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『面倒見てあげて』という言葉は、『仕事を教えてあげて』という意味を含む。しかし仕事を教えようにも、(れん)が直々に出張らなければならないような荒事はそうそう起きない。


 そして荒事など、起きない方が絶対に良いに決まっている。


「あー、俺達の主な仕事は、姻寧(いんねい)の治安維持と、商会の警護だな」


 かと言って、正体不明の暗殺者を傍らに置いて、商会の極秘事項が飛び交う事務仕事を片付けるわけにもいかない。


 結果、蓮は(リー)(ファ)を連れて姻寧の街中を散歩している。『巡回』と言い換えれば少しは体裁も良いのかもしれないが、蓮の肩下までしか背丈がない、少女とも見紛う美貌の少年を隣に置いて歩く様は、どう見ても『散歩』としか言えない締まりのなさがあった。


「揉め事の種を見つけて早めに潰す。すでに揉め事に発展していたら、早期の解決を目指す。武力抗争がすでに勃発していたら、姻寧の民を守るために腕を振るう。……まぁ、本来の『(俺達)』の任務ってのは、そんな感じだな」


 この『姻寧の民を守る』の中に『忘れ(まつ)()()』の取締や中毒者の処分、商会に仇なす者の暗殺なども含まれているのだが、そこはあえて言葉にしなくてもいいだろう。


「あと、表側から要請があれば、商会のメンツの護衛にもつく」


 つらつらと説明しながら視線を落とすと、(リー)(ファ)(かず)いた衣の下から熱心に蓮のことを見上げていた。お世辞にも(リー)(ファ)の歩調に合わせているとは言えない早い歩みに懸命に喰らいつき、真剣そのものな表情で蓮を見上げる(リー)(ファ)の様子は『健気(けなげ)』の一言につきる。


 ──なんか……調子狂うな。


 (リー)(ファ)から視線を()らして明後日の方向を見やった蓮は、心持ち歩調を緩めてやりながらポリポリと頬をかく。


 芙蓉(ふよう)によって身なりを整えられた(リー)(ファ)は、まさに麗しい大輪の牡丹のようだった。


 襟が高く首元が詰まった、白色の裾が長い上衣。差し色の朱色と、中衣の橙が、上衣の白にも(リー)(ファ)の白い肌にも映えていた。袖と裾が長い衣はフワリと広がると花弁のようで、(リー)(ファ)の人並み外れた美貌に花を添えている。よく見れば上衣の地には織りで牡丹の柄があしらわれていた。(リー)(ファ)の美貌を見て張り切った芙蓉が上物を引っ張り出してきたのかもしれない。


 足元は男性物の革靴ではなく、良家の子女が履くような布靴だった。上の装束が白から朱までの色合いで揃えられているのに対し、下衣と布靴は黒で統一されている。


 ──綺麗な装束を用意してもらったんだから、俺の外衣は手放せばいいのに。


 芙蓉に連れられて再び蓮と游稔(ゆうじん)の前に現れた(リー)(ファ)は、身なりを整えられたというのに、連行時に被せられた蓮の外衣を変わることなく被いていた。


 芙蓉(いわ)く、頭から一枚被っている方が落ち着くと言って、当人が蓮の外衣を離そうとしなかったらしい。『他の衣も、何なら面紗の類も用意できる』と芙蓉は説明したとのことだが、何をされても反発せず、従順だった(リー)(ファ)が、この一点だけは譲らなかったという。


 ──俺がお前にその外衣を被せたのは、様にならなかった格好を隠すためってのが理由の大半だったんだがな。


 まあ、だが当人が珍しく……というよりも、ほぼ唯一見せた執着だ。蓮の方も、外衣の一枚を手放したくらいで困るような生活はしていない。


 (リー)(ファ)の容姿を思えば、一目で商会の関係者だと分かる……何なら見る者が見れば『(ヘイ)大兄(ダーレン)』である蓮の外衣だとすぐに分かる衣を被っていた方が、下手な揉め事が寄ってこなくて安心だろう。


