参
路地の広さを考えれば、本来ならば入れないような荷馬車が道を塞いでいた。
「なぜ出立しない?」
月の傾き加減から言えば、予定していた出立時間はすでに過ぎているはずだ。だというのに、階下に見える荷馬車達はピクリとも動く気配がない。
「積み込みはすでに終わっているんだろう?」
「は、はい、娘娘。で、でも、しかし」
「媒人からの合図が、まだ……」
姻寧の中でも裏の裏、街の住人達にさえ存在を忘れられているような山際沿いの建物が、姻寧における紅華の本拠地だった。
表通りに広々と豪華な屋敷を構える霜天商会の存在を感じながらの侘び住まいというのは腹立たしいものだったが、その時間も今晩には終わる。
荷馬車に積み込まれているのは、忘茉莉花を精製して得られた液体状の麻薬だ。従来の忘茉莉花よりも数倍強力な効果を示すその液体は、まだ市場には卸していない最新の麻薬でもある。
紅華の中での通称は『花水』。
経皮摂取はもちろんのこと、気化した液体を経鼻で吸っても忘茉莉花を炙って吸った時と同等の効果が現れる。組織の研究員がうっかり花水が入っていた瓶を落として割ってしまい、その一発で重症依存者になってしまったほどの代物だ。
荷馬車の中には、この花水を詰めた樽がしこたま乗せられている。珊譚から送ったものの他に、近場で精製した物をありったけここに集めさせた。
ここ数日の姻寧は、三幇主の一角が死んだ動揺が広がっているのか、検問の警備が随分と甘かった。荷馬車の花水は姻寧の中で精製した分もあるが、大半の荷はこの数日で運び入れた物だ。
──まあ、これを狙ってあれを折った、っていうのもあるが。
今宵、この荷馬車が全て黒城へ突っ込む。黒城の中で、花水の樽を片っ端から砕いてやるのだ。
蓋を開けて井戸に投げ込んでやるのもいい。忘茉莉花も乗っているから、火をつけて煙を姻寧中にばら撒いてやるのもいいだろう。
いずれにせよ、商会の関係者は今宵、自分達が最も嫌う麻薬によって壊滅させられる。姻寧の住人達も道連れだ。
目障りなやつらは皆、茉莉花の香りに狂って死ねばいい。生き残っても、もはや彼らは忘茉莉花の奴隷だ。商会が滅べば治療薬もなく、手を差し伸べてくれる組織だって他にないのだから。
「合図など、ここまで来たらもうなくてもいいだろう」
部下達の弱気な発言に、女はトントンッと苛立たしげに己が座す椅子の肘掛けを指先で叩いた。
「商会長は義荘にこもりきり。そちらには『新娘』が向かった。『黒』の幇主はもう死んだ。残っている上はジジイと女だけって話だろう?」
「しかし、娘娘」
「あそこに潜っていた媒人は、娘娘のお気に入りでは……」
「そうだったか?」
部下達は女の顔色を窺うように、どこか不安げに女を見つめている。その顔には『娘娘の気に入りの玩具に下手に触れば、どんな怒りを買うか分からない』という恐れがありありと浮かんでいた。
だが女は、それなりに真剣に記憶を漁ってみても、黒城に潜入しているという『お気に入り』の顔を思い出すことができなかった。
ということは、所詮その程度の思い入れしかなかったということだろう。
どうせ気に入りの玩具はすぐに壊れるし、壊れたとしてもすぐに見つかる。一人や二人くらい、作戦に巻き込んで殺してしまっても問題はない。
現に女はこの数年、その玩具がなかったからと言って不自由をした覚えがなかった。
「いいさ。気にしない」
女はあっさりと言い放った。言質が取れたことに安心したのか、途端に部下達の顔には安堵の色が広がる。
だが次の瞬間、部屋の中に爆発するような緊張が一気に広がった。
「さっさと荷馬車をあの屋敷へ……」
女が自分の言葉を最後まで聞くことはなかった。
フワリと爽やかな香気が鼻先をかすめた瞬間、バンッと至近距離で音が弾ける
たったそれだけで、彼女の生は呆気なく終わってしまったのだから。
※ ※ ※
──こうなると、本当に呆気ないもんだねぇ?
