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血色の花嫁は雨夜に囁く  作者: 篠崎依月
凄雨

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22/31

 麗華(リーファ)と呼ばれるようになった少年は、雨が嫌いだった。


 どんな雨でも嫌いだが、叩き付けるような雨が絶え間なく降っている今は最悪だった。


 聴覚を麻痺させるような雨音は、(リー)(ファ)の心の傷をえぐり出す。自分は決して、その傷に甘えていていい立場にはいないはずなのに。


 ──これから、どうすれば……


 頭から(かず)いた外衣は、降りしきる雨に打たれてぐっしょりと濡れそぼっていた。雨と鉄錆のにおいを吸い込んだ外衣からは、彼の残り香も、温もりも、全てが消えてしまっている。


 ……逃げて、しまった。


 殺しの犯人が麗華(リーファ)だと知られた上で、殺すに値する証拠はあったのかと問い詰められたから。


 ──証拠なんて、ない。


 震え続ける指は、ずっと外衣を握りしめていた。彼の気配が外衣から消えてしまっても、今の麗華(リーファ)にすがれるものはこれしかないから。


 姻寧(いんねい)に入り込んだ(ホン)(ファ)のネズミを駆逐する。(リー)(ファ)(ニャン)(ニャン)から与えられた任を完全に拒絶するには、それを成すしかないと思った。(れん)と商会を守るために(リー)(ファ)にできることは、それしかないと思った。


 今は見つかっていない現場も、殺しの下手人が麗華(リーファ)であることも、いずれは商会に知られると分かっていた。だけどその発覚はもっと後で、商会内部に入り込んでいたネズミを、……(きん)(よう)を消すまでの猶予はきっとあると、無意識のうちに考えてしまっていた。


 殺しに善も悪もない。等しく全て『悪』だ。そこに言い訳なんて(リー)(ファ)もしない。


 全てが片付いたら、蓮と(ゆう)(じん)に、自ら真っ正直に全てを告白するつもりだった。己の出自も、凶行に至った理由も全て偽りなく伝えた上で、商会の裁きに一切の異義を唱えることなく従うつもりでいた。


