弐
現場は、表通りから二本も三本も裏に入った安宿だった。
人の流れが激しい姻寧では、大商人相手の豪華な宿から旅人相手の安宿まで多くの宿が軒を連ねているが、現場になった宿はそんな姻寧の中でもとにかく路銀を節約したい旅人を商売客にしているような宿であったらしい。
実に姻寧の安普請らしい、土地に対して縦に長すぎる建物だった。八階建てで、二階から四階までは各階三部屋ずつ、それより上は各階二部屋ずつ。店主夫妻が暮らしている部屋と厨がある一階を除き、全十七部屋全てが宿として提供されているという。
「ごきげんよう、蓮幇主」
殺しの現場となったのは、四階の真ん中の部屋だという。
宿に先着していた部下達からその報告を受けた蓮が現場に踏み込むと、件の部屋の中には鑑識のために鼻から下を覆う形の面紗をつけた女が立っていた。場にそぐわぬ落ち着いた挨拶に、蓮は思わず目を見開く。
「木蘭、お前が来てたのか」
「わたくしではご不満ですか?」
「いや、……てっきり来るなら金櫻かと」
黒城の美姫達の中にいると、いささか地味にも思える容貌。だがその佇まいには、その印象を補ってなお余りあるほどの知性が感じられる。
娼妓に色事や芸事以上に教養を求めるような人間にとっては堪らない人物。
それが木蘭という名で呼ばれる『紅』の重鎮の一人だ。
実際、木蘭はその鋭い観察眼と深い知識で商会裏方としての『紅』を支えている。不可解な事件の鑑識役として派遣されるにはもってこいの人材だろう。
──とはいえ、『殺人現場』の鑑識に限って言えば、金櫻の領域のはずなんだが。
無垢で無邪気で好奇心旺盛な金櫻は、あの見目と性格に反して死体の鑑識を得意分野にしている。殺人現場、しかも『かなりの数』という通報を受ければ、真っ先に現場に飛び出してきそうなものなのにと、蓮は思わず首を傾げた。
「わたくしも、第一報を黒城で聞いた時は、金櫻にお呼びがかかると思っておりました」
「じゃあ、何で」
「捕まらなかったのです」
「は?」
「どうやら無断で出かけてしまっていたようで」
木蘭の言葉に、蓮は思わず眉間にシワを寄せる。
『紅』に属する娼妓達は、商会に身売りをしているわけではない。金銭的に商会に縛られているわけではないから、一般的な妓楼のように外出を禁じられたり、監視されているわけでもない。
それでも黒城に住まう毒花達は、己の身を守り、余計な揉め事に巻き込まれることを防ぐため、外出には事前の申請と許可を必須としていた。
売れっ子として名を馳せている一部の人間に関しては、ただの散歩でさえ『黒』から護衛が出される。彼女達はそれを商会から課された義務や束縛としてではなく、自分達側から積極的に取るべき防衛手段で、商会からの恩義に報いる一種の手段でもあると捉えているらしい。
彼女達は『自分達は商会に大切に思われている』『自分達は商会にとって価値のある存在である』という強い自己肯定感を持っている。同時に彼女達は『その思いに報いたい』という思いも強い。
自分達の価値の重さも、下手を打った時に商会に与える損害の大きさも、彼女達は十分に理解している。だからこそ自衛には万全を期すし、一時の思いで軽はずみな行動は取らない。その辺りの教育は芙蓉と側近達によって徹底されている。
──それは金櫻も同じであったはずなんだが。
『紅』では緊急の外出であっても『姐様』である芙蓉への報告、それが叶わないならば複数人への言付けが徹底されているはずだ。緊急の呼び出しがかかった場合に『誰も居場所を把握していない』などという事態は、本来起こり得ることではない。
「どうやら金櫻に関しては、前々から無断外出が常態化していたようで」
蓮が顔をしかめた理由が分かったのだろう。木蘭も木蘭で目元に険を載せながら蓮の疑問に答えた。
そんな木蘭へ、蓮はさらに問いを向ける。
「誰も諌めなかったのか?」
「発覚したのが数日前で、今は現場を押さえるために泳がせていたところでした」
──この口振り、……芙蓉の指示が降りてるってことだな。
木蘭は芙蓉の側近だ。すでに報告は芙蓉にまで上がっているのだろう。そうであるならば蓮がとやかく口を挟むべきことではない。
「てっきり、蓮幇主がお気付きになられたのかと」
これ以上、この一件に関して追及する気が蓮にはないと察したのだろう。
しばらく蓮に視線を注いでいた木蘭は、ふいにそんなことを口にした。
「は?」
「この一件。発覚したのは、麗華少主のタレコミがあったからです」
「麗華の?」
さらに続けられた思わぬ言葉に、蓮は思わず目を見開く。そんな蓮の反応が予想外のものだったのか、木蘭の目元にもわずかに驚きが広がった。
「『金櫻の動向に気を付けろ』と、麗華少主から芙蓉姐様にお話があったとか。それを受けて、わたくしが内密に調査を」
『麗華少主が「紅」へ自主的に口出しをされるとは思えなかったので、てっきり蓮幇主のご指示があったのかと思っておりました』と木蘭は言葉を続ける。
だが蓮はその発言を半分も聞いてはいなかった。
──麗華がそんなことを? なぜ?
