言葉の迷宮と深まる謎
律との「言葉の剣戟」から数日後、悠人は自宅で、律の言葉を反芻しながら、あの詩の真意を掴もうと、久留米市内の地図を広げていた。彼の頭の中では、律の「他の人とは違った視点」が、まるで古いフィルムのように何度も再生されている。
そんな悠人の思考を、一本の電話が遮った。相手は、久留米中央警察署の松永刑事だ。
「神崎さん、申し訳ないが、また厄介な事件が起きてね。君にも来てもらいたいんだ」
松永の声は、いつになく重く、緊迫していた。悠人は、嫌な予感を感じながら、すぐに場所を尋ねた。
「今度は…どこですか?」
松永が告げた場所は、久留米市内の路地裏にひっそりと佇む、創業百年の老舗造り酒屋、『月桂酒造』だった。白壁の蔵が並び、酒造りの独特の空気が漂うその場所は、久留米の伝統と歴史を象徴するような場所だ。
悠人が現場に到着すると、既に規制線が張られ、サイレンの音が静かな路地裏に響き渡っていた。古めかしい木製の門をくぐると、すぐに「漂う微かな日本酒の匂い」が鼻腔をくすぐった。それは、芳醇で甘やかな香りでありながら、今は死の匂いと混じり合い、事件の異様さを一層際立たせている。
蔵の奥、麹室として使われていたと思われる、厳重に施錠された一室で、次期当主である男性、月桂太郎、四十歳が死亡しているのが発見された。再びの密室殺人だ。
松永刑事は、悠人の顔を見るなり、疲労困憊といった様子で頭を振った。「まただ。また、やられたよ。全く、どうなっているんだ、久留米は」
悠人は、被害者の遺体が横たわる部屋の入り口から中を覗き込んだ。太郎の顔は苦悶に歪み、その胸には鋭利な刃物で刺されたような痕があった。室内の空気は、日本酒の匂いと、微かな血の匂いが混じり合い、粘着質に感じられた。
そして、悠人の視線は、太郎の手のすぐそばに転がっている、奇妙な物体に釘付けになった。それは、壊れた小さな木の人形だった。丁寧に彫られたであろう人形は、頭と体が分かれ、片腕も折れて転がっている。まるで、何かを必死に守ろうとして、破壊されたかのようにも見える。被害者の手から滑り落ちたのか、あるいは、犯人が何らかの意図をもって、そこに置いたのか。
松永刑事が呟いた。「この人形、変だと思わないか? どう考えても、ここに転がっているのは不自然だ」
悠人は、その木の人形をじっと見つめた。その簡素な作りと、どこか異質な存在感が、彼の胸に新たな予感を「ゴツン」と叩きつけた。またしても、犯人からのメッセージなのだろうか。
久留米の街で、再び起こった密室殺人。そして、現場に残された奇妙な木の人形。悠人の脳裏に、あの生意気な甥の顔が、そして彼の「遊びのルール」という言葉が、再び「グワングワン」と渦を巻き始めた。この新たな謎は、律の「他の人とは違った視点」なしには、決して解き明かせないだろうと直感した。
造り酒屋での密室殺人事件は、久留米の街にさらなる衝撃を与えた。グランド劇場での事件と酷似した手口、そして再び現場に残された奇妙な「遺留品」。警察の捜査本部は連日、情報が錯綜し、重苦しい空気に包まれていた。
悠人もまた、松永刑事の要請で、今回の現場検証に立ち会っていた。麹室の奥、月桂太郎の冷たくなった遺体のそばには、壊れた木の人形が転がっている。そして、その人形のすぐ隣、血痕の付着していない床に、鑑識のライトが照らし出す、新たな筆跡が悠人の目を捉えた。
それは、またしても、歪んだ文字で綴られた詩の断片だった。
「赤い靴が笑い、影は森の奥へ隠れる」 「壊れたおもちゃが踊る時、真実は悲しみを呼ぶ」
悠人の胸に、再び「ズン」と重い予感がのしかかった。やはり、最初の事件と繋がっている。そして、この詩もまた、律の「遊びのルール」と関係があるに違いない。