 だけど、あんな状況で問い詰められることになるなんて、思っていなかった。


 あんなに一方的に麗華(リーファ)が不利な状況で、一切の説明も釈明もさせてもらえないまま全てを知られるだなんて、考えてもいなかった。


 ──もしも僕が、金櫻よりも早く、商会に拾われていたら。


 腕の中に飛び込んできた金櫻を迷いなく蓮は抱き留めた。


 あの状況で、蓮は考えるよりも早く、(リー)(ファ)よりも金櫻を選んだ。


 その光景が、頭にこびりついて離れてくれない。金櫻が何かを口にするよりも早く、無意識のうちに庇う位置に置いた蓮の行動に、胸が痛んで仕方がなかった。


 ──蓮は、きっと、正しい。『大兄(ダーレン)』として、正しい。


 霜天(そうてん)商会武力の頂点。その圧倒的な暴力で(そう)(ろう)(こく)(れん)の旗の下に集う者を庇護し、商会に(あだ)なす者を駆逐する存在。


 それが今の蓮の姿で、肩書きだ。実際に(リー)(ファ)が見てきた蓮は、ずっとその役割に忠実だった。誇りを持っていた。


 最大敵対組織秘蔵の暗殺者と、疑わしき点はあれでも双狼黒蓮の旗の下にいる仲間。


 両者が並べば、蓮が後者を取るのは当たり前のことだ。


 理解している。……理解している、つもりだった。


 ──それでも。


 それでも心のどこかで、期待していた。


 蓮は誰と麗華(リーファ)が並んでも、きっと(リー)(ファ)を選んでくれると。いつだって己の隣に、一番近い場所に、無条件で(リー)(ファ)を置いてくれると。


 あの瞬間まで(リー)(ファ)は、無自覚にそう思い上がっていた。


 そんな都合の良いことなど、起きるはずがないというのに。


「……」


 ヨロヨロと、わずかなりにも進んでいた足が、完全に止まってしまった。足が止まってしまうと、次は全身から力が抜けてしまう。


「……蓮」


 唇からこぼれた声は、小さすぎてきっと誰にも届かない。


「寒い、よ」


 しゃがみ込んで、両手で必死に外衣を握りしめても、温かさなんてどこにも感じられない。


「痛い、よ」


 抱きしめて、ほしかった。


 他ならぬ蓮に。


 あの時、蓮の腕の中に飛び込んでいたのが、自分であったならば……


「蓮……」


 ポロポロと、とめどなく己の瞳から涙がこぼれ落ちていく。


 これだけ雨に打たれて、彼を思わせるにおいも、温もりも消えてしまったのに、己から香る不快な甘ったるいにおいだけが消えてくれない。己の涙が伝えてくる熱だけが、消えてくれない。


「僕は、……僕は、どうしたら」


 どうすれば良かったかなんて、もう分からない。


 ……ただ、己が進むべき道だけは、分かっている。


 これだけ胸が痛いのに、それでもここまで歩を進めてきた。己は裁かれるべきだと理解しているのにあの場から逃げ出したのは、まだ成すべきことが自分にあると思ったからだ。


 その理由を誰に問わずとも、自分はすでに答えを知っている。


「……っ」


 決意をもう一度、痛む胸の奥でなぞる。


 強く、強く。そのせいで自分自身が削れてなくなってしまったとしても、うずくまったままではいられないから。……いたく、ないから。


 ──たとえもう、あの場所に戻れなくても。


 次に出会えば、裁かれる人間と裁く人間であったとしても。


 それでも己がこの道を行かなければ、彼と彼の『家族』が害される。そのことを(リー)(ファ)は、事実として知っているから。


 誰が信じてくれなくとも、己だけはそれがひたひたと迫りくる事実なのだと、知っているから。


 ──僕が、やらないと。


 きつく歯を食いしばり、決意とともに顔を上げる。


 その瞬間、だった。


 視界に、こんな雨夜の闇の中でも、目を射るほどに鮮やかな色彩が飛び込んできたのは。


「……っ!?」


 ヒュッと、勝手に息が上がる。


 闇夜の中にあってなお、痛みさえ覚えさせるほどに鮮やかな紅と金。


 これが誰のための色であるのか、(リー)(ファ)は嫌になるくらい、痛みとともに知っている。


「……うそ」


 乾いてひび割れた声が、豪雨の中にこぼれ落ちていた。


 その音が届くはずなどないのに、配下が差し掛ける紅の(さん)(がい)の下で嫣然と微笑んだ北都の女帝は、(リー)(ファ)に答えるかのようにわずかに小首を傾げてみせる。


 たったそれだけで、麗華(リーファ)の全身は言いしれない恐怖に絡め取られた。だが麗華(リーファ)は全ての気力を総動員させると、後ろへはね飛びながら匕首(ひしゅ)を抜く。


 ──どうして。


 まるで宮中にいるかのごとく豪華絢爛な装束を身に纏った、妙齢の女だった。


 熟れた雰囲気は、腐り落ちる直前の、まさに一番甘みが強いだろう果実を思わせる。だがそれ以上に、毒々しいとも刺々しいとも言える雰囲気の方が印象に残りやすい。


 どこからどう好意的に見ても、裏社会との繋がりが強くにおう。ただそこに在るだけで危険な気配を周囲へ強く振りまく、まさに『毒花』という言葉が人の姿を取ったかのごとき女。


 目尻と唇にくっきりと引かれた紅が、女が浮かべる嗜虐的な笑みをさらに攻撃的に見せていた。その笑みとともに周囲へ毒気を振りまきながら、女は真っ直ぐに麗華(リーファ)を見据えている。


 ──どうして、この人がこんな所に……っ!!