 ──逆にそれを理由に喧嘩を売ってくるような(やから)には、自力で対処ができるだろうしな。


 とはいえ、ここまであからさまな庇護を与える形を取るなら、変な噂のひとつやふたつ、起こされる覚悟はしておいた方がいいかもしれない。


 例えば、『蓮(ダー)(レン)が情人を連れて歩くようになった』とか。


 ──関係者は関係者でも、そういう関係者じゃねぇんだけどなぁ……


 いくら他人(ひと)の格好に頓着しない土地柄である姻寧とはいえ、あからさまに他人の物と分かる衣を身に(まと)っていれば目立つものは目立つ。


 恋人同士が外衣や小物を交換して身に纏うという文化が北部にはあったはずだ。姻寧でも、そうやってさり気なく恋人からの独占欲を見せびらかしている人間は少なからずいる。


 そういう輩が蓮の衣を被いた(リー)(ファ)を目撃し、衣の下に隠された美貌を見て『天女』とでも騒ぎ立てれば、姻寧ではしばらくその話題が人々の間を席巻することだろう。


 ──いや、こいつの顔面なら『少女』じゃなくて『少年』だって判明しても噂になりそうだな。


 むしろ男だと知られた時の方こそ『蓮(ダー)(レン)が美貌の少年を情人にしたらしい』『今までそれらしき存在を作らなかったのは、蓮(ダー)(レン)()()()()()()だったからだ』と噂されて大炎上するかもしれない。できればそれは己の名誉にかけて回避したいところだ。


「そういえばお前、何か得物は与えられたのか?」


 そのためにはやはりさっさと(リー)(ファ)の実力を周囲に示し、蓮直轄の新しい部下であると認知してもらうしかないだろう。


『荒事は起きないに限るが、起きたらとっととこいつを現場に投入しよう』と心に決めた蓮は、(リー)(ファ)に視線を落とすと問いを投げる。


「お前が元々持ってた暗器は、俺が全部取り上げちまったけども」

「芙蓉が、この服を選んでくれた時に、一緒に」


 シパシパと目を(しばたた)かせた(リー)(ファ)は、一度手を被衣の下に引っ込ませると腰の後ろを漁った。次に被衣から出てきた時、(リー)(ファ)の両手には鞘に収まった匕首(ひしゅ)が一振りずつ握られている。


「お前が選んだのか?」

「これが一番手に馴染んだ」


 蓮が続けて問うと、(リー)(ファ)はコクリと頷いた。蓮が視線で『片付けていいぞ』と示すと、(リー)(ファ)は再び被衣の中に両手を潜らせる。恐らく腰の後ろに匕首を装着できる隠しが用意されているのだろう。


「お前が元々仕込んでた暗器は、柳葉飛刀と鉄糸じゃなかったか?」

「その辺りは、功を立てれたら、追々だって」

「あー……」


 柳葉飛刀は飛び道具で、鉄糸は特注武器だ。消耗が激しい物品、高価な物品は現状与えられない、というのが芙蓉の判断だったのだろう。もしくは選んだ装束では装備が難しいから、(リー)(ファ)用の(あつら)えができるまで待てということか。


 ──まぁ、もしくは、俺が手癖を把握するまでは、多少武力を削いどいた方が安全だと思ったのか。


 どれくらいの時期に、何をどこまで与えるか。その判断も蓮が降すことになりそうだ。


 ──実力の把握と、敵意のなさと、……どれくらい使えるかが確認できて、もしも有能だと分かれば、早めに得物を返してやるのも一手……


「ねぇ、蓮」


 街の中心を通る街道を外れ、裏道に入る角を曲がる。


 土地が狭い姻寧では、建物が無秩序にひしめき合っているせいで、下手な横道に入れば慣れた者でも迷いかねない。そんな分かりにくい道を避けつつ、ひとまず街の中心街を見下ろせる高台に登るかと足を進めていた蓮は、クイッと袖を引っ張られる感触に足を止めた。


