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詩の始まりと子どもの嗤い

筑後川の、あの独特の匂いが好きだった。東京の喧騒から逃れるように久留米に戻ってきて二年。神崎悠人、三十歳。フリーライターとして、今日もパソコンのキーボードを叩きながら、時折窓の外に目をやる。午後の日差しが、部屋の隅に積み上げられた専門書や資料の山を白く縁取っていた。

午前中の仕事が一段落すると、悠人は決まって散歩に出た。向かうは、家からほど近い筑後川の河川敷。足元に広がる草葉が、朝露の残りを弾きながら、微かな土の匂いを漂わせる。それが、都会の排気ガスとは違う、久留米の柔らかな土壌が持つ「呼吸」のように感じられた。川面は穏やかに光を返し、風が吹けば「ざわっ」と葉ずれの音を立てる。川べりに立つと、遠くで「カコン、カコン」と釣りをする人の浮きが水面に触れる音や、渡り鳥の甲高い鳴き声が聞こえてくる。

西鉄久留米駅周辺は、いつだって活気に満ちていた。特に夕方になると、仕事帰りの人々や学生たちでごった返す。駅ビルから漏れる店内のBGMと、ホームに滑り込んでくる電車の「シュシューッ」というブレーキ音、そして乗り換え客たちのざわめきが混じり合い、久留米の街の心臓が脈打つようだった。悠人はよく、駅前のロータリーでタクシーを待つ列を眺めた。皆、スマホを片手に、今日一日の疲れと、明日への期待を顔に浮かべている。その一人ひとりの背後に、それぞれの物語があるのだろう、とライターの性で想像を巡らせる。

足は自然と六ツ門商店街へと向かう。アーケードの下は、時間帯を問わず独特の賑わいを見せていた。八百屋の威勢の良い「いらっしゃい!」という声に混じって、近所の喫茶店から漂う「ふわん」と甘いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。それはまるで、久留米の街が紡ぎ出す、過去と現在を繋ぐ微かな「記憶の糸」のようで、悠人の心にじんわりと染み渡る。昔ながらの呉服店と、おしゃれな雑貨屋が隣り合わせになり、新旧の文化が溶け合うこの商店街の雰囲気が、悠人には心地よかった。道行く人々の会話は久留米弁特有の抑揚があり、その響きが心地よいBGMとなる。

空を見上げると、夕暮れの空が日々異なるグラデーションを描いている。ある日は橙色から深紅への燃えるような色彩、またある日は藤色から藍色への静謐な移ろい。その雄大な美しさに、悠人はしばしば筆を止めて見入った。東京では見上げることすらなかった空が、久留米では日々のささやかな喜びとなっていた。 悠人の日常は、大きな事件も刺激もない、ささやかなものだった。だが、この街の空気、匂い、音、そして人々の温かさが、彼の心をゆっくりと癒やし、新たな物語を紡ぎ出すための糧となっていた。

夏の盛り、セミの声が降り注ぐようなある午後、悠人の実家に妹夫婦が律を連れてやってきた。玄関を開けた途端、「りっちゃん、ゆう兄ちゃんのこと大好きだもんね!」という妹の能天気な声が響く。 しかし、その後に続くのは、悠人の予想を遥かに超える、生意気な一言だった。

リビングに通された律は、ソファに座る悠人を一瞥するなり、小さな体をぴょん、と跳ねさせて、わざとらしくため息をついた。

「あーあ、ゆう兄ちゃんはいつもボーっとしてて、全然一番じゃないね」

律は、まるで大人を評価するような、あるいは嘲笑うような口調で言い放った。その言葉に、悠人はピクリと眉をひそめる。甥っ子の律が、こんなに生意気な口をきくようになったとは。二年前、東京から久留米に戻ってきた時には、まだたどたどしい言葉を話す幼子だったはずだ。

「おいおい、律。人の家に上がって早々、失礼なこと言うもんじゃないぞ」

悠人はそう諭したが、律は全く動じる様子を見せない。くるりと悠人に背を向け、部屋の隅に置かれた大きな書斎机に目を向けた。そこには、ウェブライターの仕事で使う参考書や資料、読みかけの小説などが、まるで小さな山脈のように「ガサッ」と音を立てるほど大量に積み上げられていた。

