第14話『悪魔の契約書(終身雇用)』
重厚なドアが閉ざされた瞬間、世界から音が消えた。
鼓膜を叩き続けていた激しい雨音も、都会の喧騒も、私を嘲笑っていた通行人たちの声も、すべてが遮断された。
そこは走る鋼鉄の繭。あるいは、深海を往く潜水艇の内部のように密閉された、静寂の空間だった。
漆黒のリムジン、後部座席。
本革のシートに深く身を沈めているのは、この世界の頂点に君臨する女帝、西園寺レイコ。
そして、その足元のフロアマットを汚さないよう、縮こまるように座っているのが私、天宮アイだ。
車内には微かな空調の音とV12エンジンの滑らかなハミングだけが響いている。
私の鼻腔を支配しているのは、それらの無機質な匂いではない。
最高級のレザーの香りと、彼女が纏うチュベローズの香水。そして先ほどまで彼女が嗜んでいたメンソールの煙草の残り香。
それらが渾然一体となり、甘く、冷たく、そして危険なフェロモンとなって充満している。
「⋯⋯汚れるわね」
レイコ様が、窓の外を流れる雨景色を見つめたまま、独り言のように呟いた。
私の方を見ようともしない。
濡れた野良犬が、高級車の内装を湿らせていることが不快なのだろう。
「も、申し訳ありません⋯⋯すぐに降りますから⋯⋯」
私はガチガチと歯を鳴らし、さらに小さく身を縮める。
寒さのせいだけではない。この圧倒的な「密室」の緊張感に魂が震えているのだ。
レイコ様は、ふっ、と鼻で笑った。
そして、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。その瞳は深淵のように黒く、すべてを見透かすように冷徹だ。
「降りる? 誰が許可したのかしら」
「え⋯⋯?」
「拾ったからには、貴女の所有権は私にある。捨てるも壊すも、私の自由よ」
ゾクリ。背筋に電流が走る。
「所有権」なんて甘美な響きだろうか。レイコ様は人権などという曖昧なものではなく、物品としての権利を主張されたのだ。
「まずは『檻』へ行きましょうか。汚れたペットを囲う場所くらいはあるわ」
車は滑るように加速する。
向かう先は港区の一等地にそびえ立つ、業界最大手『エンパイア・プロモーション』の本社ビル。
私にとっては、そこは魔王城であり同時に聖地でもあった。
◇
地下駐車場から直結する専用エレベーターは、重力すら感じさせない滑らかさで上昇していく。
表示される階数は「45」。最上階だ。
チン、と軽やかな音が鳴り、扉が開く。
広がるのは無機質で広大なオフィス空間で秘書すらいない。
床には大理石が敷き詰められ、私の濡れた靴がペタペタと情けない音を立てる。
レイコ様はカツカツとヒールを鳴らし、奥にある社長室に入り重厚なマホガニーのデスクへと向かった。
背面の全面ガラスからは雨に煙る東京の夜景が一望できる。
宝石箱をひっくり返したような街の灯り。
彼女はその光景を背にし、まるで夜の支配者のように革張りの椅子に腰を下ろした。
「そこに立ちなさい」
デスクの前を指定される。
私はビチャビチャのワンピースから雫を垂らしながら、直立不動で立った。
冷房が効きすぎている。濡れた体に冷気が突き刺さるが、私は微動だにしない。
レイコ様は引き出しを開け、一通の分厚い書類を取り出した。
それをゴミでも捨てるかのようにデスクの上に放り投げる。
バサッ。
書類が滑り、私の目の前で止まった。
「読みなさい。そしてサインしなさい。⋯⋯拒否権はないわ」
命令。絶対服従。私は震える手でその書類を手に取った。
表紙には『専属タレント契約書(特記事項付)』とある。
そのページをめくった瞬間、私の目は見開かれた。
これは契約書ではない。現代社会の法を無視した、悪魔の証明書だ。
【第5条:報酬について】
『乙(天宮アイ)の報酬は完全歩合制とする。ただし、乙が甲(西園寺レイコ)に負わせた損害、および生活費、レッスン費、管理費等の諸経費はすべて乙の借金とし、報酬から全額相殺されるものとする。完済するまで、金銭の支払いは発生しない』
(⋯⋯つまり、タダ働き。いや、働けば働くほど借金が増えるシステムの可能性すらある。実質的な奴隷宣言だ)
【第9条:私生活の管理】
『乙にプライバシー権は存在しない。甲は乙の居所、通信、交友関係を24時間監視する権利を有し、乙はこれに一切の異議を申し立てないものとする。GPSおよび盗聴器の装着義務を負うこと』
(24時間監視⋯⋯!? トイレもお風呂も寝ている時も? 神(レイコ様)が常に私を見守ってくださるというのか⋯⋯!)
