第15話『犬小屋の住人(社長室の倉庫)』
忠誠の口付けを終えた私に、西園寺レイコ様は冷ややかに言い放った。
「さて、契約も済んだことだし、貴女の寝床を案内してあげるわ」
彼女はデスクの横にある、壁と同化して一見すると気づかないような隠し扉の方へ顎をしゃくった。
寝床という言葉の響きに私の心臓は高鳴った。
『エンパイア・プロモーション』の寮だろうか? それとも、このビルの一室をあてがわれるのだろうか?
いや、レイコ様の性格上、普通の部屋であるはずがない。きっと狭くて、薄暗くて、じめじめした場所のはずだ。
(期待が高まる⋯⋯! どんな劣悪な環境でも、今の私なら三ツ星ホテルとしてレビューできる自信がある!)
私は濡れたワンピースから滴る水で床を汚さないよう、縮こまりながらレイコ様の後ろをついて行った。
彼女が電子キーをかざし、重厚な扉を開ける。
ギィィィ⋯⋯。
油が切れたような蝶番の音がして、その空間が姿を現した。
「ここよ」
レイコ様が照明のスイッチを入れる。
チカ、チカ、と頼りない蛍光灯が点滅し、薄暗い部屋を照らし出した。
広さは六畳ほど。窓はない。
四方の壁は無機質なコンクリートと、天井まで積み上げられた古い段ボール箱で埋め尽くされている。
部屋の中央には、脚の折れかけたパイプ椅子と埃を被ったスチールラック。
空調の吹き出し口は埃で黒ずみ、カビ臭い空気が澱んでいる。
ここは部屋ではない。
社長室に併設された、今は使われていない資料保管庫、ただの「倉庫」だ。
「貴女にマンションなんて贅沢よ。ここは空調も悪いし、ネズミが出るかもしれないけれど⋯⋯雨風は凌げるわ」
レイコ様は腕を組み、嘲笑うように私を見下ろした。
「ここで私の雑用をしながら、泥のように眠りなさい。⋯⋯不服?」
彼女は私が「こんなところに住めない」と泣き言を言うのを期待しているのだろう。
元・国民的アイドルが、埃まみれの倉庫に押し込められる屈辱。
プライドが粉々に砕かれる瞬間を、ワインのつまみにしようとしているのだ。
私は期待に応えるべく、膝を震わせ、絶望に染まった顔を作った。
瞳を潤ませ、小さく首を振る。
「⋯⋯いえ⋯⋯ありがとうございます⋯⋯。私には⋯⋯お似合いの場所です⋯⋯」
「殊勝なことね。今日はもう遅いから明日、また躾をしてあげるわ」
レイコ様は興味を失ったように背を向け、部屋を出て行った。
バタンッ。
扉が閉まり、鍵がかけられる音がする。
完全な密室。
残されたのは私と、山積みの段ボールと埃の匂いだけ。
シンと静まり返った倉庫の中で、私はゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでの絶望の表情は、一瞬で消え失せていた。
「⋯⋯ふっ」
こみ上げてくる笑いを抑えきれず、私は口元を両手で覆った。
「ふふふ⋯⋯あーっはっはっはっ!!」
歓喜の咆哮。
私は汚れるのも構わず、埃っぽい床の上を転げ回った。
(神物件キタアアアアアアアアッ!! なんだここ!? セキュリティレベル=国家機密級じゃねーか!!)
冷静に分析してみよう。この部屋の立地条件を。
ここは社長室の奥にある隠し部屋だ。
つまり物理的に「西園寺レイコの執務スペース」と壁一枚、ドア一枚で繋がっているのだ。
これはどういうことか。
レイコ様が出社している間、私は彼女の気配をゼロ距離で感じ続けられるということだ。
(港区の一等地、セキュリティ万全、そして推しの体温を感じられる距離感! 家賃50万⋯⋯いや、100万払っても惜しくない! それをタダ(借金だけど)で!? 福利厚生がバグってる!)
