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第27話『システムダウン(女帝の誤算)』


 地下二階、第三レッスン室――分厚い防音扉の向こうは、世界から隔絶された静寂に包まれていた。

 空調の低い駆動音だけが冷たい空気を震わせている。


 時刻は午前四時二〇分。

 西園寺レイコは部屋の中央で腕を組み、苛立ちを隠そうともせずに壁掛け時計を睨みつけていた。


「⋯⋯遅いわね」


 彼女の爪先がカツ、カツ、と不規則なリズムを床に刻む。メッセージの送信時間は四時五分だった。もうとっくに到着していていい時間。

 たかが十五分、されど十五分。絶対的な支配者である彼女にとって所有物が時間に遅れることなど、管理不行き届き以外の何物でもない。


「あの駄犬⋯⋯少し甘やかしただけで、躾が緩んだかしら?」


 レイコは不愉快そうに目を細めた。メディア露出の急増で天宮アイは確かに過密なスケジュールをこなしているが、それは言い訳にはならない。


 道具は使い手が望む時に、望む場所で機能してこそ価値があるのだ。

 その時、重厚な防音扉のハンドルが、ゆっくりと回った。


 ギィ⋯⋯。


 油切れのような音を立てて扉が開く、そこには一人の少女が立っていた。


「⋯⋯アイ、遅いわよ。何分待たせると――」


 レイコが叱責の言葉を投げつけようとした瞬間、その言葉は喉の奥で凍りついた。


 そこに立っていたのは天宮アイであって、アイではなかった。髪は乱れ汗で額に張り付いている。

 顔色は蝋人形のように蒼白く、目の下にはどす黒い隈が刻まれていて唇は乾燥しひび割れ、そこから浅く早い呼吸が漏れている。


 幽鬼――あるいは墓場から掘り起こされたばかりの死体⋯⋯その少女はレイコの姿を認めると口元を吊り上げた。


「お、おはよう⋯⋯ござい、ます⋯⋯レイコ、様⋯⋯」


 アイは笑っていた。本人の意識の中ではご主人様に会えた喜びに満ちた「満面の笑み」のつもりだったのだろう。

 しかし、客観的に見ればそれは筋肉が麻痺した死人が無理やり引きつらせたような、不気味な痙攣にしか見えなかった。


「⋯⋯っ」


 レイコが眉をひそめた、その時。


 プツン。


 アイの体を支えていた見えない糸が唐突に切れた。


 彼女の体が、ゆっくりと前方に傾く――受け身を取る様子もない。

 まるで操り手が人形を放棄したかのように、重力に従って無防備に落下していく。


「――ッ!?」


 思考よりも先にレイコの身体が動いた。ハイヒールで床を蹴り、滑り込むようにアイの元へ走る。


 ドサッ。


 鈍い音が響いたが、それは硬い床に頭蓋骨が砕ける音ではなかった。

 レイコの両腕が、間一髪でアイの体を受け止めていたのだ。


 ◇


(⋯⋯あれ?)


 私の視界が、ぐにゃりと歪んだ。硬い床の冷たさが来ると身構えていたのに包み込まれたのは柔らかさと、どこか懐かしい香り。


 チュベローズとメンソールの香り。私の大好きな推しの香り。


「アイ! しっかりしなさい!」


 頭上から悲鳴にも似た鋭い声が降ってくる。これはレイコ様の声だ。

 でも、おかしいな。いつも冷静な彼女が、こんなに焦った声を出すなんて。

 これはきっと、私の脳が見せている幸せな夢だ。


「すみません⋯⋯レイコ様⋯⋯」


 私は、自分の唇が動いているのかどうかも分からなかった。


「少し⋯⋯足がもつれて⋯⋯。でも、大丈夫です⋯⋯」


 私はレイコ様の腕の中で、必死に笑おうとした。


「まだ、踊れ⋯⋯ます⋯⋯。次の現場は⋯⋯どこですか⋯⋯?」


「黙りなさい!」


 レイコ様の怒鳴り声が、鼓膜を揺らす。

 ⋯⋯あぁ、怒られちゃった。早く起き上がらなきゃ。早くポーズをとらなきゃ。

 私は指先に力を込めようとしたが、指一本動かなかった。


 身体が、燃えるように熱い。血管の中をマグマが流れているみたいに熱いのに、身体の芯は氷のように冷たくて、ガチガチと震えが止まらない。


 システムダウン――強制終了。

 私の視界はノイズ混じりの闇へとフェードアウトしていった。


 ◇


 西園寺レイコは、腕の中に崩れ落ちた小さな体を抱きかかえ、呆然としていた。


 熱い――服越しでも伝わるほどの異常な高熱。首筋に触れた指先が火傷しそうなほどだ。

 脈は異常に早く、浅く、今にも止まってしまいそうなほど弱々しい。


「⋯⋯馬鹿な」


 レイコは呻くように呟いた。彼女はアイの顔を凝視する。至近距離で見るその顔は、想像以上にボロボロだった。

 メイクで隠されていた肌荒れ。爪先はささくれ立ち、指紋がすり減っているのではないかと思うほど荒れている。

 そして何より、驚くほど軽い。羽毛布団を抱えているかのような質量感のない軽さ。


 レイコの脳裏に自分が叩きつけたスケジュール表が過った。

 睡眠時間3時間――雨の中のロケ、深夜の移動。


『稼げる時に限界まで稼ぐのが、道具の役割よ』


 自分の言葉が呪いのようにリフレインする。そう、こうなることは分かりきっていた。それを承知で自分はアイを使い潰している⋯⋯なのに何故、こんなに動揺している?


