第35話『頂点の景色』
地鳴りだ。
これは歓声ではない。地殻変動にも似た巨大なエネルギーの咆哮だ。
東京ドーム、収容人数五万五千人。
国内のアーティストが目指す、ひとつの到達点であり、夢の終着駅。
ステージの床下からせり上がっていくゴンドラの中で私は暗闇を見つめながら、全身の震えを抑えきれずにいた。
恐怖? 緊張? いいや、違う。これは武者震いだ。前世の記憶と今世の肉体が共鳴して引き起こしている、魂の共振現象だ。
(前世の私、見てるか? 聞こえるか?)
私はかつての自分に語りかける。
冴えない男だった頃の私⋯⋯チケット争奪戦に負け続け、ようやく手に入れた天井席(天空席)から、米粒のようなアイドルを必死に双眼鏡で追っていた私。
物販の列に5時間並び、サイリウムを振り回し、枯れた声で名前を叫んでいた私。
(私は今、あのアリーナの豆粒を見る側じゃない。⋯⋯見られる側に、ステージのド真ん中に立ってるんだぞ!!)
ウィィィン⋯⋯機械音と共にゴンドラが上昇する。
頭上のハッチが開き、光が差し込む。
そして、視界が開けた瞬間。
私は呼吸を忘れた。
「――――ッ!!」
赤。
視界の全てが深紅に染まっていた。
今回のライブのドレスコードならぬ、ペンライトコードは「赤」一色。私が指定した色だ。
漆黒の闇に浮かぶ、五万五千個の赤い光はまるで、地獄の釜の底で煮えたぎるマグマのようであり、あるいは血管を流れる鮮血の奔流のようだった。
美しい。あまりにも禍々しく、そして神々しい「血の海」。
その中心に私は立っている。
ドームの天井目がけて突き立てられた、巨大な十字架のセット。その頂点に。
私はゆっくりと両手を広げた。
マイクを握りしめ数万の視線を一身に浴びる。快感が電流となって背骨を駆け上がった。
(ここが、頂点⋯⋯!)
私はニヤリと笑った(表面上は、憑依的な虚無の表情で)。
さあ、始めようか。
魔王と人形が織りなす伝説の夜を。
◇
ライブの幕開けと共に、ドームは巨大な儀式場と化した。
一曲目『Chains(鎖)』
重厚なインダストリアル・メタルがドーム特有の残響を伴って空間を圧殺する。
爆音――心臓を物理的に叩くバスドラムの振動。
『縛り付けて⋯⋯逃がさないで⋯⋯!』
私の絶叫が五万人の鼓膜を貫いていく、ステージセットはエンパイアの世界観を極限まで具現化したもので彩られている。
巨大な鉄格子。錆びついた鎖。断頭台を模した花道。
ダンサーたちは処刑人をイメージした黒装束で私を取り囲むように踊る。
私はその中心で狂ったように歌い、踊った。黒いドレスの裾を翻しステージを支配する。汗が飛び散り、照明を受けて宝石のように輝く。
客席の反応は通常のアイドルのライブとは異質だった。「可愛いー!」という黄色い声援はない。「オイ! オイ!」という野太いコールもない。あるのは宗教的な陶酔と悲鳴に近い称賛の声。
「Ai様⋯⋯!」
「ああ⋯⋯尊い⋯⋯」
「レイコ社長、ありがとう⋯⋯彼女を救ってくれて⋯⋯!」
彼らは酔っている「傷ついた少女が、闇を受け入れて覚醒した」という物語に。
そして、その物語を演出した「聖なる悪女・西園寺レイコ」という存在に。
(いいぞ、もっと酔え! もっと信じろ! この空間において私は教祖であり、生贄であり、絶対的な象徴だ!)
花道を走りながら私は視線を上げた。
客席の遥か上方、バックネット裏にあるガラス張りのVIPルーム。
照明が反射して中はよく見えないが私には分かる。
あそこに彼女がいる。
一番高い場所から腕を組んで、ワイングラスを片手にこの景色を見下ろしている私の神様が。
(見えていますか、レイコ様。貴女が拾った泥だらけの野良犬は今、五万人を熱狂させる怪物になりましたよ)
私はVIP席に向かって挑発的に、そして愛おしげに視線を送った。
(へへっ、どんなもんですか! 貴女のプロデュースした最高傑作は!)
