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第3話『無能の尻拭いは蜜の味』


 防音扉で閉ざされたレコーディングブースの中は、地獄の釜の底よりも居心地が悪かった。

 空気が、死んでいる。

 高価な機材が並ぶコントロールルームには、鉛のような重苦しい沈黙と、隠しきれない苛立ちが充満していた。


「――はい、カット。⋯⋯リカちゃん、今のテイクもピッチがフラついてるよ。サビの『高鳴る鼓動』の『どう』あと半音上げて」


 連絡用マイク越しに響くディレクターの声は、もはや怒りを通り越して諦めの色を帯びていた。

 ブースのガラス越しに見えるリカはヘッドホンを乱暴にずらし、不機嫌そうに唇を尖らせている。


「はぁ? また? さっきから何回目よ」


 リカがマイクに向かって毒づく音が、スピーカーを通してコントロールルームに響く。

 これで十八回目のリテイクだ。

 予定していた終了時間はとっくに過ぎている。借りているスタジオの延長料金がチャリンチャリンと加算されていく音が幻聴として聞こえてきそうだ。


「いや、機械の調子悪いんじゃないの? 私のモニター、なんか音が割れて聞こえるし。これじゃ歌えるわけないじゃん」


 リカは自分の実力不足を棚に上げ、あろうことかエンジニアに責任転嫁を始めた。

 エンジニアの男性が、カチンときた顔でコンソールを叩く。


「機材は正常です。波形も見てますけど、明らかにフラット((音が低い))してますよ」

「だからぁ! それが機械のせいだって言ってんの! あーもう、やってらんない!」


 リカは譜面台をバンと叩き、パイプ椅子にドカッと座り込んでしまった。

 最悪の空気だ。

 マネージャーの田所はといえば、部屋の隅でスマホをいじりながら時折「あー、リカちゃん、まあまあ。水飲む?」などと、場当たり的な機嫌取りをしているだけ。本当に役立たずである。


 私は部屋の隅にあるソファにちょこんと座り、その様子をじっと見つめていた。

 膝の上で拳を握り締め、心配そうに眉を寄せる。


「リカちゃん⋯⋯大丈夫かな⋯⋯」


 小さな声で呟く私に、隣に座っていたミナが鼻で笑う。

 ミナの収録は(機械によるピッチ補正前提で)終わっているので、彼女は暇潰しにスマホゲームをしている最中だ。


「ほっときなよ。リカ、今日生理なんじゃない? めんどくさ」


 ここにはメンバー間の結束など欠片もない。まさに泥舟だった。


(くくく⋯⋯いいぞリカ。その調子だ。もっと喚け、もっと周囲を不快にさせろ。お前のその『無能な傲慢さ』が、この場の空気を最高に美味しく熟成させている!)


 私は心の中で、満面の笑みで拍手を送っていた。私独自の鑑定スキルに照らせばリカの【歌唱力】はEランク。音域が狭いくせに自分を歌姫だと思い込んでいる厄介なタイプだ。


 対して、今回の新曲『恋色パレット』は、サビでHi-C(高いド)まで駆け上がる、地下アイドルにしては難易度の高い楽曲。彼女の実力では、あと百回歌っても成功しないだろう。


 ディレクターが頭を抱え、田所に視線を送る。「どうにかしろ」という合図だ。

 しかし田所はオロオロするばかり。

 このままではレコーディングが中止になりかねない。


 ――そろそろ、私の出番だ。


(待たせたな。ここからは『聖女』の独壇場だ)


 私はおずおずと手を挙げ、ソファから立ち上がった。

 まるで戦場に舞い降りた一輪の白百合のように。


「あの⋯⋯ディレクターさん」


「⋯⋯ん? なんだい、天宮ちゃん」


 ささくれ立っていたディレクターの声色が、私に向けられた瞬間に少し柔らかくなる。

 私は胸の前で手を組み、上目遣いで懇願した。


「少しだけ、休憩をいただけませんか? リカちゃん、きっと喉が疲れちゃってるんだと思います。⋯⋯私が、ちょっとお話してきます」


「お話って⋯⋯君が?」


「はい。リカちゃんは頑張り屋さんだから、きっと力みすぎちゃってるだけなんです。私でよければ、リラックスするお手伝いができるかもって⋯⋯」


 なんて健気な提案だろうか。自分の収録は一発OK(もちろん、わざと下手に歌いつつも完璧なピッチで)を出して終わっているのに、足手まといのメンバーのためにわざわざ泥をかぶりに行くのだから。


