弐
姻寧は、東西を天衝連山の切り立った崖に、南北の端を城郭で囲まれた、南北に細長い街だ。天衝連山の南端に位置し、藩烏国内における南北の物流の要を握っている。
天衝連山を越えて行き来しようと思えば、この姻寧を通るか、高く険しい山を登るしかない。物流の面で見ても、軍事の面で見ても、また藩烏国内から見ても、藩烏に攻め入ろうとする国外から見ても、姻寧は近隣国屈指の要所としてはるか昔から知られてきた。
要所を治める人間には、権力が纏わりつく。あるいは、権力がなければ要所を治めることはできない、と言うべきか。
時代によって王侯貴族、武将、黒幇と支配者を変えてきた姻寧は現在、実質とある商会によって治められている。
「蓮幇主!」
朝日よりも早く動き出した街の中を、汚れ物が入った盥をふたつも抱え、少年を引き連れて歩くという、普段の自分からしてみれば中々に滑稽な姿で歩いていた蓮は、はるか彼方からかけられた声に顔を上げた。
表通りに面した一等地にデンと構えられた低層造りの屋敷。自分の名前と役職を叫んだ相手が、その屋敷の門を守っていたいかにもガラの悪そうな男だということを認識した蓮は、足を止めないままヒラリと片手を上げて男に答える。
「幇主にしては随分お早い。昨晩も本日も遅番では?」
剃り上げられた頭に狼の入墨を入れた大男は、見かけによらない丁寧な言葉使いと朗らかな表情で蓮に言葉をかける。
そんな顔馴染に、蓮は微かに笑みを浮かべながら口を開いた。
「ちょっと野暮用でな。游稔は屋敷にいるか?」
「はい。会長も幇主に御用事があるそうで。姿を見かけ次第、書斎へ呼ぶようにと言付かっております。……して」
そこまで朗らかに続けてから、門番の男はヒョイッと蓮の傍らへ視線を落とした。蓮がその視線の先を追えば、蓮の影に隠れるように立つ麗華の姿が目に入る。
「そちらのお連れさんは?」
『もうちょいまともな服を探してやる』とは言ったものの、そもそも蓮と麗華では身長が頭ひとつ分違うし、体の厚みも違う。下衣はまともに履ける物が見つからず、内衣も中衣も肩口で袖を落とした物を普段着ているせいで、無理やり着付けてもマシな格好にはならなかった。
結果、今の麗華は夜着の裾をたくし上げて無理やり着付け、服装と顔面が目立たないように外衣を一枚頭から羽織った状態である。外を歩かせるにあたって、お世辞にも『まとも』とは言えない格好だ。
──まぁ、この街なら多少妙チキリンな格好してても目立つことはねぇし。ガッツリ『双狼黒蓮』が入ってる上着を選んだから、妙な輩に手ェ出されることもねぇだろうし。
そもそも商会のそれなりの地位にいる蓮にしたって、仕事着は袖が落とされた上衣に肘下から甲までを覆う手甲、下は幅をダブつかせた袴、足元は革の長靴と、その辺りのならず者どもとそう大して変わらない格好をしている。
その上に肩から滑り落とすようにして双狼黒蓮紋入りの外衣を羽織る様も、首筋より上で適当に切られた黒髪も、それだけで他所から来る人間にしてみれば十分『威圧的』で『暴力的』なのだそうだ。そんな状態で出歩いていても誰にも何にも言われない辺りが、この姻寧という街の体質を表している。
とはいえ、『そんな街だから』という理由だけで、まともな格好をさせないまま客人を連れ歩くのは褒められたことではない。麗華本人は気にしていないようだが、できることなら人目にさらされないように取り計らってやるのが人の道、というものなのだろう。
「俺の仕事の関係者だ。中での監視は俺が請け負う」
不審者の排除は門番の仕事のひとつだ。任に忠実であろうとする男に労いの笑みを向けながら、蓮は簡単に麗華の『身元』を説明した。ついでに『これ以上は詮索不要』とやんわり告げると、万事を心得た男は柔和な笑みとともに身を引いてくれる。
「良い一日を、幇主」
「ああ、お前もな」
それだけのやり取りで門の内に入ることを許された蓮は、街の中を歩いていた時と変わらない足取りで敷地の中へと足を進めていく。対する麗華はここがどこであるのかを察しているのか、一瞬躊躇うような間を置いてから蓮の歩みに続いた。
──それでも逃げ出すような真似はしない、か。……思ってたよりも従順で助かる。
『ま、逃がすようなヘマをするつもりはねぇけども』と内心で続けながら、蓮は前庭に対して広く開け放たれた表戸の内へと踏み込んでいく。
その中ではまだ早朝と呼んでも良い時間であるにも関わらず、様々な国の装束に身を包んだ老若男女がガヤガヤと騒がしく立ち回っていた。