松永刑事は、詩のメモを鑑識から受け取ると、眉間に深い皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
「またこれか。全く、犯人は何を考えているんだ。こんな支離滅裂なものに、捜査の時間を割くわけにはいかん」
彼は最初の事件の時と同様、この詩を「意味不明な落書き」として一蹴し、木の人形についても「単なる被害者の遺留品か、あるいは犯人の気まぐれだろう」と、深く追及する姿勢を見せなかった。ベテラン刑事としての経験と常識が、彼の思考をがんじがらめにしているかのようだった。彼の頭の中では、密室のトリックや、被害者の交友関係といった、目に見える証拠の解析が最優先事項なのだ。
しかし、その傍らで、里中美咲刑事の表情は違っていた。彼女は、松永の言葉に頷きながらも、その視線は詩のメモと、壊れた木の人形の間を「チラチラ」と行き来している。彼女の脳裏には、最初の事件現場で律がテレビの詩を見てニヤリと笑った姿、そして悠人が律の言葉を真剣に聞いていた時の様子が、まるで古い映画のように「カチリ」と再生されていた。
「松永さん、私は…」里中が何かを言いかけたが、松永は「里中! お前は被害者の周辺を徹底的に洗い直せ!」と強い口調で遮った。里中は唇を噛み締め、それ以上何も言わなかった。
その日の夜遅く、久留米中央警察署の廊下で、悠人が資料整理を終えようとしていた時だった。
「神崎さん、少しよろしいでしょうか」
振り向くと、そこに立っていたのは里中刑事だった。彼女の顔には、昼間現場で見た時よりも、深い疲労の色が浮かんでいる。そして、その瞳の奥には、確かな迷いと、一縷の希望のような光が宿っていた。
「あの…実は、相談したいことがありまして」
里中刑事は、周囲を警戒するように「キョロキョロ」と見回してから、声を潜めて続けた。
「私、あの詩のことが、どうしても気になってしまって…。それと、あの木の人形も。松永さんは取り合ってくれませんが、何か、あの…律くんの言葉と関係があるような気がしてならないんです」
里中の言葉は、悠人の胸に「ピタリ」と嵌まった。彼女もまた、大人たちの常識の枠を超え、律の「他の人とは違った視点」に気づき始めているのだ。悠人は、里中の迷いの眼差しを受け止め、静かに頷いた。
「ええ、少し。場所を変えましょうか」
夜の久留米の街は、昼間の喧騒とは打って変わって、ひっそりと静まり返っていた。しかし、その静寂の裏で、新たな謎が、二人を深い迷宮へと誘い込もうとしている。悠人の頭の中では、二つの詩と、木の人形が、複雑なパズルのピースのように「ガタガタ」と音を立てながら、繋がりを求めていた。
里中刑事との密談を終え、悠人は再び自宅に戻っていた。彼の目の前には、最初の詩と、第二の詩、そして壊れた木の人形、さらには久留米の古い地図が広げられている。里中刑事は、松永刑事に隠れて、被害者の周辺資料や、久留米市内の過去の変遷に関する資料を悠人に提供してくれていた。それは、律の「他の人とは違った視点」を裏付けるための、ささやかな抵抗だった。
「律…お前なら、このパズルを解けるのか?」
悠人が呟くと、リビングの隅でブロック遊びに興じていた律が、いつの間にか悠人の隣に立っていた。その手には、自作の奇妙なブロックの構造物が握られている。
「何をブツブツ言ってるの、ゆう兄ちゃん。また一番になれないって諦めてるの?」
律は、悠人の手元にある詩のメモを覗き込むと、その顔に「ニヤリ」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あ、これ。今度の詩は、もっと面白いね。大人には絶対わからない遊びだよ」
律の言葉は、まるで目の前に犯人がいるかのように、彼に語りかけているかのようだった。その声は楽しげでありながら、どこか大人を見透かすような冷たさを孕んでいる。悠人は、律が言葉を紡ぐたびに、彼の瞳の奥に「キラリ」と光る知性の閃きを感じ取った。
