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蓮と呼ばれている男は、雨が嫌いだった。
どんな雨でも嫌いだが、細く針のような雨が滑らかに降ってくる宵なんて最悪だ。
サァサァという細い雨の音はいつも、蓮の心の中に言葉にしがたい寂寥感を呼び起こす。自分は決して、そんな風情が分かるような性格をしていないはずなのに。
「実は姻寧でここまで連続して雨が降るのって、珍しいことなんだよな」
それでも最近は、昔ほど雨を毛嫌いすることもなくなった。
それは雨の向こうに失くしたと思っていた『運命』を、紆余曲折の末に抱きしめることができるようになったからなのかもしれない。
「そうなの? 僕が来てから、割と降ってるような気がするんだけども」
「今年は多いって話だな。雨は恵みではあるんだが、これ以上降るなら崖崩れが起きねぇように見張っとかねぇと」
今宵の二人の滞在場所は、二人が初めて出会った日を過ごした塒だった。
安普請の部屋は、壁が薄い分、降りしきる雨の音がよく聞こえる。寝台の上で麗華に包帯を替えてもらいながら、蓮はサァサァと降りしきる雨の音に耳を澄ませていた。
蓮と麗華が本気で殺し合いを演じたあの夜から、そろそろひと月が過ぎようとしている。
あの日、蓮が運に任せて麗華と二人で分けて呑んだ薬は、仮死薬だった。
交戦の音が止んだことを受けて恐る恐る現場に顔を出した『黒』の連中は、抱きしめあったまま倒れている蓮と麗華を見つけると泡を食って二人を黒城へ回収したらしい。『もう死んでいるのではないか』と途中で何度も疑われた二人だったが、梅煙直々の治療と図太すぎる悪運で二人とも命を取り留めた。
梅煙曰く、蓮は一時的に仮死状態になったおかげで出血の勢いが弱まり、結果命が助かったのだという。『あなたにしては、いい判断だったんじゃないですか』というお褒めの言葉に、逆に蓮が震え上がったのは言うまでもない。
蓮が五日昏睡していた間に、姻寧を騒がせた事件はほとんど片付けられていた。
『黒』の幇主である蓮は、本来ならば先頭に立って指揮を取らなければならなかった立場にある。だというのに『目覚めたら全て終わっていた』という情けない状況に、蓮は思わず頭を抱えた。
だがそんな蓮の内省に反して、蓮の行動を咎める人間は誰一人としていない。むしろ状況を知った人間は皆、今でも心の底から蓮を労ってくれている。
【いやね? 麗華を双方生きたまま止められたってだけで、君の戦功は十分すごいから。他の誰にもできないから】
そんな風に呆れたように口にしたのは游稔である。
姻寧に入り込んでいたネズミは一掃された。
商会に戦争を仕掛けてきた犯人は紅華娘娘を中心とした、北域黒幇の連合軍と想定以上に大きかったが、今回の事件の顛末を受けて紅華がほぼ壊滅状態に陥ったことにより、その脅威もかなり薄くなったらしい。
腰を据えた対策が必要だと游稔は言っていたから、まだ戦っていくことになるのだろうが、今は少しだけ息をつける状態だ。
「っ!」
そんなことを考えていたら、チュッと背中に濡れた感触が走った。傷に触らないように控えめに蓮の背中の端を食んだ唇は、蓮が体を跳ねさせたことに気付くと淡く笑みを浮かべる。
「……まだ、痛い?」
「……今日は、そんなに」
その答えを聞いた麗華は、おずおずと蓮の体に腕を回すと、ソロリと背中に額を預ける。スリッと頭が擦り付けられるたびに黒絹のような髪が滑り、それがわずかにチクチクと傷を刺激した。
それでも蓮は、どうあってもこの小さくてひんやりとした体を引きはがすことができない。
「壁も床も薄いって言ってるだろ?」
「大丈夫」
それが分かっている麗華は、スルリと体を移動させるとポスリと蓮の腕の中に収まった。
寝台の外では常に蓮の外衣に隠されている顔が、今は何にも遮られることなく蓮の前にある。
蓮だけが見ることを許される、花の顔だった。
「だって雨の音が、こんなによく響くから」
全部、雨の中に隠れてしまうから。
だから僕の声を聞くのは蓮だけで、蓮の声を聞くのは僕だけだよ。
そう囁く麗華の言葉に、蓮は抗いきれずに唇を寄せた。
雨夜の中に、茉莉花の香りを溶かして。
茉莉花の煙の中に、記憶を落として。
それでももう分かたれることはないのだと、雨夜の中に運命の花嫁は囁いた。
【了】




