第17話『再会は蜜の味』
テレビ局の長い廊下を独特のリズムを刻むヒールの音が支配していた。
カツ、カツ、カツ、カツ――。
それは周囲の空気を切り裂き、通りすがるスタッフたちが思わず道を譲ってしまう、絶対者の足音。
その主、西園寺レイコ様の後ろを私は三歩下がって歩いていた。
今日の私の役回りはアイドルの「天宮アイ」ではない。
地味な黒のパンツスーツに身を包み、レイコ様の私物が入ったブランドバッグや、衣装ケースを抱える「荷物持ち兼雑用係」だ。
両手は荷物で塞がり、重みで腕が痺れている。
傍から見ればスキャンダルで落ちぶれた元アイドルが、芸能界にしがみつくために下働きをしているという、哀れな図に見えるだろう。
だが私の内心は春のピクニックに出かける幼児のように浮き足立っていた。
(はぁ⋯⋯最高だ。推しの背中を見ながら仕事ができるなんて、実質的なVR体験じゃないか。これでお給料(借金返済だけど)が発生する? バグか? 運営の設定ミスか?)
私は荷物の陰で、口元が緩むのを必死に噛み殺していた。
それに今日の私はただの雑用係ではない。
首元に巻かれたシルクのスカーフ。
その下には――昨日のレッスンから外すことを禁じられた、あの黒革のチョーカーがしっかりと巻かれているのだ。
呼吸をするたびに、喉仏に触れる冷たい革の感触。
少しキツめに締められたバックルが、頸動脈を圧迫する心地よい息苦しさ。
それは私がレイコ様の「所有物(犬)」であるという、誰にも知られていない秘密の証。
(くくく⋯⋯。すれ違うADさんたちよ、私のことを可哀想な目で見るがいい。だが知るまい。このスカーフの下には、SSR級の契約印が隠されていることをな!)
私はまるで秘密結社のエージェントになったような全能感に浸りながら、レイコ様の残り香(チュベローズの香り)を胸いっぱいに吸い込んでいた。
その時だった。
廊下の向こうから見覚えのある――いや、見飽きた三人組が歩いてくるのが見えた。
リカ、ミナ、そしてマネージャーの田所。
かつての私の居場所『ピュア・パレット』の残党たちだ。
私は足を止めそうになるのを堪え、冷徹な観察眼で彼らをスキャンした。
(うわぁ⋯⋯。ひどいな、こりゃ)
一言で言えば「腐りかけの果実」だ。
リカとミナの衣装は以前よりも生地が安っぽくなっている。フリルはヨレていて輝きがない。
何より顔だ。
厚塗りのファンデーションでも隠しきれない肌荒れに目の下のクマ。
表情には覇気がなく、焦りと疲労が滲み出ている。
私が追放された後、彼女たちは「被害者」として同情を集めようとしたが、世間はそれほど甘くなかった。
『枕強要疑惑』のある事務所に『アイちゃんを追い詰めたのはメンバーじゃないか?』という懐疑、そして『やっぱりアイちゃんがいないと華がない』という残酷な評価。
人気は急落し今日の仕事も、おそらく深夜番組の数分程度のコーナーか、あるいはもっと雑な仕事だろう。
田所に至っては、もはや浮浪者一歩手前のやつれようだ。スーツには皺が寄り、髪には白いものが混じっている。
彼らが私に気づいた。
最初は「あ、西園寺社長だ」と怯えたように道を譲ろうとしたが、その後ろにいる「黒スーツの女」が私だと気づいた瞬間、その表情が一変した。
驚き、蔑み、そしてドス黒い優越感。彼女たちの瞳に久々に生気が戻る。
自分より「下」の存在を見つけた時の卑しい輝きだ。
「あら、誰かと思えば」
すれ違いざま、リカが足を止めた。
レイコ様は彼女たちなど視界に入っていないかのように、SPを連れてそのままスタスタと歩いて行ってしまう⋯⋯取り残された私を三人が囲んだ。
「天宮じゃない。⋯⋯何その格好? ADにでも転職したわけ?」
リカが鼻で笑う。ミナも値踏みするように私を上から下まで舐め回す。
「うわー、地味。あのキラキラしてた天使様が、随分と落ちぶれたもんだねぇ」
「荷物持ち? プッ、惨めすぎない? そこまでして業界にしがみつきたいわけ?」
田所も、かつての稼ぎ頭を見下しニヤニヤと笑っている。
「おいおい天宮。お前も大変だな。そんな雑用でいいならウチでもっとマシな扱いしてやったのに。⋯⋯まあ、裏切り者の末路としちゃ妥当か」
三方向からの罵倒。
普通なら悔し涙を流す場面だが、私は心の中で冷静に彼らの採点を行っていた。
(0点。0点。マイナス100点。⋯⋯煽りの語彙力が低すぎる。もっとこう、私の心の傷を抉るようなクリエイティブな悪口は言えないのか? それに比べてリカちゃん、そのファンデーション、色が合ってないよ。首と顔の色が違う。照明が当たったらお面みたいに見えるぞ。あーあ、アイドルとしての美意識が低すぎる)
私は内心で憐れみの溜息をつきつつ、表面上は「怯える小動物」の演技を開始した。
荷物を抱きしめ、視線を泳がせ、震える声で呟く。
「⋯⋯通して、ください⋯⋯。仕事中なんです⋯⋯」
「仕事ぉ? あんたの仕事って、社長の機嫌取りでしょ?」
