第13話『雨と段ボールと捨て犬と』
バタンッ!!
鉄の扉が無慈悲な音を立てて閉ざされた。
私の背後で錠が下りる音が響く。それは私のアイドル人生第一章の終わりを告げる、断頭台の刃が落ちる音に似ていた。
「二度とツラ見せんじゃねえぞ、疫病神が!」
ドアの向こうから田所の怒鳴り声が微かに聞こえる。
解雇通知。違約金請求なし。事実上の「厄介払い」だ。
私は私物を詰め込んだみかん箱(スーパーで貰ってきた本物)を抱え、事務所の裏口に立っていた。
頭上からは昨日の天気予報通り、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降り注いでいる。
傘はない。あえて持ってこなかったのだ。
「⋯⋯ふぅ」
私は天を仰ぎ、雨を全身で受け止めた。
冷たい。六月の雨は生ぬるさと冷気が入り混じり、肌にまとわりつくような不快感がある。
白いワンピースは瞬く間に濡れそぼり、肌に張り付く。箱に入れた私物――使い古したレッスンシューズやタオル――も、雨水を吸って重くなっていく。
惨めだ。最高に、惨めで、無様。そして⋯⋯。
(完璧なオープニングだ⋯⋯!)
私は濡れた前髪の隙間から、灰色の空を見上げてニヤリと笑った。
これから始まるのは、RPGで言えば「追放イベント」直後のフィールド移動。
HPは1、MPも0。装備はボロボロの布の服。
この「持たざる者」の状態こそが、最強の支援者を引き寄せるためのフラグなのだ。
◇
大通りに出ると雨脚はさらに強まった。
アスファルトを叩く雨音が、世界中の雑音をかき消していく。
私はよろめく足取りで、歩道を歩き出した。
目的地はない(という設定)。
ただ、雨の中を彷徨う亡霊のように。
すれ違う人々は、傘を差して足早に歩いている。
その中の一人が、私に気づいて足を止めた。
「え⋯⋯あれ、天宮アイじゃね?」
「うわ、マジだ。びしょ濡れじゃん」
「スキャンダルのあと、クビになったって噂だけど⋯⋯こんなところで何してんだよ」
容赦ない好奇の視線。スマホのカメラが向けられシャッター音が雨音に混じる。
私は箱を抱きしめる腕に力を込め、顔を伏せて早足になった。
逃げるように。隠れるように。
「おい見ろよ、あの無様な姿」
「パパ活の成れの果てだなw」
「写真撮って拡散しよーぜ」
嘲笑が背中に刺さる。石を投げられるような感覚。
今の私にとっては、その悪意すらも心地よいBGMだ。
(いいぞ、もっと笑え。もっと拡散しろ。『天宮アイは、地べたを這いずり回る負け犬になった』と、世界中に知らしめるんだ!)
私は、とある交差点のガードレールに身を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
ここだ。この場所だ。
港区の大通り。高級車が行き交うこのルート。
私は抱えた箱の底に隠してあったスマホを、雨に濡れないように袖口で隠しながら確認した。
画面には、GPSアプリが表示されている。
仮想のターゲットを示す赤い点が、ゆっくりと、しかし確実にこちらに近づいてきている。
――西園寺レイコの送迎車。
前世の知識と今世で雇った探偵(何でも屋の佐藤さん)の情報によれば、彼女は毎週水曜日のこの時間、必ずこのルートを通って本社へ向かう。
私はそれをスマホのアプリにトレースし表示させていた。信号のタイミング、交通量、全てを計算済み。
(あと五分⋯⋯いや、三分だ)
私はスマホをしまい、膝を抱えた。
寒さで体がガチガチと震え唇は紫色に変色し、指先の感覚はない。
レイコ様と会えるならこの程度のダメージ安いチップだ。
私の視界が、雨で白く霞む。
意識が遠のくような感覚(演技ではない、低体温症の前兆だ)。
だが、その極限状態が私の五感を研ぎ澄ませていた。
遠くからかすかに聞こえるタイヤの音、他の車とは違う、重厚で、腹に響くような低音。
V12エンジンの鼓動。
(来た⋯⋯!)