 ディレクターは溜息をつき、腕時計を見た。

 

「⋯⋯わかった。十分だけ休憩にしよう。天宮ちゃん、頼めるかな?」

「はいっ! ありがとうございます!」


 私は花が咲くような笑顔で一礼すると、重い防音扉を開けてブースの中へと入っていった。


 ◇


 ブース内は閉め切った空気とリカのイライラで煮詰まっていた。

 私が中に入ると、リカは不愉快そうに顔を歪めた。


「何? アンタに用はないんだけど」


「ごめんね、リカちゃん。⋯⋯お水、持ってきたよ」


 私はペットボトルを差し出す。リカはそれをひったくるように受け取ると一口飲んで「ぬるっ」と文句を言った。常温の水は喉に良いのだが、そんな知識は彼女にはないらしい。


「で? 何しに来たわけ? 早く帰れば? 優等生さんは一発OKで余裕なんでしょーね」


 棘のある言葉。劣等感と嫉妬が入り混じった、素晴らしい罵倒だ。

 私は傷ついたような顔を一瞬見せ、それから一歩踏み出した。

 リカのすぐそばまで歩み寄り、彼女の肩にそっと手を置く。


「違うよ、リカちゃん。⋯⋯私、リカちゃんの歌声、すごく好きだよ」


「は⋯⋯?」


 予想外の言葉に、リカが目を丸くする。

 私はその隙を逃さず、彼女の手を両手で包み込んだ。

 私の手は少し冷たく、リカの手は脂汗で湿っている。


「リカちゃんの声には、パワーがあるもん。私みたいに細い声じゃ出せない迫力が。⋯⋯ただ、今はちょっと、ヘッドホンの音が気になって歌いにくいだけだよね?」


「そ、そうよ! このヘッドホン、最悪なんだから!」


 リカは我が意を得たりとばかりに頷く。

 私は聖母のような微笑みを浮かべ、彼女の言い訳を全肯定した。

 そして、ここからが本番だ。


「ねえ、リカちゃん。私がボイトレの先生に聞いた『魔法のおまじない』試してみない?」


「おまじない⋯⋯?」


「うん。⋯⋯ちょっと失礼するね」


 私はリカの背中に回り込むと、彼女の背筋に沿って指を這わせた。

 ゾクリ、とリカの体が震える。

 私は耳元に顔を寄せ、吐息がかかるほどの距離で囁いた。


「リカちゃん、肩に力が入りすぎてる。⋯⋯ここ、もっと脱力して」


 トン、と肩を叩く。

 それから脇腹のあたり、横隔膜の位置を軽く押す。


「サビの高い音が出る時、顎が上がっちゃってるの。それだと喉が締まっちゃう。⋯⋯顎を引いて、お腹のここ⋯⋯私指の場所に、空気を溜めるイメージで⋯⋯」


 優しく、丁寧に。まるで幼児に言い聞かせるように。


 表向きは「親身なアドバイス」⋯⋯しかし、その本質は「実力差のマウンティング」に他ならない。


(ほーら、屈辱だろ? いつも見下している天宮アイに、手取り足取り指導される気分はどうだ? 『アンタの歌が下手なのは、基本ができてないからだよ』と、遠回しに言われていることに気づけよ!)


