弐
諍いは黒城から北陰門側に一里も行かない場所で起きていた。姻寧の中心部でありながら普段よりも周囲に人気がないのは、黒城に詰める商会関係者がきっちり避難誘導をしてくれたからだろう。
──避難完了。窓と扉も閉まってる。
自分が乗り込んでいっても問題ない状況が整っていることを確認した蓮は、心もち歩調を落とすと早足に諍いの中心部へ歩を進めた。ここまで蓮を先導してきた祥逎は蓮の歩調の変化を敏感に察して先を譲り、麗華は変わることなく蓮の斜め後ろに続く。
「テメェら、そもそも何の権限があって俺らの荷物にケチつけるってんだっ!!」
「だから言ってんだろっ! 姻寧じゃ門を通る前に不審な荷物を積んでねぇか逐一確認してるってっ!」
「今までお前らは姻寧を通ったことがねぇっつうのかよっ!?」
「ちゃんと見せただろうがっ!!」
「イチャモンつけやがって! どうせ俺らの荷をぶん取るつもりなんだろっ!? そうはさせねぇからなっ!!」
喧騒の中心では、二頭の馬に引かれた荷馬車が一台止まっていた。かなり大きな馬車で、荷台には幌がかけられている。
その周囲を包囲するようにガタイのいい男達が人垣を作り上げていた。蓮の部下にあたる商会の『黒』に属する人間達だ。祥逎の説明通り、街中の巡回にあたっていたメンツがここに集まっているらしい。
──確かにこの大きさの荷馬車に強行突破をかけられたら、止めるのもひと苦労だな。
『むしろよく止めた』と、蓮はひとまず内心で配下達を労う。
「羅紋」
ひとしきり状況を確認した蓮は、人垣の一番外側にいた男に向かって声を投げた。蓮に呼びかけられた男は、ハッと振り返ると蓮の元へ駆け寄ってくる。
「幇主!」
「状況は」
「へい。相手は珊譚からの荷を運んでいる運び屋だと名乗ってます。荷は複数。検査に協力していくつかの荷物の蓋は開けましたが、禅讓さんが一番奥にあった荷物が気になるから開けろと迫った瞬間、禅讓さんを振り落として無理やり門を突破したと」
「なぜ気になった」
「茉莉花の臭いがしたらしいっす」
「ご苦労」
手短に必要な情報だけを伝えてくれた部下を労い、蓮は人垣の中へと踏み込んだ。
「双方、一旦そこまで」
同時に、声を張る。
蓮が腹の底から声を出すと、怒鳴ったわけでもないのにパンッと声が響いた。力みが一切ないにも関わらずどこまでも凜と響く声に、人垣を作り出していた部下達のみならず、荷馬車からがなり声を上げていた運び屋達までもが口をつぐむ。
「幇主!」
「幇主が来てくれたぞ……!」
その後に広がったのは、熱をはらんだ囁き声だった。その声を引き連れるように蓮が足を進めれば、蓮の行く先に立っていた人間は自然と後ろへ下がって蓮に道を譲る。
「随分と派手にやってるじゃねぇか」
己の前に開かれた道を進んだ蓮は、荷馬車と五歩の間合いを残して足を止めた。そのままゆったりと腕を組んで荷馬車の御者台に立つ二人の運び屋を見上げれば、それだけで運び屋達はウッと息を詰まらせる。
だが運び屋という仕事は、往々にして黒社会との縁が深い。霜天商会を相手にここまで強気に出られた辺りからして、彼らも黒社会に片足を突っ込んでいるのだろう。
そんな蓮の予想を肯定するかのように、運び屋達は再び威勢よく口を開いた。
「おうおう、テメェが世に聞く『霜天の黒狼』かよ」
「テメェが出てきたくらいでこっちが怖気付くと思うなよっ!」
──そういう台詞を口にしてる時点で、十分テメェらは怖気付いちまってんだよ。
運び屋達の言葉に内心だけで答えた蓮は、ヒラリと片手を上げると殺気を醸す部下達を制した。『俺達の大兄になんて口を叩きやがる!』と気色ばんだ人垣は、蓮の言葉なき挙動ひとつで前のめりになっていた体を引き戻す。
「悪いが、この姻寧じゃ北陰門と南陽門、それぞれで荷を点検させてもらうのが決まりでな。門を通る全員に、例外なく従ってもらっている」
