壱
姻寧は、山と城郭に囲まれた小さな街だ。山と山の切れ間を走るように作られた街道鎮守のために置かれた関所が、そのまま街として発展したのが姻寧だと言われている。
北方の繁都である珊譚、嬰宝、寸符へ抜けるにしろ、南方の要所である翠羸、都である李煌に向かうにしろ、必ず通るのが姻寧だ。『藩烏の国を走る街道は、必ず姻寧に集まる』という言葉通りに、天衝連山を越えて南北を行き来する物も人も、必ず姻寧を通る。
土地さえあれば、今の四倍以上の規模の街に成長していた。
そう言われる姻寧の街は、土地を惜しむがために縦へ縦へと日々成長を続けている。
「……ん」
その中でも、一際縦に長い貸家が肩を寄せ合う下街の一角。
天衝連山の影に入るせいで朝のわずかな間にしか日が差さない、採光最悪かつ、上層階ゆえの不便さが際立つ一室が蓮の塒だ。
──あれ、俺、何で床で寝てんだ……?
備え付けの寝台と、前住人が残していった腰高の箪笥、そこに自分が持ち込んだ小卓があるだけで手狭になる一室。
そんな見慣れた我が家の中、床に座って卓に突っ伏すように眠っていた蓮は、顔に差し掛かる光に目をすがめながらムクリと体を起こした。変な体勢で眠っていたせいか、体の節々が痛い。
蓮は不機嫌を顔に貼り付けたまま、しょぼつく目を寝台へ向ける。
そしてようやく昨晩の自分が床で眠ることになった『原因』を思い出した。途端に意識の端にうずくまっていた眠気は綺麗に霧散する。
「……」
床にあぐらをかき、卓に肘をつきながら気配を殺した蓮は、己の寝台に横たわるモノを観察した。
──こうして見てると、天女そのものなんだがな。
黒絹のような髪。雪のように白い肌。血の気が失せているせいで唇も頬も紅みはないが、それらは美貌を損なうどころか、逆に儚げな美しさに拍車をかけている。
蓮の夜着に身を包み、普段蓮が使っている掛布に埋もれるようにして眠っているのは、我が目を疑うほどの美貌を備えた人物だった。
──まぁ、残念なことに、『少女』じゃなくて『少年』なんだが。
昨晩の蓮は、帰宅の道中に人を拾った。正直、捨て置くことも考えたわけだが、気付いた時にはあの細い体を肩に担ぎ上げ、今にも段が抜けそうな階段をわざわざ五階まで登ってこの部屋まで連れてきていた。
泥水と返り血を吸った少年の装束は重く、そんな少年を装束ごと抱えていた蓮は衣服どころか体までベッタリと汚れてしまったわけだから、本当に良いことなど何もない。下手をしたら仕事着を一着ダメにしている。
そうでありながら、なぜここまで見も知らぬ『落とし者』の世話を焼いてやったのか、蓮は自分でも意味が分からなかった。
──強いて言うならば。
聞いてしまったから、だ。
「……」
喉の奥で渦巻くうめき声をこぼさないように注意しながら頭を掻きむしった蓮は、音を立てないように立ち上がると外廊下へ続く扉の前にデンと置かれた盥に歩み寄る。
八階建ての五階層目。寝煙草なんてした日には他の部屋の住人と仲良く心中、水をぶちまければ下階層と争い必至なこの物件には、厨も洗い場も備え付けられていない。洗濯をしたければ地上まで降りて共用の井戸を使い、食事にありつきたければ一階に暮らす大家に竈を借りるか、調理済みの物を買ってくるしかない。
昨晩遅くに帰った蓮には洗濯ができる装備もなければ時間もなかった。結果、少年が着ていた衣裳はこの盥の中に、少年の衣裳に汚された蓮の仕事着は隣の盥の中に、それぞれ仲良くぶちまけられている。
蓮は少年から引っ剥がした装束をつまみ上げると、朝の光の下、改めて状態を検分した。
元は真紅の絹地に金糸で細やかな刺繍が入れられた、それはそれは高価な花嫁装束だったのだろう。紅蓋頭まで共布で設えられた幾重にも布地が重なる装束は、蓮の目で見ても良い仕立てがされていると分かった。下手をすればこの装束一式にかけられた金で小さな家くらいは建てられるかもしれない。
もっとも、そんな高価な代物も、今は血と泥水で汚れきっていて、ただのボロキレ以下ではあるが。
──これだけ血に塗れていながら、当人は無傷とは畏れ入る。
拾い者とはいえ客人を床に転がすわけにはいかず、さりとて寝台を汚されるのも嫌だったから、装束を引っ剥がし、体を簡単に清めてやってから自分の夜着を着せて寝台に転がしてやった。少女のような美貌をしていながら男であることも、陶器のような肌に外傷らしい外傷がなかったことも、その時に確認が取れている。
蓮はそのことを改めて思い返しながらスンッと鼻を鳴らした。昨晩はあれだけ少年から血臭と不快な甘ったるい臭いを感じたのに、今この装束からはすえた臭いしか感じない。
──ということは、だ。
あの甘い香りの大元は、と考えた瞬間、キシリと板材が軋む。同時に、装束からは感じなかったはずである甘ったるい香りが鼻をついた。
その一呼吸分前から異変を察知していた蓮は、己の首に小さな痛みが走っても構うことなく気のない声を上げる。
「あんまり強く踏み込むと、簡単に床が抜けるぜ」
振り返ることはしない。下手に首を動かせば首を落とされる。
装束を引っ剥がした時に、体のあちこちに仕込まれていた武器は全て取り上げた。ならば今、自分の首の皮に食い込んでいるこの糸状の暗器は何かと考えた蓮は、恐らくあの長い髪を一筋抜いたのだろうと当たりをつける。
