参
ヒューイッ、ヒューイッ、と宵闇の中に独特の節をつけた笛の音が響いていた。
この姻寧では火事の時には鐘が、警戒時は銅鑼が、そしてそれらの危難が去ったことを知らせる時には笛が鳴らされる。
この笛は荷馬車が完全に燃え落ち、忘れ茉莉花の成分を含んだ煙が完全に薄れたことを確かめに出た蓮の配下達が鳴らしているものだ。
「運び屋達は、何か吐いたか?」
その音を、蓮は游稔の執務室で聞いていた。
本来ならば、蓮も現場で指揮を執るべきなのだろうが、気を利かせてくれた部下達が蓮を游稔の元に送り出してくれた。配下達からしてみれば、今回のことはそれだけ大事だったということだろう。
麗華も、今は傍にいない。配下の中でも腕が立つ人間の元に預けてある。麗華は蓮と引き離されることに不安を顔に出していたが、『なるべく現場に戦力を温存したい』という説得に渋々納得して蓮の傍を離れてくれた。
──運び屋達は全員捕獲できたが、火矢を撃ち込んできた人間は取り逃がしてる。
游稔と内密に話をしたかったというのも事実だが、腕が立つときちんと実証された麗華を現場に残しておきたかったというのも事実だ。
今、この姻寧の闇の中には、『敵』が紛れ込んでいる。警戒は強めておくに越したことはない。
「引っ立てられてきた五人は、芙蓉が直々に尋問をしてる。洗いざらい吐くだろうね」
閉め切られていた窓を開け、外にはめられていた戸板を外しながら、游稔は淡々と蓮の問いに答えた。
「途中経過を木蘭が報告してくれた。あの運び屋達は、自分達の仲間はあの五人だけで、他に仲間は同行していないと言っているそうだ」
「荷については」
「確かに、忘れ茉莉花は積んでいたそうだ。だが油も爆薬も積んでいたとは知らなかったと言っているらしいよ」
ただ『李煌のお貴族様からの特注の荷』という代物が載せられており、その中身については知らされていなかったという話を吐いているらしい。
荷の蓋を開けなくても各所の検問を通過できるよう、その特注の荷は二重底になった箱の底に隠されていたのだという。だから運び屋達も、その荷の中身を見ることはなかった、と証言しているらしい。
「忘れ茉莉花の存在は知っていたくせに、特注品の中身は知らなかった?」
「まぁ、ガセなのかガセじゃないのかは、じっくり芙蓉が調べてくれるさ」
『紅』の幇主である芙蓉は、飾り立てなくてもそこにあるだけで男の肉欲を掻き立てるような、まさに『霜天商会の女の筆頭』とも評すべき独特な色香と美貌が人目を引く存在だ。
『芙蓉幇主が客を取らないのは、一夜をともにすれば相手の魂を吸い取りかねないからだ』とか『あまりの美しさに会長が表に出したがらないらしい』とか、その類の噂は枚挙にいとまがない。
だが芙蓉の本領は、決してその美貌にはない。
芙蓉が本領を発揮するのは尋問だ。
今まで芙蓉の前に引き出されて口を割らなかった者はいない。口を閉ざしたまま地獄に逃げ切った者もいない。あの程度の小悪党ならば、そこまで時をかけずとも全てを吐くだろう。
「……俺の配下の中に、火矢を撃った人間の姿を目撃していたやつがいた」
もたらされた情報と、自身が持っている情報を照合しながら、蓮はゆっくりと唇を開く。
「詳しい容貌は、衣を頭から被いていたから分からないらしい。追いかけようとしたが、人垣の向こうに逃げ切られたとも。ただ」
カタリ、カタリと戸板が外されていくごとに、開かれた窓からは月光が差し込み始める。
少しずつ部屋の中が青白い光に満たされていくのを眺めながら、蓮はそっと言葉の続きを口にした。
「女であった、という話だ」
「……へぇ」
どこか面白がる口調で呟いた游稔は、蓮を振り返るとニヤリと笑った。
色が入れられた眼鏡を外し、煙管を手にしていない游稔は、それだけで普段の游稔と雰囲気が異なる。どちらかと言えば、今の游稔の方が『暴』を匂わせる仄暗さを引き連れているような気がした。
「それは何だか、奇遇だねぇ?」
「奇遇?」