お仕着せである黒衣を纏った人間を相手に持参した品を見せながら話をする商人。算盤を間に挟んで従業員と顔を突き合わせている旅人。情報交換のためなのか隅に固まり話に花を咲かせる集団。ここに世界が凝縮されたのかと錯覚してしまうほど様々な人間が、早朝という時間帯を忘れさせる姦しさを生んでいる。
そんな人々を見下ろすかのように、広間の奥壁には『双狼黒蓮』を染め抜いた幕が掲げられていた。
──相っ変わらず表間はいつ来ても煩えったら。
活気と騒音が紙一重となったその空気に、蓮は足を止めないまま顔をしかめる。
ここが蓮の職場であり、姻寧における王城。
霜天商会本部。姻寧の住民達が『黒城』と呼ぶ場所の玄関口だ。
「大人? 皇上?」
生憎、蓮の用事があるのは商会の『表の顔』であるこの場所ではない。
さっさと通り抜けるに限る。そんな内心を噛み締めながら改めて盥を抱え直した蓮の耳に、細いくせに不思議と聞き逃さない声がスルリと忍び込んだ。
「『主に仕える身』じゃなかったの?」
チラリと背後を振り向けば、被いた衣の下から麗華が問うような視線を飛ばしていた。塒を出てから初めて口を開いた麗華へ、蓮は軽く肩を竦めて答える。
「愛称みたいなもんでな。商会では各部門の頭のことを『幇主』と書いて『ダーレン』、商会長の游稔のことは『会長』と書いて『ホアンシャン』って呼んでんだよ」
北部の言葉では、『大人』で組織の頭、『皇上』で皇帝を意味したはずだ。
麗華に己の素性を詳しく聞かせたわけではないが、『俺の主』という発言は確かに聞かせた。発言に齟齬があることに、麗華は警戒心を抱いたのだろう。
「……そこだけ、南の読み方じゃないんだ」
蓮の説明に麗華はボソリと呟いた。思わず、といった体の独白を、蓮はあえて聞き流す。
──鋭いな。
この姻寧で主に使われているのは、南部の言語である共通語だ。北部訛りが通じないわけではないし、何なら土地柄、異国の言葉が数種類通じる場所ではあるが、街の住人はほとんどが固有名詞に対して共通語の読みを使っている。
そんな中、霜天商会に関わる固有名詞には、北部訛りを取っているものも多い。特に役職名に顕著だ。
──まぁ、必要ならば游稔が明かすか。
説明を己の上役に勝手にぶん投げた蓮は、勝手知ったる建物の中を奥へ奥へと進んでいった。
表間には商会の関係者が所狭しと詰めて、行き交う人間に目を光らせている。開放的な造りを取っているようでいて、警備は案外固い。その態勢を作り上げたのは、何を隠そう蓮自身だ。
そんな己の支配領域とも言える点をひとつひとつ確かめるように視線を配りながら、蓮は表間から奥へと踏み込んでいく。
「蓮幇主!」
すると次に自分の名前を呼んだのは、華やかな女の声だった。
その声音にビクリと麗華の肩が跳ねる。先程までの商人達の声とは文字通り色が違う声音にげんなりしながらも、蓮は仕方なく足を止めて頭上を振り仰いだ。
「わぁ! 本当に蓮幇主だ!」
「幇主、御機嫌よう」
「ねぇねぇ蓮幇主! 連れてるおチビちゃんは? 初めて見る顔よね?」
表間から裏に抜けた廊下の先は二階まで吹き抜けになっており、二階部分には回廊のように廊下が巡らされている。
その手すりから身を乗り出すかのように、豊満な体の線も露わな衣装を纏った女達が蓮に声を投げていた。
そんな女達の顔をひとしきり順繰りに眺めてから、蓮は溜め息とともに口を開く。
「お前らが相手をするような客じゃねぇぞ」
「あらぁ、ざーんねぇーん!」
キャラキャラと声を上げて明るく笑う彼女達は、この屋敷に仕える下女であり、同時に商会が抱える高級妓女でもある。
人と物が集まり、流れ行く要所には、必ず花街が発展する。商会の表と裏のあわいに位置する『仕事』を仕切るのが、ここにいる彼女達だ。
この場所で彼女達が相手にするのは、商会と取引を持つ商人や旅人達だ。表間で商談を成立させた人間が求めれば、彼女達がここで彼らに一晩の夢を饗する。
商会からの信用と、それなりの金子を用意できる人間のみを相手にしていることもあり、この黒城に詰める女達は姻寧の中で見ても粒揃いの美姫ばかりだ。
──まぁ、『双狼黒蓮』の旗の下にいる以上、ただの美姫ってわけじゃねぇんだけども。
「なぁ、芙蓉は今屋敷にいるか?」
游稔曰く『最高に美しい毒花』達を見上げながら、蓮は問いを投げた。その声に女達は気を悪くした様子もなく無邪気に首を傾げる。
「芙蓉幇主?」
「芙蓉姐様なら、この辺りにはいないわ」
「きっと会長のところよ。蓮幇主にもお呼びがかかってるって聞いたわ」
「そうか」
──俺と芙蓉を揃って呼びつけた?