律は、その本の山をじっと見つめる。細い指が、無造作に置かれた分厚い専門書の一冊を「ツンツン」とつついて、紙の匂いを嗅ぐように鼻を近づけた。 悠人にはそれが、単なる好奇心からくる行動には見えなかった。まるで、大人の知識の集積を、品定めするような、ある種の挑戦的な視線だったのだ。その瞳の奥には、活字の羅列の向こう側にある、何か「特別なもの」を見透かすような、鋭い輝きが一瞬、宿ったように感じられた。それは、単に「一番」を誇るだけでなく、彼にしか見えない世界の「ことわり」を探しているかのようだった。

「大人って、こんなにいっぱい本を読まないと、一番になれないの? 僕なら、もっとすぐに一番になれるのに」

律は、振り返って悠人の方を見もせずに、独り言のように呟いた。その言葉には、一切の悪意がないように聞こえる。しかし、だからこそ悠人には、その純粋な自信と、同時に大人への決定的な「下に見る」態度が、鮮烈な印象として心に焼き付いた。この五歳の幼稚園児は、本気で自分が世界で一番賢く、一番優れていると信じているのだ。そして、大人たちは、そんな自分には到底及ばない「ちっぽけな存在」だと。

「まあ、いっか。大人はみんな、見たいものしか見ないから。見えないフリしてるだけだし」

律は、まるで全てを見通しているかのように、どこか冷めた声でそう付け加えた。その言葉は、悠人の心臓を「ヒュッ」と締め付けるような、ゾッとする響きを持っていた。果たしてこれは、子供の純粋な思い込みなのか、それとも、本当に何かを「見透かしている」からこその言葉なのか。

悠人は、その生意気な背中を見つめながら、これから始まる日常が、一筋縄ではいかないことを直感した。この「何でも一番」の幼稚園児が、果たしてどんな騒動を巻き起こすのか。彼の胸には、イラつきと同時に、奇妙な好奇心が芽生え始めていた。

その知らせは、いつも穏やかな久留米の午後を、一瞬にして凍てつかせた。

場所は、西鉄久留米駅からほど近い、かつて「グランド劇場」と呼ばれた廃墟。昭和の栄華を偲ばせる、打ち捨てられたその建物は、今や近隣住民からは「お化け劇場」と揶揄されるばかりだった。長年閉鎖され、地域開発の計画だけが宙に浮いたまま、ただ朽ちるに任されていたのだ。そんな場所で、思いもよらない事件が起きた。

通報が入ったのは午後三時過ぎ。発見者は劇場の取り壊しを検討していた建設会社の人間だった。久留米中央警察署の松永吾郎刑事と、里中美咲刑事が現場に急行した時、既に規制線が張られ、ブルーシートが痛々しく入り口を覆っていた。

「漂う微かなカビの匂い」が、湿った土の匂いと混じり合い、鼻腔を刺激する。長らく人の出入りがなかったことがわかる、ひんやりとした空気が肌を撫でた。踏み固められた土の地面には、古い木片や錆びた釘が散らばり、足を踏み入れるたびに「ミシミシ」と不気味な音が響く。

事件現場となったのは、劇場の舞台裏に位置する小さな楽屋だった。鉄製の重い扉が、外側から鎖で厳重に縛られ、南京錠で施錠されていたという。まさに

密室。 内部に侵入した松永たちの目に飛び込んできたのは、老朽化した鏡台に凭れかかるように倒れている男性の姿だった。

被害者は、久留米市内で名の知れた資産家であり、熱心な久留米絣コレクターとして美術界隈でも有名だった「村上むらかみ 泰造たいぞう」。 彼の首には、明確な索条痕が残されており、絞殺であることは一目で分かった。顔は苦悶に歪み、生気が失われている。

「くそっ、また厄介な事件だ……」松永刑事の低い唸り声が、静まり返った楽屋に響いた。

現場を仔細に観察する里中刑事は、ある異変に気づいた。天井から吊るされた、かつては豪華だったであろう、今では埃まみれの照明器具。それが、まるで誰かが意図的に動かしたかのように、

不自然な角度で配置されていたのだ。本来であれば、舞台を照らすためのものであろうに、楽屋の隅、被害者の真上あたりに集中して光が当たるように調整されている。その配置は、まるで「何か」を強調し、特定の視点からのみ真実が見えるように仕組まれた、舞台装置のようにも思えた。しかし、この奇妙な演出の意図を、警察の常識は捉えきれないだろう。