「『赤い靴が笑い』…これはね、この間、ゆう兄ちゃんと見に行ったデパートのショーウィンドウにあったやつだよ。あの時、律が『一番可愛い靴!』って言ってた、あの真っ赤なハイヒールだ」
律は、悠人の記憶を確かめるように、彼を上目遣いで見た。悠人の脳裏に、数日前の情景が鮮やかに蘇る。確かに、西鉄久留米駅近くの老舗デパート、「岩田屋」のショーウィンドウに飾られていた、燃えるような赤いハイヒールを、律が指差してはしゃいでいたことがあった。
「そして、『影は森の奥へ隠れる』…これはね、久留米の古い地図に載っていた場所のことだよ。昔、ここに大きな森があったんだって。今はもう、ビルがいっぱいだけど」
律は、悠人の広げた古い地図を指差し、特定の場所を示した。そこは、確かに現在の地図にはない、鬱蒼とした森として描かれている。悠人の背筋に、「ゾワッ」と鳥肌が立った。犯人は、久留米の、それもごく一部の人間しか知り得ないような、過去の地理までをも詩に織り交ぜている。これは、律にしか見えない「他の視点」がなければ、到底解読できないような、難解な挑発だ。
そして、律の視線は、テーブルの上に置かれた、壊れた木の人形へと移った。バラバラになった頭部と胴体、折れた腕。律は、それらのパーツを一つ一つ指で「ツンツン」と触りながら、まるで人形の心を読み取っているかのように呟いた。
「大人はすぐモノを壊す人のこと、悪者って言うけど、これ、もしかしたら、そうじゃないのかも」
律の言葉は、悠人の常識を揺さぶる。壊された人形は、一見すれば被害者が抵抗した証か、犯人の悪意の象徴に見える。しかし、律の言葉は、その解釈を根底から覆す可能性を秘めていた。悠人の脳内で、既存の認識が「ガラガラ」と音を立てて崩れていく。
悠人は、律の言葉一つ一つが、単なる子供の思いつきではないことを肌で感じ取った。最初の詩もそうだったが、今回の詩と壊れた人形は、律の「読み解き」を試すかのように、以前よりもさらに抽象的で、難解になっている。犯人は、律の存在を知り、彼に挑戦しているのだろうか? あるいは、律が「一番」であることを試しているのか?
悠人の心臓は「ドクン、ドクン」と大きく鳴り響いていた。これは、ただの事件ではない。犯人と律、そして巻き込まれた悠人との間で繰り広げられる、壮大な知恵比べなのだ。律がこの「遊び」をどこまで読み解けるのか、そして悠人がその断片的なヒントをどのように繋ぎ合わせていくのか。久留米の街の裏側で、見えない戦いが始まっていた。
律の言葉は、まるで霧に包まれた久留米の街に差し込む、一筋の光だった。悠人は、律が解読した「赤い靴」と「森の奥」のヒントを手に、里中刑事と共に久留米市内の聞き込みを開始した。彼らの背後には、松永刑事の不信の眼差しと、市民の不安が影のように付きまとっていた。
「赤い靴」のヒントから、悠人たちはまず、西鉄久留米駅近くのデパートへと向かった。律が指差したショーウィンドウは、すでに新しいディスプレイに変わっていたが、当時の赤いハイヒールを覚えている店員から、「あれは期間限定の特別品で、とても人気がありましたよ」という証言を得た。単なるデパートの商品が、なぜ詩に登場するのか。悠人は、律の言葉の裏に隠された意味を深く考え込んだ。
次に彼らが向かったのは、律が古い地図で示した「森の奥」だった。かつて鬱蒼とした森が広がっていたというその場所は、今では近代的なビルが立ち並ぶビジネス街に変貌していた。しかし、里中が持参した古い航空写真と現在の地図を照らし合わせると、ある興味深い事実が浮かび上がってきた。その森の跡地には、久留米市独特の、古くから存在する水路が、まるで血管のように張り巡らされているのだ。それは、他の都市ではあまり見られない、細く入り組んだ、生活に密着した水路網だった。