娘娘(ニャンニャン)……!」


 紅華(ホンファ)娘娘(ニャンニャン)の頭目が、そこにいた。


 まるで珊譚(さんたん)の楼閣にいるかのように平然と。激しい雨が叩き付ける、姻寧の細路地の闇の中に。


「……っ」


 どうして、こんなに早く。どうやって姻寧の中に。何でこんな天候のこんな時間に、こんな場所で。


 脳内を白く焼きそうな勢いで駆け巡る疑問はいくつもあった。


 だけど。


 ──これは、好機だ。


 無理やり意識を今目の前のことに繋ぎ直した(リー)(ファ)は、右手に匕首を逆手に握り、低く構える。


 女に相対しているだけでヒュー、ヒュー、と喉が嫌な音を立てていた。肩で息をしているせいで、視界はユラユラと揺れている。全身が雨に濡れた以上の寒気で震えていた。


 ただ、見られているだけだ。女からは攻撃の意思はおろか、言葉さえ向けられていない。


 それでも麗華(リーファ)の体は一方的に消耗していた。女によって魂の奥深くまで刻み込まれた恐怖は、ただ相対しているだけで麗華(リーファ)に膝をつかせようとしてくる。


 それでも麗華(リーファ)は、匕首を握る手に力を込めた。


 ──この場で、(ニャン)(ニャン)を殺すことができれば……っ!!


 娘娘(ニャンニャン)の手が蓮に伸びることはない。蓮は『蓮』のまま、この十年の先をこれからも歩いていける。


 ──そのためなら、僕は……っ!!


 ガチガチと歯の根が合わない口を引き結び、前へ出るために足に力を込める。


 だがその瞬間、雨夜の向こうのどこかから鋭く空を裂く音が響いた。バシッという鈍い音は、鞭が石材を叩いたものだ。


 あの煙と暗闇が満たした中で、散々麗華(リーファ)に痛みを植え付けた音だ。


「……っ!」


 勝手に肩が跳ねる。ヒュッと呼吸が詰まった。全身からかき集めた力が、たったそれだけのことで霧散する。


 その瞬間を計ったかのように、女はうっそりと笑みを深めた。


「お前」


 美しいはずなのに、もったりと闇が粘つくような声音だった。


 骨の髄まで震わせる、笑みを含んだその声に、(リー)(ファ)の精神は恐怖に振り切れたかのように真っ白に染まる。


「随分と、楽しんできたみたいだねぇ?」


 たった一言。


 そのたった一言で、麗華(リーファ)はヘタリとその場に膝をついていた。手から抜け落ちた匕首が、バシャリと足元の水溜りの中に落ちて消えていく。


「あ……あっ……」


 戦わなければならない。殺さなければならない。


 自分ならばできる。目の前にいるのは、ただの非戦闘員の女だ。


 意識のどこかはそんな主張を繰り返す。


 だが植え付けられた恐怖を引きずり出された(リー)(ファ)の体は、震えるばかりで動き出そうとしてくれない。


 あの、煙と闇の中で、何回も何回も、繰り返し意識を奪われた。嫌だ、やめてと叫んでも、その言葉が聞き入れられることはなかった。


 (しつけ)には鞭が飛んだ。身を裂かれる痛みは、体に跡は残さずに精神に深い跡を残した。


 勝手に意識を支配される恐怖。自分が自分を失っている間に、催眠暗示によって勝手に体を使われる恐怖。痛みへの恐怖。絶望への恐怖。


 そんなあらゆる恐怖が、全て目の前の女に繋がっている。


「もう、気は済んだだろう?」


 無力なまま震えることしかできない麗華(リーファ)へ、女はツイッと指を向けた。真っ赤に染めた美しい爪を備えた指が、一度振り上げられた後に振り下ろされる。


「っ!?」


 次の瞬間麗華(リーファ)は、雨に閉ざされた向こう側に潜んでいた配下によって取り押さえられていた。全身の力が抜けるようにへたり込んでいたところを、男四人がかりで押さえ込まれてしまっては、(リー)(ファ)であっても太刀打ちはできない。


「っ、嫌だっ!! 触るなっ! 離せっ! 離せったらっ!!」


 一度麗華(リーファ)を地面に叩き付けた男達は、次いで(リー)(ファ)を引き起こすと素早く顔面に布を押し当てた。


 その布から香る不快な甘ったるいにおいを察知した麗華(リーファ)はとっさに息を止めて暴れるが、絡みつくように麗華(リーファ)を拘束している男達の手は簡単には離れない。


 逆に鳩尾(みぞおち)に肘を叩き込まれた麗華(リーファ)は、反射的に開いた口から思いっきり布に染み込ませた香りを吸い込んでしまった。


 ──マズい……っ!!