「君が金櫻に預けた花嫁装束の解析の速報と、未月に派遣していた『紅』からの報告も上がってきていてね」
戸板を外し終わった游稔は、卓に腰を預けるように立つとコンコン、と卓を叩いた。明るくなった視界の先を見やれば、卓の上には数枚の書類が散らばっている。
「麗華が纏っていた花嫁装束は、少なくとも五人以上の返り血を浴びていると解析できたそうだ。さらに刺繍の意匠から、麗華の所属先にとある大物組織が浮上した」
廊下へ続く扉に背中を預けるようにして立つ蓮へ、游稔は真っ直ぐに視線を向けた。月光と細い燈明だけが光源になっている中でも、その瞳の奥底が酷く凍て付いているのが、蓮には分かる。
「あのいかにも手が込んでそうな金糸の刺繍ね。あれ、全部唐草紅花紋だったらしいよ」
「唐草紅花紋、って……」
唐草模様の先を紅花に置き換えた図柄が『唐草紅花紋』だ。
藩烏の黒社会では『双狼黒蓮』と言えば『姻寧の霜天商会』と通じるように、『唐草紅花』と言えばとある組織の名が上がる。
「珊譚の、紅華娘娘」
「そう。『忘れ茉莉花』の製造・販売・流通の総元締めなんじゃないかって目されている、あの紅華娘娘だ」
北の繁都である珊譚の裏社会を牛耳る一大黒幇。主なシノギは麻薬密売。真っ当な『商会』という一面を持つ霜天商会に対し、紅華娘娘の商いは麻薬密売、人身売買に奴隷調教、殺し屋稼業と完全に非合法なものばかりだ。
──『娘娘』っていう名前の通り、頭は女だって噂だよな。
「『花轎游行』と思わしき一団の装束と、彼らとともに見つかった花轎、さらにその花轎に積まれていた棺桶、割れていた香炉、全てに唐草紅花紋の意匠が施されていたそうだ。で、その香炉なんだけども」
思考を巡らせる蓮に視線を据えたまま、游稔はスッと顔から表情をかき消した。
「どうやら、棺桶の中に設置して使うためのものだったらしい」
「棺桶の中?」
「棺桶は棺桶じゃなくて、移動式の簡易香窟として利用されていたんじゃないかっていうのが、未月に派遣した『紅』の鑑定結果だね」
「……っ!?」
その言葉に、蓮の背筋にゾッと悪寒が走った。
人を閉じ込め、密閉できる空間。忘れ茉莉花を焚き続ける道具。現場に残された大量の忘れ茉莉花。
血塗れの花嫁装束に身を包んでいた、凄腕の暗殺者。忘れ茉莉花の香りを強烈に漂わせていた、少女と見紛う美貌の少年。
常々、疑問だった。
暗殺者は、人目につかない姿で行動した方が仕事の成功率は上がる。だというのに『新娘』と呼ばれる暗殺者は、なぜわざわざそんな一目で『新娘』だと見抜かれるような派手な装束に身を包み、集団で行動するのかと。
──まさか、『花轎游行』ってのは……
暗殺者の集団、なのではなく。
麻薬漬けにした一人の暗殺者を……殺しの道具として仕込んだたった一人を、仕事現場まで運搬していた、ただの運び屋だったのではないだろうか。決して逃走も反抗もしないように、常に煙で包んで持ち運ぶことこそが、彼らの仕事だったのではないだろうか。
「ねぇ、蓮」
確たる証拠など何もない。ただ、そう考えれば全てが綺麗に収まる。
そんな考えに背筋を凍り付かせる蓮の視線の先で、游稔は感情が褪せた声を上げていた。
「火矢を撃ち込んだ人間ってさ、証拠隠滅が目的だったと思う?」
ハッと意識を游稔に引き戻す。
その瞬間、游稔は酷薄な笑みを顔中に広げた。
「それとも、姻寧の街中で、忘れ茉莉花を焚き上げることが目的だったと思う?」
「……っ」
「どうやら先方は、霜天商会との戦争を御所望らしい」
問いかけていながら、游稔は蓮から答えを求めてはいないようだった。
冷え切った言葉に息を詰める蓮に、游稔は畳み掛けるように言葉を続ける。
「覚悟しといてね、蓮」
その『覚悟』が、いくつもの対象に向けてへの『覚悟』であるということは、一々説明されなくても分かる。それだけの付き合いが、蓮と游稔の間にはある。
だからこそ蓮は、游稔を強く見据え返すと短く答えた。
「今更だな」
その、虚勢とも取れそうな短い返答に。
游稔は一瞬だけ、酷く満足そうな笑みを浮かべた。