肆
相変わらず周囲は、月影が降り注ぐ音さえ聞こえてきそうなほどの静寂に包まれている。
いっそこの静寂を乱す己の呼気が、酷く無粋だと思えるくらいに。
「はっ、……はぁっ、……は」
義荘はとうの昔に倒壊し、輿の担ぎ手であった男は六人とも死んだ。
今は義荘の前に広がる広場で、蓮と麗華だけが対峙している。
──飛刀は、……残りあと、何本ある?
蓮が見据える先で、麗華も蓮とまったく同じ形で構えていた。その麗華の肩も、軽く上下に揺れている。そうでありながら、麗華からは相変わらず音らしい音が聞こえてこない。
──鉄糸は、もう使い切った。使えんのは、匕首と、あと……
倒壊した建物や周囲の木々には、蜘蛛が糸を巡らせるかのように鉄糸がまとわりついていた。交戦の名残でしかないその光景さえ、今宵の月明かりの下だと幻想的な装飾のように目に映る。
腹の傷も、背中の傷も、とうの昔に開いて血が吹き出していた。純白だったはずの喪服は今、麗華が纏う婚礼衣装に劣らないほど赤く染め上げられている。
息が整わないのは、出血のせいもあった。
どのみちそろそろ決着がつかなければ、今度こそ本当に蓮は死ぬ。
「……っ!」
そんな蓮の考えが、透けて見えたのかもしれない。
不意にまた麗華が視界から消える。本能で掲げた右腕に、再び重い斬撃が入った。力を受け流すように体を捌きながら反撃を試みるが、それよりも早く擲たれた飛刀が蓮の体に新たな傷を作り出す。
「っ!」
だがそれに怯むことなく、蓮は左腕を麗華の首筋に絡めるように動かした。そのまま地面に引き倒すように自分の体ごと重心を後ろへずらすが、その腕さえ麗華はスルリとすり抜けていく。
「っ、麗華っ!!」
呼びかける声に、麗華は追撃の飛刀を擲ちながら、後ろへ跳ねて間合いを取った。今度の飛刀はきっちりとかわし切った蓮は、麗華の動きを視線で追う。
──正気に戻る気配はない、か……!
先日の雨夜の対決の時、蓮の言葉と行動で麗華は正気を取り戻した。そもそもあの時の麗華は、ここまで積極的に蓮を殺そうとはしていなかったような気がする。この交戦を誘ったのは蓮ではあるが、前回と今回では明らかに麗華の様子が違った。
重依存患者であればあるほど、忘れ茉莉花の効果の持続時間は短くなる。交戦場所が開けた野外であれば、戦っている間は麗華に忘れ茉莉花を嗅がせている余裕はないはずだ。
正直に言うと、交戦している間にわずかにでも麗華が正気に戻らないかという期待はあった。
手負いである蓮では最初から勝機は薄い。正気を失っている状態の麗華ならばなおさらだ。そんな蓮が麗華を降すためには、何としてでも麗華に正気を取り戻させる必要がある。
だがどれだけ蓮が呼びかけても、茉莉花の煙の外におびき寄せても、麗華が正気に戻る気配は現れない。
それはきっと『己の手で蓮に重傷を負わせた挙句、自身を庇って蓮が死ぬ』という現場に、麗華が遭遇してしまったからだろう。
今の麗華は、忘れ茉莉花によってではなく、蓮の死によって正気を失っている。
その事実をまざまざと見せつけられたような気がした。
──でも俺は今、こうして生きている。
生死の淵をさまよっている間に、夢を見たような気がした。
その夢は目覚めた時に霧散してしまって、今の蓮は『夢を見ていた』ということ以外は覚えていない。
だけどおぼろげに、大切な人と、大切な約束をしたことだけは、覚えている。『ああ、こんなところで俺達、似た者同士だったんだな』と、思った覚えがある。
その消えてしまった夢の縁をなぞっていると、限界を超えている体に、少しだけ力が戻るような心地がした。
