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第28話『魔王の看病(ご褒美イベント)』


(⋯⋯知らない天井だ)


 私が重い瞼を持ち上げた時、最初に視界に飛び込んできたのは、無機質な倉庫のコンクリート天井ではなかった。

 高く、白く、そして柔らかな間接照明に彩られた、洗練された天井。

 空調は完璧にコントロールされ、湿度も温度も、肌にとって最も快適な数値に保たれている。


 身じろぎをすると背中に感じる感触が違う。いつもの段ボールと煎餅布団の硬さはなく雲の上に浮いているかのような、身体を優しく包み込む極上の弾力。

 シーツは最高級のエジプト綿だろうか。頬に触れる布地がシルクのように滑らかだ。


(ここは⋯⋯天国? 私は過労死したのか?)


 ぼんやりとした頭で考える⋯⋯全身が鉛のように重く、節々が痛んで喉はカラカラに乾いている。

 熱があるのは間違いなかった。死後の世界にしては身体の不調がリアルすぎる。


 その時、私の鼻腔をある香りがくすぐった。


 スゥ⋯⋯甘く、濃厚で、どこか凛とした冷たさを孕んだ香り――チュベローズとメンソール。


(――ッ!?)


 私の脳内でシナプスが爆発的な速度で結合した。

 知っている。この匂いを私は知っている。

 これは私が崇拝してやまない西園寺レイコ様の残り香だ。それが部屋中に充満しているということは⋯⋯!


(ま、まさか⋯⋯ここはレイコ様のプライベートルーム!?)


 カッ! と目が見開かれた。私はガバッと起き上がろうとしたが身体が言うことを聞かない。

 視界がぐらりと回り、うめき声を上げて枕に沈み込む。


「うぅ⋯⋯」


 動けない。悔しい。今すぐこの聖域を探索しレイコ様の私生活の痕跡を目に焼き付けたいのに。

 私が寝ているこのベッド、間違いなくレイコ様が普段お使いのものだ。

 枕から漂う香りが濃い。これは実質、レイコ様と頭を並べて寝ているのと同義ではないか!


(神様、仏様、レイコ様⋯⋯。過労死寸前まで働いてよかった。ブラック企業万歳。ここは約束の地カナンだ⋯⋯!)


 私は高熱に浮かされながらも、心の中で歓喜の舞を踊っていた。

 その時、静かにドアが開く音がした。


 ガチャリ――重厚なドアが開き、廊下の光が差し込む。そこに立っていた人物を見て私は呼吸を思わず忘れた。


 西園寺レイコ様、それはいつもの「女帝」ではない。漆黒のパンツスーツも鋭利なピンヒールもない。

 身に纏っているのは、滑らかな光沢を放つネイビーブルーのシルクのナイトガウン。

 胸元が少し開いていて鎖骨の白さが薄暗い部屋の中で浮き上がっている。


 そして何より――髪だ。普段は完璧にセットされている黒髪が今は無造作に下ろされ、肩にかかっている。メイクもしていないから当然のすっぴん、それなのに化粧をしている時よりも幼く、そして無防備な色気が漂っている。


(これはSSSR⋯⋯! 限定排出率0.001%の『オフモード・レイコ』様だ⋯⋯!)


 私は幻覚を見ているのだろうか⋯⋯いや、幻覚でもいい。この尊い姿を拝めるなら、このまま熱で脳が焼き切れても本望だ。


 レイコ様は手に氷嚢と水の入ったグラスを持ち、ベッドサイドに歩み寄ってきた。

 素足だ、フローリングを踏む足音がいつもより柔らかい。


「⋯⋯気がついたようね」


 声は少しハスキーだった。彼女はサイドテーブルにグラスを置くと、私を見下ろして短く舌打ちをした。


「飼い主に手間をかけさせるなんて飼い犬失格よ。⋯⋯まだ熱は下がらないようね」


 乱暴な言葉とは裏腹に彼女の手つきは慎重だった。私の額に乗っていた、ぬるくなった氷嚢を取り除く。そして自分の手を私の額に当てた。


 ヒヤリ――冷たい。火照った肌に彼女の冷たい掌が吸い付くように触れる。

 気持ちいい。物理的な冷たさだけではない。彼女に触れられているという事実が熱に侵された脳髄に快楽の信号を送ってくる。


「⋯⋯んぅ⋯⋯」


 私は思わず、猫のように目を細めて吐息を漏らした。レイコ様の手が私の前髪を払う。


「勘違いしないで」


 彼女は新しい氷嚢を私の額に乗せながら、ぶっきらぼうに言った。


「所有物のメンテナンスは持ち主の義務よ。故障したまま放置して使えなくなっては困るからね、貴女に価値がある間は面倒を見てあげるわ」


「⋯⋯すみ、ません⋯⋯」


 私は掠れた声で謝る。喉が張り付いて声が出にくい。


「過労で死なれたら、これまでの投資が無駄になる。⋯⋯私がかけた金と時間、きっちり身体で返してもらうまで死ぬことなど許可しないわよ」


 典型的なツンデレ台詞⋯⋯その声色には以前のような氷の刃のような鋭さはなかった。

 なにかを認めたような、それでいて安堵したような、柔らかな響き。


(あぁ⋯⋯メンテナンス⋯⋯。私は今、修理されている⋯⋯。世界で一番高貴な整備士様に⋯⋯)


