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 警戒を強める霜天(そうてん)商会を他所(よそ)に、検問破りの荷馬車に火矢を撃ち込まれてから十日が過ぎても、(いん)(ねい)は何てことない平穏な日々が続いていた。


 ──荷の流れに不審な点はない。不審な人物が見つかる様子もない。


 己の執務室で書類に目を通していた(れん)は、その事実に目を(すが)めた。


 平和な日常は、本来ならば喜ぶべきことだ。だが今はその平穏が、どうにも胡散(うさん)(くさ)く思えて仕方がない。


 ──街中でも、南北の門でも、それらしき人物の目撃情報は上がってこない。だがあんなことをしといて、それで終わりってわけはないよな……


 荷馬車に火矢を撃ち込んだ女の目撃情報は、商会全体で共有されている。今は街の住人全員で見張っている状況に近い。


 それでもそれらしき女の姿を見たという情報はひとつも上がってきていない。ならば商会内で情報が共有されるよりも早く、(くだん)の女は姻寧から脱したとも考えられる。だがその線は薄いだろうというのが蓮の予想だった。


 ──あれは明確に霜天商会(うち)への宣戦布告だ。


 霜天商会の本拠地である姻寧で勝手をした挙句、街中で忘れ茉莉花(まつりか)を焚き上げた。霜天商会が忘れ茉莉花を何よりも嫌っているということは、広く知られた事実だ。これを宣戦布告と言わずして何と言えと言うのだろうか。


 ──街中に潜伏していると考えるならば、……手勢なり協力者なりがいるってことだ。


 こちらが把握できていない敵意が、この姻寧に潜んでいる。そして恐らく、その根はすでに深くこの街に入り込んでしまっている。


 その事実が分かっているのに対策の施しようがないということに、蓮の内心はサワサワと不快に波打っていた。


 さらに言えば、蓮が抱えている懸念はその一件だけではない。


 ──あの日から十日経ったってことは、(リー)ファを拾ってからも十日が過ぎたってことだ。


 だが(リー)(ファ)は蓮が把握している限り、禁断症状らしい禁断症状をまだ起こしていない。


 通常、重度の依存者ともなれば、忘れ茉莉花なしで三日以上を過ごすことはできない。体の端々に現れ始める禁断症状を素知らぬ顔でやり過ごすにしても、せいぜい五日が限界だろう。十日もそれらしき症状が出ないなど、どう考えてもありえるはずがない。


 考えられるとしたら、(リー)(ファ)が蓮に隠れて忘れ茉莉花を吸っているという線だが、この姻寧でそれは不可能に近いだろう。


 そもそも(リー)(ファ)は蓮の監視下に置かれている。(リー)(ファ)が蓮から離れたがらないこともあり、四六時中……それこそ寝る時でさえ、黒城にある蓮の私室、蓮の寝台で並んで眠っているのだ。


 蓮と別行動を取らせている時には、複数人の『(ヘイ)』が(リー)(ファ)の周囲を固めている。


 どう考えても(リー)(ファ)が忘れ茉莉花を吸うことなどできるはずがない。同時に、禁断症状が出ていれば見過ごすはずはないという確信が蓮にはあった。


 ──どうなってる?


 体の奥底で常に忘れ茉莉花が(くすぶ)っているかのような甘い香り。記憶の欠落。何よりあの反応からして、間違いなく(リー)(ファ)は重度の茉莉花依存者だ。


 だというのに、依存者を例外なく飲み込むはずである禁断症状だけが、(リー)(ファ)に現れようとしない。


 ──あの症状が現れないなら、そりゃあ現れない方がいいっちゃいいんだが。


 どれくらいの時期に症状が現れるか読めない、という点は懸念材料だ。


 ──予期せぬ場所で(リー)(ファ)に暴れられたら、こっちに大きな被害が出かねない。


 (リー)(ファ)は腕のある暗殺者だ。この十日間、『(ヘイ)』の仕事を手伝わせて確かめたが、こと荒事に関する実力で言えば(リー)(ファ)は蓮に並ぶ。


 姻寧で一番『暴』の腕が立つのは蓮だ。その蓮でさえ、常に確実に(リー)(ファ)をねじ伏せられるかと問われれば首を傾げるしかない。


 安全に、確実に、己も(リー)(ファ)も周囲も守るためには、禁断症状の(きざ)しが見え始めたら(リー)(ファ)をどこかに閉じ込めるのが一番手っ取り早い。游稔(ゆうじん)曰く、蓮が禁断症状に苦しんでいた時も同じように対処したという。同じ部屋に蓮が控えていれば、(リー)(ファ)の安全を確保しつつ世話をしてやることもできるはずだ。


