壱
「……さぁ? 何のことだか、あたし、分かりません」
決定的な場面を押さえられていながら、金櫻は引き攣った笑みを麗華へ向けた。
何もかもを知っていると強張った表情は物語っているにもかかわらず、金櫻はあくまで『何も知りません』という主張を崩そうとはしない。そうでありながら麗華へ向けられた笑みには情けを乞う色がある。
「何でこんな酷いことするんですか? 少主。この人は、あたしの上客で……」
「今更、取り繕ったところで意味なんてないよ」
だがどんな感情を向けられようとも、麗華の心が揺らぐことはない。
「僕、君の顔に見覚えがあるんだ。三、四年前まで、娘娘の腰巾着をしていたでしょう? 僕の調教現場でも、場違いなくらいにベッタリ娘娘に貼り付いてたの、覚えてるよ」
何も感じないまま、麗華は淡々と言葉を重ねる。
その瞬間、金櫻の顔からスルリと表情が消えた。
「姿を見かけなくなったから、てっきり処分されたのかと思っていたけど。まさかこんな場所に潜り込んでるなんてね」
「……何の、話です?」
表情を取り繕うことをやめた金櫻は、蔑むような視線を麗華に向けていた。その顔には『見覚えもクソもあったもんか』『あんなに燻された状態で、ロクに記憶なんてあるはずがない』という内心がありありと浮かんでいる。
そうでありながら語調は先程から一切変わらず、恐怖に震える哀れな娘そのものなのだから大したものだ。
「お前が、姻寧での手引き役だったんだろう?」
紅華娘娘にいた時、麗華は常に香窟の中に押し込められていた。常人ならばそれだけで死んでいてもおかしくない量の忘茉莉花に常に燻され続けていた。そんな麗華に記憶力や思考力が残されていたなど、誰も信じることはないだろう。
だがその認識に反して、煙が完全に抜けた今、麗華の記憶にはそれなりのことが残されている。
麗華を痛めつけた主のことも。主の周囲に侍っていた人間達も。自分を踏み付け、足蹴にしてきた人間達も。
曖昧な部分は、もちろんある。忘れている部分もあるだろう。
だが娘娘に入れ上げ、狂っていたこの女のことは、それなり以上に記憶に留められていた。
「僕が無事に姻寧までの道中を終えていたら、お前が媒人として僕と蓮を引き合わせる手筈だったんだろう? 随分うまく霜天商会に潜り込んでいたんだな」
麗華が言葉を続けると、金櫻はフツリと口をつぐんだ。わずかに警戒心が滲んだ表情を見れば、麗華の発言が的を射ていたことが分かる。
──やっぱり、紅華が『新娘』を送り込もうとしていた先は、商会長の游稔のところじゃなくて……
標的に関する司令を直接聞かされることは、今までほとんどなかった。興味もなかったし、靄に阻まれた思考で何かを思えるほどの余裕は麗華にはなかった。
だが、今回だけは例外だった。
【お前が勝手に隠した、わたくしの『秘剣』が見つかったらしいの】
あの甘ったるい煙が充満した闇の中で。
煙よりも甘ったるくて、聞くだけで総毛立つような痛みを思い起こさせるあの声が己の耳元で囁いた言葉を、今の麗華は鮮明に思い出すことができる。
【お前が覚えているかどうかは知らないけれど。お前自身がかつてわたくしと約したこと】
お前があの子を越える秘剣になる。だからあの子を見逃してやってくれ。
その約束をお前が果たしたのか、確認をしなければね?
【ツケは利子も揃えて返す。常識よね?】
その言葉とともに、『新娘』は棺の中に押し込められた。
「当初は媒人でさえなかったんだろ? 娘娘が各地にばら撒いた『種』のひとつに過ぎなかった。お前はたまたま当たりを引いただけ。……そうなんだろ?」
『新娘』の今回の標的。紅華の女主が『秘剣』と呼ぶ存在。かつての麗華が己の全てを代償にして逃がした少年。
十年前。満月が深々と月光を注いでいたにもかかわらず、その光を蹴散らすかのように雨が降り注いでいた中。
紅の婚礼衣装を纏っていたのは、莉花ではなく彼だった。
霜天商会の武力の頂点。
三幇主が一人、蓮。
あの日がなければ『リーファ』はただの『花』のままで、『新娘』と呼ばれることはなかった。
婚礼衣装を纏う、幽鬼のごとき暗殺者。
その称号は、彼のものになるはずだった。
「……何の話なのか、あたしには分かりかねます」
麗華がカマをかけるように次々と言葉を投げても、金櫻はあくまで言葉上はシラを切り続ける。だが麗華を憎々しげに見据える尖った視線は、麗華の言葉を全て肯定していた。
──紅華は、ずっと刃の行方を追い続けていた。
かつての麗華は、ただの世話役だった。『忘茉莉花への耐性が高い』という体質に目をつけられ、香窟の中で刃の候補達の世話をする役割を与えられていた。彼らが死なないように煙の濃度を調整し、食事を与え、世話をするというのが、莉花に与えられた役目だった。
そんな莉花が刃に成り代わって『新娘』、……紅華娘娘が長年開発を進めていた『命令に絶対忠実な最強の暗殺人形』となったのは、己の失態を己の人生の全てで補填するという取引を紅華の頭目と交わしたからだ。
【僕が刃になる】
何人もいた刃の候補達は、花轎に乗せられる頃には最後の一人になっていた。