 クラリと意識が揺れたのは、最初の一瞬だけだった。次の瞬間には急速に酩酊感が広がり、思考が急激に鈍っていく。


 ──イヤッ……嫌だ、嫌だ……っ!!


 意識は必死に抵抗しているのに、クタリと弛緩してしまった体は貪るようにその香りを吸い込んでいた。その香気が体を巡るたびに、今まで(リー)(ファ)を雁字搦めにしていた恐怖が鳴りを潜め、堪らない快感が体の端々を支配し始める。


「よく効くだろう? お前でも酔わずにはいられない、とっておきだ」


 霞んでいく意識の向こうで、誰かが何かを言っている。


 だがもう何を言われているのかも、麗華(リーファ)には分からない。


「こいつでこれだけ効くなら、一般人にはちょいとキツすぎるかねぇ。一発で死なれちゃ、(カネ)(ヅル)になりゃしないよ」

娘娘(ニャンニャン)、あまりお近付きになられませんよう……」

「精製している分、効果も強力です」

「知ってるさ。こいつを酩酊させるようなブツを作れって指示したのは、あたし自身なんだからね」


 フワフワする。そうでありながら、脱力感が心地良い。


 五感をくすぐる何もかもがキモチイイ。そうでありながら時折、意識に鉤爪を立てるような痛みがビリビリと体を引き裂いていく。だがその痛みさえもが次の瞬間には快楽に化けていて、最後には結局痺れるような気持ちよさに意識が端から焼かれていく。


「あっ、は……ふ、……ぅん、あぁっ」


 自分の唇から声がこぼれ落ちるたびに、その衝撃が生む快楽に体が跳ねた。


 バラバラになっていく。


 何もかももう分からなくなっているのに、そんな感触がしたような気がした。


「ふぅん? 随分と気持ちが良さそうじゃないか」


 ビクビクと跳ねる聴覚の向こうから近付いてきた気配が、不意にグイッと麗華(リーファ)の髪を鷲掴んで顔をあおのかせる。


 本来ならば強い痛みを感じてしかるべき所業であるはずなのに、全てが(もや)に閉じ込められた(リー)(ファ)にとっては、その感触さえもが身に過ぎる快楽だった。


「ぁ、んっ……」

「次はどんなもんで効果が抜けるのかを確認しようじゃないか」


 もう耳元で(ささや)かれている言葉の意味を理解できる余裕さえ残されていない。(リー)(ファ)に分かることと言えば、耳元で言葉を囁く吐息が己の内にまた新たな快楽を落とすということだけだ。


「ちょうど良く治験体が現れたようだからね」


 不意に麗華(リーファ)の耳に、カリッと鋭い痛みが走った。許容量を超える衝撃に、麗華(リーファ)は甲高い声を上げながら体をのけぞらせる。


「『お前を迎えに新郎(シンラン)が来たよ』」


 意識が白く焼ける。


 その隙間にスルリと、暗示の言葉は落ちた。


「『出迎えなさい、新娘(シンニャン)』」


 快楽に(なぶ)られ焼かれた意識は、もはや形を失っている。


 周囲が手を離すと、麗華(リーファ)の体はベシャリと水溜りの中に投げ出された。そのまま視線を注がれていた麗華(リーファ)は、数拍するとユラリと自力で立ち上がる。


 美しい顔に、表情はなかった。そうでありながらその瞳には、熱に浮かされたような(こう)(こつ)とした光が揺れている。


 ユラリ、ユラリと幽鬼のように数歩よろめいた体は、次第にスッと背筋を正し、『新娘(シンニャン)』の呼び名に相応しい(たたず)まいを整えた。その手の中にはしっかりと匕首も握られている。


 篠突く雨の向こうから、人を呼ぶ声が切れ切れに聞こえていた。


 誰よりもその声を待っていたはずである『お人形』は、標的が近付いてくる音に、静かに(こうべ)を巡らせた。


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