第18話『女帝の折檻(ファンサービス)』
帰りのリムジンの中は、走る霊安室のように静まり返っていた。
行きとは違い空調の音さえ憚られるような重く、張り詰めた沈黙。
隣に座る西園寺レイコ様は腕を組み、不機嫌そうに窓の外を流れる夜景を睨みつけている。
その美貌には明らかな「怒り」の影が落ちていた。
美しい。怒れる女神の横顔は触れれば斬れそうなほど鋭利で、息を呑むほど神々しい。
(怒ってる⋯⋯。めちゃくちゃ怒ってる⋯⋯!)
私は縮こまりながら、内心で小躍りしていた。
彼女の不機嫌の原因は十中八九、先ほどのテレビ局での一件だろう。
私の元メンバー、リカたちの無礼な振る舞いか。あるいは私が彼女たちに怯えていた(フリをした)ことか。
どちらにせよ、推しの感情を揺さぶることに成功したのだ。ファンとしては、リカたちにナイスプレイだと感謝せざるをえない。
車が『エンパイア・プロモーション』の地下駐車場に滑り込む。
レイコ様は無言のままドアを開け、カツカツと早足でエレベーターへと向かった。
私は荷物を抱え、小走りでその後を追う。
専用エレベーターの中も無言のまま最上階に到着し社長室の扉が開いた、その瞬間だった。
「⋯⋯荷物を置きなさい」
低い声で命じられる。
私は慌てて抱えていたバッグや衣装ケースを床に置いた。
その直後――ドンッ!!
強い力で肩を突き飛ばされた。私は抵抗することなく革張りの高級ソファに倒れ込む。
「⋯⋯きゃっ!」
バウンドする体。見上げるとレイコ様が鬼のような形相で私を見下ろしていた。
シャンデリアの光を背負い、逆光になったその姿は、まさしく断罪を下す魔王そのもの。
「⋯⋯不愉快ね」
彼女は吐き捨てるように言った。
「も、申し訳ありません⋯⋯!」
私はすぐにソファから転がり落ち、床に正座して平伏した。額をカーペットに擦り付ける。
「私が⋯⋯元メンバーたちの前で、無様な姿を晒してしまったから⋯⋯レイコ様の顔に泥を塗ってしまいました⋯⋯。お許しください⋯⋯!」
怯えた声で謝罪する。身体を小さく震わせ、恐怖に支配された哀れな奴隷を演じる。
だがその震えの半分は「来るぞ⋯⋯お叱りが来るぞ⋯⋯!」という期待によるものだ。
レイコ様の足音が近づいてくる⋯⋯私の目の前で止まる、赤い靴底。
グイッ。
突然、襟首を掴まれ乱暴に引き上げられた。
首輪が食い込み、呼吸が詰まる。強制的に顔を上げさせられると、そこには至近距離のレイコ様の顔があった。
「ッ⋯⋯」
「まったく違う。よく聞きなさい」
氷の刃のような声が、鼓膜に突き刺さる。
「私が不愉快なのは、貴女が無様だったからじゃない。⋯⋯私の所有物である貴女が、あんな廃棄物アイドル風情ごときにビビって、萎縮していたことよ」
「え⋯⋯?」
私は予想外の言葉に演技を忘れて目を瞬かせた。レイコ様は私の襟首を掴んだまま、さらに顔を寄せる、彼女の吐息がかかる距離でメンソールの香りと怒りの熱気が私を包み込んだ。
「いいこと? 貴女は私のモノよ。私のブランドを背負った商品なの」
彼女の瞳が、爛々と輝く。
「貴女の首輪を握っているのは、この私だけ! 他の有象無象が何を言おうと、誰に吠えられようと、貴女は堂々としていればいい。私の威光を背負って、他人を見下してやればいいのよ!」
――ッ!!
脳天に雷が落ちたような衝撃が走った。
こ、これは⋯⋯これは単なる説教ではない。
(『お前は私のモノだ』『私だけがお前を支配できる』『私の名を背負って生きろ』⋯⋯って実質、最強のプロポーズじゃないですかあああああっ!?)
私の脳内処理が追いつかない――つまりレイコ様の言葉を翻訳するとこうなる。
『他の女になんて怯えるな。お前の主人は世界で一番強い私なんだから、安心して私に守られていろ』。
溺愛だっ⋯⋯! 歪んでいるが間違いなくこれは溺愛、独占欲の塊だ。
彼女は私が他人に怯える姿を見て「自分の所有権を侵害された」と感じて怒っているのだ。
なんて⋯⋯なんて尊いプライドなのだろう。
「わかったかしら、駄犬」
レイコ様は私を突き放すと、さらに追い打ちをかけるように壁際へと追い詰めた。
後ずさる私⋯⋯背中が冷たい壁に当たる。逃げ場はない。
ドンッ!!
彼女の白い手が、私の耳の横の壁に叩きつけられた。
――壁ドン、しかも女帝からの本気の壁ドン。
「返事は?」
逃がさない、という強い意志。見上げる彼女の顔はあまりにも美しく、そして恐ろしい。
長い睫毛、形の良い鼻梁、情熱的な紅い唇。
そのすべてが、私だけを映し、私だけに向けられている。
(うひょおおおおおっ! 心拍数が限界突破! この圧迫感! この香り! このシチュエーション! 前世でどんな徳を積んだらこんなご褒美が貰えるんだ!?)