『何かあったのか?』と一瞬思考が横に逸れかけるが、今考えるべきはそこではない。
蓮は腕に抱えたふたつの盥を示しながら、女達に言葉を投げた。
「悪い。誰でもいいんだが、洗濯を頼めないか?」
「洗濯?」
怪訝な声とともに、一瞬スッと女達の顔から表情が消える。落ちる視線は蓮ではなく、蓮が抱えた盥の中に向けられていた。
同時にスンッと、女達の鼻が動く。この距離から女達の瞳に宿った険に気付けるのは、恐らく蓮だけだろう。
──ちょうどここに集まった『毒花』達は、そっち向きの人間ばっかだしな。
「はーい! 蓮幇主、あたしが引き受けまーす!」
彼女達は娼妓としても一流だが、『毒花』としても一流だ。そういう人間しか游稔はこの屋敷に置かない。
女達の顔から表情が消えたのは、本当に一瞬のことだった。蓮が瞬きをしたその瞬間に、女達は元通りの笑みを顔に浮かべている。
「そこに置いといて。すぐに回収に行くから!」
「蓮幇主だけよ? 私達を捕まえて、洗濯なんていう雑事を命じるの」
「命じられるなら、もっと別の時間帯に、もっと別のことがいいんだけども」
「あー、はいはいはい。游稔に呼ばれてるんだったな、そーだったなぁー」
妓女ならではの艶が纏わりつく軽口をあしらった蓮は、廊の隅にふたつの盥を置くとヒラヒラと片手を振った。そのままつれなく歩き出せば、麗華もその後に続く。女達はまたキャラキャラと明るく笑うと、手を振って蓮と麗華を送り出した。
吹き抜け部分を抜けると、廊下はまた薄暗く陰る。磨き抜かれた飴色の床材に蓮の長靴の踵が当たるコツコツという小気味いい音だけが響いていた。一歩後ろに続いている麗華の足音はしない。塒にいた時からずっとだ。気配も薄くて、ともすると存在を見失ってしまいそうになる。
──暗殺者の身のこなし、だな。
そうでありながら、麗華は不自然なくらい蓮に従順だった。逃げる気配もなければ、蓮に刃を向ける気配もない。唯一殺意をぶつけられたのは寝起きざまのあの攻防の時だけだ。それもそれで蓮をどうこうしてやろうという感情からというよりも、目覚めたら知らない場所にいたことに対する戸惑いからのものだったように思える。
──俺、きちんと『尋問』って単語出したよな? 普通こんなに大人しく従うものか?
『いや、助かるんだが』と内心で独り言ちながらも、蓮はずっと心の端にかかる違和感を拭えずにいた。
まるで、人形を相手にしているような。……いや、『人形』と言うと、何か印象が食い違う。
──意思がないってわけじゃない。感情がないってわけでもない。……ただ、それが正しい反応だとも思えない。
常の仕事中に相手から向けられる殺意や嫌悪。そういった物が一切向けられないせいで調子が狂っている、というのが、現状で一番正しいのかもしれない。
──それだけ『忘れ茉莉花』の影響深度が深いのか。
まあ、実際そうであったとしても、蓮にそこを心配してやる義理はないし、その事実が明るみになったところで以降の判断は主である游稔が降すことになるのだが。
そんなことを考えながら歩いている間に、周囲から人の気配は完全に消えていた。棟をいくつか抜けたためか、屋敷が帯びる雰囲気も公的な物から私的な物に変わっている。
「さて」
そんな景色の中に目的の扉を見つけた蓮は、足を止めると傍らを振り向いた。蓮が振り向いたせいで隣に並ぶ形になった麗華は、目的地に誰が控えているのかすでに理解しているのか、無表情の中にわずかな緊張が見える。
「我らが王とご対面と洒落込みますかね」
麗華に話しかけるわけではなく、あくまで独白として言葉をこぼしながら、蓮は緩く握った拳の背中で軽く目の前の扉を叩いた。