 ──だが今の様子じゃあなぁ……


『一度正面切って()いてみるしかねぇか』と考えた、その瞬間だった。


 コンコンッという微かな音に、蓮は顔を上げた。


 今の音は、閉め切られた扉を外から叩かれた音だ。蓮の耳にさえ足音を拾わせない誰かさんは、蓮と別行動を取るようになってから『気配もなくいきなり姿を現すと蓮でさえひどく驚く』という学びと、それに対する気遣いを覚えたらしい。


「蓮、入ってもいい?」


 その証拠に、高くも低くもない、微かな(かす)れを帯びた声が、扉の向こうから蓮に呼びかけてきた。


「どうぞ」


 誰かの変装を警戒するまでもなく、蓮に気配を覚らせずにこの部屋の扉の前に立てる人間など(リー)(ファ)しかいない。


 蓮が気のない声で答えると、扉はすぐにスルリと開かれた。気だるく視線を投げれば、今日も白牡丹を思わせる装いの上に蓮の外衣を(かず)いた(リー)(ファ)が姿を現す。


「ただいま、蓮」


 蓮の姿を確かめた(リー)(ファ)は、ホッと肩の力を抜いたようだった。表情らしい表情のない顔に微かな安堵の色が広がるのを見た蓮は、妙なむず(がゆ)さに視線を手元の書類へ戻す。


「おう。どうだったよ? 巡回は」

鼓条(こじょう)さんが言うには、特に問題ないって」


 そんな蓮に構わず後ろ手で扉を閉めた(リー)(ファ)は、トタトタと蓮が座す卓の方へ歩み寄った。


 見た目は『トタトタ』という幼子のような動きなのに、耳が馬鹿になったのかと己を疑いたくなるほど(リー)(ファ)の周囲からは音が聞こえない。その違和感に、蓮はいまだに慣れることができずにいる。


「蓮、ここで何してるの?」


 そんな蓮の内心を察しているのかいないのか、(リー)(ファ)はごくごく自然体のまま蓮の前に立った。さらに蓮の手元に何枚も書類が広げられているのを見て取った(リー)(ファ)は、面喰らったかのように目を(しばたた)かせる。


「蓮、字、読めるの?」


 ──まぁ、『意外』って思われても仕方がねぇ風体で、仕方がねぇ業務内容だけども。


 字の読み書きは知識階級者の特権だ。藩烏(はんう)国内で見ても、読み書き計算が不自由なくできる人間は、商人を除けば上流階級者に限られている。庶民ともなれば、己の名前を判別できれば上出来といったところだろうか。蓮のように荒事を本領とする人間には特に無縁なものだ。


 だがこの姻寧では……こと霜天商会に限っては、その限りではない。


「まぁな」


 一度気のない声を上げた蓮は、手元の書類をさりげなく伏せてからさらに言葉を続けた。


霜天商会(うち)の連中は、忘れ茉莉花の影響で、記憶に難のある人間が多い。書いて残しておけば、そんな人間同士でも揉めずに仕事を回していける。だから何でも書いて残しておく風潮があるんだ」


 忘れ茉莉花による後遺症で最も有名なのが記憶の欠落だが、それ以外にも忘れ茉莉花は記憶力の低下や健忘といった症状をもたらす場合も多い。忘れ茉莉花が奪っていくのは過去の記憶だけではないということだ。さらに言えば、現状、そういった症状に対する有効的な治療法は確立されていない。


 そんな状態の人間でも問題なく仕事を回していけるように、霜天商会では直接商売に関わる『(バイ)』の人間はもちろんのこと、表の商売に関わる機会が少ない『(ヘイ)』や『(ホン)』の末端の人間にまで読み書きを教え、日々あったことを書き記して残すようにと指示している。


 最悪『記憶』を失っても『記録』を残すことができていれば、仕事への損失は最小限で済む。一人で業務を抱え込むのではなく、ひとつの業務に複数人の担当をつけるようにしているのも『記憶を共有させる』『不正を防ぐ』という対策の一環だ。


