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カーン、カーンと、物悲しい響きが姻寧の空に高く響き渡る。
その音が常よりもよく通るのは、姻寧の街全体が静まり返っているからだ。
姻寧の支配者、霜天商会。
その最高幹部、三幇主の一角に座す人間の急すぎる死を悼む空気が、姻寧中の空気を暗く染めていた。
「うっ、うぅ……!」
「そんな、大兄」
「誰か嘘だって言ってくださいよ、蓮幇主が、こんな急に……」
重く沈む空気を、人々がむせび泣く声だけがわずかに揺らしていく。
【霜天商会三幇主が一人、『大兄』の蓮は、責務を全うした果てに死亡した】
その一報が黒城から発表されたのは、前日の夕刻のことだった。
なぜ蓮大兄が死に至ったのか、詳しい理由の一切は伏せられている。
だが医師としての知識を持つ梅煙老板と、黒城の検死役を担う芙蓉姐様がその死を確認し、会長である游稔が葬儀の日取りを決めたという。
商会上層部の総意であるならば、受け入れなければならない。
地位の高さという点でももちろんだが、蓮大兄と会長は、商会設立初期から背中を預けあってきた盟友であったという。梅煙老板も、芙蓉姐様も、それぞれ蓮大兄との誼は深かった。そんな人々の決定に、部外者が口を挟むべきではない。
その一念とともに、街の住人は街道沿いに顔を覗かせた。
黒城での葬儀には、限られた人間しか出席できない。街の住人達は、黒城を出立した棺が輿に乗せられ、ゆっくりと北陰門の方向へ運ばれていく様子を見守ることで追悼に代える。
「……付き添いは、僕一人にやらせてくれないか」
土地が限られている姻寧では、墓地を両門に挟まれた中に作る余裕がない。姻寧の住人の亡骸は、葬儀の晩は北陰門近くにある義荘に安置され、翌日の日の出とともに北陰門から外へ運び出される。
墓地があるのは街道を北へしばらく進んだ先だ。出棺と埋葬は街の男手を動員して行われるが、出棺前夜の義荘での付き添いは基本的には親族か、特に縁が深かった者数人のみで静かに行う。遺された人間達が、故人との最後の時間を惜しむという意味がそこにはあった。
「会長、しかし」
「頼むよ」
義荘に運び込まれた棺を前に、皆に背を向けたまま游稔は感情が褪せた声で呟いた。
その声を聞いてしまった寒影は思わず顔を跳ね上げる。だがその先にあった游稔の顔を見た瞬間、反論の言葉は喉の奥でもつれて形を失ってしまった。
「一人にしてもらわなきゃ、僕は泣けない」
常の眼鏡ごしでも分かる、薄くクマが浮いた目元。乾ききった表情は、この数日で一気に游稔を老け込ませていた。いつ何時も余裕を崩すことがなかった游稔が、今は憔悴しきった顔を隠しきれていない。
そんな游稔の姿に、寒影は思わず言葉に詰まったたまま肩を震わせた。
──蓮幇主の死を告知してから、ずっと。
いや、きっとそれよりも前から、ずっと。
游稔は恐らく、一度も泣けていないのだ。かつてないほどに疲弊を滲ませた顔をしているが、それだけで保たせてしまっている。その証拠にこうして真っ白な喪服に身を包み、義荘の中で棺に向き合っていても、色硝子の下に押し込められた瞳はどこまでも乾いている。
游稔にとって蓮は、間違いなくかけがえのない存在であったはずだ。
主と護衛という関係でありながら、悪友のようでもあり、片翼のような存在。商会に拾われて、使いものになるようになってまだ日が浅い寒影だが、それでも二人の絆の強さは知っている。
本来ならば游稔は、蓮の死を前に真っ先に泣き崩れていても許される関係性にある。
だが游稔がそれを己に許さないのは、『霜天商会会長』という肩書きを游稔が負っているからだ。
上に立つ人間が弱った姿を見せれば、隙を狙っている人間に付け込まれる。游稔はそのことを痛いほどに理解している。
だから游稔は、誰かが傍にいる時は泣けない。簡単に内心を外に出すことも許されない。今のこの疲れ切った表情だって、本来は見せてもいいものではないのだろう。
游稔が蓮の死を前にして泣くことを許されるのは、今宵、蓮の亡骸に寄り添うこの時しかない。
「……明朝、お迎えに上がります」
言葉に詰まったまま何も言えない寒影の代わりに、頭上から感情を押し殺した声が聞こえてきた。ポンッと肩に置かれた手を視線でたどるように振り返れば、痛みを隠しきれていない鼓条が游稔の背中へ視線を注いでいる。
──そういえば、鼓条さんも……
蓮が商会に拾われた当時、すでに鼓条は商会に身を置いていたという話だった。
鼓条と蓮の間にも、他にはない兄弟のような空気感があった。そのことを『黒』の人間は皆知っている。
「今宵はきっちりと内側から戸締まりをしてお過ごしください」
「……うん」
いまだに蓮を殺した下手人は捕まっていない。麗華も忽然と姿を消したままだ。検問破りの荷馬車に火矢を撃ち込んで姻寧の中で忘れ茉莉花を焚き上げた犯人だって捕まっていない。
本来ならばこんなに警備が薄い場所に、商会長である游稔を一人で置いておくべきではない。
だけど。
──今、無理やり、会長を黒城へ連れ帰ったら。
游稔の心は粉々に砕け散って、もう二度と戻らないかもしれない。
そんな予感に、寒影はうつむいて身を翻すことしかできなかった。