荒くれ男達を片手で制する様に圧倒されたのか。あるいは挑発に乗らず、あくまで淡々と言葉を紡ぐ蓮から格の違いを感じたのか。
運び屋達は蓮の言葉にグッと喉を詰まらせたようだった。ギリギリと奥歯を噛みしめる音が、男達の表情を見ただけで聞こえてくるような気がする。
「後ろめたいことがないなら、素直に従うことを勧める。……あんまり強く拒まれると、こっちも本腰入れて疑わなきゃならねぇからな」
真っ当な商いをしている商人に対し霜天商会が真摯な対応を取ることは、藩烏国内のみならず、近隣諸国まで広く知られた事実だ。禁軍に匹敵する武力と統率力を持つ霜天商会は、商売の守護者として同業者からも頼りにされている。
同時に『霜天商会の流儀に逆らえば命はない』というのも、世では広く知られた言葉だった。特に商会が本拠地を置く姻寧では、商会の流儀が『法』となる。姻寧で楽しく過ごしたいならば、商会が定めた規則に従わなければならない。
「この姻寧を下手な荷物が通過すれば、商会の信用に関わる」
その権威を執行する第一人者として、蓮はひたと運び屋達を見据えたまま静かに言い切った。
「疑わしい荷は全て調べる。これが商会の流儀だ。嫌疑が嫌疑ですめば、荷の安全は保証する」
商会関係者が身分をかさに着て理不尽を振りかざすことを、游稔は強く禁じている。
商会が姻寧を通過する人々に課している法も、商会の信頼と姻寧の安全を守るための最低限かつ最小限のものだ。不当に金や荷を巻き上げるような所業を、游稔も蓮も配下に許してはいない。
姻寧最大の権力者である霜天商会が真っ当に街と民を守っているからこそ、姻寧と商会はここまで発展してきた。姻寧の民も、商会と取引を持つ商人も、そのことをよくよく知っている。
だからこそ、その最低限の法にあえて噛みつこうとする人間は、大概が碌でもないことを考えている輩だ。
──例えば、姻寧よりも南で流通させるべく『忘れ茉莉花』の密輸を試みる売人とか……な。
「こちらの事情は説明した。今からでも大人しく従うならば、こちらも穏便に対応する心づもりはある」
逆に言えば『これ以上突っぱねるならば、ここから先は言葉ではなく武力での会話になる』という最終通告だ。
──とはいえ、ここまでのことをしでかした人間が、今更大人しく投降してくるなんてことはねぇわな。
蓮としてもここで絶対に説得したいというわけではない。あくまで『事前に説得を試みた』という事実が欲しいだけの勧告だ。武力行使をするために一定の手続きを踏んでいると言ってもいい。少なくとも蓮は最初から武力行使を前提としてこの問答をしている。
──……幌の中にも何人かいるな。……三人、か?
一行は全員で五人。蓮が動けば制圧はたやすいだろう。
そこまでは把握ができた。あとは禅讓が目をつけたという荷物がどれであるのかを知りたい。禅讓が言う通りに彼らの荷物の中から『忘れ茉莉花』が見つかれば、余計な段階をすっ飛ばして運び屋一行をしょっ引くことができる。
「……臭う」
『さて、どうやって仕掛けようか』と蓮は視線を逸らさないまま考えを巡らせる。
そんな蓮の耳にポツリと小さな声が届いた。傍らに控えた麗華の声だ。
「分かるのか?」
蓮が運び屋達から視線を逸らさないまま囁くと、麗華は無言のままコクリと頷いた。蓮の鼻では今のところ何も感じ取れないが、麗華にはどうやら禅讓が嗅ぎ分けたという『忘れ茉莉花』のにおいが把握できているらしい。
「……荷馬車の中に入れれば、どの荷物か見つけられるか?」
重ねて問いかけると、麗華はさらに頷く。
ひたと荷馬車を見つめた麗華は、変わることなく静かだった。ごくごく自然体で周囲の空気に溶け込むようにして立つ麗華からは、見栄も緊張も感じ取れない。
──お手並み拝見と行かせてもらうか。
「殺すな。荷物を見つけたら教えろ」
「了解」
短い指示だけを与えて、合図は出さなかった。