私はスプリングのように跳ね起きると改めて部屋を見回した。
窓がない? 結構。外界からのノイズが遮断され、推しへの集中力が高まる。
狭い? 最高だ。コックピットのような没入感がある。
埃っぽい? それはつまり、誰も立ち入っていない証拠だ。
「よし、まずは環境構築から」
私は腕まくりをした(濡れているが)。
部屋の隅に雑巾代わりの古いタオルと、バケツが転がっていた。レイコ様が「掃除でもしろ」と置いていったのだろうか。ありがたく使わせてもらおう。
私は猛然と動き出した。まずは床の埃を拭き取る。大理石ではない、安っぽいリノリウムの床だが、私にとっては聖なる大地だ。
四つん這いになり、一心不乱に雑巾がけをする。
段ボールの山を整理し、自分の寝床となるスペースを確保する。
スチールラックの埃を払い、そこに自分の数少ない私物――みかん箱に入っていたタオルや化粧品――を、祭壇のように並べていく。
一時間後。
倉庫の一角に、私の「巣」が完成した。
段ボールを敷き詰め、その上に支給された薄っぺらい毛布を敷いただけの粗末な寝床。
だが私にとってはファーストクラスのベッドよりも快適に見えた。
私は濡れたワンピースを脱ぎ、下着姿になった。
着替えはない。後で乾かさなければならないが、今はそんなことどうでもいい。
私は毛布に顔からダイブした。
スゥゥゥゥ――ッ。
肺活量の限界まで、空気を吸い込む。
「⋯⋯はぁ⋯⋯」
カビ臭い。埃っぽいがその奥底に、微かに、本当に微かに香る成分がある。
レイコ様がこの部屋に入った時に残していった、チュベローズとメンソールの残り香。
そして、この毛布自体に染み付いている、オフィスの無機質な匂い。
(この毛布⋯⋯エンパイアの備品だな。つまり会社(レイコ様)の所有物に包まれているということ。実質、レイコ様との同衾⋯⋯!)
脳内変換機能がフル稼働する。
粗末な化学繊維の肌触りが、高級シルクのように感じられる。
寒さで震える体も「レイコ様の冷徹な視線」を擬似体験していると思えば、むしろポカポカしてくる。
「あぁ⋯⋯幸せだ⋯⋯」
私は毛布を頭から被り、膝を抱えた。
今日一日の出来事が走馬灯のように駆け巡る。
解雇、雨、野垂れ死に寸前からのリムジンでの邂逅。
そして、この犬小屋への入居。
私の人生設計は完璧に修正された。
トップアイドルへの道という虚飾の冠を捨て、私は「西園寺レイコの犬」という真の天職を得たのだ。
◇
翌朝。私はスマートフォンのアラームよりも早く体内時計によって覚醒した。
午前八時。レイコ様の出社時間は八時半だ。まだ時間がある。
私は起き上がり、まだ半乾きのワンピースに袖を通した。
冷たい布地が肌に張り付くが、それがまた「虐げられている感」を演出してくれる。
髪はあえて梳かさず、手櫛で軽く整える程度にしておく。ボサボサの方が「捨て犬感」が出るからだ。
そして、私はドアにへばりついた。
聴診器を当てる医者のような真剣さで、分厚い扉に耳を押し付ける。
八時三十分ジャスト。
カツ、カツ、カツ、カツ⋯⋯。
来た。このリズム、この音圧。間違いなくレイコ様のヒール音だ。
大理石の床を叩く硬質な音が、ドア越しに私の鼓膜を震わせる。
(近い⋯⋯! 生音が近い! ハイレゾ音源だ!)
音が近づいてくる。社長室のドアが開く音。
衣擦れの音。革張りの椅子がきしむ音。
そして、パソコンの起動音と共にパチパチパチ⋯⋯という高速のタイピング音が始まった。
(壁一枚隔てて、推しが仕事をしている⋯⋯! この日常のルーティン音! 息遣いすら聞こえてきそうな距離感!)