「松永さん、これ……」里中が指差す先を松永は睨みつけた。

「ああ、妙だな。まるで誰かが、ここで『何か』をしていたとでも言いたげな」

警察の初動捜査が始まった。鑑識班が部屋の隅々まで目を凝らし、指紋を採取し、微細な証拠を探す。だが、密室という状況と、この不自然な照明器具の配置は、捜査を混乱させるには十分だった。まるで、犯人が意図的に、この奇妙な演出を仕掛けたかのように。この廃墟劇場に染み付いた、過去の栄光と現在の寂寥が混じり合う独特の匂いと空気が、事件の異様さを一層際立たせていた。

事件現場となった楽屋での鑑識作業は、予想以上に難航していた。密室である上に、犯人が残したであろう痕跡が極めて少ない。松永刑事は、苛立ちを隠せない様子で鑑識員に指示を飛ばしていた。そんな中、里中刑事が被害者の遺体のすぐそばに、ひっそりと落ちているものを見つけた。

それは、くしゃくしゃに丸められていたが、広げると一枚の紙であることがわかった。紙には、まるで子供が初めて文字を習ったかのような、拙く、不安定な筆致で言葉が綴られていた。詩…と呼ぶにはあまりにも意味不明で、支離滅裂な内容だった。

「松永さん、これを見てください」

里中が差し出した紙を、松永は眉間に深い皺を寄せて受け取った。そこに書かれていたのは、脈絡のない言葉の羅列だった。

「空の魚が夜に泳ぎ、星は砂になる」

「古い時計が止まった時、真実は眠りについた」

松永は読み上げながら、首を傾げた。「なんだ、こりゃ。まるで幼稚園児の落書きだな」

里中も同意するように頷いた。「内容も、筆跡も、子供が書いたもののように見えます。でも、この密室で、なぜこんなものが…」

「おそらく、犯人の精神状態を示すものだろうな。あるいは、捜査を攪乱するための小細工か」松永は吐き捨てるように言った。彼の頭の中には、過去の経験からくる常識と、複雑な事件の捜査手順が渦巻いていた。犯人が残したメッセージなど、まともに取り合う価値もないと考えているようだった。

「ですが、もし、これが何かのメッセージだとしたら…」里中が食い下がろうとするのを、松永は手で制した。「バカを言え。こんな支離滅裂な言葉に、何か意味があるわけがない。時間を無駄にするだけだ。それよりも、密室の仕掛けと、村上泰造の交友関係を徹底的に洗え」

松永刑事は、詩そのものの解読には全く消極的だった。彼の目には、ただの「意味不明な落書き」としてしか映らない。しかし、その時、この「無意味な詩」が、後に彼らを深い迷宮へと誘い、大人たちの常識を打ち砕く鍵となるとは、二人とも知る由もなかった。現場には、相変わらず微かなカビの匂いが漂い、この廃墟の時間が止まっているかのように感じられた。

事件のニュースは、あっという間に久留米の街を駆け巡った。テレビの速報番組は、グランド劇場での密室殺人事件と、現場に残された奇妙な詩について、連日大きく報じていた。

悠人もリビングで、そのニュースを食い入るように見ていた。画面には、鑑識が撮影したであろう、あの意味不明な詩の画像が映し出されている。歪んだ筆跡で綴られた、「空の魚が夜に泳ぎ、星は砂になる」「古い時計が止まった時、真実は眠りについた」という言葉の羅列。悠人は、改めてその不可解さに首を傾げた。

その時だった。ソファの隅で静かにブロック遊びをしていた律が、突然、テレビ画面を指差して、「ニヤリ」と口の端を上げた。 その表情は、五歳児とは思えないほど大人びていて、まるで何かを確信しているかのようだった。

「あ、これ、あの時見たやつだ」律は、ブロックを床に「カラン」と落とす音も気にせず、テレビ画面に釘付けになっている。

悠人はハッとして律を見た。「律、お前、これを見たことがあるのか?」

律は、悠人の問いかけには答えず、画面の中の詩をじっと見つめていた。 そして、まるで大人たちの右往左往ぶりを愉しむかのように、嘲るような声で言い放った。

「大人はこれを見ても全然わからないんだね。本当に馬鹿だなぁ」

その言葉に、悠人は再びイラッとした。また始まった、この生意気な口調。しかし、その時、悠人は律の視線が、単に詩全体を見ているのではなく、画面に映し出された詩の特定の文字や、行の配置に集中していることに気づいた。まるで、そこにある何らかの「ルール」や「パターン」を読み解こうとしているかのように。彼の瞳の奥に、さっき書斎で見た時と同じ、大人には理解できない鋭い光が宿っているように見えた。