 ──ま、それ以外の面から見ても、読み書きは覚えといて損はないしな。


 読み書きは学びの(いしずえ)だ。学びたい気持ちがあり、素質があったとしても、基礎の基礎が何もなければ眠っている素質を開花させる(すべ)はない。


 逆に基礎基本的なことさえ理解できていれば、己で学びたいことを学ぶ自由が得られる。己の熱意を、才を、己で育てることができる。


 読み書き計算はその『学びたいこと』に手を伸ばすために、商会側が最初に与える『武器』だ。その武器をいかに研ぐかは個人の裁量に(ゆだ)ねられるが、最初だけは上に着いた人間が当人が嫌がっても無理やり読み書きを叩き込むことになっている。


 ──この『無理やり』ってのが、案外重要なんだよな。


 霜天商会に拾われた人間は皆、地獄から生き延びた者ばかりだ。地獄をやり過ごすのに必死で、最初は己が新たに置かれた環境にまで目を向けていられる余裕はない。


 命を永らえられた奇跡と、真っ当に生きることができる居場所。さらにそこに生き直すための武器を与えられ、それを存分に研げる環境が用意されている。


 その価値を理解できるようになるまで、無理やりにでもその場所に縛り付けておく強制力は案外必要なものではないかと、蓮は己の来し方を振り返ってはしみじみと実感している。


「俺の時は梅煙(ばいえん)さん……『(バイ)』の(ダー)(レン)が教師役を引き受けてくれたんだが」


 つらつらと商会に拾われた頃のことを思い返しながら言葉を口にしていた蓮は、ふと口をつぐむと(リー)(ファ)を見上げた。対する(リー)(ファ)はパチクリと目を(しばたた)かせている。


 そんな(リー)(ファ)の様子を確かめながら、蓮はふとした思いつきをそのまま口にした。


「多少頼りなくてもいいなら、お前には俺が教えようか?」

「え?」

「あんまり他人と近すぎる距離に置かれると、お前、緊張して疲れるだろ?」


 検問破りの馬車を制圧した一件で実力を示して以降、(リー)(ファ)は蓮が予想していたよりもすんなりと『(ヘイ)』の人間に馴染んでいった。


 だが『(ヘイ)』の連中がすでに(リー)(ファ)を気の置けない仲間と認識しているのに対し、(リー)(ファ)の方にはまだ強張りが見て取れる。恐らく警戒心があるわけではなく、複数人での行動に慣れていないのだろう。蓮にも経験があるから、その辺りのことは何となく分かる。


「読み書きを教えるとなると、どうしても互いに懐に入る距離で接することになる。暗殺者として生きてきたお前に、その距離感はまだしんどいだろ」


 本来ならば教師役には『(バイ)』の人間が選ばれる。特に『(ヘイ)』の人間は『読み書きができる』と言っても必要最低限にしかできていない人間が多いせいで『(バイ)』の人間の手を煩わせることが多い。


 ──まぁ、俺の時は、游稔が()()霜天商会を立てたばっかで、教師役ができるほど学がある人間が限られてたからって理由だったんだが。


「俺が相手なら、そこまでお前も緊張することはないだろ? 何せ毎晩同じ寝台で寝てるくらいだし」

「そっ……そう、だけど……」


 蓮がさらにつらつらと言葉を続けると、(リー)(ファ)は言葉を詰まらせながら蓮に答えた。いつになく動揺を露わにした声に改めて(リー)(ファ)を見れば、(リー)(ファ)はいまだに忙しなく目を瞬かせている。


「どうした? 指摘されてそこまで驚くようなことか?」


 常に表情が薄い(リー)(ファ)が思わぬところで見せた感情に、蓮も思わず目を瞬かせる。


 ──何だ? まさか俺に対して無防備なのを自覚してなかったのか?


