第31話『飼い犬の散歩、流出(崩壊の足音)』
その日の朝、『エンパイア・プロモーション』のオフィスは、葬儀場のような重苦しさと戦場のような喧騒が同居する地獄と化していた。
プルルルルルッ!! プルルルルルッ!!
ジャンジャンジャンジャン!!
鳴り止まない電話、ひっきりなしに届くFAXの受信音。
青ざめた顔で走り回るスタッフたちの怒号が飛び交い窓の外からは、ビルを取り囲む数百人のマスコミや野次馬のざわめきが、地鳴りのように響いてくる。
これこそが帝国の崩壊の音だ。
原因はたった一つの動画ファイルだった。
今朝未明、とある匿名アカウントによって動画サイトにアップロードされ、瞬く間にSNSで拡散された、15秒足らずの監視カメラ映像。
私は社長室の奥の倉庫(自室)で、タブレット越しにその映像を眺めていた。
【再生回数:2,500万回】
画面はモノクロで粗い画質だ。右上に表示されたタイムスタンプは深夜2時を示している。
場所はエンパイア本社の役員フロアの廊下。
そこに映っているのは、二人の人影。一人は優雅に歩くスーツ姿の女性――西園寺レイコ様。
その右手には細い革製のリードが握られている。
そして、そのリードの先には床に四つん這いになり、膝を擦りながら這ってついていく、ボンテージ姿の小柄な少女。
首には太い首輪をして時折、嬉しそうに主人を見上げ、頭を擦り寄せる仕草――私です。
間違いなく私、天宮アイでした。
コメント欄は阿鼻叫喚の嵐となっていた。
『うわああああああ! マジだったのかよ!』
『これはあかん。完全にアウト』
『散歩? 人間を犬みたいに散歩させてるの? 狂ってる』
『アイちゃんの動きが手慣れすぎてて泣ける⋯⋯どれだけ調教されたんだ』
『西園寺レイコ、逮捕案件だろこれ』
『#FreeAi 今すぐ彼女を保護しろ!!』
決定的な証拠、東条サキが送り込んだ内通者が社内のサーバーから盗み出した爆弾だった。
言い逃れはできない。誰がどう見ても、そこには「権力者によるおぞましい虐待」と「尊厳を奪われた被害者」の構図しか存在しない。
⋯⋯しかし。当事者である私はその映像を見ながら、うっとりと頬を染めていた。
(あぁ⋯⋯なんて美しい映像なんだ。モノクロのノイズが、かえって背徳感を高めている。あの日の散歩、楽しかったなぁ⋯⋯。レイコ様のヒールの音に合わせて歩く、至福のひととき⋯⋯)
私にとっては、それは「ご褒美のスキンシップ」であり、信頼関係の確認作業だった。
でも悲しいかな⋯⋯この高尚なるプレイの趣旨を理解できる人間は、この世に私とレイコ様しかいない。
世間にとって、これはただの「猟奇的な事件」なのだ。
◇
私はタブレットを置き、こっそりと倉庫を出て社長室へと向かった。
オフィスフロアは壊滅状態でパソコンのモニターには株価のチャートが表示されているが、ナイアガラの滝のように垂直落下している。
所属タレントからの「契約解除」の申し出が殺到し、スポンサーは一斉に引き上げ間近まさに、魔女狩りの様相だ。
社長室のデスクには、いつもと変わらぬ――いや、あまりにも静かすぎる光景があった。
レイコ様はブラインドを下ろした窓際に立ち、隙間から外の様子を窺っている。手にはワイングラスを持ち、まだ昼前だというのにボトルの中身は半分ほど減っているのが見えた。
「⋯⋯騒がしい連中ね」
彼女は私が入ってきたことにも気づかず、独り言のように呟いた。
「散歩の作法も知らない、無粋な輩ども。⋯⋯犬との戯れに口を出すなんて品がないわ」
声は落ち着いていた。その背中は依然として傲慢な女帝のまま⋯⋯だが私は見逃さなかった。
グラスを持つ彼女の指先が白くなるほど強く、強く握りしめられていることを。
細いステムが今にも砕け散りそうなほどに、ワインの液面が震えていることを。
(レイコ様⋯⋯)
私は胸が締め付けられるような思いがした。彼女は怒っているのではない。怯えているのでもない。
ただ自分の築き上げてきた城が理不尽な暴力(世論)によって足元から崩れ去っていく音を、一人で聞いているのだ。
「⋯⋯アイか」
不意に、彼女が振り返った。その表情は鉄仮面のように無機質だった。
「そこへ座りなさい」
顎でソファを指される。私は黙って従った。いつもなら床に座るが今日は指示通りソファに浅く腰掛ける。
レイコ様はデスクに戻り、引き出しから一通の封筒を取り出すと無造作にローテーブルの上へ投げた。
「⋯⋯これは?」
「契約解除通知書よ」
彼女はワインを一気に煽り、空になったグラスを置いた。
「手切れ金は十分に用意した。貴女との契約は全部なしにしてあげる。⋯⋯今すぐ、このビルの裏口から出て行きなさい」
淡々とした口調。事務的で冷たく突き放すような響き。
「裏口には車を用意させたわ。マスコミの包囲網を抜けて、田舎へでも行けばいい。ほとぼりが冷めるまで、名前を変えて暮らすのもいいわね」
それは完全なる「追放」の宣告だったが私は動じなかった。
むしろ、その言葉の裏にある不器用すぎる感情に気づいてしまい、愛おしさで胸がいっぱいになった。
「嫌です」