「この水路…昔から、ここに住む人々の生活を支えてきたものですね。農業用水としてだけでなく、防火用にも使われていたと聞いています」里中刑事は、水路に沿って歩きながら呟いた。澄んだ水が「サラサラ」と音を立てて流れ、古い石垣には苔がむしている。
聞き込みを進める中で、造り酒屋の周辺住民の話から、意外な人物が浮上した。被害者である次期当主、月桂太郎と、過去に激しいトラブルがあった人物――それは、月桂酒造の元杜氏である、田中という老人だった。数年前、太郎が当主の座を継ぐことに反対し、激しく対立した末に酒屋を去ったという。彼の家は、奇しくも、律が指差した「森の奥」の、さらに奥深く、水路が複雑に交差する古い住宅街の一角にあった。
「田中老人は、頑固一徹な職人肌でね。新しいやり方を導入しようとする太郎さんと、しょっちゅう衝突していたよ。特に、太郎さんが最新の機械を導入しようとした時には、酒造りの伝統を壊すのかって、それはもう大喧嘩でね…」
近所の老婦人が、肩をすくめて悠人たちに話してくれた。田中老人の家へと続く道は、まさに久留米の水路が持つ独特の構造を体現していた。狭い路地の両脇を水路が流れ、所々に小さな橋が架かっている。夜になれば、闇に溶け込むようなこの水路は、まさに犯行経路として、あるいは密室のトリックを仕掛ける場所として、最適に見えた。都市によって異なる形で水路が見られるが、久留米の水路は、生活と密着しすぎているために、その存在が意識されない盲点となるのかもしれない。
悠人の脳裏に、第二の詩の一節が蘇る。「影は森の奥へ隠れる」。そして、壊れた木の人形。律は「大人はすぐモノを壊す人のこと、悪者って言うけど、これ、もしかしたら、そうじゃないのかも」と言っていた。田中老人は、酒造りの「伝統」が「壊される」ことに憤っていた。
久留米絣の歴史を紐解けば、その工程の中で水路が重要な役割を担っていたことも、悠人は知っていた。この街の歴史と文化、そして水路という日常に溶け込んだ存在が、事件の背景に深く絡んでいる可能性が見えてきたのだ。
悠人は、田中老人へと続く水路を見つめながら、確信した。この事件は、単なる殺人事件ではない。久留米の歴史と文化、そしてそこに生きる人々の「見方」が、複雑に絡み合った、まさに律の「遊び」そのものなのだ。水路の「チョロチョロ」という流れの音が、彼に何かを囁きかけているかのようだった。
久留米の街を巡る聞き込みと、水路が持つ意味の解読は、悠人たちを事件の核心へと近づける一方で、彼ら自身の内面にも深く踏み込んでいくことになった。
松永刑事は、以前にも増して苛立ちを募らせていた。彼が執拗に事件の「常識的な解決」に固執する理由が、少しずつ見えてきたのは、里中刑事との会話の中でだった。
「松永さん、最近、特に神経質になられていて…」
里中刑事は、悠人と二人きりになった時に、声を潜めてそう漏らした。彼女の話によれば、松永はかつて、久留米で起こったある未解決事件の影を、今もなお追っているのだという。それは、十年以上も前、彼が若手刑事だった頃に担当し、結局、解決できなかった密室殺人事件だった。その事件は、今回の事件と手口は異なるものの、現場に奇妙なメッセージが残されていたという共通点があったらしい。松永は、その時の苦い経験から、このような「意味不明なもの」に惑わされることを極度に嫌い、あくまで論理的な証拠だけを追うようになったのだ。彼の心には、決して癒えることのない悔恨が「ジクジク」と燻り続けているのだろう。悠人は、ベテラン刑事の頑なな姿勢の裏に隠された、深い闇を感じ取った。
一方で、里中刑事は、悠人との協力体制を深めるにつれて、自身の経験不足ゆえの葛藤を吐露し始めた。