ドンッ。リカが、わざとらしく私の肩にぶつかってきた。
「あっ⋯⋯!」
私はよろめき、抱えていた荷物を落としそうになる。
その拍子に首元のスカーフが、ふわりとズレた。
隠されていた黒い革ベルトと銀色のバックルが白日の下に晒される。
「⋯⋯え?」
リカの視線が私の首元に釘付けになりミナも、ギョッとしたように目を見開く。
「うわっ⋯⋯何これ? 本物の首輪?」
リカが引きつった声を上げた。
「ちょっと、マジで? あんた、ホントに飼われてるの? 人間扱いされてないじゃん⋯⋯」
ミナが口元を押さえ、生理的な嫌悪感を露わにする。
「うっわ引くわー。気持ち悪っ。パパ活の次は女社長のペット? プライドないの?」
「ほんと惨め。ねえ、写真撮っていい? 『元アイドルの末路』ってタイトルでバズりそうw」
彼女たちはスマホを取り出し、嘲笑いながらカメラを向けようとする。
その声は大きく、通りがかるスタッフたちの耳にも届いていた。
「⋯⋯おい、あれピュア・パレットか?」
「うわ、元メンバーいじめてるよ。性格キツ⋯⋯」
「天宮ちゃん、可哀想に⋯⋯。やっぱりあの記事、嵌められたんじゃ⋯⋯」
周囲の空気は明らかに彼女たちへの軽蔑と私への同情に傾いている。
だというのに今のリカたちにはそれが見えていない。
目の前の「落ちぶれた私」を叩く快感に酔いしれているだけだ。
私は慌ててスカーフを直し、首輪を隠す。
顔を真っ赤にし(興奮による紅潮だが、羞恥に見えるはずだ)、涙目で彼女たちを見上げる。
「や、やめて⋯⋯! 撮らないで⋯⋯!」
「あはは! 何その顔! 傑作!」
「一生そうやって這いつくばって生きてなよ、負け犬ちゃん!」
彼女たちの嘲笑がピークに達した、その時だった。
ピタリ――空気が、凍りついた。
廊下の温度が、物理的に五度は下がったような感覚。
数メートル先を歩いていたレイコ様が、足を止めていた。
彼女は振り返らない。
ただ、その背中から立ち昇る漆黒のオーラ(覇気)だけで、その場の全員を沈黙させた。
リカたちの笑い声が、喉の奥で詰まったように消えスマホを持つ手が震える。
レイコ様はゆっくりと優雅な動作で首だけを回し、肩越しに私たちを一瞥した。
その瞳は絶対零度――人間を見る目ではない。路端の汚物が自分の靴を汚そうとしているのを見た時の、無機質な殺意。
「⋯⋯私の所有物に、薄汚い菌を付けないでくれる?」
静かな、しかしよく通る声だった。
怒鳴っているわけではないのに、その言葉の重みは鉄球のように彼女たちの心臓を粉砕した。
『所有物』――公衆の面前での明確な所有宣言。
そして『薄汚い菌』という、彼女たちを細菌レベルにまで格下げする侮蔑。
「ヒッ⋯⋯!」
リカが短い悲鳴を上げ、後ずさる。
ミナは腰が抜けたのか、壁にへばりついた。
田所に至っては、直立不動で冷や汗を滝のように流している。
格が違う。次元が違う。業界のドンである西園寺レイコを前にして、弱小アイドルの彼女たちが呼吸をすることすら、不敬に感じられるほどの圧倒的な威圧感。
レイコ様はフンと鼻を鳴らすと、もう興味を失ったように前を向いた。
「行くわよ」
「は、はいっ!」
私は弾かれたように返事をし、荷物を抱え直して走り出した。
すれ違いざま、私は固まっているリカたちの横を通り抜ける。
その一瞬、私は前髪の隙間から彼女たちに向けてニヤリと笑ってみせた。
リカが「えっ⋯⋯?」と私の表情に気づいた時にはもう遅い。
私は小走りでレイコ様の後ろにつき、怯えた小動物のように背中を丸めて歩き去っていった。
廊下の角を曲がり、彼女たちの視界から消えた瞬間。
私は心の中で、全力のガッツポーズを決めた。
(ッシャアアアアアアアア!! 見たかオイ! 聞いたかオイ! 『私の所有物』宣言いただきましたァ!! しかも『菌』扱い! ザマァwww お前らの負け犬の遠吠えなんて、レイコ様のツンデレ(?)の前では心地よいBGMにすぎないんだよ!)
首元のチョーカーが、熱く脈打つような気がした。
これは恥辱の首輪ではない。
私を守るために(実際はレイコ様の趣味100%)付けた最強の魔除けだ。
私はレイコ様の背中を見つめる。
その黒いスーツの背中はどんなブランドロゴよりも輝いて見えた。
「⋯⋯あの、社長。ありがとうございました⋯⋯」
私は背後から小さく声をかけた。
レイコ様は歩みを緩めず、冷淡に答えた。
「勘違いしないで。自分のブランド品に傷がついたら、資産価値が下がるでしょう? メンテナンスの手間を増やさないでちょうだい」
ツンデレだ。どう解釈してもこれは「お前は大切な資産だ」という愛の言葉だ。
私は荷物を抱きしめる腕に力を込め、幸せを噛み締めた。再会は蜜の味。元メンバーたちの絶望と推しからの所有宣言、これほど甘美なデザートは、高級フレンチでも味わえない。
私の足取りは、行進曲のように軽やかだった。