だが麗華は蓮が前へ踏み出すと同時に、蓮の姿を隠れ蓑にするかのように音もなく荷馬車へ突撃していく。
「なっ……」
「何を……っ!?」
蓮の奇襲に御者台にいた二人は反応しきれていなかった。
鋭く踏み込んだ勢いを利用してフワリと蓮が御者台に飛び乗った瞬間、ようやく蓮の動きに気付いた二人が悲鳴を上げる。そんな二人の手首をそれぞれ取った蓮は、突撃の勢いと己の体重、地面と御者台の高低差を利用して二人の体をまとめて下へ投げ飛ばした。
同時に機を窺っていた配下に指示を飛ばす。
「馬を外せっ!!」
「へいっ!!」
蓮の指示を待っていた男達は、素早く轅に飛びつくと軛を解いて馬を回収していった。蓮が乗っ取った御者台の上から周囲を確認した時には、男達数人で二頭の馬が荷馬車から引き離されている。
同時に、荷馬車の幌の中からも鈍い音が響いていた。
「ギャッ!!」
「なっ……ななっ……!?」
「グゥッ!?」
鈍い打撃音とともに三人分の悲鳴が響くのを聞いた蓮は、御者台から飛び降りると荷馬車の後ろへ回り込む。
周囲をグルリと『黒』に囲まれた荷馬車は、後ろ側にも人垣が形成されていた。その中に三人の男が叩き出されている。どうやら麗華の手によって潜んでいた荷馬車の幌の内から叩き出されたらしい。
瞬殺という言葉にふさわしい制圧劇に圧倒されているのか、人垣を作り出している男達までもがポカンと幌の内を見つめていた。
──おいおい、何マヌケ面さらしてやがる。
『敵が叩き出されてきたなら、さっさとふん縛れ』と蓮は思わず顔をしかめる。
だがその不機嫌は、人垣の中から漏れ出てきた声を聞いた瞬間霧散した。
「幇主……」
「幇主と同じ動きだ……」
「え? じゃああの美少女、幇主の弟子?」
──俺と、同じ動き?
蓮も確かに本質は暗殺者だ。記憶は全て失ってしまった蓮だが、体に叩き込まれた技術と知識と呼ばれるものは残された。だから游稔に拾われた時から、蓮は商会の武力を行使する者として働いている。
蓮の動きと知識の偏りから、『暗殺者として仕込まれたのだろう』と判断したのは游稔だ。同時に游稔は『戦闘時の癖は仕込み手の癖を引き継ぎやすい。似たような動きをする人間を見つけられれば、君を仕込んだ人間、引いては君が元々属していた組織が分かるかもしれない』とも言っていた。
──まさか、麗華が?
蓮が游稔に拾われてすでに十年の時が過ぎた。だが今まで蓮や游稔が『蓮に近い』と思えるような戦い方をしている人間には出会ったことがない。結果、依然として『蓮』の起源は白紙のままになっている。
そんな蓮と麗華が、同じ動きで敵を制圧したと、部下達は認識しているらしい。
『黒』に属する人間は皆、日頃から荒事の中に身を置いている。蓮が武力を行使する姿も何回も見てきた仲間だ。素人ならばまだしも、彼らがよく見知った蓮の動きと他人をそう簡単に重ね合わせるはずがない。
──麗華は珊譚から来たって言ってた。
蓮が忘れ茉莉花漬けにされた時に置かれていた場所も、姻寧よりも北の地域であっただろうと予測されている。それが珊譚であっても矛盾はない。
思わぬ瞬間に行きあった思わぬ一致に、蓮は思わず拳を握りしめる。
「ねぇ」
その瞬間、こんな時でも感情を滲ませない、高くも低くもない声が荷馬車の幌の中から響いた。
「誰か手伝って」
ハッと我に返ったのは、蓮も配下達も同じであったらしい。
そんな中、幌の中からヒョコリと顔を出した麗華は、グルリと顔を巡らせて一行を流し見た。さらにかなり無理をして幌から体を乗り出した麗華は、完全に後ろへ回りきれていない位置で足を止めていた蓮の姿を視界に収めると言葉を続ける。
「荷物、見つけた。でも、埋まってて、僕じゃ無理」
蓮が探せと指示した荷物を発見したが、麗華の細腕では荷物を引っ張り出すことができなかった。だから誰か力を貸してほしい、ということらしい。
──まぁ、暗殺者としての技量はあっても、あの細っこい腕じゃ重い荷物を移動させるのは無理か。
