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第16話『屈辱のドレスコード(神衣装)』


 『エンパイア・プロモーション』本社ビルの地下三階。

 そこには一般社員さえ立ち入りを禁じられた、特別な個人レッスンスタジオが存在する。


 防音扉をくぐると四方の壁すべてが鏡張りになった、冷たく無機質な空間が広がっていた。


 空調は極端に低く設定されており、素肌に触れる空気が氷のように冷たい。

 床は黒一色のリノリウム。そこに置かれているのは、一本のスタンドマイクだけ。


 私は部屋の中央で直立し、自分の足先を見つめていた。

 ワンピースはまだ生乾きで、冷房の風が濡れた布地を通して体温を奪っていく。

 だが私の震えは寒さによるものではなかった。


 カツ、カツ、カツ⋯⋯。


 背後から不吉なヒールの音が近づいてくる。

 西園寺レイコ様だ。

 彼女は私の背中越しに鏡の中の私を見据え、手に持っていた黒いガーメントバッグを床に投げ捨てた。


 バサッ。


 重みのある音が、静寂を破る。


「⋯⋯拾いなさい」


 氷点下の命令。私は慌てて膝をつき、ファスナーを開けた。


「貴女のその、安っぽい清純の皮を剥いで⋯⋯私が望む『商品』に作り変えるわ」


 バッグの中から現れたのは、布と呼ぶにはあまりに面積が少なく、服と呼ぶにはあまりに攻撃的な「拘束具」の数々だった。


 黒いエナメルの光沢に冷たく輝く銀色の金具。

 網目の粗いタイツ。そして凶器のように鋭く長いピンヒールブーツ。


「え、これって⋯⋯」


 私は絶句し、その衣装を両手で持ち上げた。


 指先に伝わるラバーの質感。それは世間一般で言うところの「ボンテージファッション」だが、ただのSMグッズではない。カッティングの精巧さ、素材の上質さ、そして何よりもそのデザインの「独創性」。


 私は鏡に映らない角度で目を見開き、奥歯を噛み締めて叫び出しそうになるのを必死で堪えた。


(こ、これは⋯⋯ッ!!)


 私の脳内データベースが瞬時に検索結果を弾き出した。

 間違いない。これは前世で私が死ぬほどやり込んだゲーム『スターライト・ウォー』において、期間限定の「ハロウィン・ナイトメアガチャ」で実装された、伝説のSSR装備――


 『堕天使の拘束着フォールン・エンジェル・クロス!?』


(うっそだろオオオオオッ!! 実在したのかよこの装備ッ!!)


 私は興奮のあまり過呼吸になりかけた。

 ゲーム内での排出率はわずか0.1% 廃課金勢だった私でさえ、給料の三ヶ月分をつぎ込んでようやくゲットした、あの「神衣装」だ。


 画面の中で2Dイラストとして崇めていた聖遺物が今、3Dの実物として私の手の中にある。


(見てくれ、この胸元の編み上げ(レースアップ)の複雑さ! 背中を大胆に露出させつつ、首輪と腰を一本の革ベルトで繋ぐという背徳的な構造! そしてこの素材⋯⋯安物のビニールじゃない、最高級のラムレザーだ! レイコ様、貴女のセンスは神ですか!? いや、神でしたね知ってました!!)


 私の手は震えていた。それはあまりの感動と「これを着られる」という事実に対する武者震いだった。


 だがレイコ様には、その震えは別のものに見えているはずだ。

 清純派アイドルとして生きてきた少女が、あまりに過激で下品な衣装を前にして羞恥と屈辱に打ち震えている姿に。


「嫌? 着たくない?」


 レイコ様が、楽しそうに問いかけてくる。


「⋯⋯こんなの⋯⋯着たこと、ありません⋯⋯」


 私は衣装を胸に抱きしめ、潤んだ瞳で彼女を見上げた。

 

「恥ずかしい⋯⋯です⋯⋯。こんな格好⋯⋯」


「恥ずかしい?」


 レイコ様は私の顎を指で持ち上げ、冷ややかに笑った。


「貴女に恥じらう権利なんてないわ。それは『衣装』じゃない。『包装紙』よ。私の所有物であることを示すためのパッケージングに過ぎない。⋯⋯さあ、さっさと着替えなさい。私の気が変わる前に」