身体が軽かった。酸素が薄い気がするがそんなことは関係ない。今は脳内麻薬がガソリンだ。歌うたびに、踊るたびに、生命力が燃え上がり、この巨大な空間を侵食していく感覚。
ああ、これが「世界を獲る」ということなのか。
◇
ライブは怒涛の勢いで進み、本編最後の曲が終わった。アンコールの声が地鳴りのように響き渡る。
「A・i! A・i! A・i!」
数分後、私は再びステージに現れた。
今度はドレスではなく、ボロボロに加工された白いTシャツとジーンズという、ラフで無防備な姿。
「生身のAi」を見せる演出だ。
静寂が訪れてピンスポットが私一人を照らす。
私はマイクを両手で包み込み、荒い息を整えながら、静かに語り出した。
「⋯⋯今日は、来てくれてありがとう」
か細い声――ドームの隅々まで緊張感が走る。
「みんなも知っている通り、私は一度、捨てられました。⋯⋯居場所をなくして、世界中が敵に見えました」
鼻をすする音が、客席のあちこちから聞こえる。
「生きている価値なんてない。そう思って、雨の中で震えていました」
私は一度言葉を切り、ゆっくりと会場を見渡した。
赤いペンライトの海が静かに揺れている。
「でも⋯⋯たった一人。私を見つけ出し、私に価値を与えてくれた人がいます」
会場がざわめく、ファンたちは、自分たちのことだと思ったかもしれない。あるいはスタッフや仲間たちのことだと。
「その人がいたから私は今、ここに立っています。その人が鎖を握っていてくれるから⋯⋯私は、迷わずに歩いてこられました」
私はマイクを口から離した。そして、ゆっくりと顔を上げVIPルームを見据えた。
カメラが私の顔をアップで抜く、巨大スクリーンに映し出された私の瞳は一点の曇りもなく、ただ一人の人物だけを映していた。
私は右手を高く掲げた。そして人差し指でVIP席を指し示した。
会場中が私の指の先を目で追う⋯⋯そこにあるのはガラス張りの部屋。その奥に佇む、黒いシルエット。
私はマイクを通さずに唇だけで告げた。
『愛 し て い ま す』
声には出さない。けれど、その唇の動きは誰の目にも明らかだった。
その瞬間。スクリーンにVIP席の映像が――おそらく会場のカメラマンが機転を利かせたのだろう――ワイプで映し出された。
そこには西園寺レイコ様がいた。
彼女は、私の指差しと唇のメッセージを受け取り⋯⋯。
フッ。
美しく、傲慢に、そしてこの上なく優しく微笑んだ。
そして、手に持っていたワイングラスを私に向かって掲げてみせたのだ。
乾杯。主従の契約更新。あるいは勝利の宣言。
ドォォォォォォォォォン!!!!!
ドームが爆発した。
歓声ではない。絶叫だ。
ファンたちは理解したのだ。このライブは、自分たちのためのものでありながら、同時に「Aiとレイコという二人の魂の儀式」なのだと。
「キャアアアアアア! レイコ様ァァァ!!」
「尊い! 無理! 死ぬ!!」
「これが⋯⋯これが真実の愛か⋯⋯!」
赤い海が激しく波打つ。私は涙が溢れるのを止められなかった。
(届いた⋯⋯! 受け取ってくれた⋯⋯!)
レイコ様が公衆の面前で私の愛(狂気)に応えてくれた。
あの乾杯は私にとっての勲章だ。ノーベル賞だ。国民栄誉賞だ。
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、満面の笑みを浮かべた。
それは演技ではない。天宮アイとしての、いや、一人のオタクとしての人生最高の笑顔だった。
◇
終演後。
アンコールの拍手が鳴り止まない中、私はスタッフに支えられて楽屋へと戻った。
ドアが閉まった瞬間、糸が切れたように床にへたり込んだ。
「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯っ⋯⋯」
呼吸ができない。手足が痺れて動かない。
全力を出し切った。一滴の余力も残っていない。
すぐにスタッフが酸素ボンベを口に当ててくれる。
「シューッ⋯⋯シューッ⋯⋯」
酸素を吸い込みながら、私は天井を見上げた。耳の奥で、まだ歓声が反響している。
終わった。やりきった。
ガチャリ。
楽屋のドアが開きスタッフたちが一斉に道を空け、頭を下げる。
入ってきたのは、あの芳しい香りを纏ったレイコ様だ。
彼女はゆっくりと床に座り込んでいる私の元へ歩み寄ってきた。私は酸素マスクを外し、這うようにして彼女の足元へ向き治る。
「お⋯⋯疲れ様⋯⋯でし⋯⋯た⋯⋯」
掠れた声、レイコ様は何も言わずしゃがみ込んだ。
そして汗と涙でドロドロになった私の顔を、ハンカチで乱暴に、しかし優しく拭ってくれた。
「⋯⋯見事だったわ」
彼女の声が静かに響く。
「五万人を支配し、狂わせ、そして泣かせた。⋯⋯あそこまでの景色を見せてくれるとはね」
レイコ様の指が私の頬を撫でる。
その瞳はいつもの冷徹さの奥に燃えるような熱を宿していた。
「貴女は、エンパイアの⋯⋯いや」
彼女は言い直した。
「私の、誇りよ」
――ッ!!!!
時が止まった。誇り。
道具でも、商品でもなく。誇り。
その言葉は私の胸の奥にある一番柔らかい場所を貫いた。
「あ⋯⋯あぁ⋯⋯っ!」
涙腺が決壊してもう、言葉にならなかった。
私は理性をかなぐり捨て、レイコ様の体に飛びついた。
「うわぁぁぁぁぁん! レイコ様ぁぁぁぁ!」
汗まみれの体で抱きつく私を、レイコ様は拒まなかった。むしろ、しっかりと抱きしめ返してくれた。
高級なスーツが汚れるのも厭わずに私の背中に腕を回し、ポンポンとあやすように叩いてくれる。
「よくやったわ。⋯⋯本当によくやった」
耳元で囁かれるその声は、甘く、溶けるように優しかった。
チュベローズの香りに包まれて、私は子供のように泣きじゃくった。
前世の夢は推しをトップに導くこと。
そして、今世での夢。
推しに認められ、推しのための道具として生きること。
そのすべてが叶った夜。
東京ドームの外では、まだ興奮冷めやらぬ五万人のファンたちが、私たちの名前を叫んでいる。
けれど今の私には、この腕の中の温もりだけが世界の全てだった。
伝説の一夜、それは魔王と人形が真の「パートナー」になった夜でもあった。