 プライドの高いリカにとって年下で、キャラ被りをしている私からの指導は、何よりも耐え難い屈辱のはずだ。

 現にリカの顔は耳まで真っ赤になっている。感謝の赤ではない。羞恥と怒りの赤だ。


「わ、わかってるわよ、それくらい!」


 リカは私の手を振り払おうとするが私は離さない。むしろ、さらに強く抱きしめるようにして、彼女の姿勢を矯正する。


「大丈夫。リカちゃんならできるよ。⋯⋯私、コントロールルームで一番応援してるから。リカちゃんのカッコいい歌、聞かせて?」


 至近距離での上目遣いと完璧な「信頼」の眼差し。

 これをされて「ふざけんな」と怒鳴れる人間はそういない。怒鳴れば、リカの方が「親切を仇で返す最低な人間」になってしまうからだ。


 外ではスタッフたちが見ている。完全に断たれた逃げ場。

 リカは歯噛みしながら、私の視線から逃げるように顔を背けた。


「⋯⋯っ、わかったわよ! やればいいんでしょ、やれば!」


「うんっ! 頑張って、リカちゃん!」


 私は満面の笑みで彼女の背中をポンと叩き、ブースを出た。


 ◇


 コントロールルームに戻った私を、スタッフたちは称賛の眼差しで迎えた。


「天宮ちゃん、すごいね。あんな不機嫌なリカちゃんをなだめるなんて」

「本当にいい子だなぁ。グループの精神的支柱だよ、君は」

「あいつ、天宮ちゃんの爪の垢を煎じて飲んだ方がいいよ」


 ディレクターやエンジニアたちが口々に褒めそやす。

 私は「いえいえ、そんな⋯⋯」と謙遜しながら、心の中でガッツポーズを決める。


(チョロい! チョロすぎるぞ業界人! 『性格の良い美少女』というバイアスがかかれば、私の行動はすべて『善意』に変換される!)


 そして再開されたレコーディング。

 リカは、悔しさを爆発させるように声を張り上げた。

 私に教えられた通り、顎を引き、腹に力を入れて。

 

 『高鳴る鼓動――!!』


 ⋯⋯出た。

 ギリギリだがフラットせずに高音が出た。

 怒りと屈辱をエネルギーに変えた、荒々しい歌声だ。


「おっ! 今のは良かったよ! OK!」


 ディレクターがOKサインを出す。

 ブースの中のリカは、嬉しさよりもバツが悪そうな顔をして、ガラス越しの私を睨みつけた。


 私は両手を振って、口パクで『す・ご・い!』と伝える。

 リカはフンと鼻を鳴らし、ヘッドホンを外した。


 その唇が、動くのが見えた。

 マイクはオフになっていたが、私にははっきりと読めた。


 『⋯⋯ムカつく』


 ――ッシャアアアアアアッ!!


 これだ。この感情だ。感謝なんていらない。友情なんてクソ食らえだ。

 私が欲しいのは、そのドス黒い「敵対心」。


(育てろ、その憎しみを。お前のちっぽけなプライドを傷つける存在として、私を認識しろ。そしていつか、我慢の限界を超えて私を排除しようと動いてくれ!)


 想像するだけでご飯が進む。

 メンバー全員からハブられ、いじめられ、居場所をなくした私が、雨の中でうずくまる姿。

 そこに現れる西園寺レイコ様。


 あぁ、尊い。

 

「天宮ちゃん? どうしたの、顔が赤いよ?」


 ディレクターに声をかけられ、私はハッと我に返る。

 妄想に浸りすぎて、顔がにやけ⋯⋯いや、上気してしまったようだ。

 私は慌てて両手で頬を包み、潤んだ瞳で彼を見つめた。


「あ、いえ⋯⋯リカちゃんの歌声に感動しちゃって⋯⋯。本当によかった⋯⋯」


 嘘ではない。彼女の歌声は私の「悲劇のヒロイン計画」を前進させる、素晴らしい燃料だったのだから。


 田所が「よし、じゃあ次はジャケ写の打ち合わせだ!」と能天気に声を上げる。

 私は「はいっ!」と元気よく返事をしながら、心の中で舌を出した。


 無能の尻拭い。それは未来の栄光(という名の破滅)への先行投資。

 なんて甘美な蜜の味なのだろう。


 私はスキップしたい衝動を抑え、聖女の仮面を貼り直して次の戦場へと向かうのだった。

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