「⋯⋯は、はい⋯⋯」


 私はよろよろと立ち上がり、スタジオの隅にある更衣スペースへと向かった。

 カーテンを閉める。その瞬間、私は衣装に頬ずりをした。


「すーっ⋯⋯はぁ⋯⋯新品の革の匂い⋯⋯最高⋯⋯」


 変態的な深呼吸をしてから、私は震える手でワンピースを脱ぎ捨てた。

 そして儀式のように厳かに、その『堕天使の拘束着』に袖を通していく。


 まずは網タイツ⋯⋯肌に食い込む感覚がたまらない。

 次にレザーのボディスーツ。

 ジッパーを上げる音が、シュィィィ⋯⋯と静寂に響く。


 キツい⋯⋯オーダーメイドのように体にフィットし、呼吸をするたびに革が軋む音がする。肋骨が締め付けられるこの圧迫感。まるでレイコ様に常時抱きしめられているかのようだ。


 首輪チョーカーを巻きカチャリ、と金属のバックルを留める。

 重い。その重みが「私は飼われている」という事実を物理的に教えてくれる。


 最後にニーハイ丈のピンヒールブーツ。

 ヒールの高さは12センチ。

 これを履くと背筋が強制的に伸び、ふくらはぎの筋肉が緊張し、常に「見られる」ための姿勢を強要される。


 全身鏡を見る。そこに映っていたのは、かつての「清純派アイドル・天宮アイ」ではない。

 白磁のような肌と漆黒のレザーのコントラスト。

 露出度は高いのに不思議と下品ではない。むしろ、堕落の果てにある退廃的な美しさを纏った、一種の芸術品のような姿。


(完璧だ⋯⋯! 自分の姿でご飯三杯いける⋯⋯! これが私の『最終形態ラスト・フォーム』⋯⋯!)


 私は自分の肩を抱き、身悶えした。

 しかし時間は待ってくれない。私は表情筋を総動員して「羞恥」と「絶望」の仮面を貼り付けると、カーテンを開けた。


 ◇


 カツ、カツ⋯⋯慣れないピンヒールで、危なっかしい足取りで歩み出る。

 全身を露出しているかのような心許なさに、私は両手で体を隠すように縮こまった。

 頬は紅潮し(興奮で)、目は泳いでいる。


 レイコ様は腕を組み、私を頭の先からつま先まで、じっくりと品定めした。

 検品作業だ。その冷徹な視線が肌を撫でるたびに、ビクビクと体が反応してしまう。


「⋯⋯ふん」


 長い沈黙の後、彼女は短く息を吐いた。


「悪くないわね」


 合格点だ! 心の中でガッツポーズ。


「素材が良いと、どんなに汚してもそれなりに見えるものね。⋯⋯でも、まだ足りないわ」


 レイコ様は、ゆっくりと私に近づいてきた。

 そして私の前に立つと冷酷に告げた。


「四つん這いになりなさい」


「⋯⋯え?」


「聞こえなかった? 床を這いなさいと言ったの。貴女はまだ人間じゃない。ただのメス犬よ。犬なら犬らしく、視線を低くしなさい」


 ――ッ!!


 四つん這い! このSSR衣装を着て、さらにポージング指定まで入るだと!?


 この衣装は背中のデザインが最も美しい。四つん這いになることで、背中のラインとヒップの曲線が強調され、この装備の真価が発揮されるのだ。


 レイコ様、貴女はやはり天才だ。プロデューサーとして信頼しか置けない。


「⋯⋯は、はい⋯⋯」


 私は屈辱に耐えるように唇を噛み、ゆっくりと膝をついた。

 冷たい床の感触が網タイツ越しに伝わる。


 両手を床につくことで胸元が大きく開き、重力に従って谷間が強調される。

 視界がぐぐっと低くなり目の前にあるのは、レイコ様の赤い靴底だけ。


 私は床に這いつくばる「犬」になった。

 その姿はあまりにも無様で、そして背徳的だっただろう。


 その時――コツン。


 背中に硬い感触があった。

 レイコ様のヒールだ。

 彼女は、私の背骨のラインに沿って、ゆっくりとヒールを滑らせた。


「あぁ⋯⋯っ!」


 声が漏れる。背筋に電流が走る。

 鋭利なヒールが薄いレザー越しに背中の肉に食い込む。

 痛い。でも、それ以上に熱い。


 そして彼女は私の肩甲骨の間に体重をかけて踏み込んだ。


 ググッ⋯⋯。


「う、ぅぅ⋯⋯ッ!」


 肺が圧迫され、呼吸が苦しくなる。

 踏まれている。あこがれの推しにハイヒールで物理的に踏まれている! 

