弐
「助けてください、蓮幇主っ!!」
『大兄』としての蓮は、その声に考えるよりも早く金櫻を庇う動きを取っていた。
腕の中に真っ直ぐに飛び込んできた金櫻の柔らかな体を、反射的に受け止めて庇う位置に置く。そんな蓮の仕草に、麗華の瞳が愕然と見開かれたのがこの距離からでも分かった。
「蓮幇主! 麗華少主が……麗華少主が……っ!!」
体を震わせながら蓮の胸に縋りついた金櫻は、そのままワッと声を上げて泣き始める。
その気持ちも、分からなくはなかった。
いかにも色事のための宿らしい内装の部屋の中には今、隠しきれないくらい血の臭いが立ち込めている。寝台の天蓋を支える柱に磔にされた男は明らかに絶命していた。殺されてまだ間もないのだろう。外から響く雨の音に混じって、鮮血が滴る粘りのある水音が微かに聞こえてくる。
「あっ、あっ……! 麗華少主がやったんです!」
蓮の視線が何に捕らわれているのか察したのだろう。柔らかな体を擦りつけるように蓮にしがみついた金櫻は、涙に濡れた顔を上げると声を詰まらせながら必死に蓮へ訴える。
「わ、私が、常連様の急なお誘いを受けて、ここでお相手をしていたら……っ! 急に少主が乗り込んできて……っ!」
「……っ」
多分、麗華には、何かしらの理由がある。こんな凶行に及んだ理由が、何かしらあるはずだ。
蓮の心は、とっさにそう叫んでいた。
だが蓮はその言葉を、軽はずみに口に出すわけにはいかない。
──どう考えたって、この状況は……
この場にいた金櫻は、あの男を殺したのは麗華だと証言している。実際問題、この場にいたのが麗華と金櫻とあの男の三人だったならば、この凶行を為したのは間違いなく麗華だろう。
口の中から喉奥を突き破る形で、刺突一撃で大の男を仕留める。どう考えても素人にはできない所業だ。
──それに、あの言い争いの声は……
麗華がこの宿にいることを割り出してくれたのは鼓条だった。
蓮が殺しの現場に足を運んでから、半刻ほど経ったかといった頃合いのことだ。
その頃には木蘭の呼び出しを受けた芙蓉と梅煙も現場に到着していて、殺された四人の身元の特定も完了していた。
蓮は報告に来た鼓条に現場を預けて、もたらされた情報を元に一人でこの宿に来た。
【僕は蓮を殺さない】
この部屋に至るまでの廊下を駆けている間に、聞こえてしまった。
あの声を、蓮が聞き間違えるはずがない。
【紅華にも戻らない。刃にも莉花にも、もうならない】
──麗華の、……『新娘』の標的は、俺だった。
麗華の正体は、紅華娘娘が隠し持つ暗殺者、『新娘』。それはすでに分かっていた。
麗華は恐らく錯乱した際の衝撃で記憶を取り戻しており、己の正体と目的を知っている。それはすでに予想ができていた。
だが麗華が殺意を向ける対象が己であるとは、予想できていなかった。
あの柔らかな笑みを向けてくれた麗華が。本物の星空よりも美しい煌めきを閉じ込めた瞳で蓮を見上げてくれた麗華が。蓮の傍にいると心が温かくなると言ってくれた麗華が。
本当は、蓮を殺すために用意された存在だった。
──俺だって他所から命を狙われる立場にいる。それは分かりきったことだろうが……!
霜天商会の武力の象徴。霜天商会の物理的な守護者。それが周囲から見た今の蓮だ。
蓮を害することは、引いては商会が備える戦力を損ねることに繋がる。
つまり蓮を殺すために用意された麗華は、明確に商会の敵だ。
だがそんな麗華は『蓮を殺さない』と口にしていた。『紅華には戻らない』という趣旨の言葉も聞こえていた。
だが。
【お前を殺して、姻寧に入り込んでいるネズミも全員炙り出して殺す。……そうすれば僕は、霜天商会の麗華でいられる】
同時に麗華は、金櫻を殺すという宣言もしている。
霜天商会に属する人間である、金櫻を。
「……蓮」
グラグラとめまいがしそうな心地だった。
そんな蓮の名を、高くも低くもない、微かに掠れを帯びた声が呼ぶ。
「その女を離して」
動きが鈍い首を無理やり巡らせて麗華を見やる。
視線の先で、麗華は真っ直ぐに蓮を見ていた。外衣に隠されていても、血の気が失せた美貌に表情らしき表情が浮かんでいないことが分かる。
久しぶりに、正面から視線が絡み合った。
それなのに蓮の胸を騒がせている嫌な感覚は消えていかない。むしろ胸騒ぎは加速の一途をたどっている。
「その女は、紅華が商会に送り込んだネズミだ。この一連の事件の黒幕として、暗躍していた」
「証拠は」
この局面で言われるならば、その言葉しかないと思っていた。
それに蓮は、判で押したような言葉を返すことしかできない。
「具体的な証拠は、あるのか」
麗華を信じたいと、蓮の心は叫んでいる。
今まで見てきた麗華は、ずっと蓮に対しても商会に対しても誠実だった。嘘をついていたことなど、実際一度もないのだろう。
麗華は商会のために、取り戻した記憶と知識を元に、率先して動いてくれた。蓮だってそう信じて、麗華の傍らに並びたかった。
だが蓮が負っている立場と、耳にしてしまった情報が、決してそれを許さない。
霜天商会守護の要。
霜天商会の敵を屠り、双狼黒蓮の旗の下にいる者を守る。
それが『黒』の役割で、蓮はその『黒』を率いる立場にいる。
どれだけ直感が、感情が、麗華を信じ、想っていても、蓮は簡単にそれらに身を任せるわけにはいかない。
蓮の判断は、時と場合によっては商会全体の判断となる。蓮の決断ひとつで、商会を滅ぼすことになりかねない。
今がその時だ。商会の未来が、蓮の判断ひとつにかかっている。
──今のこの部屋の中の状況だけじゃない。ここまでに至る経緯もある。
負っているものが重すぎる蓮は、誰もが納得する証拠がなければ動けない。
麗華が蓮のために世界を敵に回してしまったら、蓮は麗華が滅ぼそうとする世界と同じ方にいなければならない。
蓮は簡単に、麗華の隣には並べない。
その事実が、こんなにも歯がゆい。
「金櫻は、霜天商会の仲間だ。……短くない間、ずっと一緒にやってきた」
重く、言葉を選ぶように、躊躇いながら口にした蓮に、麗華の顔からはさらに血の気が引いていった。キリッと手の中で握り直された匕首は、余計な力が込められているせいでカタカタと細かく震えている。
「麗華、お前……」
ここに来る前にも、人を殺しているのか?