私の理性は蒸発寸前だった。今すぐ「好きです! 結婚してください!」と叫んで抱きつきたい衝動に駆られる。もちろん、それは駄目だ。
ここで私が求められているのは「恐怖と畏敬に打たれ、心酔する下僕」の反応だ。
私は感極まって潤んだ瞳でレイコ様を見つめ返した。
頬が熱く火照る。
これは演技ではない。興奮による紅潮だ。
息が荒くなる。
これも演技ではない。過呼吸気味の興奮だ。
レイコ様には、それが「叱責されて反省し、主人の偉大さに打ち震えている」ように見えているはずだ。
「⋯⋯はい、レイコ様⋯⋯」
私は熱に浮かされたような声で答えた。
「申し訳ありませんでした⋯⋯。私は、貴女だけのモノです⋯⋯。これからは、誰に何を言われても動じません。貴女が後ろにいてくださるなら、私は⋯⋯」
私はそっと、壁につかれた彼女の手首に自分の手を重ねた。
冷たい肌の感触がレイコ様と混じり合う、自分の指先が震えているのがわかる。
「⋯⋯他の誰にも、指一本触れさせません。私の魂も、肉体も、すべて貴女の管理下にありますから」
愛の告白、絶対服従の誓い。
レイコ様は私の瞳をじっと覗き込んだ。私の瞳には一点の曇りもない狂信が宿っている。
嘘偽りのない、純度100%の感情。
数秒の沈黙の後⋯⋯彼女の険しい表情が、ふっと緩んだ。
「⋯⋯フン」
彼女は鼻で笑い、私から体を離した。壁ドンが解除されると少し、いやかなり寂しい。
「やっと、躾が通ったようね。⋯⋯最初からそうやって、素直に腹を見せればいいのよ」
彼女は満足げに目を細めた。私の陶酔しきった態度を「恐怖による完全な屈服」と解釈したのだ。
そうして、彼女の手がゆっくりと私の頭に伸びてくる。
(⋯⋯え? まさか?)
ワシャワシャワシャッ!
乱暴な扱いで、まるで大型犬を愛でるように彼女は私の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「いい子よ。⋯⋯その調子で、私の役に立ちなさい」
――ッ!!!!!
(頭ナデナデキタ━━(゜∀゜)━━!! うおおおおおっ!! レイコ様の手! 指! 爪が頭皮に当たる感触! 最高だ! 最高すぎる!)
私は白目を剥きそうになるのを堪え、恍惚の表情でされるがままになっていた。
シャンプーを変えておいてよかった! 今朝、早起きして髪をセットしておいてよかった!
この瞬間のために、私の毛根は存在していたのだ。
レイコ様は一通り私の頭をかき回すと「髪、ボサボサね」と笑って手を離した。
その笑顔は冷酷な女帝のものではなく、飼い犬に芸を仕込んだ飼い主のような、少しだけ柔らかなものだった。
「さあ、いつまで呆けているの。私のコーヒーを淹れてきなさい。⋯⋯濃いめでね」
彼女はくるりと背を向け、デスクへと戻っていく。
その足取りは、先ほどまでの不機嫌さが嘘のように軽やかだった。
「は、はいっ! ただいま!」
私は弾かれたように立ち上がり、給湯室へとダッシュした。
足がもつれそうになるほど軽い。なんならスキップして歌い出したい。この幸せを体中で表現したい⋯⋯『女帝の折檻』というタイトルの、極上のファンサービスイベントだった。
◇
給湯室でコーヒー豆を挽きながら(もちろん最高級の豆だ)、私はニヤニヤが止まらなかった。
今日の録音データ、バックアップ取っておかないと。
「所有物」発言、「壁ドン」の衣擦れ音、そして最後の「いい子よ」。
これを編集してループ再生すれば、どんな辛いことでも乗り越えられる気がする。
私がコーヒーを淹れている間、廊下を通りかかった社員たちが、ヒソヒソと話しているのが聞こえた。
「⋯⋯さっき、社長室からすごい怒鳴り声しなかった?」
「ああ、聞こえた。『首輪を握っている⋯⋯』とか『所有物』とか⋯⋯」
「天宮さん、また折檻されてるのかな⋯⋯」
「社長に目をつけられるなんて可哀想に。どこまで精神が持つことやら⋯⋯」
彼らの顔には恐怖と同情が張り付いている。
彼らの耳にはあの甘い愛の囁きが、ただのパワハラ怒号にしか聞こえていないらしい。
なんと愚かな⋯⋯凡人には高尚なる愛の形は理解できないのだ。
私はトレイにコーヒーカップを乗せ、社員たちに深々と一礼した。
「お疲れ様です。⋯⋯社長がお待ちですので」
その顔は髪が乱れ、頬が紅潮し、目は潤んでいる。社員たちは「うっ」と息を呑み、道を譲った。
きっと「折檻されて泣いた後の可哀想な姿」に見えていることだろう。
私は心の中で舌を出しながら、社長室へと戻っていく。
私の忠誠心ゲージは上限を突破して計測不能だ。さあ、次はどんなご褒美(ムチャ振り)が待っているのか。楽しみで足の震えが止まらない。