「ふうん。まぁ、いっか」律は、テレビ画面から目を離さないまま、肩をすくめた。「どうせ大人は、自分が見たいものしか見ないし、見えないものは最初から無かったことにするだけだもん。だから、いつまでたっても一番になれないんだよ。ね、ゆう兄ちゃん?」

律の最後の問いかけは、まるで刃物のように悠人の心臓を「ヒュッ」と締め付けた。その言葉は、子供の無邪気さの中に潜む、底知れない冷徹さと、大人たちの愚かさを嘲笑うような響きを持っていた。悠人は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。律の、幼いながらも全てを見透かしたかのような瞳が、自分自身の奥底にある、見て見ぬふりをしている「何か」を突き刺しているように感じられたのだ。

果たしてこれは、子供の純粋な思い込みなのか、それとも、本当に何かを「見透かしている」からこその言葉なのか。彼の胸に、得体の知れない予感が「ズン」と重くのしかかった。この「無意味な詩」が、律にとっては、大人たちには見えない「遊びのルール」なのかもしれないと、悠人は漠然と感じ始めていた。

律が絵から目を離した隙を見て、悠人は慎重に言葉を選んだ。先ほどの絵と詩の奇妙な符合。これが偶然でないのなら、律は事件の、そして詩の秘密を知っている可能性がある。

「律。お前、あの詩のこと、知ってるんだな?」悠人は、律の横にしゃがみ込み、目線を合わせた。

律は、悠人の問いかけに、ふん、と鼻を鳴らした。その小さな顔に、いつもの生意気な笑みが浮かぶ。

「知ってるよ。だって、これ、僕と犯人だけの

秘密の遊びだもん」

悠人の心臓が「ドクン」と鳴った。やはり、律は何かを知っている。だが、「秘密の遊び」という言葉に、悠人は困惑を隠せない。まるで、事件そのものが、律にとってのゲームであるかのように聞こえたからだ。

「遊び…だと? お前、あれがどんな状況で発見されたか、テレビで見たんだろう?」悠人は思わず声を荒げそうになったが、間一髪で抑え込んだ。この子供は、刺激すればすぐに心を閉ざすだろう。

律は、悠人の焦りを面白がるかのように、さらに挑発的な言葉を続けた。

「うん。でもね、大人はこの遊びのルールがわからないんだ。だから、僕は

教えてあげない」

律は、そう言い切ると、まるで口にチャックをするかのように、両手で唇をきゅっと押さえた。その瞳は、悠人の動揺を正確に捉え、さらに深く冷たい光を宿している。悠人は焦った。このままでは、せっかく掴みかけた手がかりが、五歳児の意地によって失われてしまう。

悠人は、一度大きく息を吸い込み、視線を律の目から外さずに、ゆっくりと言葉を選んだ。律が「一番」という言葉に異様なまでに執着していることを、悠人は知っている。そこに活路を見出すしかない。

「律が一番賢いってこと、証明してみないか?」

悠人の言葉に、律の瞳がピクリと反応した。その小さな体から、それまで張り詰めていた緊張が、微かに緩むのがわかった。律は、ゆっくりと口元から手を離し、悠人を品定めするかのようにじっと見つめた。その表情には、得意げな色と、僅かながらの躊躇いが混じり合っている。

「…どうやって?」律の問いかけは、明らかに悠人の挑発に乗ったものだった。悠人は、してやったりと内心でガッツポーズをした。

「俺は、お前の描いた絵を見て、あの詩の言葉を思い出した。でも、その絵と詩がどう繋がるのか、なぜ犯人があんなものを残したのか、それがまるでわからない。だけど、お前なら、その『遊びのルール』を、俺にも、警察にも、いや、世界中の誰にもわかるように説明できるんじゃないか?」