ここ数日の麗華の単独行動は、その辺りの発言と何か関係があるのだろうか。それにしたって、なぜ麗華はいきなりそんなことを口にしたのか。
──やっぱり、何か思い出すことが……
「蓮幇主」
一瞬、思考がこの場で考えるべきことから乖離する。
それを素早く感じ取ったのか、木蘭の鋭い声が飛んだ。
「心中、穏やかならざることはお察しいたします。ですが今は、この現場に関してご報告を申し上げても?」
「……ああ」
その言葉を受けて初めて、蓮は部屋の中へ視線を巡らせた。
ここまで木蘭と与太話をしていられたのは、部屋の中があまりにも綺麗だったからだ。
微かな血臭と腐敗臭はしているが、惨殺現場のような強烈な『死』の臭いがこの部屋からはしない。円を描くように向かい合わされた四脚の椅子とそこに座らされた男達のせいで圧迫感はあるが、逆に言えばそれを感じていられる余裕がある。
──この四人が、恐らく。
「ご覧の通り、殺されたのはここに座っている四人です。全員男で、身元はこれから確認することになるでしょう」
「死因は」
「ざっと確認しただけですが、絞殺された人間と、頚椎を折られた人間がいます」
四人が向き合った真ん中に立っている木蘭は、蓮に説明しながら順に四人の顔をのぞき込んでいく。男の他殺体を至近距離でのぞき込みたい女などいないだろうに、木蘭はどこまでも淡々と、テキパキと作業を進めていた。
「硬直具合と肌の乾燥具合から考えて、死後半日以上、一日以内といったところでしょう。服をめくって紫斑の出方と定着具合を確認できれば、もう少し細かい時間が割り出せるかもしれません」
「めくれないのか?」
「手足が椅子に固定されているのです」
『そちらからは見えませんか?』と木蘭は蓮へ視線を流す。その言葉に蓮がしゃがみ込んで男達の足元へ視線を向けると、男達の両足はそれぞれ椅子の脚へ、両手は背もたれの透かし彫りに縄を通す形で後ろで固定されていた。
恐らく気絶させられた状態で椅子に拘束された後、意識を取り戻してから逃げ出そうと暴れたのだろう。縄で縛められたままの手首には擦れたような跡が残っていた。
「ただ殺したいだけならば、拘束などというまどろっこしい真似はしないでしょう。恐らく、何らかの情報を吐かせるために拉致してきたのではないでしょうか」
木蘭の白い指がそっと男達の首周りを這う。髪をかき上げ、首周りから後頭部にかけてまでを舐めるように眺めながら、木蘭は死体達へ睦言を囁くかのように言葉を続けた。
「猿轡が噛まされていた跡がありますね。喉の周囲に残された痣の状況からして、大きな声が出せないように喉を潰していた可能性もあります。いずれにせよ、周囲に声が漏れないように処置を施していたのかと」
「こんな安宿で叫ばれたら、一発で周囲に気付かれるだろうからな」
「はい。宿泊状況は今、桃花が店主に聞き取りを行っているところですが、完全に無人であったという可能性は低いでしょうから」
それでも、事件が発覚するまでに最短でも半日以上の時間が経過している。犯人がここで被害者達をいたぶっていた時、同じ宿に宿泊していた人間達は誰も異変を感じなかった、ということだ。
「この一件、そもそもどうして発覚したんだ?」
蓮は体を起こすと、自身は一歩部屋の外へ下がりながら木蘭へ問いを投げた。
部屋の中は狭い。窓も閉め切られたままだ。光源は廊下から入り込む光しかない。鑑識に協力できない蓮は、外へ出ていた方が木蘭もやりやすいだろう。
「この部屋には、半月ほど前から同じ男が逗留し続けていたそうです。渡りの護衛業をしており、前の護衛依頼を完遂して仕事が切れたから、姻寧を通る隊商に営業をかけて次の仕事を見つけたいと説明していたんだとか」
蓮に一度小さく目礼を送った木蘭は、手を止めないまま澱みなく答えた。
「長逗留をする客は、毎朝その日の宿泊分の金子を店主に渡してから外出することと、外出している間に毎日宿の人間が部屋に掃除に入ること、この二点を受け入れなければならない決まりになっているそうです。犯罪者の温床とならないようにするための、最低限の対策ですね」
宿泊客はこの半月、その定めに文句を言うことなく従っていた。
しかし今朝、宿泊客は金を払いに現れなかった。起きてきた姿を見た者もいなかったため、清掃の時間に宿の人間が男の部屋へと踏み入った。
その時にはすでに、今のような状況になっていたのだという。
「腰を抜かした妻の悲鳴に駆けつけた店主が、状況を見て黒城まで直接走ったそうです。巡回中の『黒』に通報したのは、奥方の悲鳴を聞いて駆け付けたご近所さんだったとか」
その第一報を受けて木蘭が派遣され、蓮の元には巡回班の一人であった寒影が伝令としてやってきた、という流れなのだろう。
