第10話『地獄へのカウントダウン』
ステージの幕が上がった瞬間、そこに広がっていたのは「海」ではなく「沼」だった。
いつもなら、色とりどりのサイリウムが波のように揺れ、鼓膜を震わせるほどの歓声が私たちを迎えてくれる。
しかし今日、ホールを埋め尽くしていたのは重く、粘着質な沈黙と蠢くようなざわめきだけだった。
「⋯⋯⋯⋯」
三千人の視線が、物理的な重圧となって私に突き刺さる。
その視線には熱狂などない。あるのは値踏みするような冷徹さと汚いものを見るような侮蔑、そして「嘘だと言ってくれ」という悲痛な懇願。
私のテーマカラーである純白のサイリウムは、会場の半分も点灯していない。
暗闇の中で無数の瞳だけがギョロギョロと私を追っている。
特に私の太ももあたりを凝視している視線が多い。週刊誌に載った「ホクロ」を確認しようとしているのだ。変態どもめ。
(⋯⋯あぁ、ゾクゾクする。なんて素晴らしい空気なんだ)
私はマイクを握る手に力を込め、顔を引きつらせてみせた。
恐怖で足がすくんでいるかのように。
しかし曲が始まれば私は機械仕掛けの人形のように完璧に踊る。
一曲目、二曲目⋯⋯アップテンポな曲なのに客席のコールはバラバラだ。
それでも私は笑顔を崩さない。汗が顎を伝って落ちる。その汗さえも照明の下では涙のように見えているはずだ。
健気だ。あまりにも健気で、そして残酷なほど痛々しい。
パパ活疑惑の渦中にあるアイドルが、批判の嵐の中で必死に笑顔を作っている。その姿は、ファンの良心をじわじわと苛んでいることだろう。
(もっと見て。この「作られた笑顔」の裏にある(と思わせている)悲鳴を聞いて! あなたたちが私を疑えば疑うほど、私は美しく傷ついていく!)
そして、運命のMCタイムがやってきた。
◇
曲が終わり、静寂が訪れる。
普段なら「アイちゃーん!」「可愛いよー!」と声がかかるタイミングだが、今日は誰も声を発しない。
咳払い一つすら響き渡るような、張り詰めた緊張感。
私たちはステージ中央に並び、荒い息を整える。
台本ではここで私が「今日は来てくれてありがとう!」と元気に挨拶をし、次のバラード曲へ繋ぐことになっている。
ふいに隣に立つリカが、不自然な一歩を踏み出した。
「⋯⋯ねえ、アイちゃん」
マイクを通したリカの声は妙に優しく、そして湿っぽかった。
私はビクリと肩を震わせ、彼女を見る。
「な、なに⋯⋯? リカちゃん」
「私たちさ、隠し事なしの仲間だよね? ファンの皆も、家族みたいなものだよね?」
リカは客席に向かって同意を求める。
客席がざわり、と揺れる。何かが始まろうとしているのを察知したのだ。
「だから⋯⋯あの記事のことなんだけどさぁ」
単刀直入、リカはタブーであるはずのスキャンダル記事にステージ上で自ら触れた。
会場の空気が一瞬で凍りつき、その直後、どよめきが爆発する。
「あれって⋯⋯嘘だよね? アイちゃんがあんなこと、するわけないよね?」
リカの目は笑っていない。
心配しているフリをして、その瞳の奥には「さあ、言い訳してみろよ」という嗜虐的な光が宿っている。
ミナもすかさず追撃に入る。
「そうだよアイ。火のない所に煙は立たないって言うし⋯⋯ファンの皆だって不安なんだよ。ここでハッキリさせてあげなよ。『私はやってない』って」
公開処刑の開始だ。
逃げ場のないステージの上。三千人の証人が見守る中での魔女裁判。
彼女たちは「ファンのため」「グループのため」という正義の仮面を被り、私を崖っぷちまで追い詰めようとしている。
私は唇を噛み、視線を泳がせる。
マイクを持つ手が震え、言葉が出てこない。
「あ、あの⋯⋯それは⋯⋯」
「何? 言えないの?」
リカの声が鋭くなる。
「私たち、アイちゃんのこと信じてるんだよ? でも、あの写真⋯⋯ホクロの位置とか、すごく似てて⋯⋯。本当のこと言ってくれないと、私たちだってアイちゃんを庇いきれないよ」
上手い。
自分たちは「信じたい側」に立ちつつ、客観的な証拠を突きつけることで、ファンの疑念を煽っている。客席からの視線が、より一層厳しくなるのが肌でわかる。
「言ってくれよアイちゃん!」
「嘘だって言ってくれ!」
「あの写真はなんなんだよ!」
客席から耐えかねたファンの叫び声が上がる。
それをきっかけに会場中から怒号のような声が飛び交い始めた。
私は一歩後ずさる。
リカとミナは私を置き去りにしてステージの両脇へと距離を取った。
まるで汚らわしいものに触れないように。
スポットライトが、私一人を孤独に照らし出す。
「う、うん⋯⋯私は⋯⋯みんなを裏切るようなことは⋯⋯」
私は消え入りそうな声で、曖昧な言葉を紡ぐ。
否定も肯定もしない。ただ、怯えているだけの少女。
その煮え切らない態度が、観客のイライラを頂点へと押し上げる。
「はっきりしろよ!」
「裏切り者!」
「金返せ!」
ブーイング。罵声。
かつて愛を囁いてくれた人々の口から、ナイフのような言葉が次々と投げつけられる。
(あぁ⋯⋯最高だ。聞こえるか、リカ、ミナ。これが「地獄」の音だ)
私は俯き、震えるフリをしながら恍惚感で頭がどうにかなりそうだった。
全方位からの敵意。
信頼していた仲間の裏切り。
愛していたファンの掌返し。
完璧だ。これ以上ないほど私は「悲劇のどん底」にいる。
今、この会場の空気は可燃性のガスで充満している。
あとは私がマッチを擦るだけ。
私は、背中に手を伸ばした。
怯えて縮こまっているように見えるポーズを取りながら、そしてその指先はドレスの袖口に縫い付けられた、小さな硬い感触を探り当てていた。
――超小型無線送信機。
前世の知識と闇ルートを駆使して作り上げた、この会場の映像システムに割り込むためのスイッチだ。
これを押せば第二段階が始まる。
リカが勝ち誇った顔で私を見ている。
『これで終わりよ、天宮アイ』という心の声が聞こえてくるようだ。
ミナが腕を組んで鼻で笑っている。田所は舞台袖で頭を抱えていることだろう。
いい景色だ。
目に焼き付けておこう。これが、お前たちが「勝者」でいられる最後の光景だ。
(さあ、時間だ。⋯⋯地獄へようこそ)
私は涙に濡れた瞳で客席を一瞥し、そして――。
カチリ。
指先に力を込めた。
スイッチが押される、確かな感触。
その瞬間。
ザザッ⋯⋯ザザザッ!!
耳障りなノイズ音が、会場のスピーカーから爆音で鳴り響いた。
そして、私の背後にある巨大スクリーンに、激しい砂嵐が走った。
「うわっ、なんだ!?」
「故障か?」
どよめく観客。リカとミナが驚いて振り返る。
私はゆっくりと顔を上げた。
その表情は、もう怯えてなどいない。
これから始まるショーの開幕を告げる、支配者の顔だった。
カウントダウンは終わった。爆発の時間だ。