悠人は、あえて律の「一番」という自尊心をくすぐるように、言葉を続けた。律は、まるで自分の才能を披露する舞台を与えられたかのように、目を輝かせた。

「ふふん。そんなこと、簡単だよ。だって、大人はみんな、目と耳しか使わないもんね」

律は、得意げに胸を張り、言葉を漏らし始めた。彼の言葉は、やはり断片的で、比喩に満ちていた。

「あのね、空の魚はね、『泳ぐ場所』が違うんだよ。それから、星が砂になったのはね、『見方』を変えないと見えないの」

「時計はね、止まってるんじゃなくて、『動かないもの』なんだよ。それにね、真実は、眠ってるんじゃなくて…」

律は、そこで言葉を区切った。悠人は、律の言葉一つ一つを注意深く拾い上げていった。彼の言葉は、一見すると支離滅裂な子供の戯言に聞こえる。しかし、悠人はその言葉の裏に、「他の人とは違った視点」を感じ取っていた。それは、既存の枠にとらわれない、純粋な、あるいは常識を打ち破るような、新しい「見方」を示唆しているかのようだった。

「律…お前、本当に…」

悠人の胸に、再び得体の知れない予感が「ズン」と重くのしかかる。この五歳の子供が、大人には見えない世界を、本当に見ているのかもしれない。そして、その視点こそが、この密室殺人の真実を解き明かす、唯一の鍵となるのだと、悠人は確信し始めていた。

悠人の前に立つ律は、まるで小さな謎の宝庫だった。先ほど漏らした断片的な言葉の数々――「空の魚はね、『泳ぐ場所』が違うんだよ」「星が砂になったのはね、『見方』を変えないと見えないの」「時計はね、止まってるんじゃなくて、『動かないもの』なんだよ」――それらが、悠人の思考の中で「グワングワン」と渦を巻いていた。子供の戯言と片付けるには、あまりにも核心を突いているような気がしてならなかった。

悠人は、律の言葉の裏にある「他の人とは違った視点」を掴もうと、必死に思考の海を潜る。これは、物理的な戦闘とは違う、純粋な知性のぶつかり合い、心理的な「剣戟」だ。

「空の魚が『泳ぐ場所』が違う、とはどういうことだ? 普通、魚は空を泳がない。当たり前のことだろ」

悠人が言葉の剣を突き出すと、律はニヤリと笑った。悠人の問いは、彼にとって織り込み済みだったのだろう。律の目が「キラリ」と光る。

「だから大人は馬鹿なんだよ。見えないからって、無いものにするんでしょ? ゆう兄ちゃんもそうじゃん」

律の言葉の剣が、悠人の常識という鎧の隙間を「ヒュッ」と空を切る音を立てた。悠人の脳裏に、警察の松永刑事が詩を「幼稚園児の落書き」と一蹴した顔がよぎる。確かに、自分も最初はそう思っていた。

「見方を変える…とは?」悠人は、律の言葉の真意を探るべく、さらに踏み込んだ。

「星が砂になったのは、『見方』を変えないと見えない、と言ったな。どういう風に見れば、星が砂になるんだ?」

今度は律が、悠人の言葉の剣を受け止める番だ。律は、顎に手を当てて、考え込むような仕草をした。幼いながらも、その表情は真剣そのものだ。彼の思考の歯車が「カチリ」という感覚と共に、静かに噛み合う音が悠人には聞こえるようだった。

「それはね…」律は、ゆっくりと口を開き、悠人の目をまっすぐ見つめた。「例えば、夜に地面を見たら…星は見える?」

悠人は、ハッと息を呑んだ。夜に地面を見ても、星は見えない。星は空に、それも夜空にしか見えないものだ。律の言葉は、まるで常識を逆さまにするような問いかけだった。

「夜に地面を見る…」悠人は、律の言葉を反芻した。それは、物理的な「見方」の変化だけでなく、視点の転換、あるいは既存の概念を覆すような思考を要求している。彼の頭の中で、複雑な思考回路が「ビリビリ」と火花を散らし、新たな情報が繋がろうとしていた。

「時計はね、止まってるんじゃなくて、『動かないもの』なんだよ、と言ったな。動かない時計…それは、一体何を意味するんだ?」

悠人の最後の問いかけに、律は再びニヤリと笑った。

「それはね、ゆう兄ちゃんが、一番になったら教えてあげる」

律は、そう言い残すと、くるりと背を向けてブロック遊びに戻ってしまった。悠人の心臓は、まだ「ドクン、ドクン」と大きく鳴っている。律の言葉は、断片的でありながらも、確かな「光」を放っていた。それは、大人たちが常識という名の檻の中に閉じ込めていた真実を、解放するための鍵となるだろう。悠人は、律の背中を見つめながら、この「子供の遊び」のルールを解き明かすことが、事件の真相へと繋がる唯一の道だと確信した。この生意気な甥が、まさに「一番の探偵」なのだと。



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