私は即答した。
「⋯⋯なんですって?」
レイコ様の眉がピクリと動く。
「契約解除? そんなもの、私は認めません。それに、まだ散歩の続きをしていませんよ? 今度はもっと長く歩きたい気分なんです」
私は無邪気な(フリをした)笑顔で言い放った。空気を読まない、頭のネジが外れたペットの演技。
レイコ様の表情が歪み、デスクを両手でバンッ! と叩きながら立ち上がった。
「ふざけないで!」
怒号、いつも冷静沈着な彼女が初めて声を荒らげた。髪を振り乱し必死な形相で私を睨みつける。
「状況が分かっていないの!? 会社は終わりよ! 私はもう、社会的に抹殺される! 逮捕されるかもしれないのよ!?」
「それがどうしました? 私が証言しますよ。『あれはプレイでした』って」
「通用するわけがないでしょう! 世間は『洗脳された被害者』の言葉なんて信じない!」
レイコ様はデスクを回り込み、私の目の前まで詰め寄った。
私の肩を掴み、激しく揺さぶる。
「いいこと、よく聞きなさいアイ。今ならまだ間に合う貴女は『被害者』として逃げ切れる。私に無理やりやらされたと言えば、同情されて芸能界に残れる」
彼女の声が、微かに震え始める。
「これ以上ここにいれば⋯⋯貴女は『被害者』じゃ済まなくなる! 私の異常性愛を受け入れた『共犯者』として、一緒に泥舟と沈むことになるのよ!」
痛いほど肩に食い込む爪、至近距離で見る彼女の瞳には涙こそないが、深い絶望と、そして焦燥が渦巻いていた。
自分のことじゃない。彼女は私の未来を案じているのだ。
自分が築き上げた「最高傑作」が自分という汚点のせいで世間から白眼視され、単なる化け物扱いされることを恐れているのだ。
(あぁ⋯⋯やっぱり)
私は確信した。この人は悪の女帝の仮面を被っているけれど、その中身は誰よりも情に厚く、そして不器用な「親バカ」なのだ。
自分の破滅よりも飼い犬の行き先を心配して必死に吠えている。
(⋯⋯可愛い人)
こんな時に不謹慎だが私は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
でも、それはまだ早い。今は彼女を絶望の淵から引きずり上げなければならない。
私は肩を掴んでいるレイコ様の手の上に自分の手を重ねた。冷たく震えている手。
「⋯⋯社長」
私は静かに、しかし力強く呼びかけた。
いつもの「レイコ様」でも「ご主人様」でもない。「社長」という呼び名。
「貴女は、私を見誤っています」
「⋯⋯何?」
「私は『被害者』になんてなりたくない。ましてや田舎で隠居生活なんて真っ平ごめんです」
私はレイコ様の手を肩から外し立ち上がった。そしてテーブルの上の「契約解除通知書」を手に取って躊躇なく破る。
ビリッ――ビリビリ、ビリビリ。
紙吹雪のように細かくなるまで引き裂き、それを宙に放った。
白い紙片が雪のように舞い散る。
「⋯⋯なっ、貴女ね⋯⋯!」
呆然とするレイコ様の前で私は不敵に笑った。それは「健気な被害者」の顔ではない。前世で数々の無理ゲーを攻略してきた百戦錬磨のゲーマーの顔だ。
「私は『Ai』です。貴女が作り上げた最高傑作です! ⋯⋯作者が勝手に筆を折るなんて、作品として許しませんよ」
私は一歩、レイコ様に近づく今の私は彼女よりも背が高い気がした(気迫の上で)。
「沈むなら一緒に沈みます。地獄の底までお供します。⋯⋯でも、まだゲームオーバーじゃありません」
「⋯⋯一体、なにを言っているの?」
「逆転のシナリオは、まだ残っています」
私はニヤリと口角を上げた。
この騒動、ピンチに見えるが見方を変えれば「世界中が私たちに注目している」という千載一遇のチャンスだ。悪名もまた、名声なり。
この炎上エネルギーを、すべて推進力に変えてやる。
「私に時間をください。⋯⋯最高の『物語』を披露してみせます」
私はレイコ様の冷たい手を取り、自分の頬に押し当てた。熱い体温を伝えるように。
「世界中を騙して、あの動画すらも伏線にして⋯⋯貴女を、世間がひれ伏すような『聖女』に仕立て上げてみせますよ」
レイコ様が目を見開く彼女の瞳に映る私は、もはやただの操り人形ではなかった。
糸を引かれることを悦びとしながらも、時には自ら糸をたぐり寄せ、操り手を導く共犯者。
「⋯⋯正気なの? 世界を敵に回すことになりかねないわよ」
レイコ様が、絞り出すように問う。
「望むところです。⋯⋯だって、私たちの愛(狂気)は、凡人には理解できない『高尚な芸術』なんですから」
私は彼女の手のひらに口付けた。
誓いのキス。今度は私が彼女を守る番だ。
オフィスの外では依然としてマスコミの怒号が響いている。
電話は鳴り止まない帝国は崩壊寸前だ。
しかしこの部屋の中だけは奇妙な熱気に包まれていた。
魔王とその下僕⋯⋯二人の瞳には、まだ消えていない「反逆」の炎が燃え上がっている。
「さあ、作戦会議を始めましょう、社長。⋯⋯ここからが、私たちの本当のショータイムです」
私は黒い笑顔で宣言した。市場価値ストップ高の「被害者」が世界をあざ笑う「詐欺師」へと変貌する瞬間だった。