「麗華」
蓮の呼びかけの声に応えるかのように、麗華の足が再びグッと地面を踏み込む。
今度繰り出されたのは、真っ直ぐな刺突だった。途中で陽動を交えながらも真っ直ぐに突っ込んでくる麗華に、蓮は左の匕首を立てることで応戦する。
「っ、麗華っ!」
相変わらず麗華の顔に表情らしい表情はない。
だが刃を間に挟んだすぐ目の前に麗華の顔が迫った瞬間、蓮はそこにわずかに感情が揺れたことを見抜く。
「……た、い」
「っ!」
微かに唇から声を漏らしながら、麗華は続けて反対側の匕首を蓮の首筋へ叩き込もうとする。すかさずその手首を叩いて匕首を離させると、今度は鋭い膝蹴りが蓮の胴へ向かって振るわれた。
「……たい」
感情がないまま見開かれた麗華の瞳には、涙が浮いていた。薄く膜を張っていた涙は蓮に攻撃を繰り出す間に玉を作り出し、次の瞬間には動きに合わせて背後へ散っていく。
麗華から繰り出された膝蹴りを、蓮はあえて受けて麗華の動きを止めた。肋が軋み、先の飛刀で受けた傷からは新たな血がしぶくが、それでも麗華は蓮の目の前で動きを止める。
そこでやっと蓮は、麗華が繰り返し呟いていた言葉を聞き取ることができた。
「消えたい」
「……っ!」
『会いたい』と、麗華は願っていたはずだ。『痛い』とも訴えられた。『忘れたい』とも縋られた。
だけど、今は。今の麗華がこぼす言葉は。
──願い、じゃない。これは……
絶望、だ。
──そうか。お前の願いって、今まで一度も叶えられたことがないのか。
『蓮』と『刃』は同一人物かもしれない。だが麗華が求めている『刃』は消えてしまって、もう戻ってくることはない。
麗華が抱えている痛みを癒してやることも、肩代わりしてやることも蓮にはできない。忘れさせてやることもできなかった。
麗華の願いは、何も叶えられない。麗華が麗華として生きていく限り、この地獄は続くのだろう。
地獄を渡る業苦を支えるのは、希望だ。業苦を渡ってでもなお叶えたい願いがあるから、茉莉花の煙に溺れた人間達はのたうち回ってでも生に縋りつく。
その希望を失ってなお、業苦を渡れと強いるのは、地獄の強要と一体何が違うというのだろうか。
──それでも、俺は……
迷いに、動きが止まる。
その間に麗華は蓮の拘束を抜け出して再び距離を開けていた。ひたすら一方的に積み重ねられていく痛みに、蓮は思わず片膝を落とすと、痛む脇腹を誤魔化すためにきつく手を当てる。
その瞬間、懐の中で何かがカサリと存在を主張した。
──そういえば。
蓮の懐には今、三種類の紙包みが入れられている。翡翠の包みが禁断症状に対する特効薬、柘榴の包みが殺処分用の毒薬、そして瑠璃の包みが仮死状態を偽装する眠り薬だ。
翡翠と柘榴は、大きな現場に出る時には非常用に必ず携帯させられる。今回新たに持たされた瑠璃は、『仮死薬の効き目が甘くて万が一葬儀の最中に早めに目が覚めてしまった場合は追加で飲め』と言って渡されていた物だ。『死体がどうやって人目を盗んで薬飲めってんだよ』と無茶振りに困惑したことを覚えている。
──もしも。
もしも、このみっつの中で、眠り薬を麗華に投与することができれば。
忘れ茉莉花の効果を抜くには、とにかく時間を置くしかない。麗華の場合、正気を失っているのは忘れ茉莉花の効果だけではないだろうが、とにかく意識を落とせさえすれば今この場で交戦する必要性はなくなる。黒城へ無事に連れて帰ることさえできれば、まだ対処のしようがあるかもしれない。
とっさにそう思いついた蓮は、懐に片手を突っ込むと紙包みをみっつともまとめて取り出した。