「⋯⋯私の、管理ミスね」


 レイコは苦々しく顔を歪めた。彼女は自分自身に腹が立っていた。

 道具のメンテナンスは所有者の義務だ。耐久度を見誤り限界を超えて負荷をかけ、あまつさえ故障するまで気づかなかった。経営者としてこれほどの失態はないだろう。


 しかし胸の奥で渦巻いている感情は、単なる「損害への苛立ち」だけではなかった。

 腕の中にある小さな命が、ふっと消えてしまいそうなことへの恐怖、それが彼女の冷徹な理性を揺さぶっていた。


「⋯⋯三流の仕事をしたわね、私も」


 レイコは自嘲気味に吐き捨てるとポケットからスマートフォンを取り出した。

 指が「119」を押しかけて、止まる。


 救急車を呼べばスキャンダルになりかねない。『エンパイアのタレント、過労で搬送』『西園寺社長による虐待疑惑』――マスコミが群がり、この「商品」を薄汚れた記事で徹底的に暴き、土足で踏みにじってくるだろう。


 それに何より⋯⋯この無防備な姿を、どこの誰とも知らぬ救急隊員や医者に触れさせたくないという、強烈な拒絶感が湧き上がった。


(私のモノよ。壊したのも私なら直すのも私の義務に決まっている)


 レイコは通話をキャンセルし、専属の運転手に連絡を入れた。


「車を回して。地下駐車場⋯⋯いや、私が運ぶ」


 彼女はスマホをポケットにねじ込むとアイの体を抱え直した。左腕を膝裏に右腕を背中に回す、いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢。


 アイの体重は軽かった。あまりにも軽すぎるその事実に、レイコの胸がキリと痛んだ。


 彼女は立ち上がる、10センチのピンヒールで人一人を抱えて立つ。

 体幹が強靭な彼女でなければ、よろめいていただろう。


「⋯⋯行くわよ」


 誰にともなく声をかけ、レイコは歩き出した。

 カツ、カツ、カツ、カツ!


 鋭いヒールの音が廊下に反響する。いつも優雅で決して急ぐことのない女帝が今はなりふり構わず駆けている。腕の中の壊れかけた人形を守るために。


 ◇


(⋯⋯揺れてる?)


 意識の海の水面から一瞬だけ顔を出したような感覚⋯⋯身体が、規則的なリズムで揺れている。

 誰かに運ばれている?


 寒いのにとても温かい。凍えていた身体が熱源に密着しているのが分かった。

 硬いジャケットの感触とその下にある柔らかい体温。


(いい匂い⋯⋯)


 私は薄っすらと瞼を開けた。視界は白い霧がかかったようでぼやけている。

 でも、すぐ近くに見慣れた美しい輪郭が見えた。


 シャープな顎のラインに結んだ唇⋯⋯そしてどこまでも前を見据える鋭い瞳。


(あぁ⋯⋯レイコ様だ⋯⋯)


 幻覚だろうか? あのレイコ様が私を抱きかかえているなんて。

 しかも、見たこともないような切羽詰まった表情で。


 汗が一筋、彼女の白い首筋を伝って流れるのが見えた。

 私のために、汗をかいてくれている。

 私のために、走ってくれている。


(幸せだなぁ⋯⋯)


 これが死ぬ前の夢だとしたら、私は神様に感謝しなければならない。

 最高のエンディングだ。憧れの人の腕の中でその体温を感じながら果てるなんて。


「⋯⋯れ、いこ⋯⋯さ⋯⋯」


 呼びかけようとしたが、声にならなかった。

 代わりに私は彼女のジャケットを弱々しく握りしめた。


 その微かな動きに気づいたのか、レイコ様が一瞬だけ視線を落とした。


「⋯⋯寝てなさい」


 短く、ぶっきらぼうな命令。でも、その声はいつもの氷のような冷たさではなく、微かに震えているように聞こえた。


「すぐに⋯⋯私の家に着くわ」


 家⋯⋯? 倉庫じゃなくて?


 思考がまとまらない。でも、その言葉の響きはどんな子守唄よりも心地よかった。


 私はレイコ様の胸に顔を埋めた。鼓動が聞こえる。

 トクトクと少し早鐘を打っている心音。

 それが私が生きている証であり、彼女もまた人間であるという証だった。


(おやすみなさい、ご主人様⋯⋯)


 私は安堵の深呼吸と共に完全に意識のスイッチを切った。深い、泥のような、しかし幸福な闇の中へ。


 リムジンは夜明け前の東京を疾走する。誰も立ち入ることのできない、女帝のプライベートな領域へと向かって。

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レイコ様の曇らせすごく良い……
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