拷問にかけた末に、四人も。……いや、恐らくは発覚していないだけで、それ以上。
本来ならば、そう問いかけるのが妥当なのかもしれない。
だがその問いを口にするよりも早く、蓮にはもう答えが分かってしまっていた。
だからこそ蓮は、外衣に隠した手元に匕首を滑り込ませながら続く言葉をすり替える。
「お前が殺した四人は、全員商会の得意先の重役だったんだ」
蓮の言葉に、麗華はピクリと小さく肩を震わせた。だがそれでも麗華は、匕首を下げることなく低く構えたまま蓮から視線を逸らさない。
「梅煙さんと芙蓉が現場に呼ばれて、確認した。……この殺しが発覚すれば、商会はそれぞれの取引相手から詰められることになる」
あの部屋で死んでいたのは、いずれも商会との取引を持つ組織の、それなりの地位にいる人間達だった。直接取引に関わっていた者、長の側近、護衛隊の頭などと地位は様々だったが、いずれも梅煙や芙蓉が顔と所属を把握している人間ばかりだった。
──全員が北の人間で、金櫻と関わりがあった。それに、逗留していた男は身分を偽っての長逗留ときた。
疑うべき点も、怪しい点も、確かにある。彼らの背後に紅華の存在をまったく感じないと言えば、それは嘘だ。確かに商会内でもきな臭い噂はそれなりにあったという。
しかし、確たる証拠はどこにもない。現時点で彼らは、あくまで『霜天商会にきな臭い思惑を持っているかもしれない』という疑いがあるだけの、きちんとした取引相手なのだ。
その取引相手の重役を、麗華が殺してしまった。『新娘』ではなく、霜天商会の一員である麗華が。
その事実が詳らかにされてしまえば、商会の地位は大きく揺らぐ。
「麗華、あいつらが紅華の手先だっていう証拠を、お前はどうやって提示する?」
無理だと分かっていながら、蓮はそう問うしかなかった。同時に蓮の胸中では『頼むから証拠を示してくれ』という悲痛な叫びが上がっている。
だって、ここで麗華が『証拠はない』と、潔く認めてしまったら。
──その時は……
要人殺しの犯人として、麗華を処断しなければならないから。
『黒』の幇主としての責務に則り。
他ならぬ、蓮自身の手で。
「……証拠って、なに?」
蓮は祈るような気持ちで麗華を見つめる。
そんな蓮の視線の先で、麗華の手の中にある匕首が、ゆっくりと下げられていった。
「僕は、何を証として差し出せば、君に納得してもらえるの?」
泣き出しそうな、か細い声だった。
それでもその声は、窓の外から響く雨の音を縫って、かき消されることなく蓮の耳まで届く。
「信頼に値するほど、君達と時を過ごしたわけじゃない。記憶は明かせない。……僕には、何もない」
星空を閉じ込めた瞳が、震えていた。表情がなかった顔にジワリと滲むように笑みが広がっていく。
ひび割れる直前の薄氷のような。
いつだって不器用にしか表情を変えなかった麗華が浮かべたのは、泣きたいのか笑いたいのか分からない、どんな顔をすればいいのか分からないくせに激情だけはあると分かる、グチャグチャな笑みだった。
「ねぇ、蓮」
その笑みに、蓮の息が詰まる。
まるでその苦しさを自ら引き受けるかのように、麗華は空いていた左手で己の胸元の衣を鷲掴んだ。
「僕は君に何を示せば、君の隣にいられたの……?」
「っ、麗……!」
蓮は反射的に金櫻を突き飛ばすと前へ出る。
だが蓮が伸ばした手は麗華には届かない。
「っ……!」
麗華が手にしていた匕首が宙を飛び、飾り窓の中心の留め金を割る。真ん中から開く構造になっていた窓は、麗華が身を投げるとあっさりと麗華を外へと通した。
「麗華っ!!」
とっさに蓮は麗華の後を追って窓から外へ飛び出す。
だが凄雨に霞んだ宵闇の中に、麗華の姿はすでに消えていた。