「……っ!」
だが紙包みは全て蓮の血に染まって同じ色になっていた。
包みには耐水性がある油紙を使っているから、中まで血が染み込んで使い物にならなくなっている、ということはないはずだ。だが月明かりしか光源がない中では、何がどの薬なのかを見分けることができない。
──翡翠と瑠璃はまだいい。だがもし柘榴を間違って飲ませたら……
その先に見ることになる景色に、ゾクリと寒気が走った。
蓮は思わず麗華へ視線を向ける。
ユラリと体勢を整えた麗華は、右手だけになった匕首をゆっくりと構えたところだった。その瞳からはとめどなく涙がこぼれ落ちているが、構えに隙はない。
蓮の体の限界も近い。この交錯が最後の一撃になるだろう。
決断を、しなければならない。
「……」
蓮は体を起こして目を閉じた。そのまま手元を見ることなく、指先の感触だけでひとつを選び取り、他のふたつを捨てる。
その紙包みの端を唇に当てて、蓮は静かに目を開いた。
今宵の夜空よりも深い色を湛えた瞳と、視線が絡む。
それを確かめてから、蓮は笑みとともに唇を開いた。
「来いよ、麗華」
投げた言葉に、答えはない。
だがトンッという軽い踏み込みの音とともに、風が動いた。その風を感じるよりも早く、蓮は紙包みを歯と左手を使って破ると、中身を全て己の口に流し込む。
その上で蓮は、麗華が突き出した匕首を己の匕首で外へ弾いた。同時に自分が手にしていた匕首も手放し、麗華の体を全身で抱き留める。
麗華の喉にかけた右手は、滑るように麗華の顎を取ると無理やり顔をあおのかせた。さらに唇に親指をかけて無理やり口を開かせた蓮は、有無を言わせず唇を重ねると己の舌をねじ込んで口に含んでいた丸薬を流し込む。
最悪の場合、麗華の口の中で舌を噛みちぎられるかと思っていた。だが大きく目を見開いた麗華は、とっさに体の力を抜くと、コクリと素直に流し込まれた丸薬を嚥下する。
もしかしたら麗華の体は、一度自身を救ってくれた感触を覚えていたのかもしれない。
「生きるも死ぬも、これで一緒だ」
麗華の喉に包みの半分が飲み込まれたことを確認した蓮は、口の中に残っていた半分を己の喉へ引き受けた。ゴクリと呑み込んだ丸薬の感触を確かめるように己の喉を撫でると、麗華の視線がその動きを追う。
「お前が消える先に、俺も一緒に行く」
そんな麗華から視線を逸らすことなく宣言すると、さらに麗華は目を丸くした。ユラユラと揺れる瞳の奥には、今まで姿を消していたはずである光が見え隠れしている。
「一緒に行こう、麗華」
コロリと、澄んだ雫が星空を閉じ込めた瞳からこぼれ落ちて、白皙の美貌の上を転がっていく。
その軌跡を親指で拭ってやると、麗華は花が咲きほころぶかのような笑みを浮かべた。
心の底からあふれ出すような幸せを笑みに乗せた麗華は、緩く頷きながら瞼を落としていく。その様を見ていた蓮も、己の視界が徐々に暗くなっていくことを自覚した。
──ヤッベ……これは、ハズレを、引いた……かも。
それでももう、不思議と痛みも寒気も恐怖も感じなかった。
それはきっと。腕の中に抱えた温もりと、もう二度と離れなくていいと分かっていたからだろう。
──どこへだって、一緒に行ける、なら。
それはきっと、煙に翻弄され続けた自分達にとっては、これ以上にない幸いなのだろう。
そんなことを思いながらも、腕の中で同じように脱力していく温もりを、決して離さないように抱きしめながら。
蓮と呼ばれたその人は、月影の下に、自身と、自身の『運命』の体を投げ出したのだった。