「おー、今行く」
『背丈もねぇしな、あいつ』と思い直した蓮は、自ら麗華の方へ足を進めた。そんな蓮の声と動きで我に返ったのか、人垣の中から何人かが出てきて叩きのめされた輩の拘束を始める。
「どれだった?」
荷台側まで回った蓮は、身軽な動きで麗華の隣に立った。
幌の中は薄暗く、それなりに荷物が積まれているが、身動きが取れない程ではない。先程までこの空間に屈強な男が三人も潜んでいたのだ。鍛えてはいても細身に分類される蓮と少女と見紛うほど小柄な麗華ならば、二人並んでも荷を漁れる空間的余裕はある。
「左側の一番奥の角隅。箱が四つ積まれてる一番下。黒いやつ」
蓮に道を譲るように体を捌いた麗華は、真っ直ぐに幌の奥角を示した。蓮が視線を向けてみれば、確かに積み上げられた箱の一番下に黒い荷が置かれている。
──確かに、臭う。
スンッと鼻を鳴らしてみると、ほのかに甘ったるい不快な臭いがした。これは十中八九、忘れ茉莉花がここにある。
『これは禅讓と麗華のお手柄だな』と胸の内で呟きながら、蓮は幌の奥へ踏み込んだ。
麗華が探り当てた荷を回収できれば、ひとまず王手だ。馬を外したから簡単にこの荷馬車は動かせないし、運び屋一行も捕縛できている。試しに荷を掘り出してみて、上に乗っている荷が予想よりも重たければ配下に手伝ってもらえばいい。それくらいの時間的余裕はあるはずだ。
そう思った瞬間だった。
「っ!?」
外の空気がにわかに緊張する。
その瞬間、幌を突き破って蓮の目の前に何かが突き刺さった。その何かに纏わりついていた炎は、あっという間に周囲の荷を舐め始める。
──火矢を撃ち込まれたっ!?
「幇主っ!!」
「火矢だっ!! 火矢を撃ち込まれたぞっ!!」
さらにその矢羽に括りつけられているのが爆竹であることに気付いた蓮は、反射的に後ろへ飛び退ると同時に麗華を小脇に抱えた。
そのまま馬車から飛び出し、麗華を庇うように上に被さって地面に伏せた瞬間、ドンッという重い破裂音が頭上を通り過ぎる。麗華の頭を押さえたまま荷馬車を見上げれば、荷馬車の幌からは激しく炎が噴き上がっていた。
──ただの火矢と爆竹だけじゃ、あんな爆発もこんな炎上も起きない。こうなることを見越して、爆薬なり油なり積んでやがったってことか……っ!!
さらに煙に甘ったるい香りが混ざり始めたのを感じ取った蓮は、外衣の袂で口元を覆うと麗華が頭から被いた外衣をグッと顎下まで下げさせた。そのまま麗華を小脇に抱えて立ち上がり、一瞬だけ口元から袖を外して声を張り上げる。
「全員退避っ!! 煙に気をつけろっ!! 茉莉花燃えてんぞっ!!」
叫ぶだけ叫んだ蓮は、麗華を抱えたまま風上を目指して走り始める。その動きに従った配下が安全圏を求めて皆一目散に駆け始めたのが気配で分かった。
──皆、無事にやり過ごせればいいんだが……
燃えている荷物の中に忘れ茉莉花が混じっている以上、下手に近寄れば新たな中毒者を生みかねない。完全に鎮火して煙が散るのを待たなければいけない以上、現状での消火活動は不可能だ。
幸い、荷馬車は街道のど真ん中で止まっていて、周囲に延焼しそうな物もない。今日は風も穏やかだ。街道の左右にひしめく建物に飛び火する危険性も低い。現状ならば命を捨てた消火活動に挑むよりも、自然鎮火を待った方が安全だ。
こういった事態を見越して、姻寧では銅鑼が鳴ったら事前に窓や扉を完全に閉め、所定の場所に避難するように徹底されている。扉や窓は外の空気が入り込みにくいように二重構造が取られているし、建物も耐火性が高い材が使われているが、それで全てを凌ぎきれるとは限らない。
新たな被害者が生まれないことを切に祈りながら、蓮は煙が避けられる場所まで撤退すべく、麗華を抱えたまま走る足に力を込めた。
そんな蓮の背後では、燃え上がる炎によって生み出された阳炎が、全てを嘲笑うかのように景色を揺らめかせていた。