袖の中に隠した拳銃で娘娘と呼ばれた女……紅華娘娘頭目・紫椿姫の頭を撃ち抜いた游稔は、ベシャリと床に崩れ落ちた女の死体を無表情に見つめていた。
顔を見ないまま撃ち殺したせいで、正確な容貌はよく分からない。だがとにかくケバくて品がなくて茉莉花臭いオバサンだったということは、鮮血にまみれた死体を見ただけでも分かる。
この女によって、游稔の人生は曲げられた。この女に復讐するために、游稔はここまで地獄を渡ってきた。
治療薬の煙に包まれていなければ碌に物を考えることもできず、何かを記憶することもできない。もはや自分は一人では商会を率いるどころか、生きていくことさえ難しい。己をこんな体にしたのは、間違いなくこの女だ。
本来ならばこんなにあっさり殺してやる筋合いなどない。游稔自身の手で、いっそ死んだ方がマシだと本人が泣き出すような拷問をかけた上で、中途半端に生かした状態で延命し、自分が経験したのと同じ地獄を味わわせてやりたかった。
そうでなくても、色々と言ってやりたいことは山程ある。商会長として尋問したかったことも同じだけあった。
だがそれらを放棄し、とにかくスッパリ確実に殺すことだけを優先したのは、今の游稔が『姻寧の王』であり、『霜天商会会長』であるからだ。
──下手に問答を繰り広げていたら、殺害の機を逸すどころか、荷馬車を取り逃しかねなかったからね。
案外、部屋の中に踏み込むだけならば簡単なのだ。
仲間かと見間違えられるような格好にわざと身を包み、下手にコソコソしないで堂々と真正面から乗り込む。いかにも『関係者です』という様子で、軽く挨拶を交わしつつ、迷いのない足取りで目標がいる部屋へ踏み込む。
あとは隠し持った拳銃でズドン。相手が何やら揉めていたというのも都合が良かった。相手が游稔の存在をしっかりと認識するよりも早く、さっさと殺してしまうことができたから。
──殺しの後の逃走経路の担保を捨てれば、案外捨て身の穏便正面突破は有効、ねぇ?
そんな悪知恵を游稔に授けてくれた悪友は、果たしてこんな手段を用いなければならない場面に遭遇したことがあるのだろうか。游稔が拾ってからは、そんな仕事を任せた覚えはないのだが。
「て、テメェ!」
「何しやがるっ!? てか何モンだっ!?」
部屋の中に詰めていた人間達は、紫椿姫が絶命して、数拍経ってからようやく我に返ったようだった。慌てて武器を手に取り出す連中を、游稔は手にしたままの拳銃で次々と正確に射殺していく。
「どうも。霜天商会です」
游稔がようやく名乗った時には、援軍が部屋になだれ込んできていた。周囲の制圧を任せていた部隊から、何人か回してくれたらしい。下がまだ騒がしいが、荷馬車はきちんと制圧できたのだろうか。
──この場所を割り出すついでに搾り取った情報だ。無駄にしないようにしないとね。
紫椿姫の目的は、新作の麻薬を黒城でぶちまけて、商会もろとも姻寧を滅ぼすこと。その企みを成功させるために、北の黒幇や商会の大半が手を結んだというのだから恐れ入る。
麗華に殺された要人達は、皆この同盟に参加した組織の幹部だった。恐らくは裏側からだけではなく、表の取引でも結託して何かしらの圧を霜天商会にかけるつもりだったのだろう。
それくらい彼らにとって、この場所で忘れ茉莉花の南への流入を堰き止めてたいる霜天商会は邪魔な存在だったということだ。
──短い限られた時間でそこまで金櫻の口を割ってくれた芙蓉には、頭が上がらないねぇ。
さすがは游稔の『秘剣』だ。蓮とともに『双狼』の名を負う実力は伊達ではない。
「ネズミ駆除の業務で、黒城から派遣されてきました」
そんな感慨を噛み締めながら、游稔は目の前の残党どもに向かって声を張る。
あえて己が蘇游稔であることを名乗る必要性はない。そんなことをしたって、己の身柄を狙われるだけだ。
今必要なのは、確実で素早い制圧。そこに怒りや復讐心は混ぜるべきではない。
姻寧の住人と商会、その全てを守るために必要なのは、効率的な作戦遂行だけなのだから。
とはいえ。
──まぁ、一生引きずるかもしれないけどね。この選択を。
ここまで己を生かしてきた怒り。恨み。無念。
それらを晴らす千載一遇の機会が、目の前にあった。それを自分は己の手で無に帰した。
無に帰した、とは少し違うかもしれないが、あっさりとやり過ぎたことは事実だろう。この地獄の業火のような感情をぶつける先は、永久に失われたのだから。
だが、案外この選択だって、悪くはないはずだ。
【大願果たして、腑抜けになるなよ】
そう言ってくれた悪友が、これから先も游稔にはいてくれるから。
──僕は僕の持ち場で、僕の責務を果たす。だから。
「大人しく投降しろ、紅華のドブネズミども」
──だから君も、君が全うすべきことを全うして、必ず帰ってきてよね。
「抵抗しても、しなくても。お前らはここで、全員消す」
その思いを胸に、游稔は殲滅を指示する宣言を高らかに口にした。