「どうして、僕を助けたの?」


 蓮の外衣の袖を取った(リー)(ファ)は、変わることなく真っ直ぐに蓮を見上げている。その表情は視線同様変わることなく真摯だが、蓮を見上げた瞳には疑問に対する答えを渇望している色が垣間見えた。


 その強さに、蓮は面食らったように目を瞬かせる。


「言っただろ。『助けたっつーか、拾っただけ』『職務上の問題』だって」

「じゃあ、游稔が言ってた『僕達も被害者』っていうのは、本当?」


 ──やっぱこいつ、鋭いな。


 麻薬と呼ばれる(たぐい)の物は、大概の物が人からまともな思考回路を奪っていく。だが『忘れ茉莉花』は(いちじる)しく記憶を削りはしても、思考力は最後まで残されるという珍しい代物だった。禁断症状と催淫状態が落ち着いていさえすれば、常用者であっても言動から使用を見破ることは難しい。乱用者の区別は、元常習者達の鼻を頼るしかないというのが実情だ。


 とはいえ、記憶というものは、人格を形成する(もとい)だ。(リー)(ファ)のようにほぼほぼ記憶を全損させている状態でここまで落ち着いた受け答えができる人間はほぼいない。大抵は欠けていく記憶を前に気を狂わせていく。ましてや(リー)(ファ)のように周囲の言葉に興味を抱き、記憶できる余裕を持つ人間など、今までにいなかったのではないだろうか。


 ──俺の時は、どうだったかな。


 蓮で言えば、游稔に拾われた直後くらいが今の(リー)(ファ)と同じ境遇と言えるだろうか。


 あの頃は環境の変化を理解できなかった上に禁断症状から来る激痛が酷くて、まともな意識を保っていることがまずできていなかったような気がする。つまり、あの頃のことはあまりよく覚えていない。


 ──こいつは、これからのことを、覚えていけるようになるんだろうか。


「……お前の質問にばかり答えるのは、公平とは言えねぇな」


 一瞬横に逸れた思考を引き戻し、蓮は(リー)(ファ)に答えた。腕を組み、上から(リー)(ファ)を見下ろしてやれば、(リー)(ファ)は纏う空気に緊張を漂わせる。


「ましてやその問いへの答えは、商会の中核を(にな)う俺達の個人的な事情に踏み込む問いだ。そうほいほい簡単に答えるわけにはいかない」

「じゃあ、どうしたら、教えてくれる?」

「まず、お前が俺の質問に答えろ」


 端的に蓮が要求を突きつけると、一瞬間を置いてから(リー)(ファ)はコクリと頷いた。自分は商会の監視下に置かれている、いわば捕虜とも言える立場だと理解しているのだろう。交渉も反発もしてこない素直な態度に、蓮は思わず『この従順さ、むしろ罠とかじゃねぇだろうな?』と心配になる。


「お前が言ってた『この地獄に(すが)ってでも、生きていたい理由』ってのは何だ」


 だが問いを紡ぐ唇が動きを止めることはなかった。


「まさかそこまで忘れてるってことはねぇだろうな?」


 蓮の質問が意外なものだったのだろうか。問いを受けた(リー)(ファ)は一瞬驚いたように固まると、何かを見定めるような視線を蓮に返した。そんな(リー)(ファ)の瞳の中には、静謐だが強さを感じる光が宿っている。


「会いたい人がいる」


 数回、息を整えるかのように呼吸を繰り返した(リー)(ファ)は、ここでも素直に答えを口にした。半ば予想ができていた答えに、蓮はジッと(リー)(ファ)に視線を注ぎ続ける。