 レイコ様は氷嚢の位置を調整するとサイドテーブルのグラスを手に取った。

 中には氷水と曲がるストローが差してある。


「ほら、飲みなさい。脱水で干からびるわよ」


 私の背中に手を回し抱き起こしてくれるレイコ様⋯⋯顔が近い、すっぴんの肌のきめ細かさが分かる距離。チュベローズの香りがより濃厚に鼻孔を満たす。


 私は赤子のように口を開け、差し出されたストローを咥えた。

 冷たい水が、乾いた喉を潤していく。ゴク、ゴク、と喉が鳴る。


「ゆっくり飲みなさい。⋯⋯全く、世話の焼ける道具なんだから」


 レイコ様は私が飲み終わるまで身体を支え続けてくれた。その体温、胸の鼓動、背中に触れる柔らかさ⋯⋯すべてが夢のようだ。


 ◇


 水を飲み終え、再びベッドに横たわると強烈な睡魔と熱による浮遊感が襲ってきた。

 意識が再び混濁して現実と夢の境界線が曖昧になる。


 目の前にいるのは、本当にレイコ様だろうか? こんなに優しくて無防備な姿の彼女が、現実に存在するはずがない。きっとこれは私の願望が生み出した都合の良い幻覚だ。


 だとしたら――言っても、いいよね? ずっと胸の奥に秘めていたドロドロとした本音を。

 どうせ夢なら、伝えてしまっても構わないはずだ。


 私は布団から手を出し、レイコ様のガウンの袖を掴んだ。シルクの感触が指先から滑り落ちそうになるのを必死で握りしめる。


「⋯⋯レイコ、様⋯⋯」


 うわ言のように呼ぶ。レイコ様が、帰りかけた足を止めて振り返った。


「どうしたの?」


「⋯⋯好き、です⋯⋯」


 熱に浮かされた瞳で彼女を見つめる。涙が滲んで視界が揺れる。


「私を⋯⋯捨てないで⋯⋯。ゴミ捨て場に戻さないで⋯⋯」


 雨の日の記憶が蘇る。あの寒くて惨めな孤独。あそこには二度と戻りたくない。

 レイコ様の温かい腕の中にずっといたい。その想いを伝える。


「⋯⋯何を寝言を」


 レイコ様が困惑したように眉を寄せる。私は首を振った。

 違う、寝言じゃない。魂の叫びだ。


「もっと⋯⋯私を使ってください⋯⋯。こき使ってください⋯⋯」


 握った手に力が入る。


「優しくなんて、しなくていい⋯⋯。貴女のために、壊れたいんです⋯⋯。貴女の野望の踏み台になって、粉々になるのが⋯⋯私の、幸せなんです⋯⋯」


 狂気。異常性。自分という存在の消失を願う、歪んだ献身。


 普通の人なら気味悪がって手を振り払うだろう。「気持ち悪い」「重い」と言って軽蔑するだろう。


 レイコ様の動きが止まり袖を掴む私の手を、じっと見下ろしていた。

 その表情は長い前髪に隠れてよく見えない。


 沈黙が落ちる――空調の音だけが響く部屋で私の荒い呼吸音だけが聞こえる。


(あぁ⋯⋯やっぱり、引かれちゃったかな⋯⋯)


 夢の中だとしても彼女に嫌われるのは嫌だ。

 ⋯⋯力が抜けていく、掴んでいた袖から指が離れそうになった、その時。


 ギュッ。


 温かい感触が私の手を包み込んだ。レイコ様の手だ。彼女は私の手を振り払うどころか、逆に、ぎこちない手つきで握り返してきたのだ。


「⋯⋯馬鹿な犬」


 ため息混じりの声、でもそこに拒絶の色はなかった。


「熱で頭が沸いたかしら。⋯⋯壊れたいなどと簡単に口にするものじゃないわ」


 彼女は私の手を握ったまま、ベッドサイドに腰を下ろした。

 ベッドが沈み込み彼女の顔が近づいてくる。

 獲物を狙うような鋭いの瞳が、私の目を真っ直ぐに射抜いていた。


「⋯⋯安心なさい。壊れるまで使ってあげる」


 ――ッ!!


「貴女は私の最高傑作(おもちゃ)よ。私が飽きるまで骨の髄まで使い潰してあげる。⋯⋯だから」


 彼女は私の手を両手で包み込み、少し強く握った。


「勝手に壊れることは許さない。私の許可なく機能を停止することも、消えることも許さない。⋯⋯分かった?」


 それはこの世で最も残酷で、そして最も甘美なプロポーズだった。

 一生、離さないという宣言、死ぬまで所有し続けるという契約更新。


 涙が、一筋こぼれ落ちた。熱い雫が枕を濡らす。


「⋯⋯はい⋯⋯ご主人様⋯⋯」


 私は至福の安堵に包まれた。

 もう雨に怯える必要はない。

 この魔王様は私が壊れるその最期の瞬間まで、決して手を離さないでいてくれる。


 強烈な睡魔が再び押し寄せてきた。今度は苦しい気絶ではない。

 安心しきった、穏やかな眠りへの誘いだ。


 瞼が重くなる。意識が遠のいていく中で私は自分の手が、ずっと温かいものに包まれているのを感じていた。


 レイコ様は帰らなかった。私が完全に寝息を立て始めるまで、いや、きっとその後もずっと。

 ベッドの端に座り、不器用にしかし力強く私の手を握り続けてくれていた。


 それは冷酷な女帝が見せた、ほんの僅かな、しかし確かな「愛情」だった。


 夢ではない。これは現実の、最高のご褒美イベント。

 私はその温もりを抱きしめながら深い微睡みの底へと沈んでいった。

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「狂気をもって狂気を制す」とはまさにこの事……
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