「私、まだ経験が浅くて…松永さんの仰ることもわかるんです。でも、律くんの言葉や、神崎さんの視点を聞いていると、どうしても『もしかしたら』って思ってしまうんです。このままでは、また、何も解決できないんじゃないかって…」
彼女の声は、悔しさと不安に「ゆらゆら」と揺れていた。警察官としての正義感と、目の前の不可解な事件に対する無力感の間で、彼女は「ギシギシ」と音を立てながら揺れ動いていた。悠人は、そんな里中刑事の隣で、彼女の苦悩に静かに耳を傾けた。彼女は、まだ若く、しかし真剣に事件と向き合おうとしている。その純粋な情熱が、悠人の心を打った。
そして、悠人の内面では、律という存在が、日を追うごとに複雑な意味を持ち始めていた。普段の律は、相変わらず「僕が一番」と生意気で、大人を見下したような態度を取る。しかし、時に、ブロックを組み立てる彼の横顔に、純粋で無垢な表情が「フッと」浮かび上がることがあった。その瞬間、悠人は、律がただの生意気な子供ではないことを強く感じるのだ。
悠人は、ある夜、ふと律の寝顔を見つめながら、彼の「一番」という自己認識の根源について考えを巡らせた。律は、なぜそこまで「一番」にこだわるのか。それは、きっと、彼が幼い頃に見た光景に起因しているのではないか。例えば、彼がまだ言葉も拙かった頃、誰かの「一番」を巡る激しい争いや、あるいは「一番」になれなかった者の深い絶望を、目の当たりにしたのかもしれない。それは、大人たちが意識しないような、些細な出来事だったかもしれないが、律の感受性の強い心には、深く「ズシン」と響き、強烈な刷り込みを与えたのではないか。
その「光景」が、彼に「自分が一番でなければならない」という強迫観念にも似た自己認識を植え付け、同時に、大人たちの「見えないもの」を「見える」能力を与えたのかもしれない。彼の「遊び」は、その幼い頃の経験から派生した、彼なりの世界の認識方法であり、同時に、彼にとっての「真実」を追求する手段なのだろう。
悠人の脳裏に、律が詩を解読する時の、あの冷たくも鋭い瞳が蘇る。そして、「大人はすぐモノを壊す人のこと、悪者って言うけど、これ、もしかしたら、そうじゃないのかも」と呟いた、あの不思議な言葉。
松永刑事の過去の影、里中刑事の葛藤、そして律の純粋さの裏に隠された過去の経験。三者三様の「闇」と「光」が交錯し、久留米の街で繰り広げられる事件の様相は、より一層、複雑な様相を呈していくのだった。
松永刑事の過去の影、里中刑事の葛藤、そして律の純粋さの裏に隠された過去の経験――久留米の街の裏側で渦巻く感情の層は、事件の複雑さを一層深めていた。悠人は、もはや彼一人ではこの事件を解決できないことを痛感し、律の「言葉」に全てを賭ける決意を固めていた。しかし、律の言葉は常に曖まいで、掴みどころがない。それは、まるで霧の中に立つ標識のようだった。
悠人は、律の曖昧な言葉から具体的なヒントを引き出すため、様々な試行錯誤を繰り返す日々を送っていた。彼らの「訓練」は、律が一番機嫌の良い朝食のテーブルから始まった。
「律、例えばさ、このパンが『空を飛ぶ鳥』だとしたら、どうやって飛ぶかな?」
悠人が律の絵本のページを指差し、そう問いかけると、律は「んー」と首を傾げた。そして、しばらく考え込んだ後、「バサバサって、羽が生えるの」と答えた。悠人は、律の言葉を一つ一つメモに取り、その言葉の裏にある「律にとってのリアル」を掴もうと努めた。それは、五歳の子供の視点に立つという、悠人にとっては今まで経験したことのない、全く新しい思考法だった。