 しかも、この「堕天使の拘束着」を着た状態で。


(し、死ぬ⋯⋯! 尊すぎて死ぬ⋯⋯! キャパオーバーだ⋯⋯!)


 脳内麻薬がドバドバと溢れ出し、視界がチカチカする。

 私の体は、ガタガタと激しく震え始めた。


 それは恐怖の震えに見えただろう。

 レイコ様は、その震えを足の裏で感じ取り、愉悦に瞳を細めた。


「怖いの? それとも、悔しい?」


 彼女はさらに強く踏み込みながら、私の耳元で囁いた。


「ネットでは『1000年に1人の天使』と持て囃されたアイドルが、今はボンテージを着せられ、床に這いつくばって踏まれている。⋯⋯どんな気分かしら?」


「く、屈辱⋯⋯です⋯⋯」


 私は喘ぐように答えた。嘘ではない。この「屈辱」という名のスパイスが、快感を何倍にも増幅させているのだから。


「そう。その感情を覚えておくように。⋯⋯さぁ、次は鳴いてみなさい」


「な、鳴く⋯⋯?」


「犬なんだから鳴き声が必要でしょう? ⋯⋯歌よ。その格好のまま、歌ってみなさい」


 なんと高度なプレイだろうか。

 四つん這いで、背中を踏まれた状態で歌唱しろというのか。

 腹式呼吸が制限され、喉が締まるこの体勢で。


 私は震える喉を開いた。何を歌えばいい?


 ピュア・パレットの持ち歌か? いや、そんなポップな曲は似合わない。

 私の口から自然とこぼれたのは、賛美歌『アメイジング・グレイス』の一節だった。


「ア⋯⋯メィ⋯⋯ジィング⋯⋯グレェ⋯⋯イス⋯⋯」


 声が震える。

 踏まれている痛みと興奮による息切れで、声が小刻みに揺れる。

 意図したビブラートではない。生理的な反応としての、どうしようもない震え。


 『ハウ⋯⋯スイート⋯⋯ザ⋯⋯サゥンド⋯⋯』


 それは泣き出しそうな、今にも壊れそうな、悲痛な歌声だった。

 だがその震えには独特の「艶」が混じっていた。

 絶望の淵に立たされた者が、それでも光を求めて手を伸ばすような、切迫した色気。


 レイコ様の足の力が、ふっと緩んだのを感じる。

 私は歌い続けながら、チラリと鏡越しに彼女の顔を見た。


 彼女は目を見開いていた。

 踏みつけるのも忘れ、私の歌声に聞き入っているかのような表情。


「⋯⋯ゾクッとする声ね」


 レイコ様が、独り言のように呟いた。


「清純なふりをしていた時の、あの平坦な歌声とは比べ物にならない。⋯⋯絶望と屈辱が、貴女の喉を『楽器』に変えたのね」


 彼女は私の背中から足を下ろし、しゃがみ込んで私の首輪を掴んだ。

 グイッ、と顔を上げさせられる。至近距離で目が合う。


「それが貴女の本質よ、アイ。綺麗にラッピングされた人形じゃない。泥にまみれ、傷つき、震えながら媚びを売る⋯⋯この醜くも美しい姿こそが、本当の貴女」


 褒められた。私の歌が、私の存在が、レイコ様の琴線に触れたのだ。

 しかも「醜くも美しい」という最高の賛辞と共に。


(あぁ⋯⋯もう駄目だ。声が出ない⋯⋯)


 私は感極まって、歌うことすらできなくなり、ただ「あぅ⋯⋯あぅ⋯⋯」と熱っぽい吐息を漏らすことしかできなかった。

 涙が溢れ、マスカラが滲んで黒い雫となって頬を伝う。


 その姿を見て、レイコ様は満足げに微笑んだ。

 私が恐怖と屈辱で言葉を失ったのだと解釈して。


「いいわ。今日のレッスンはここまでにしてあげる」


 彼女は立ち上がり、私を見下ろした。


「その衣装は支給するわ。部屋に帰っても、肌に馴染むまで着ていなさい。⋯⋯いいこと? 寝る時も脱ぐことは許さないわよ」


 24時間装着の刑。

 神様、ありがとうございます。


「⋯⋯はい、ご主人様⋯⋯」


 私は床に額を擦り付け、感謝の祈りを捧げた。

 冷たい床と背中に残るヒールの痛みと全身を締め付けるレザーの感触。

 

 これが私の新しい「ドレスコード」。

 地獄パラダイスへのパスポートを手に入れた私は、心の中で歓喜のシャウトを上げ続けていた。

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