【第12条:異性交遊の禁止】
『恋愛および性的な交友関係は、過去・現在・未来にわたり一切禁止とする。万が一発覚した場合、甲は乙に対し、違約金として10億円を請求し、かつ社会的抹殺を含むあらゆる制裁を加えることができる』
(素晴らしい。他の男など見るな、私だけを見ろ、という強烈な独占欲の裏返しだ。10億という金額は、それほど私の貞操に価値があるという評価の表れ!)
【第13条:主従関係】
『甲の命令は絶対であり、乙は犬のようにこれに従うこと。返事は「はい」または「ワン」のみとする』
(犬⋯⋯! 比喩ではなく、明文化された「犬」扱い! ありがとうございます!)
そして、極めつけは最後の条項だ。
【第66条:契約期間】
『本契約の期間は、甲が乙に対し「興味を失った」と判断し、契約解除を通告するその日までとする。乙からの解約申し入れは認めない』
私はその条文を見た瞬間、口元を押さえて膝から崩れ落ちそうになった。
笑いが込み上げてくるのを必死で堪える。
これは絶望ではない。
「飽きるまで」ということは、私が飽きさせない努力をし続ける限り、死ぬまでここに居られるということだ。
事実上の「終身雇用」。
しかも、レイコ様の玩具としての一生が約束されている。
(福利厚生が手厚すぎる⋯⋯! 住み込み(監禁)、食事付き(餌)、そして推しによる24時間のメンタルケア(監視)。ここは天国か!? いやニルヴァーナだ!)
私は感動で涙が溢れて止まらなかった。
一般人が見れば違法契約書だろうが狂信者である私にとっては、聖書よりも尊い魂の契約書なのだ。
「⋯⋯ひどすぎます⋯⋯」
私は顔を上げ、震える声で訴えた。嬉しすぎてニヤけそうな顔を必死に「絶望」で上書きする。
「こんなの⋯⋯あんまりです⋯⋯。私には、人間としての権利もないんですか⋯⋯?」
「人間?」
レイコ様は、心底おかしそうに鼻で笑った。
「勘違いしないでちょうだい。今の貴女は人間じゃないわ」
彼女は椅子から立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩み寄った。
そして、眼下に広がる東京の夜景を指差した。
「見てみなさい。あの煌びやかな街のどこに、貴女の居場所があるの?」
私はガラス越しに雨に濡れた街を見る。
数えきれないほどの光。だがそのどれ一つとして、今の私を受け入れてくれる場所はない。
「世間は貴女を『汚れたパパ活アイドル』と認識し、ファンは貴女を憎んでいる。会社も、仲間も、ファンも貴女を助けようとはしない。⋯⋯貴女はもう、社会的に殺された死体なのよ」
レイコ様は立ち上がると私の耳元に顔を寄せ、悪魔のように囁いた。
「死体に人権なんてないでしょう? あるのは所有者による管理だけ。⋯⋯貴女に残された道は二つ。ここで私の所有物として生きるか、あの冷たい雨の中に戻って、本当の死体になるか。私の慈悲を無駄にしてただで済むとは思わないことね」
「う⋯⋯うぅ⋯⋯っ」
私はガタガタと震え後ずさろうとするがレイコ様に肩を掴まれた。逃げ場はない。
「選ばせてあげるわ。⋯⋯さあ、どうするの? 雨の中に戻る? それとも、プライドを捨てて、私の犬になる?」
究極の二択。
逃げ場のない論理的な追い込み。
精神的にじわじわと嬲られ、自尊心を粉々に砕かれるこの感覚。
(最高だ⋯⋯! 行き場のない人間を徹底的に追い詰めて奴隷にするやり口! 流石レイコ様、もっと、もっといじめてください!)