「下の階のやつ、面倒な性格してるからよ。床を踏み抜くのも、血をぶちまけて苦情をもらうのも、あんまオススメしねぇぞ」
下手を打てば一瞬で殺される。その状況を理解していながら、あまりにも平然としている蓮に動揺が隠せないのだろう。蓮の背後を取り、強く両手の間に渡した髪で蓮の首の皮を一枚裂いた少年は、微かに手元を震わせていた。
──それでも、下手に声は上げない……か。
殺す相手に己の情報は決して渡さない。腕の良い暗殺者の条件だ。
「……なぜ、助けた」
しばらく無言のまま蓮の行動を見定めていた少年は、沈黙を貫く蓮に根負けしたかのように声を上げた。
囁くような声音だが、高くも低くもない声は、男のものであるようにも女のものであるようにも聞こえる。そうでありながら蓮の背中にトンッと触れた胸は、少女ならば必ず備えているはずである丸みを一切感じさせない。
──『丸みがない』だけなら、まだ『限界まで痩せ細った女』って可能性も否定できねぇんだけども。
しっかりついていることは、すでに昨晩確認済みだ。したくてしたわけではないのだが。
「助けたっつーか、拾っただけなんだが」
蓮は指先で摘んでいた装束を離すと、隣に並べた盥の中身を指先で示した。ベシャリという音につられるかのように少年の視線が動いたのが、重心のわずかな移動で分かる。
「職務上の問題でな。あんたが何か問題を起こす前に回収しとく方が、俺にとっちゃ都合が良かったんだ」
盥の中に無造作に放り込まれた黒衣には、蓮を背景に遠吠えを上げる二頭の狼の意匠が染め抜かれていた。蓮が所属している商会が使っている代紋だ。
その紋章が目に入ったのだろう。少年の手が一瞬強く震える。
「……双狼黒蓮」
──『北』の同業、ね。
天衝連山を挟んで北と南では、同じ文字に対して異なる読みがつく。国が統合される前の名残で、都が置かれている南部の読みが共通語、天衝連山よりも北で用いられている読みが『北部訛り』と呼ばれていた。
少年が思わず、といった体でこぼした言葉には、北部訛りが強く出ていた。さらにこの紋を一目見ただけで『双狼黒蓮』という名称が出る辺りで、少年が蓮と同じ黒社会に属する人間であることが分かる。
──まぁ、あんな全身に暗器仕込んで、返り血でドロドロになってた人間が堅気なんてことは、万にひとつもあるはずがねぇんだが。
「じゃあここは……姻寧、なの、か? 何で……」
さらに続いた言葉で知りたい情報のほぼ全てに当たりがついた蓮は、動揺する少年に覚られないように静かに腕を下ろしていく。
狙うは、己の首を落とさんと構えられた凶器だ。これをどうにか無効化しないことには、次へ話を進められない。
「なぁ、あんたさ」
両手を首の横に添えるように構え、張り詰めた髪にそっと両の親指の爪を当てる。そこまで蓮の腕が降りてきていても、動揺の中にいる少年はその意味に気付くことができていない。
「どこまで何を覚えてる?」
「っ!?」
さらに蓮が問いを投げれば、少年はあからさまな動揺とともに手元を狂わせる。
その瞬間を見逃す蓮ではない。
「あんた、『忘茉莉花』の常習者だろ」
首の前に渡された髪を両の親指の爪で首から浮かせ、さらに人差し指の爪先で弾いてやれば、あっけないほど簡単に髪は千切れる。その感触に少年はとっさに後ろへ跳び退って間合いを空けようとしたようだが、蓮が振り向きざまに少年の足を踏んで身動きを封じ、腰帯の隠しに仕込ませていた流葉飛刀を抜く方が早い。
「悪いが、姻寧を仕切ってる王様は、『忘茉莉花』……南じゃ『忘れ茉莉花』って呼ばれてる麻薬が一等お嫌いでね。使用者は老いも若きも、男も女も、まずは主んトコに引っ立てるってのがココでの決まりで、主に俺の仕事がそれってワケ」
蓮が顎の下に刃を添えた瞬間、少年はピタリと動きを止めた。その顔にはいまだに動揺が強く見えるが、体は微塵も動いていない。微かな震えのひとつが致命傷になると分かっている人間の振る舞いだ。
──この状況で、考えるよりも早くそれを体現できるってことは……やっぱくぐってきた修羅場の数が違うってことだろうな。
「名前と、所属。言える?」
それだけの実力者で、『双狼黒蓮』から姻寧という地名を導き出せた人間だ。もはやこの状況で逃亡は不可能だと理解しているだろうと踏んだ蓮は、飛刀を引き、身動きを封じていた足もどけてやる。
元より蓮とてここから反撃を受けてもそうやすやすとやられてやるような弱者ではない。蓮が読んだ通りの実力があるならば、少年にはそのことも分かるはずだ。
「……リーファ」
案の定、数瞬逡巡するような間を見せた少年は、囁くように名乗った。いまだに蓮を警戒している雰囲気はあるが、先程までこの部屋の空気を染め上げていた殺意は鳴りをひそめている。
──リーファ……北部訛りの発音なら、字は恐らく『麗華』か。ますます女みてぇだな。
所属は言うつもりがないのか、あるいは言いたくても言えないのか。まあその辺りは場所を改めてから問い詰めても問題ないだろう。
「もうちょいまともな服を探してやるから、着替えな」
蓮は飛刀を腰の隠しに戻すと、ヒラヒラと片手を振りながら箪笥へ歩み寄った。そんな蓮の一挙手一投足を観察するかのように、少年……麗華はジッと蓮に視線を注ぎ続ける。
「メシとフロと洗濯と尋問。一括でやれる場所に移動すっからよ」