娘娘が『この子はとっておきよ』と言って連れてきた、まだまだ小さな体躯の少年。紅華が仕込む前から武芸の基礎があったその子は、聞こえてくる噂によると、どこぞの名のある将軍家の子供であったらしい。
彼だけが、あの地獄を生き延びてしまった。
【貴女が執着していたあの子を越える刃になる】
刃から見れば、莉花は紅華と一緒になって自身を忘茉莉花漬けにした憎い敵であったはずだ。事実、刃の候補達はつかの間正気に戻るたびに莉花を恐れ、罵り、遠ざけようとした。
そんな中で、一番幼かったあの子だけが。
あの子だけが『君も痛いの?』と、小さな手で莉花を労ってくれた。一緒に花轎に乗せられていた莉花に、『一緒に逃げよう』と言ってくれた。
莉花は、刃に確実に仕事をさせるために、いわば調教役として花轎に乗せられていたというのに。
あの子はそれを理解した上で、言ってくれた。
『一緒に逃げよう』と。『あんなに痛い場所にいちゃダメだよ』と。
……その温もりだけで、十分だった。
あの子は、誰もあると思っていなかった莉花の心を見つけてくれた。莉花の心を思ってくれた。
あの煙と闇に支配された世界の中で、あの子の傍にいる時だけ、自分は己の胸に彼と同じ温もりがあることを実感できた。
だから今度は、自分の番。
【刃は僕が殺した。もうこの世のどこにもいない。だから探さないで】
──その取り決めを守ってもらえるとは、……もちろん、思っていなかったけども。
あの日、後に『花轎游行』と呼ばれるようになる集団の試作体が壊滅したことを知った紅華は、凶手として捕らえた莉花を娘娘の前へ連行した。
その時に莉花が口にした言葉を受けた娘娘は、表面上は莉花の言葉を受け入れ、死に絶えた刃達の代わりに莉花を新たな暗殺人形として仕込んだ。
だが娘娘が見せた納得は、莉花を丸め込むための、本当に表面上のものだったのだろう。莉花を徹底的に扱き上げる裏で、娘娘はずっと手段を選ばず最後の刃を探し続けていたのだ。
──拾われた先が霜天商会じゃなかったら、きっとあの子はとうの昔に紅華に引き戻されていたか、あるいは……
あの時、刃の試験として課されていたのは、霜天商会会長・蘇游稔の暗殺だった。
その標的に拾われたからこそここまで命を繋いでこられたなんて、なんて滑稽な話なんだろうか。
──でもこの因果も、もうおしまい。
一連の黒幕の頭は金櫻だ。これまで潰してきたネズミ達も一様にそう証言している。
娘娘自身が姻寧に乗り込んでくる計画があろうとも、実行役の頭である金櫻がいなければ計画は動かせない。
──ここで金櫻を消して、乗り込んでくる娘娘も殺す。
一大黒幇の女主とはいえ、娘娘自身は戦闘能力を持っていないただの女だ。護衛は連れているだろうが、紅華の本拠地にいる時に比べれば防備は薄い。
今の麗華ならば、殺せる。
「お前の計画は、ここで潰える」
麗華は後ろ腰から匕首を抜くと、低く構えた。
「僕は蓮を殺さない。紅華にも戻らない。刃にも莉花にも、もうならない」
麗華の殺意にさらされた金櫻は、顔を引き攣らせながらジリッと後ろへ下がる。
だがいくら下がったところでその先にあるのは壁と窓だ。金櫻の身体能力では窓から逃げようと身を翻した瞬間に命が終わる。
「お前を殺して、姻寧に入り込んでいるネズミも全員炙り出して殺す。……そうすれば僕は、霜天商会の麗華でいられる」
低く宣言し、最後の瞬間を与えるために呼吸を測る。
その瞬間、恐怖で引き攣っていたはずである金櫻の口元に、不自然な笑みが浮いた。
「ご存知ですか? 少主」
暗殺者としての麗華の本能は、その不自然に反射的に身構える。
その隙間にスルリと挟み込むかのように、金櫻は囁くような声音で言葉を紡いだ。
「蓮幇主は忘れ茉莉花の後遺症で、人より五感がずっとずっと鋭いんです」
「……どういう、……っ!?」
脈絡のない金櫻の発言の意図が分からず、麗華は胡乱げな声を上げる。
だが次の瞬間、麗華の中で不自然と不自然が一本の線で繋がった。
──まさか、そんな……っ!?
金櫻は表情で麗華の発言を認めていながら、言葉では頑なに『被害者』の立場を貫いていた。もっと言葉で麗華を蔑み、詰ることもできただろうに、それをしなかった。
表情は、この部屋にいなければ知ることはできない。だが会話の声は、壁を隔てた向こう側からだって聞くことができる。
今の会話を外から音だけ聞いていれば、第三者は金櫻を『被害者』だと判断するだろう。
「あなたに拾えない音も、蓮幇主には拾えてる」
「麗華っ!!」
その瞬間、金櫻の声を掻き消すかのように荒々しく部屋の扉が開かれた。ハッと振り返ればそこには、全身をしとどに濡らした蓮が、肩を上下させながら立っている。
「っ、……!」
麗華と視線が合った瞬間、蓮は苦しそうに眉根を寄せた。
その表情だけで、分かってしまった。
──聞かれていた。
心臓が氷塊に置き換えられたかのように、胸から全身が冷えていく。
「蓮幇主っ!」
その冷たさは、麗華の隙をついて蓮に駆け寄った金櫻が蓮の胸の中に飛び込んだ瞬間、痛みに変わった。
「助けてください、蓮幇主っ!!」
蓮の腕は、金櫻を庇うように金櫻の背中に回る。
それが、蓮の答えの全てを表していた。