──ということは、まだまだ分かっていることはそんなにないっていう状況か。
この状況で蓮や『黒』の人間がやれることはほとんどない。現場が荒らされないように規制線を張ることと、ひとしきり現場での鑑識が終了したら、本格的な解剖のために亡骸を黒城に運ぶことになるだろうからその手伝いができるか、といったところだ。
「拷問の跡がありますね」
頭の中だけで状況を整理していると、不意に木蘭が呟いた。
「指先、足先の骨が潰されている人間がいます。まだ跡が新しい上に、生前につけられたものです」
「……拷問がされたって割には、血なまぐさい臭いがしないが」
「意図的に血を流さないように気を使ったみたいですね」
『指先を潰す際にも、必要最小限の出血で済むように、かなり力加減がされています』と木蘭は若干いぶかしげに言葉を続けた。
木蘭が何を疑問に思っているかは、蓮にも察することができる。
──結局殺すなら、どんな拷問でも良かっただろうに。
出血を伴わせずに拷問をするというのは、案外難しいことだ。
殴る、蹴るという単純な暴力でも出血は付き物であるし、刃物をチラつかせ、分かりやすく痛みを与えながら嬲るのは効率がいい。
出血を回避しての拷問というのは、地味で根気がいる。それを道具に頼らず人力のみで行おうとすればなおさらだ。芙蓉が拷問を行う際に細腕に似合わぬ柳葉刀をチラつかせることが多いのは、その辺りの手間との兼ね合いもあるという。
「なるべく苦痛を引き延ばしたかったからか、あるいは……」
そこまで呟いた蓮は、ふと思い当たった可能性に思わずフツリと言葉を止めた。
【あんまり強く踏み込むと、簡単に床が抜けるぜ】
似たような安普請の部屋で、かつての自分はそんなことを口にした。
【下の階のやつ、面倒な性格してるからよ。床を踏み抜くのも、血をぶちまけて苦情をもらうのも、あんまオススメしねぇぞ】
壁も床も薄い安普請。寝煙草なんてした日には他の部屋の住人と仲良く心中、水をぶちまければ下階層と争い必至というこの部屋の環境は、蓮が塒、……黒城の外にいくつか押さえている別邸と酷似している。
あの言葉を、あいつが覚えていたら。
この部屋で起きている異変の発覚を遅らせるために、あえて出血をさせない回りくどい方法を選んだのだとしたら。
──まさか……
蓮は口元を片手で覆いながら、戸口の先に広がる光景にじっと目を凝らす。
小柄で細身、腕力に乏しい体であっても、相手を誘導するなり脅すなりして自主的にこの部屋へ連れ込むことはできるだろう。部屋まで押し込んで気絶させてしまえば、あとは独壇場だ。
『新娘』としての記憶を取り戻しているならば、拷問などお手の物だっただろう。適度に喉を潰すことも、その後にあっさりと殺すことも、あれほどの腕を持っていればたやすくできたはずだ。
現に、蓮ならばできる。蓮にできることは、あいつにだって同じようにできるはずだ。
そう、麗華にならば。
誰にも知られることなく単独行動を繰り返していた、麗華にならば。
「……っ、この男……!」
蓮の全身からジワリと血の気が引いていく。
その瞬間、木蘭がわずかに上擦った声を上げた。
「どうした」
己の動揺を一度意図的に意識から締め出した蓮は、無理やり抑えた声を上げた。そんな蓮の声に顔を上げた木蘭は、わずかに焦りのような感情を目元に広げている。
「一人、身元が分かりました」
「誰だ」
「金櫻の元に足繁く通っていた客です。確か、珊譚の豪商だったはず」
珊譚。金櫻。
その言葉に、さらに嫌な予感がジワジワと蓮の胸の内に広がっていく。木蘭も同じものを感じているのだろう。蓮を見上げた木蘭の顔からもうっすらと血の気が引いていた。
「蓮幇主、人手を貸していただけませんか」
遠く、建物の外から微かに雷の音が聞こえたような気がした。
そういえば今日は朝から曇り空で、昼過ぎの今でもあまり空は明るくない。こんな中、一人で街をさまよっていて、万が一雨に降られたら大変じゃないかと、ぼんやりと朝から気を揉んでいたのだった。
「芙蓉姐様と、梅煙幇主、……無理そうならば杜鵑さんでも構いません。この場に呼んでいただけませんか」
そんなことを意識のどこかで思ったのは、その心配を伝える機会が永久に巡ってこないかもしれないと、どこかで覚悟できてしまったからなのかもしれない。
「早急に身元を確認し、彼ら四人に繋がりがないか、商会と関わりがある人間ではないかを調べなければ。そうでなければ」
血の気が引いた木蘭の向こう。
窓を閉め切っていても微かに隙間が開いている向こうから、今度ははっきりと遠雷の音が聞こえた。
「手遅れになってしまう、予感がするのです」