「具体的に誰だったのかは、忘れてる。だけど『その人に会うために、僕はこの地獄を受け入れた』という覚悟だけは、忘れずに心の中にある」


 蓮の視線を『言葉の先を促されている』と認識したのだろう。(リー)(ファ)は緊張が(にじ)む語調で言葉を続けた。


「だから、僕は、ここで死ぬわけにはいかない」

「会いたい相手が誰だったかも忘れてるくせに、それでも()()を理由にこの地獄を渡るってか?」

「会えば、きっと、分かる」


 (リー)(ファ)は蓮を真っ直ぐに見上げたまま、ギュッと外衣の端を握りしめた。まるで縋るように握りしめられた外衣は、指の震えが伝わっているのか微かに揺れている。


「だから、僕は、商会に逆らわない。やれと言われたことはやる。質問にも、素直に答える」


 そんな(リー)(ファ)の様子に、蓮はわずかに目を細めた。


 ──縋る先である商会(俺達)も、お前にとっちゃ敵のはずなんだがな。


 (リー)(ファ)が生き延びる道は、もはや商会の庇護下にしかない。仮に(リー)(ファ)の態度が演技で、元の組織に関する記憶が残っているにしても、逃げ出す隙を許すような蓮でもなければ商会でもない。


 一番確実にこの現状で命を繋ぎたいならば、従順に商会に従うのが一番生存率が高い選択肢だと言える。(リー)(ファ)の状況認識は恐ろしいほどに的確だ。


 同時に、腑に落ちたこともあった。


 幼子を連想させるほど、従順で無垢な態度。元の性格や『忘れ茉莉花』の影響もあるのだろうが、(リー)(ファ)なりにこの行動を取る意味がそこにはきちんとあったのだ。


 ──ま、多分、演技なんかじゃねぇんだろうな、これは。


 (リー)(ファ)に関して、何か情報があるわけでもなければ、判断に足る根拠があるわけでもない。


 ただ、そんな状況でも、蓮には分かることもある。……いや、これはただ単に『信じたいこと』という、蓮の個人的な願望でもあるのかもしれないが。


「僕は答えた。游稔が言ってた……」

「本当だ」


 (リー)(ファ)が改めて問いを切り出す。


 その言葉を(さえぎ)って、蓮は(リー)(ファ)が求める答えを口にした。


「俺は游稔に拾われる以前の記憶が何もない。游稔が俺を見つけた時に喋ったことさえ、禁断症状が抜け切った後の俺は忘れてた。俺に残ったのは、この身に叩き込まれた戦闘技量と『知識』だけだった」


 あえて(リー)(ファ)から視線を外さなかった。真っ直ぐに(リー)(ファ)を見据えたまま淡々と話す蓮の様子に、(リー)(ファ)が息を詰める。


「游稔も游稔で後遺症を抱えているし、芙蓉も芙蓉であれでガタはあるしな。霜天()商会()はそういうやつらが肩を寄せ合って作り上げた……地獄の味を知ってる者達が、地獄を焼き払うために作り上げた組織だ」


『答えになったか?』と蓮は言外に問いかけた。


 その声なき問いが聞こえたのだろう。コクリと喉を鳴らした(リー)(ファ)は、ゆっくりと唇を開く。


「蓮は」


 ポツリとこぼれた言葉は、しばらく先が続かなかった。


 (リー)(ファ)の中で、感情を乗せる的確な言葉が見つからなかったのだろう。もどかしそうに眉を寄せ、舌の上でいくつか言葉を転がすような素振りを見せてから、(リー)(ファ)は改めて言葉を紡ぐ。


「蓮は、どうしてこの地獄を、渡ろうと思ったの?」


 茉莉花の煙が消えた後に残されるのは、いっそ死んだ方がマシだと思えるような激痛の嵐だ。思い出せない記憶の(うろ)に気を狂わせながら味わう激痛は、この世とあの世のあらゆる痛苦を煮詰めた以上の責め苦となる。