悠人は律が持つ絵本を片っ端から読み漁った。童話の中に隠された象徴性、子供向けの言葉が持つ独特のリズム。律が好むファンタジー絵本の中には、奇妙な生き物や、現実には存在しないような風景が当たり前のように描かれている。悠人は、それらの絵本と律の言葉を照らし合わせ、律の想像の世界と現実世界との接点を探る作業を続けた。「もしかしたら、犯人もまた、律と同じように『見えている』のかもしれない」悠人は、そんな恐ろしい仮説を抱き始めていた。
彼らは、律のお気に入りの場所でも「訓練」を続けた。近所の公園の砂場、川沿いの小さな茂み、そして通い慣れた幼稚園の園庭。
「ねえ、律。この砂場が『星が降る場所』だとしたら、どんな音がする?」
悠人が尋ねると、律は砂を掴んで空に放り投げ、「キラキラって、光る音がするよ」と無邪気に答えた。悠人はその言葉を逃さず書き留めた。律の言葉は、まるで連想ゲームのように繋がっていく。彼が感じ取る音、色、匂い、そして感情が、言葉となって紡ぎ出されるのだ。それは、悠人が普段使っている「論理」とは全く異なる、五感全体に訴えかける表現の集合体だった。
悠人は、里中刑事にもこの「訓練」の様子を伝えた。最初は戸惑っていた里中刑事だが、事件解決のためならと、積極的に協力してくれた。彼女は、休日を返上して図書館に通い詰め、子供向けの心理学の本や、発達段階における言語獲得に関する専門書を読み始めたのだ。
「神崎さん、この本によれば、子供は抽象的な概念を、具体的な物に例えて理解しようとする傾向があるそうです。律くんの言葉も、もしかしたら…」
里中刑事は、悠人が聞き出した律の言葉のリストと、心理学の知識を照らし合わせながら、具体的な指示やサポートを出してくれた。例えば、「律くんが特定の言葉を使った時に、どんな仕草をするか観察してください」とか、「彼がどんな色に反応するか、絵本の色使いも見てみましょう」といった具体的な視点を提供してくれた。彼女の冷静な分析と、心理学の知識は、悠人の感覚的な試行錯誤に、確かな理論的裏付けを与えてくれた。
ある日、里中刑事は、律が遊んでいるブロックを見て、ふと呟いた。「律くんのブロック遊びって、いつも何かを『積み重ねて』いますよね。そして、時にそれを『壊して』、また新しいものを作る。これって、もしかしたら、彼の『遊び』のルールと、事件の詩と、何か関係があるんでしょうか?」
その言葉は、悠人の思考に「ガツン」と衝撃を与えた。律が「大人はすぐモノを壊す人のこと、悪者って言うけど、これ、もしかしたら、そうじゃないのかも」と呟いた言葉が、新たな意味を持って響く。破壊と創造。そして、律の「一番」への執着。
悠人と里中刑事、そして律。それぞれの立場から、互いに協力し、試行錯誤を繰り返しながら、事件の核心へと近づいていく。言葉の迷宮の奥で、真実が彼らを待っている。「サクサク」とペンが紙の上を滑る音だけが、静かな部屋に響いていた。
悠人、律、そして里中刑事の地道な試行錯誤は、少しずつ律の言葉の迷宮に光を当て始めていた。律の口から零れる断片的な言葉と、彼の絵本や遊びの中から見つけ出すヒントは、事件の様相を単なる殺人事件から、より深い意味を持つ「何か」へと変貌させていく。特に、「壊れたおもちゃ」と「詩の断片」は、犯人が何を目指しているのか、次に何をしようとしているのかを、不気味に示唆し始めていた。
久留米市内の造り酒屋の麹室で発見された「壊れた木の人形」。その無残な姿は、当初、松永刑事によって「単なる被害者の持ち物、あるいは犯人の精神状態を示すもの」として片付けられていた。しかし、律は違った。彼はその人形を前にして、「大人はすぐモノを壊す人のこと、悪者って言うけど、これ、もしかしたら、そうじゃないのかも」と呟いた。そして、律の言葉を解読しようと試行錯誤を繰り返す中で、悠人の脳裏に、元杜氏・田中が「酒造りの伝統が壊される」と嘆いていた言葉が重なった。
この「壊れたおもちゃ」は、単なる物ではない。それは、何か「壊されたもの」の象徴ではないか?