「や、そこ、じゃ、なくて」


 蓮の表情に視線を泳がせた(リー)(ファ)は、最終的に視線を己の足先に落とした。細い指が頭から被いた蓮の外衣をキュッとすがるように握りしめる。


「僕も、覚えて、いいの?」

「え?」

「字。……僕も、覚えて、いいの?」


 そっと、囁くように言葉を落とした(リー)(ファ)は、おずおずと蓮へ視線を向けた。そんな(リー)(ファ)の様子に、蓮は思わず首を傾げる。


「いいから言ってるんだろ?」

「で、でも」


 (リー)(ファ)が何を気にしているのか分からない蓮は、(リー)(ファ)のはっきりしない物言いに思いっきり顔をしかめた。そんな蓮を前にしてもまだ納得がいかないのか、(リー)(ファ)は戸惑いの中に焦りまで混ぜながら声を上げる。


 だが(リー)(ファ)が戸惑いの内容を言葉にするよりも、この部屋に続く廊下を歩く誰かの足音が耳に届く方がわずかに早い。


 ──この足音は……


 聞き覚えのある足音に、蓮はとっさに廊下へ続く扉の方へ視線を流す。(リー)(ファ)も蓮と同様に足音を聞き取ったのか、ハッと我に返ると先程とは別の焦りを顔に広げた。


「蓮、鼓条さんが呼んでる。僕、『(ダー)(レン)を呼んできて』ってお願いされて、ここに来た」

「鼓条が?」


 一瞬『何かあったのか?』と警戒心が頭をもたげたが、この後の予定を思い出した瞬間、その警戒心は霧散する。


 ちょうどその瞬間を(はか)ったかのように、コンコンッという軽やかな音が廊下へ続く扉から響いた。


「蓮(ダー)(レン)(リー)(ファ)(シャオ)(ジュ)、失礼します!」


 華やかな声が名前を呼んだ瞬間、扉は無遠慮に開かれていた。その向こうから顔を出したのは、先日蓮が頼んだ『洗濯』を捌いてくれた(きん)(えい)だ。


「選抜会の準備が整ったとのことで、『(ヘイ)』の皆さんがお二人のことをお待ちです! ちなみに『(ホン)』のみんなもお待ちです!」


 クリッと丸い瞳を愛嬌たっぷりに(またた)かせながら(のたま)う金櫻に対し、蓮は隠すことなく呆れの溜め息を吐き出す。


「選抜会は見せモンじゃねぇんだが」

「今更じゃないですかぁ、蓮(ダー)(レン)! 『(ヘイ)』の皆さんのカッコイイところ、ここぞとばかりに見せつけちゃってくださいよぉ!」


 だが金櫻がその程度で怯むはずがない。キョルンッと愛嬌を振りまきながら、金櫻は黄色い声を上げ続ける。


 そんな金櫻のはしゃいだ声を遮ったのは、(リー)(ファ)の落ち着いた囁きだった。


「選抜会?」


 疑問が溶け込んだ呟きに視線を向ければ、(リー)(ファ)は問うように蓮を見つめている。


 そんな(リー)(ファ)と一度視線を絡めてから、蓮は椅子を引いて立ち上がった。


「行くぞ、(リー)(ファ)

「え?」

「呼んでこいってことは、俺を連れてお前も一緒に来いってことだろ」


 目を通していた書類を簡単に纏め、鍵がかかる引き出しにしまった蓮は、立ち尽くす(リー)(ファ)を追い抜くようにして扉へ歩を進めていく。そんな蓮へ道を開けるかのように、扉を押さえたままの金櫻が体を捌いた。


「僕、も」


 対する(リー)(ファ)は、蓮が扉をくぐりかけても立ち尽くしたままだった。『何してんだ』という内心を存分に込めて振り返れば、(リー)(ファ)は迷子になった子供のような顔を蓮に向けている。


「僕も、着いていって、いいの?」


 ──何か、さっきと同じようなこと言ってんな、こいつ。


 (リー)(ファ)が何に戸惑っているのか、蓮にはいまいち掴めない。


 だが、問いに対する答えは決まっている。


「いいも悪いも、俺が『来い』って呼んでんだろ」


 その答えを躊躇(ためら)うことなく告げれば、(リー)(ファ)は子供のように目を丸くした。瞳に入り込む光が増えたせいなのか、(リー)(ファ)の深い漆黒の瞳の中に星が瞬いたかのような光が散る。


 その様に、なぜか酷く視線を奪われたような気がした。


「……うん」


 蓮が思わず見入る先で、(リー)(ファ)ははにかむように笑った。被いた外衣に添えられた指先が、今度は(たわむ)れるようにそっと外衣を握りしめる。


「今、行くね」


 そんな何気ない仕草に己の心臓が跳ねたことを、蓮は無理やり(リー)(ファ)から視線を逸らすことで誤魔化した。


 誤魔化せるはずなどないとどこかで感じながらも、そうしなければならないのだと、なぜか強く思った。


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