 それこそ、その地獄に耐えきれず、再び煙に溺れに行く者がいるくらいに。痛みを知らしめられた奴隷達が、その苦痛から逃れるために煙と主への絶対服従を受け入れるくらいに。半端に理性を残した罪人に忘れ茉莉花をかがせた後、あえて禁断症状を経験させ、自ら自害へ追い込ませるという残忍な処刑方法もあるという話だ。


 更生の意思と見込みがある人間に手を差し伸べている霜天商会だが、霜天商会の手を取った全員が全員、無事に更生できるわけではない。おおよそ半分が更生の途中で死んでいく。


 その大半の死因が、『禁断症状に耐えきれなかった』という言葉に集約される。


 痛みに体が耐えきれずに心拍が止まる者。気を狂わせて最早人としては生きていけなくなった者。自死してしまう者。死を懇願する者。


 地獄を渡るよりもなお、茉莉花の残り香を消す痛苦が勝る。


 蓮が(リー)(ファ)に向けた『地獄を渡る』という言葉は『忘れ茉莉花漬けにされ、暗殺者として生きること』を指したつもりだった。だが(リー)(ファ)が蓮に向けた『地獄を渡る』には、『死よりもつらいと言われる禁断症状を乗り越える』という意味が込められている。


 記憶はなく、死は目前。仮に命を拾ったとして、その先にあるのは死よりもなおつらい激痛の嵐。


 それを乗り越え、今ここにこうして立っていられる理由は何か。


 (リー)(ファ)の問いの本質は、そんなところだろう。


「游稔が言ってただろ。『誰かさんにそっくりだ』って」


 その問いに、蓮はゆっくりと(まぶた)を閉じた。


 この仕草を、まるで祈るようだと表されたことがある。だが蓮には閉じた眼裏(まなうら)に描く光景もなければ、祈りを捧げる対象もない。


「『会いたい人がいるから、死ねない』」


 代わりに蓮は、かつての自分の全てを支えていた言葉を口にした。


「游稔に拾われた時に、俺は游稔にそう言ったらしい。だから生きると、そう俺が言ったと、俺は游稔に聞かされた」


 蓮は閉じた時と同じ速度で瞼を押し上げる。再び開かれた視界の中心にいる(リー)(ファ)は、今度こそ言葉を失ったかのように息を詰めて蓮を見上げていた。


 そんな(リー)(ファ)に、蓮は思わず微笑みかける。


「その言葉を口にしたという記憶自体は、俺の中にはない。だが、その言葉を俺が口にした時に抱いたであろう覚悟は……『俺は何としてでも生き延びなきゃなんねぇ』っていう執着は、消えることなくここにある」


 ここ、という言葉とともに、蓮は拳から伸ばした親指をトンッと己の胸元に置いた。その下では、あの地獄を渡る中でも奇跡的に動きを止めることがなかった心臓が、今でも力強く脈を打っている。


「だから、お前の言葉を、俺は信じてやってもいい」


 蓮の記憶は、霜天商会とともにある。それ以前のことは一切思い出せない。游稔は雨の夜、打ち捨てられるように転がっていた蓮を拾ったというが、そのことさえも蓮の記憶には残っていない。


『会いたい人がいるから、死ねない』


 だから生きる道を選んだ。


 それが、蓮の過去の全て。


 そうやって、白紙の上に新たに時を重ねてきた蓮だからこそ、分かることがある。


「その言葉に縋って地獄を行く人間にしか出せない声の響きが、眼差しの強さが、あんたにはあるからな」


 (リー)(ファ)の瞳に、蓮の笑みはどんな種類のものとして映ったのだろうか。蓮を見上げたまま、(リー)(ファ)は微かに唇を震わせる。


 だが(リー)(ファ)から新たな言葉がこぼれ落ちることはなかった。


「……っ!?」


 不意に破裂するように広がった不穏な空気の揺れに、蓮と(リー)(ファ)は同時に顔を跳ね上げる。図らずも二人の視線の先は表通りの方を向く形で揃えられた。


 ──何だ? 街道沿いで揉め事でも起きたか?