私は、断腸の思いで決断する演技をして、デスクの上のペンをひったくるように掴んだ。
「⋯⋯戻りたくない⋯⋯! ここしか、ないんです⋯⋯! サインします、させてください⋯⋯!」
まるで地獄への片道切符を奪い合う亡者のように、私は食い気味に叫んだ。
署名欄にペンを走らせる。
『天宮アイ』。
その文字は、歓喜で踊っていた。
拇印を押す指先に力が入りすぎ、朱肉で真っ赤に染まった親指を、契約書に叩きつけるように押し当てた。
ギュッ。
鮮やかな赤が白紙に刻まれる。魂の売買契約完了の証だ。
「⋯⋯書きました⋯⋯これで、いいんでしょう⋯⋯っ!」
私はペンを投げ出しその場に泣き崩れた。床に額を擦り付け、嗚咽を漏らす。
レイコ様はゆっくりと契約書を手に取り、その署名を確認した。
満足げな吐息。
そして彼女は私の目の前に立ち片足を少し前に出した。
黒のエナメルパンプス。クリスチャン・ルブタンの特徴的な赤い靴底が、照明を受けて妖しく光る。
鋭利なヒールは、凶器のように美しかった。
「契約成立ね。⋯⋯それじゃあ、最初の命令よ」
彼女は冷徹な瞳で見下ろしながら、短く言った。
「誓いのキスをしなさい」
「え⋯⋯?」
「聞こえなかった? 私の靴に、忠誠の口付けをしなさいと言ったのよ」
――ッ!!
私は、あまりの衝撃に息が止まりそうになった。
靴へのキス。それは絶対服従の証であり、人間としての尊厳を完全に放棄させる儀式。
レイコ様にとっては私を屈服させ、泥水を啜らせるための最大の屈辱なのだろう。
私にとっては。
(ご⋯⋯ご褒美キタアアアアアアアアアッ!!!)
脳内で打ち上げ花火が乱れ飛ぶ。
まさか、契約初日からメインディッシュが振る舞われるとは!
レイコ様の履いている靴、しかも雨に濡れ、東京のアスファルトを踏みしめてきたその靴を、この舌で味わえるなんて!
私は震える手で床をつき、這いつくばったまま彼女の足元に顔を寄せた。
表面上は、屈辱に涙し、躊躇うような素振りを見せる。
「⋯⋯そんな⋯⋯こと⋯⋯」
「早くしなさい。それとも、やっぱり雨の中に戻りたい?」
彼女が苛立たしげにつま先を動かす。
私は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、慌てて頭を垂れた。
「し、します⋯⋯! やります⋯⋯!」
私は震える唇を、黒いエナメルのつま先に近づけた。
雨の匂い。革の匂い。そして微かなチュベローズの残り香。
チュッ。
音を立てて、私はその冷たい甲に口付けた。
それだけでは足りない。
私は舌を伸ばし、雨滴で汚れたつま先を、一舐めした。
冷たくて、少ししょっぱくて、泥臭い味。
⋯⋯極上の味だ。
「⋯⋯っ、ふふっ」
頭上から、レイコ様の忍び笑いが降ってきた。
彼女は、私の頭をヒールの底で軽く踏みつけた。
「いい子ね。⋯⋯無様で、汚くて、最高に惨めだわ」
踏みつけられる重み。頭蓋骨に伝わる硬い感触。
私は床に頬を押し付けられながら、目を見開いて歓喜に打ち震えていた。
「よく覚えておきなさい、天宮アイ。今日から貴女はアイドルじゃない。私の犬よ」
「⋯⋯はい、ご主人様⋯⋯」
私はレイコ様の瞳に映る、泥と涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔を見つめながら、心の中でガッツポーズをした。
こうして悪魔の契約は結ばれた。
私のアイドル人生第二章――『奴隷編』の、華々しい開幕である。