私はドアに耳を当てたまま、恍惚の表情で目を閉じた。
これは最高のASMRだ。
彼女が書類をめくる音、コーヒーカップを置く音、時折漏らす小さな溜息や舌打ち。
その全てが私の脳髄を直接マッサージする。
私はその場に正座し、壁に向かって合掌した。朝の勤行(推し活)である。
ここで彼女の役に立つため、いつでも飛び出せるように待機する。それが私の新しい仕事だ。
――そして、昼過ぎ。
唐突に、目の前のドアノブが回った。
ガチャリ。
私はバネ仕掛けのように飛び退き、床に平伏した。
ドアが開き、逆光の中にレイコ様のシルエットが浮かび上がる。
「⋯⋯生きてる?」
第一声が生存確認。
素晴らしい。ペットの体調管理も完璧だ。
「は、はい⋯⋯お陰様で⋯⋯」
私は床に額をつけたまま答える。
レイコ様は部屋の中を見回し、鼻を鳴らした。
「少しは片付けたようね。ネズミの巣みたいだったのが、ようやく犬小屋レベルにはなったかしら」
「はい⋯⋯! ありがとうございます、素敵な部屋を⋯⋯。住み心地も最高で⋯⋯」
「皮肉?」
レイコ様の目が剣呑に細められる。
あ、いけない。本音が漏れてしまった。
私は慌てて、震える演技に切り替える。
「い、いえっ! 滅相もありません! 雨風が凌げるだけで十分だという意味で⋯⋯! 私みたいなゴミには、勿体ないくらいです⋯⋯」
「フン、殊勝な心がけね。⋯⋯ほら、これ」
ドサッ、と何かが目の前に投げ出された。
コンビニのビニール袋だ。中には賞味期限ギリギリのパンとおにぎりが入っている。
「餌よ。食べておきなさい。死なれたら死体処理が面倒だから」
「あ⋯⋯ありがとうございます⋯⋯っ!」
私は袋を押しいただき、涙ぐんで見せた。
実際、涙が出るほど嬉しい。推しからの施し(餌付け)だ。
「食べ終わったら廊下の掃除でもしてなさい。⋯⋯私の視界に入らないようにね」
レイコ様はそれだけ言い残すと、再びドアを閉めた。
私はコンビニ袋を抱きしめ、おにぎり(ツナマヨ)を頬張った。
少し乾燥してパサパサしていたが、世界で一番美味い食事がここにあった。
◇
午後。
私は言いつけ通り、廊下の掃除をするために部屋を出た。
ボロボロのワンピースに、ボサボサの髪。
顔色は白く塗り、目の下には隈を作っている。
手には雑巾とバケツ。誰がどう見ても「使用人」以下の扱いを受けている哀れな少女だ。
廊下を行き交う社員たちが、私を見てギョッとし、足を止める。
「え⋯⋯あの子、天宮アイだよね?」
「嘘だろ、あんな格好して⋯⋯」
「社長が拾ってきたって話、本当だったんだ」
「聞いたか? 社長室の奥の倉庫に住まわせてるらしいぞ」
「うわぁ⋯⋯社長も酷いことするなぁ。パパ活の罰としても、やりすぎじゃないか?」
ヒソヒソ話が聞こえてくる。
社員たちの目は、好奇心と同情、そして恐怖が入り混じっていた。
かつて清純派アイドルとして輝いていた美少女が、一夜にして薄汚れた雑用係に落ちぶれ、魔女の城で飼われている。
その残酷な現実は、彼らのサディズムと庇護欲を同時に刺激しているようだ。
「⋯⋯あんなに可愛いのに、やつれちゃって⋯⋯」
「可哀想に。目が死んでるよ⋯⋯」
私は彼らの視線を感じながら、ふらりと会釈をした。
焦点の合わない、虚ろな目で。
口元は引きつり、笑うことさえ忘れてしまったかのように。
「⋯⋯失礼⋯⋯します⋯⋯」
幽霊のような声で呟き、私は黙々と床を拭き始めた。
その背中はあまりにも小さく、儚い。
社員たちは気まずそうに目を逸らし、足早に通り過ぎていく。
彼らの中で「天宮アイ=西園寺社長の被害者」という図式が完全に成立した。
(フフフ⋯⋯。いいぞ、同情票が集まってる。社内の世論を味方につければ、私の「悲劇性」はさらに高まる)
雑巾がけをしながら私の顔は床に向けられたまま、ニヤリと歪んでいた。
可哀想? 酷い? 何を言っているんだ、この凡人たちは。
この場所は、レイコ様の呼吸音さえ聞こえる特等席(アリーナ席)だ。
貴様ら社員が、何年勤めても到達できない「社長室直結」のポジションに、私は初日から君臨しているのだ。
(残念だったな。この「犬小屋」は、誰にも譲らない。ここが私の城であり、世界の中心だ)
私は愛おしげに床を撫でた。
この廊下の先には、レイコ様がいる。
このビルの空気は、レイコ様と同じ空調で循環している。
私は雑巾を絞り、再び床に這いつくばった。
その姿は、傍から見れば「虐げられたシンデレラ」。
だがその心は「舞踏会に招待された少女」よりも高揚していた。
住環境、よし。
食糧事情、よし。
周囲の評価、よし。
私の新しい生活は、順風満帆なスタートを切ったのだった。