大兄(ダーレン)!」


 顔を跳ね上げたまま、蓮は感覚を研ぎ澄ませて街の様子探る。


 その瞬間、こちらに向かってくる足音が聴覚に引っかかった。


「蓮(ダー)(レン)! いらっしゃいますか、(ダー)(レン)!」

祥逎(しょうじゅ)!」


 さらに続けて響いた声が部下のものであると分かった蓮は、声に答えながら角の先へ足を踏み出した。そんな蓮の後ろに(リー)(ファ)が続く。


(ダー)(レン)! 良かった、見つかった……!」


 蓮の前に転がり込んできた祥逎は、肩で息をしながらも必死に表通りを指さす。随分走り回ったのか、息をつくのに必死で中々言葉が続かないらしい。


「何があった、祥逎。お前がいる禅讓(ぜんじょう)の班は、今日は(ほく)(いん)(もん)の警護……」

「検問破りですっ、(ダー)(レン)!」


 祥逎は蓮直轄の部下というわけではないが『(ヘイ)』に属する人間の顔と名前と所属くらいは記憶している。どの班にどの仕事を割り当てるか決めているのも蓮だ。


 記憶をさらって今日の祥逎がどこにいるかを思い出していた蓮に、祥逎が悲鳴のような声を浴びせた。


「北陰門で荷の検査を拒んだ荷馬車が一台、無理やり門を突破して、街の中に押し入りましたっ! 今は街中を巡回していた連中で足止めを……っ!!」


 検問を拒否した荷馬車が無理やり街中に押し入った。そのまま強引に南の正門である(なん)(よう)(もん)まで突破するつもりなら、街中を荷馬車が暴走しているということになる。


「どこで止められた?」


 驚きで一瞬呼吸が引き()れる。だが驚愕は本当にその一瞬で終わった。


 蓮はあえて普段よりも落とした声音で祥逎に問いかける。その声にハッとしたように深く息を吸い込んだ祥逎は、先程よりも落ち着いた語調で蓮の問いに答えた。


「黒城よりは北陰門側です。『(ヘイ)』の連中で取り囲んだはずなんで、そこからは動けていないかと」

「足留めに成功したとはいえ、随分中まで入られちまったな……」


 霜天商会本部である黒城は、姻寧の中心部に置かれている。街中を半分突破されるよりも前に止められたことを僥倖と取るべきか、繁華な場所で止めてしまったことを災難と取るべきか、判断に困るところだ。


 とはいえ、どう動くべきか迷っていられる時間もなければ、ここから取れる手段も多くはない。


「街の住民に扉を閉めるように伝令を。南陽門に詰めてる連中に、万が一到達されてしまった場合に備えるようにも伝えてくれ。黒城に報告は?」

「住民伝令には寒影(かんえい)、南陽門には朱衣(しゅい)、黒城には楓季(ふうき)が走りました。(じき)銅鑼(ドラ)が鳴ります」


 祥逎が答え終わるよりも早く、重く銅鑼の音が響き始めた。黒城から響き始めた銅鑼は、やがて伝播するように街の至るところから鳴り始める。


 銅鑼は霜天商会から発される『警戒令』だ。街中で大きな争い事が起こり、住民に警戒と避難を指示する時に姻寧の街には銅鑼の音が響き渡る。銅鑼の音を聞いた姻寧の住民は、扉という扉、窓という窓を閉め切って安全な場所に隠れてくれるはずだ。


 ──大きな被害が出ねぇといいが。


「祥逎、現場まで案内してくれ」

「はいっ!」

「行くぞ、(リー)(ファ)


 銅鑼が鳴り響く空を一度見上げてから、(リー)(ファ)を振り返る。


 目元に険を載せた(リー)(ファ)はコクリと重々しく頷くと、走り出した祥逎と蓮の後ろに遅れることなく続いた。


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