてしないわよ。修理して使い続けるだけのこと」


 二人は視線を交わし共犯者の笑みを浮かべた。そこにはもう誰も入り込めない。

 ハヤトも、サキも、世間の常識も、倫理観も。

 何者も侵すことのできない、完璧で、歪で、そして純粋な愛の世界が完成していた。


 首筋に刻まれたバーコード。それは私たちが交わした魂の婚姻届だった。


 ――物語は、永遠のハッピーエンド(ディストピア)へ。

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