悠人の思考は、詩の断片「壊れたおもちゃが踊る時、真実は悲しみを呼ぶ」へと繋がる。おもちゃが踊る、つまり、その「壊されたもの」が表に出てきて、何らかのメッセージを発している。そしてそれが「悲しみを呼ぶ」と続く。これは、過去に起こった悲劇的な出来事を示唆しているのではないか。
久留米の古い地図を広げ、水路の役割、久留米絣の歴史といった地域性を学ぶ中で、悠人はこの街が持つ「過去の顔」に触れていく。繁栄の裏に隠された、忘れ去られた歴史の断層。その中に、この「壊れたおもちゃ」と「悲しみ」に繋がる、何かがあるのではないかという予感が「ジリジリ」と湧き上がってきた。
そして、犯人の目的は、単なる復讐ではないのではないか、と悠人は推測し始める。
詩の言葉は、まるで犯人からの挑戦状だ。「空の魚が夜に泳ぎ、星は砂になる」「古い時計が止まった時、真実は眠りについた」。これらは、常識では理解できない、何か隠された真実を示唆している。犯人は、ただ人を殺すだけではなく、その死をもって、何かを「暴こう」としているのではないか。
悠人の脳裏に、松永刑事が追っている久留米での未解決事件の影が「チラチラ」とよぎる。十年以上も前、松永が解決できなかったというその事件にも、「奇妙なメッセージ」が残されていたという。もし、今回の犯人が、その未解決事件と何らかの繋がりがあるとしたら? あるいは、その事件の「真実」が、今回の事件の動機になっているとしたら?
それは、久留米市で起きた、ある出来事――人々の記憶から忘れ去られた「真実」を暴くことではないか。
犯人は、律の「大人には絶対わからない遊び」に乗じて、その「真実」を、詩と壊れたおもちゃを通して語りかけようとしている。彼らは、その「真実」を「踊らせ」、そしてその結果として生まれる「悲しみ」をも覚悟している。次に彼らが何をしようとしているのか、その具体的な行動はまだ見えない。しかし、悠人は確信していた。犯人は、この「遊び」を続けることで、久留米の街に眠る、深くて暗い秘密を、白日の下に晒そうとしているのだ。
悠人の心臓が「ドクン、ドクン」と大きく鳴る。これは、個人間の復讐劇ではない。もっと巨大で、もっと深い、久留米という都市の根幹に関わる、壮大な「暴露」が始まろうとしている。詩の言葉が、彼の耳元で「ヒューヒュー」と風のように囁きかけてくる。
「壊れたおもちゃ」と「詩の断片」が示唆する「真実」の探求は、悠人を久留米の街の、もう一つの側面へと導いていた。それは、魔物によってではなく、大人社会の無関心や、過去の過ちの隠蔽によって、人々がどれほど深く苦しめられているか、その具体的な被害と、人々の心に深く根付いた諦めだった。
悠人と里中刑事は、元杜氏・田中を訪ねた後、水路沿いの古い商店街を歩いていた。かつては賑わっていたであろう店々はシャッターを下ろし、色褪せた看板だけが、過ぎ去りし日の栄光を物語っている。
「ここもね、昔は活気があったんですよ。でも、あの『久留米ダム建設問題』が起きてから、一気に寂れてしまって…」