私は顔を上げた。
濡れ鼠のような、捨てられた子犬のような瞳で。
雨のカーテンの向こうから、その「魔王」は現れた。
漆黒のリムジン、雨雲よりも黒く、濡れたアスファルトよりも艶やかなボディ。
周囲の軽自動車やタクシーを威圧するように、悠然と水を跳ね上げて近づいてくる。
信号が赤になるとリムジンは、まるで図ったかのように私の目の前で停車した。
距離、わずか二メートル。
私の心臓が早鐘を打つ。
これはGPSの予測ではない。
運命だ。神が――いや、悪魔が私に微笑んだ瞬間だ。
私はガードレールに寄りかかったまま、その黒い車体をぼーと見つめた。
後部座席の窓ガラスは、漆黒のスモークで中が見えないけど私にはわかる。
その奥に、氷の瞳がこちらを見ていることが。
ウィィィィン⋯⋯。
微かなモーター音と共に、後部座席の窓がゆっくりと下がり始めた。
時間がスローモーションになる。
雨粒が空中で静止して見えるほどの集中力。
開いた窓の隙間から、紫煙がふわりと流れ出した。
雨の匂いと排気ガスの臭いを塗り替える、濃厚で甘美な香り。
チュベローズと高級メンソールの煙草。
そして、その顔が現れた。
西園寺レイコ。
車内の薄暗がりの中で、彼女の白い肌だけが月のように浮き上がっている。
深紅のリップに切れ長の瞳、手には細いシガレットホルダーを持ち、けだるげに紫煙を吐き出している。
目が、合った。
テレビ局の廊下ですれ違った時とは違い、目と目があっている。
今の彼女は立ち止まり、私を直視している。
私は震える体で彼女を拝謁した。
言葉は出ない。ただ雨に打たれながら、彼女の圧倒的な「格」にひれ伏すのみ。
レイコ様は、私を上から下までゆっくりと舐めるように観察した。
ずぶ濡れの髪。
汚れたワンピース。
抱きしめたみかん箱。
そして絶望に染まった(ように見える)瞳。
彼女の唇が三日月のように歪んだ。
それは慈愛の笑みではない。
壊れた玩具を見つけた子供のような、残酷で純粋な歓喜の笑み。
「⋯⋯随分と、無様に濡れた子犬ね」
ハスキーで、冷たく、そして脳髄を溶かすような甘い声。
雨音を切り裂いて、その言葉は私の鼓膜に直接刻印された。
あぁ。
あぁ、神様。
いや、レイコ様。
私の内側で、何かが爆発した。
歓喜? 興奮? 崇拝?
そんな安っぽい言葉では表現できない。
「無様」、「濡れた子犬」。
その蔑称こそが、私が一生をかけて欲しかった「洗礼名」だ。
私はガチガチと歯を鳴らしながら、それでも視線を逸らさずに彼女を見つめ返した。
助けてほしい、とは言わない。
拾ってください、とも言わない。
ただ野良犬のように、無言で彼女の魂に訴えかける。
『私を見て。こんなに壊れて、こんなに汚れて、こんなに空っぽな私を⋯⋯貴女の色で満たして』
レイコ様はふっ、と鼻で笑うと、吸いかけの煙草を窓の外に弾いた。
ジュッと音を立てて、火種が水溜まりの中で消える。
それは私の「人間としての尊厳」が消え去り「彼女の所有物」としての生が始まる狼煙だった。
リムジンのドアが内側からカチリと解錠される音がした。
(――クエストクリア。報酬獲得フェーズへ移行します)
私の脳内でファンファーレが高らかに鳴り響いた。
雨はまだ、激しく降り続いている。
だが私にはもう、この雨さえも祝福のシャワーにしか感じられなかった。
いざ、魔王の城へ。