里中刑事が、寂しそうにそう呟いた。彼女が指差す先には、かつて地元住民の生活を支えていた水路の一部が、コンクリートで覆われ、無骨な姿を晒している。数十年前に持ち上がった大規模なダム建設計画は、結局中止になったものの、その強引な用地買収と、住民を二分した対立は、街に深い傷跡を残したという。多くの住民が立ち退きを余儀なくされ、地域コミュニティは分断された。しかし、その「過ち」は、今や誰も語ろうとしない、人々の記憶から忘れ去られたかのような「真実」として、街の片隅に「澱」のように沈殿していた。
商店街の奥にある小さな喫茶店で休憩中、店主の老夫婦が「ハァ」と深い溜息をついた。
「昔はね、みんな助け合って生きていたんだよ。でも、あの頃からかい。何か問題が起きても、『お上』が決めたことだからって、みんな諦めちまって…。もう、どうにもならないよ」
老婦人の言葉は、まるで何十年もの諦めが凝縮されたかのように、重く「ドン」と響いた。彼らの瞳の奥には、抵抗する力すら失った、深い諦めの色が「ジワリ」と滲んでいた。これは、単なる経済的な被害ではない。人々の心の絆が「プツリ」と寸断され、互いへの信頼が失われたことによる、精神的な被害の深さを物語っていた。
そして、久留米の人々の日常には、機械の存在が深く入り込んでいた。商店街の軒先には、自動販売機がずらりと並び、古びた街並みとは不釣り合いなほどピカピカと光っている。人々は、手元で操作するスマートフォンを片手に、黙々と歩いている。
「ああ、もうスマホがないと、何にもできないよ」
そう呟いたのは、喫茶店で隣に座っていた中年男性だった。彼は、スマートフォンを操作しながら、複雑な顔でそう言った。彼のスマートフォンの画面には、久留米市が提供する「市民向けAIコンシェルジュ」のアプリが表示されている。公共料金の支払い、病院の予約、イベント情報。すべてが指先一つで完結する。それは確かに便利で、生活の効率を格段に上げていた。しかし、その便利さは、人々から「考えること」や「人と直接関わること」を奪っているようにも見えた。
「昔は、隣近所に声をかけて、色々な情報を得ていたもんだけどね。今は、何か困ったら、まずスマホに聞くんだから」
老夫婦の夫が、苦笑しながらそう付け加えた。彼らの言葉からは、便利さの裏側にある、人間関係の希薄化や、機械への依存性、そして時には操作が複雑すぎて使いこなせないという不便な側面も垣間見えた。人々は、問題が起きても、もはや行政や隣人ではなく、目の前の「機械」に頼るようになっていた。
この街に蔓延する「諦め」と「無関心」。それは、過去の過ちを隠蔽し、その傷跡から目を背けてきた結果ではないか。犯人が「壊れたおもちゃ」や「詩の断片」で暴こうとしている「真実」は、この街の過去に横たわる、隠された歴史の闇なのかもしれない。そして、その闇は、今もなお人々の心を蝕んでいる。
悠人は、水路の「チョロチョロ」という流れの音を聞きながら、久留米という街が持つ、もう一つの顔を深く見つめていた。それは、解決されるべき事件の背後に潜む、より巨大な「社会の矛盾」の影だった。真実が暴かれる時、この街は一体どうなるのだろうか。悠人の心に、重く、しかし確かな問いが「ズシン」と響いた。